すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

迷惑をかけてもかけられても

2012年01月31日 | 読書
 『遺品整理屋は見た!!』(吉田太一 幻冬舎文庫)

 こういう職業があることは以前から知っていた。
 かなり独特な視点で人間の生活を捉えるのではないかと漠然とした興味が湧いたので、手にとってみた。

 が、まず読み始めて、少し辟易してしまう。

 腐乱死体や強烈な死臭の描写、ゴミ屋敷から発生する巨大なハエ…ある意味淡々とした表現で描いているのだが、想像するとちょっと滅入る気分になり、止めようかなという思いが出てきた。こんな読書は久しぶりだ。

 それでも慣れとは恐ろしいもので、また内容も様々なこともあり、次第にあまり感じなくなった。
 仕事としての遺品整理も、こんなふうに慣れていくのだろうか。
 いや、それはあまりに短絡的だろう。

 筆者にはもちろん作業上の慣れがあっても、個々の死やそれを取り巻く人間模様を深く受け止める感性があり、それを持続できたからこそ、こんな形で残っていくのだと思われる。

 それにしても、遺品整理という職業が成り立つ背景は、考えてみると寒々しい。
 ある意味で一見幸せそうに見える社会に出来た異物処理の感を否めない。

 当然ながらそれは、都会と言われる場所に大きく成立し、私の住むような地方にあってはあまり例を聞かない。
 ただそれは全くないわけではないだろう。遺品整理という状況はどこにもあるが、それを業者に依頼しなくても済む環境がある程度成り立っていて,それが孤独や孤立を少し緩めてくれているのは確かだが,絶対的なものではない。確実に糸は細くなっているだろう。
 その自覚を地方に住む者はもっともつべきと…まず自分に言わなければならない。

 人がどんなふうに死を迎えるか、それは誰にもわからない。
 しかし客観的にみて、周囲に見守られた穏やかな死は、幸せの一つの形には違いないと思う。
 結局それはどんなふうに人に関わってきたか、折り合いをつけてきたか、ということに尽きてしまう。

 人に迷惑をかけない生き方とは、裏返せば人に迷惑をかけられたくない生き方でもあり、そんなふうに固くなってしまっていいものか、と振りかえりながら思う。


 さて「遺品」という形で、自分の持ち物などを想像すると、ちょっと格好悪いなあと思ってしまった。
 整理整頓の才能がないと言い続けながら、単にサボっているだけという事実も発覚する。
 先日の休日午前も、雑誌、本、書類やら何やらであふれかえる書棚を見つめながら、結局何もできず「ああ懐かしい」などと言いながら,70年代のレコードなんか引っぱり出して聴いたりしているわけですよ。

感情労働者の戯れ言,再び

2012年01月30日 | 読書
 以前「感情労働者としての教師」という言葉に触発されて,このブログにメモしたことがある。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/895f968e709d0d175d9dc2695dc1726b


 『教師のためのパフォーマンス術』(上條晴夫 金子書房)の第五章「プロは感情に責任を持つ」にも,少し似たような表現が出てきていた。

 「感情をコントロールする職業」として教育の仕事を捉える必要がある。

 この言葉に異論のある教師はそういないだろう。
 がしかし,実際に,では自分は感情をコントロールできているのかと自問してみて,花マルをつけられる教師はそう多くはないと思う。

 傍からみれば,非の打ちどころのないほど立派に務めている人であっても,人知れず悩むことはあるだろう。またそうでなければ,それは「能天気」と称した方がいいのかもしれない。

 では,どうしたら「感情のコントロール」を鍛えることができるのだろう。
気分転換を上手にするということも大きいが,それはストレス解消的であって,前向きに仕事術として捉えているとはいえない。

 上條氏の書かれた第五章のいくつかの見出しがヒントになる。

 2 自分の「感情」を声に出す
 3 自分の「感情」を演出する
 4 笑顔で子どもを安心させる


 3の例としては,ガッツポーズや小芝居の例が紹介されている。

 はっきり言うと,結局感情を鍛えるためには行動するしかないという結論になる。
 座禅や黙想,沈黙思考などに効果がないと言っているわけではないが,身体を動かすことによって感情が生ずるという根本のところを忘れないようにして,私たちは子どもに向かっていくのである。

 内田樹氏の書いたこんな一節があった。

 内面に感情がまずあって,それが身体表現に外化するのではない。身体表現が内面化した結果,感情が生まれるのである。

 初めに,声あり,笑いあり,手招きあり,手当てあり,である。

 見つめ直すべきは,自分の身体表現である。

難であっても,困ではない

2012年01月29日 | 読書
 『困ってるひと』(大野更紗 ポプラ社)

