すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「言葉」を身体に取り戻す

2021年11月30日 | 読書
 最近読んだ対談集の中では実に刺激的な一冊。この本の中で取り上げられている『言葉なんか覚えるんじゃなかった』という書籍も注文をかけた。言葉について少なからず考え続け、仕事や生活を送ってきたつもりだ。その一環としてのこの拙文ブログもあったのだが、根本で何か間違っていたような気にさせられた。



『「言葉」が暴走する時代の処世術』
  (太田光・山極寿一 集英社新書)



 序章で山極は「ディストピア的な未来」を、このような認識で語った。「そもそものきっかけは『言葉』にあると考えざるを得ない。人は言葉を持ってしまい、その効用の時空を超える広がりという側面を伸ばそうとしたために、ついに他者とのつながりをバーチャルに拡大するようになってしまった。」…しまったのか。


 言葉を持ったからこそ、人間は文明を発達させ、地球を牛耳るようになったことは誰にも否定できない。しかし、それゆえに生じてきた様々な問題もまた、言葉があるため、頼りすぎたために膨張している。「伝える」目的で発明、編み出された言葉が単なる記号化した虫のようになり、社会を浸食しているイメージか。


 では、そんな時代の「処世術」をどう語っているか。二人ともスマホを持っていない。それが典型的だろう。一つには不要な情報遮断があるだろうが、それ以上にコミュニケーションの身体性重視を貫いていることだ。太田は高校時代、誰とも口を利かなかったという。内実は自己対話であり、その経験から導きだせる。


 「伝えようとするより、わかろうとする」意識を持てば、相手や対象に向ける目、傾ける耳が違ってくる。そして言葉が伝達の役目を持つのは、ほんの「一部」に過ぎない。そのことを思い起こし、画面上のテキストに縛られる瑣末さを笑い飛ばす感覚を身につけよう。まずは「顔を見ながら話すこと」。そこからだ。

「生きる力」は始末に負えない

2021年11月27日 | 読書
 「始末」という語が強く印象に残ったのは、NHKの朝ドラ「ごちそうさん」を観た時だった。近藤正臣扮する主人公の夫(あの東出某)の父親役だった。料理の本質を「始末」という言葉で表現した。これは辞書に載る意味の全てを込めたような使い方だと思う。広辞苑から抜粋すれば「首尾。事の次第。処理。倹約」。

『「始末」ということ』(山折哲雄  角川oneテーマ21)




 ここで語られているのは、もちろん人生の始末について。宗教学者として屈指の存在である筆者が10年前に書いた著だ。今年、卒寿を迎えられたはずだが近刊もあり、筆者自身は「始末」に向かって、着実に歩みを進めておられるのだろう。つまり、自らの来し方に「きまりをつける。締めくくる」。今も進行中だ。


 「死生観」をしっかり持つことの薦め、言うには易いが人間そんなに簡単にはできない。それを「往生際が悪い」というのかもしれない。死という絶対的未来に目を逸らさず「考えておく」ことは当然なはずだが…。読み進めていて、教育に携わった者としてはっとさせられた一節がある。「『生きる力』の大合唱」だ。


 教育界をこのフレーズが席巻し始めたのはもう三十年近く前ではないか。行政サイドから持ち出された語とはいえ、異論はなかったし、シンプルな力強さも感じた。ただ、今思うと世の中を覆う風潮が「生の謳歌」を強調した裏側では、死に対して、死者に対してどこか褪めた感覚が強まったという現実もあったろう。


 死と向き合わずに、本来の「生きる力」を語ることはできない。だからそこで語られたのはキャリアやコミュニケーションなど、いわば目先のことであり、人間の存在を深く問い詰めるものは少なかった。明るく、前向きに、開放的にという方向がコーティングされた表面だけ目立ち、内部の空洞化はまだ続いている。


 この本では「無常」が一つのキーワードだ。2011年当時、作家村上春樹がスペインで行ったスピーチも引用されていた。そこで村上が語った「人は無力」「儚さの認識」「滅びたものに対する敬意」といった言葉を今また噛み締めたい。筆者が「無常は循環と再生の思想である」と記したことと結びつく。

西行に倣って絵本行脚(笑)

2021年11月25日 | 絵本
 講談絵本挑戦シリーズ(笑)第3弾である。今回は今までの『宮本武蔵』『大岡越前』とはちょっと毛色が異なる。時代はもっと古いし、「和歌」が大きなポイントになる。小学生相手ではさらに難度が上がりそうだが、展開は昔話風なのでこれに関してはわかりやいかもしれない。ふと浮かんだのはキャラを立てることだ。


『西行 鼓ケ滝』(石崎洋司・文 山村浩二・絵  講談社) 