 去年の夏ごろ,何かの書籍紹介で目にした。その時から若干気にかかっていた。
 先日ポプラ社の「asta」という月刊誌1月号を読んでいたら,筆者と糸井重里との対談が載っていて,それでは読んでみなくてはとアマゾンへ注文した。

 「エンタメ闘病記」という新ジャンルだそうであるが,言い得て妙である。
 我が娘といくらも差のない齢の女子であり,登場する父母に近い目で見てしまう部分もあるが,それにしてもその困惑,難関,苦闘,混乱,逡巡…等々が,あまりに面白おかしく(この表現は失礼だが,つまりは読ませるつくりでということ)綴られていて,かなりいい点数をつけられる本だ。
 
 病気に伴う大変な状態の一部始終(いや実はほんの一部だろうが)を,ここまで書けるかあ,と思わせるほど明らかにしているのは,本質的に表現者としての強い芯を持っているからだろう。
 何度も書かれる「シニタイ」はけしてオーバーな表現には見えない。逆にそれを簡単に書ききれるという強靭さのように伝わってくる。

 この本の出版への道は,きっと第七章の最終,この一文に集約されるだろう。

 生きるとは,けっこう苦しいが,まことに奇っ怪で,書くには値するかも,しれない。

 難病を持つ人は,今けして珍しいとは言えない。環境,条件も様々だろう。
 この本を通して彼女が訴えたいことの一つには,「制度の壁の厚さ,高さ」もあると思うが,結局多くの人は自分に降りかかってこないと,こうしたことに強く関心を示さないものだ。我が身を振り返ってもわかる。
 せめて,ここに登場する何人かの人々のように,自分の務めに対しての誠実さは持ち合わせていたい。そうすれば,その場からでも発信できるような気がするし,いくらかでも理解できるのではないか。

  
 さて,この本で使用された漢字の頻出度ナンバーワンは,おそらく「難」ではないか。
 この「難」という字は,動物をあぶる,燃やすから来ているそうだが,見方によっては,病気という運命からあぶられながら,生きるためにかなりジタバタしている筆者の姿そのものだ。

 しかし題名の「困ってるひと」の「困」ではない。
 「困」は,囲われて縛られて動きがとれない様子からできた。
 仮に身体上はそうだとしても,彼女の精神はいろいろな所にとび出そうとしているし,現に本という形になって大きく踏み出していることは間違いない。

 糸井重里の言「これ(この本)をばら撒く委員会に入った」
 私も手を挙げます。

歪笑はお手のもの

2012年01月27日 | 読書
 行きつけは小さな書店なので,お目当てにしていた北村薫の文庫本があまり揃っていなかった。そのまま目を落とした先に平積みされていたのが,この本。

 『歪笑小説』(東野圭吾 集英社文庫)

 「歪笑」という言葉に興味津々,気軽に一冊とってお風呂場読書を始めたが,いやいや面白い,面白い。
 世の中には様々な業界が存在する。そして業界人しか知らない業界の真実,空気などは色濃くあるだろう。
 そのことを頭でわかっていても,なかなかそうした内幕を楽しく読んだり,聞いたりすることはめったにないものだ。

 ここに描かれてあるのはフィクションだが,きっとどこかにあった真実だ。
 超がつくほど有名な作家が,ここまで内情を暴露していいものかと思わされる。

 いずれも楽しく読めたが,「小説誌」と題された章で,中学生からの鋭い突っ込みに,編集者が思わず業界の真実の重さ,辛さを語り始める箇所が印象に残る。ちょっと他の章と異色の感じもうけた。
 それはきっと多くの職業,業界についても言えるからかな…そう思いながら,結局その職業についている大人たちは,どこかで居直っていないと,現実に耐えきれないものであることを改めて考える。

 居直りを支える芯のようなものを数え上げてみよう。
 そこにわが身以外の要素をいかに自信を持って挙げられるだろうか。
 
 「できるもんならやってみろってんだああ」と叫ぶ編集者にも,実はそこを振り返ってほしかった。
 いや,振り返りなしに,内輪で称え合っている点が笑える,この小説の持ち味か…。

 人のふり見て我がふり直せ(独り言)


 それにしても,いいキャラクターが出てくる連作だ。
 作家引退宣言をする寒川心五郎などは,いかにもありそうでなさそうなキャラだ。
 小説に登場した作家を,「巻末広告」という形で載せているのもグッドアイデアで,思わず広告文まで目を通してしまう。
 最後に,寒川の『筆の道』が「直本賞候補」になっていることには顔が和んだ。

 「寒川先生も喜んだろうなあ。その後,どうすんだろう」とそちらの世界へと思わず誘われてしまった。
 いやあ,売れっ子だけれども?さすがの作家だなあと思わされた。

パフォーマーへの道のり

2012年01月26日 | 読書
 『教師のためのパフォーマンス術』(上條晴夫 金子書房)