 有名な鼓ヶ滝にやってきた西行法師が、さらさらっと一つの歌をしたためた。「伝え聞く鼓ヶ滝に来てみれば沢辺に咲きしたんぽぽの花」。自らの歌によいしれている西行が、一軒のあばら屋に泊めてもらうこととなり、そこに住んでいる老夫婦と孫娘によって、自慢の歌をなおされていく様子を描いている話である。


たいへんうぬぼれていた」西行が、歌の句ひとつひとつを指摘され、参っていく姿がユーモラスだ。絵のタッチもぴたりで、西行の表情などがよく描かれている。言葉だけでは理解しづらくとも、かなりストーリーはつかめるはずだ。西行と老夫婦、孫娘の会話のやりとりの表現に気を配り人物像をくっきりさせたい。


 和歌の意味解釈は難しく、そのあたりが一つのポイント。語を選んだ訳を意識して強調するしかない。西行はこうした「歌行脚」を経て日本一の歌よみになっていく。教科書で名歌を鑑賞する際も、こうした背景を物語として知っておくことは有効だ。歴史上の人物を扱う講談のよさの一部分に少し触れた気がする。

職務質問の危機意識

2021年11月24日 | 雑記帳
 22日月曜日、地元紙社会面で大きく載っていた記事「秋田市の駐車場で休憩中 警官から職務質問」に考えさせられた。正直、例えば自分が地元のどこかで同じよう経験をしたら結構怖いなあと、家人と話した。説明しても所持品検査や身体検査まで求められるとなると…そして、それを断ったらどうなるのかも…。


 記事では、県警は誤解を与えたと釈明したものの「違法性はなかったとの認識を示した」とある。弁護士による指摘もあり、行為の検証が求められる。ただ、こうした場合私たちが抱く恐怖は、「人の目」であり「人の口」に違いない。その危機意識を職務執行する側が忘れず、方法・手段を吟味していけるのか。



 「公衆の面前、『完全に犯罪者』」という見出しが意味する重さを、狭い地域社会は払拭できない。都会は薄いだろうが、同様の不安は消えない。再放送ドラマ『陽はまた昇る』は警察学校が舞台で、第2話に職務質問が取り上げられ、対象者とのやり取りの人間味を面白く観た。ただそれとは明らかに階層が異なる


 つまり、目の前の対象人物だけを意識するだけでは成り立たない。警察官に限らず、何か問い質すような立場にある者は、たえずその状況を俯瞰して判断する必要がある。ところで、一日職務質問の頻度はどのくらいか素朴な疑問がわいた。検索できなかった。ただ、ノルマがあるとかないとか…やはり仕事だものね。


 佐藤二朗のツィート集の中に「今日、初めて職務質問された」の記述があった。笑ったのは翌日の分、そのことに驚くツィートより「初めて」という部分に驚いた人が圧倒的に多かったということ。確かに「職質かけられそう」という表現は、一定のイメージを持つようだ。アヤシイ雰囲気といっても様々だけれど。

飲めばいいのだと言いたい

2021年11月23日 | 読書
 毎晩眠りにつく前にコミック『酒の細道』を眺める我が身としては、この2冊は実にすいすいとBeerのごとく読み切りました。


『酔っ払いに贈る言葉』(大竹聡  ちくま文庫)

 筆者は『酒とつまみ』という雑誌の編集長らしい。古今東西、有名無名の方々の、酒にまつわる名言・迷言が収められている。ほとんどが「酒飲み」であり、飲酒愛好家にとってはよきツマミになり、今日も杯を重ねるときの言い訳にもなろう。では無縁な者にとっては…酒飲みの心を理解する手立てにはなるが…。


 数々の名言あれど、歌人若山牧水のこの一首は酒飲みの共通感覚ではないか。「人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ」。単純に結論付ければ「嗜好品」としての極致か。だから、人が良き「味と香り」を楽しめるためには、生き方と無縁なわけがない。美味しい酒を求めて生きているんだなあ。




『のれんをくぐると、』(佐藤二朗  山下書房)

 これも酒飲みのウンチク話かなあと思い、書名買い(笑)した。主に飲んでいる時のツィート集は家族や仕事のことで、正直さほどの面白さはない。たぶん幼い子(特に男児)と触れ合っている父親ならば、同程度のネタは出てくるかもしれない。ただこの佐藤二朗という俳優のキャラクターが語り口として作用している。


 佐藤二朗は個性俳優と言っていいだろう。今年夏NHKの土曜ドラマ『ひきこもり先生』は適役だった。彼の芯に感じられるのは「嘘をつかない」。それゆえ、「つぶやき」であるツィートが濁っていないように見える。そういうセンスを読者もネットフォロワーも感じるのだろう。厳選名言は「すべては自分である

冬至まではまだ暗い朝が続く

2021年11月22日 | 読書
 相変わらず、目覚めが早いパターンが続いている。手元のライトをつけて少しずつ、また眠気が戻ってくるまで読んでいる…初冬が近い。


『つまらない住宅地のすべての家』(津村記久子 双葉社)

 この作家の本はつい手に取ってしまうが、途中で混乱してくる場合が多い。
 今回も冒頭に「住宅地地図」と、それぞれの家の家族構成などが書かれてあり、こりゃあ難敵だと思った。
 案の定、何度か冒頭の地図を見直す羽目になり、結局クライマックス直前に、読みが流れてしまった(ストーリーがつかめた程度という感覚)。後味の悪い読書だ。
 この類はベッドで少しずつではなく、ある程度まとまった時間の時に手にするべきと反省。
 さて、この本に登場する路地にある家々のエピソードは、似たようなことが全国各地でもあるのだろう。
 「絵に描いたような幸せな家族」という表現はそれ自体に価値観の固定化がみえる。もはやフローの中にしか光は見えないと自覚するしかないと、ずっと思い続けてきたことを咀嚼している。




『私の方丈記』(三木 卓 河出書房新書)

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」鴨長明もフローの中を生きていたか…と結びつけるまでもなく、それが人の生き方なのか。
 「現代語訳」と「私の方丈記」というエッセイ、そして方丈記原文で構成された一冊だ。筆者は1935年生まれ。満二歳で中国に渡り、敗戦で帰国。そして…という人生を送っている。その中で自らの来し方を、方丈記と照らし合わせながら振り返っている。
 この作家は、『お手紙』の翻訳家として最初知った。あの2年生教材も読めば読むほどに内省させられる作品だったし、このエッセイもしかりだろう。
 「こどものころ、そして若者であるころ、自分が風景に融けこんでいるから、風景を対象として見ることはない」という一節は大切なことを教えてくれる。風景が見えるということは、「自分が風景から剝がれおちた」からなのだ。

色褪せない男気の人

2021年11月20日 | 読書
 大相撲ファンを自認できるようになって10年近い。様々な不祥事が続いたりしたが一定の人気があるのは、我々のような年配者が目を向けている割合が高いからだろう。もっぱらTV観戦なので、解説者の存在とは大きいとつくづく感じている。専属解説者の北の富士、舞の海コンビの安定感が番組を支えている。


『北の富士流』(村松友視  文春文庫)


 さらに言えば、その解説なしでは正直ここまで見続けなかったかもしれない。「北の富士さん」の自由奔放な物言いや茶目っ気たっぷりの仕草等、実に魅力がある。現役時代はわずかに知っているばかりだが、その人となりに興味がわいて手に取った一冊だった。作家の筆も冴えていて、実に面白い人間ストーリーだ。



 章の見出しのつけ方がいい。「第一章 北の富士前夜、北海道のけしき」から「第十一章 テレビ解説席の粋、華、情」までドラマチックかつシビアな半生が描かれている。北の富士という人間を一言で表すならば「男気」だろうか。それは生まれ育った「地」と「血」によるものだ。しかし表情は不変な気がする。


 あくまでも想像なのだが、もって生まれた気質こそが、若い頃の困難や現役時代の様々な試練を深刻に感じさせない要素と読んだ。それはある意味失礼な対し方かもしれない。ただ、事態がどうあれ呑み込む」ことに長けていたのは確かで、そういう積み重ねが「男気」をつくるといえば、格好良すぎるだろうか。


 「○○流」と称される者は、まず自分を形づくるスタイルを持っている。ひょっとしたら、それは何かを「まもる」ことかと浮かんだ。その何かとは北の富士の場合「格好よさ」に見える。それは時に「時代の正義」に抗い、黙する姿になったりする。この本で描かれた模様は複雑だが、輝きが色褪ない流儀がある。

半世紀前の輝きを

2021年11月18日 | 雑記帳
 録画していたNHK時代劇ドラマを見ていた時、ふだんはエンディングなど気にも留めずディスク消去作業に入るのだが、突然聞き覚えのある曲が流れて少し驚いた。「えっ」、画面に目を移すと「PYG」の文字が…。そうだ!あの歌『花・太陽・雨』。ユニゾンのボーカルにファルセットが重なり繰り返される…。

https://www.google.com/search?q=pyg+%E8%8A%B1%E3%83%BB%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%83%BB%E9%9B%A8&rlz=1C1QABZ_jaJP915JP915&oq=PYG+&aqs=chrome.6.69i59l3j35i39j69i57j0i67j0i512l4.4952j0j15&sourceid=chrome&ie=UTF-8

 伝説のバンドと言っていいだろう。「PYG」。グループサウンズの時代、タイガース、テンプターズ、スパイダースの三つの主要メンバーが組んだ。ジュリーとショーケンのツインボーカル、それを支える井上堯之、大野克夫、岸部修三(一徳)、大口広司。今思うとちょうど三つのバンドから2名ずつになっている。



 そのデビュー曲が『花・太陽・雨』である。セカンドシングルの『自由に歩いて愛して』もいい曲だった。アルバムを買ったことを覚えている。たしかジャケットは黄色ベースでブタの絵があるシンプルなデザイン。検索してみると1971年だからちょうど50年。半世紀かあ、フォークブーム本格化前の眩しい光だ。


 改めて振り返ると、ボーカリストとしての沢田研二、萩原健一は齢を重ねるごとに魅力的になっている。方向は明らかに違うが、エンターテイメントとしての力量は図抜けた存在だった。だから、わずかな期間でもこの二人が一緒にマイクに向かった足跡は、かなりくっきりしている。それを目(耳)にできて嬉しい。


 PYG以後のそれぞれの活躍は、芸能史に位置づけられる。沢田のソロボーカル、役者ショーケン、そして音楽シーンでの井上堯之バンド…さらに言えば岸部一徳はずっと渋く存在を放っている。個々のバンド時代より合体したPYGで化学変化を起こし、方々に飛び散っていったという比喩は大袈裟すぎるだろうか。

ニャンニャンワールドへ

2021年11月17日 | 絵本
 この作家の猫の描写はお気に入りだ。『ネコヅメのよる』は、持ちネタにしている(読むほどに面白みも増す)ほどだ。この一冊は猫を飼っている家でよく留守番を頼まれる?猫の妄想であり、その擬人化がとても愛くるしい。人間が楽しんでいる様々な日常を人間と同様に、いや、あくまでも猫らしく振るまってみせる。


『ねこは るすばん』(町田尚子 ほるぷ出版) 




 洋服ダンスの奥の秘密の抜け穴から通ずるニャンニャンシティ(沼澤命名)に出かけた一匹の猫。コーヒーショップに始まり、ヘアーサロン、書店…と様々な店に立ち寄って、それぞれを満喫する。猫なりの楽しみ方のウイットが効いている。話の脈絡もきちんとあり、何よりその表情にニンマリさせられてしまう。


 猫好きならずとも、その絵の魅力は十分に感じられる。際立つのは表情を描く巧みさである。ややくすんだ色合いが、本物感というより存在感をアピールするように思う。『ネコヅメ』では夜なので暗めの色調が中心になっていたが、この作品は店ごと、ページごとの変化もある。ただ、紺色は特徴的でここでも目立つ。


 1ページ1行なので読むだけなら2分程度か。しかし、じっくり見せたいページもあるし、余裕をもってめくっていく点が一番の配慮になるだろう。細かい小道具なども描かれていて、それを見つけるのも読む楽しみになる。対象や設定にもよるが、事前情報を付け加えたら、「見る」楽しさに寄与するかもしれない。

♪枯れ葉散る夕暮れは…♪

2021年11月16日 | 雑記帳
 図書館ブログPRのためFBに書いた「濡れ落ち葉」のこと。その意味を知らずに40代の頃に使っていた。自分はまだかろうじて職を得ているから落葉ではないか、いや枝から離れたがどこかに引っかかっている状況か。まあ居場所がどうあれ、どんなふうに色づいているかだ…いずれは舞い降りていくにしても。



 これもFBに少し書き散らした。作文審査をしていて「体験的」な題材が少なくなったと感じた。無理もない。学校行事・地域行事が軒並み中止、制限されているのだから。しかしその影響云々を考えても、長い歴史スパンで見ればほんの些細なことに違いない。我々もまた、その程度の時間に存在するということだ。


 この辺りでアミコ、アワコと称される雑茸は、例年少しだけ採っていたが今年は全然駄目。茸全体が不作と聞いていたし残念と思っていたら、ナメコなど今出てきたと複数の知り合いからいただいたりした。土の温度に関係があるらしい。どんな生き物にも成長する「適温」があるのだと、唐突に孫の姿を見て考えた。


 日曜日、かつて勤務した学校の閉校式へ。8年ぶりに入る校舎は統合を控えて少しだけ改修されていたが、中心に円形の庭を持つ独特のつくりは、やはり懐かしさを感じる。真ん中に立つ一本の樹は、三分の二ほど黄色い葉を落として佇んでいた。在職当時、この樹をずいぶんと撮った。今、樹が見つめた日々を想う。