 上條先生と金子書房の組み合わせ,面白いだろうと思って手に取った。教育現場のパフォーマンスに関わってかなり濃厚にまとめられている。
 これは単なる感想でなく,じっくりと読みこみたい,つまり自分の考えと照らし合わせてみたいという気にさせられた。
 断続的になるだろうが,少しずつ進めていきたい。

 まず「はじめに」に書かれている「※(注)」が気になった。
 パフォーマンスと言う語が佐藤綾子氏によって商標登録されている件である。佐藤氏の著作はいくつか読んでいる。大雑把に「自己表現」的なとらえでいいと思ったのだが,語意から確かめていった方がいいようだ。


 パフォーマンスという語を,ふだん私たちはどんなふうに使っているか。

 スポーツや芸能的な場面での良いプレイや演技などを指したり,また政治家などのややスタンドプレー的な意味合いでも使ったりしている。またPCの能力という使い方もある。

 コーチングのサイトにも,いろいろな分野での使い方があるとされていたが,教育という面に一番近いのは「指導・育成」だなとすぐ見つけることができた。
 
 そこには「分野」「プロセス&プログレス(進み具合)」と「結果」が表にされており,次のように記されていた。指導・育成の項目は,以下のことばが並んでいる。

 やる気と潜在能力の引き出し

 高業績,高成果


 これをもとに「パフォーマンス」を解くと,「(対象の)やる気と潜在能力を引き出しながら,(目的に応じた)高業績,高成果を出す」ことが,その役割だとわかる。明確でわかりやすい。

 佐藤綾子氏の講演記録をまとめたサイトがあり,そこにはパフォーマンスの定義がしっかりと記されていた。

 「日常生活における個の善性表現」つまり「個々人の善いところを適切に表現する」

 これもすっきりしている。
 この二つから導き出される,教育の場でのパフォーマンスは以下のようにまとめてもよいのではないか。

 教師が自分の善いところを表現しながら,子どものやる気と能力を引き出し,知・徳・体の力を高めてやること

 きわめて一般的な結論である。
 表現上はやや「攻め」に軸足をおいているなあ。これを逆にして,ちょっと砕いてみるとこんな表現になろうか。

 子どもの発するマイナスやプラスの言動,気配を読みとり,それに合わせて,教師が自分の得意や個性を生かした表現をすることで,子どもの向上を促すこと

 「受け」に軸足をおくとこんな感じだろうか。

 しかし「攻め」であっても「受け」であっても,パフォーマンスを,パフォーマーとオーディエンスという考え方にすれば,これは即興演劇と比喩してもいいだろう。
 その時パフォーマーたる教師がどういう意識で臨むかが大きな鍵であることは間違いない。

 つまり,到着地点を決めておくか,さらにルートまで決めておくか,それとも,方向のみ定めて,到着地点にこだわらないのか…

 まさか,方向も決めずにその場に立つ人はいないと思うが,その方向づけの意識にしたって,ずいぶん落差があるのではないか。

 ありゃありゃ,パフォーマンス術から離れそうになってきた。

「時と人」の作家の語り方

2012年01月25日 | 読書
 『1950年のバックトス』(北村薫 新潮文庫)

 この作家を一冊の本として読むのは初めてである。
 短編集となっているが,全部で23あるそのなかには「掌編」ほどの長さのものもいくつかある。
 実に多彩なというか様々な文体を駆使していて,一言でいうと「達者」な書き手という印象だ。

 直木賞作家でもあるし,多くのファンがいるのかもしれない。
 読ませる,惹きこむエピソードの入れ方が上手だと思う。

 個人的には,「小正月」という作品で,主人公の母親が倒れ,ベッドで「…なります」と口にしたうわ言に込められた回想が,何故か心に残る。

 祖父が鉈を持ってきて,家にある柿の木をこんこんたたいて,こう言うのだそうである。
 「どうだ。来年もなるか。ちゃんとなるか。」
 この「脅し」に対して,祖父の後ろに従って見ていた幼い頃の母が「なります。なります。」と小さい声で答える役目を担っていたのだという。

 こういう風習や慣わしがある地域があるのではないか,と思わせる。またそうでなくとも,そういう家がある,確かにあったのだろうと思う。

 鉈を持つという物騒さとは裏腹に,自然の恵みに対する愛着や願い,そこで一緒に暮らす人間の決意や,童女の成長を絡ませていく祈り…そんな風景が鮮やかに浮かび上がる。


 さて,この作家の作品には「時と人」というコピーが添えられていることが,本の帯に記してあった。代表作にもそのシリーズがあるらしい。

 「時と人」は,いろいろな切り口があるのだと思う。
 ただ結論としては,この本の最後に収められた「ほたてステーキと鰻」の女主人公が呟く言葉に集約されると思った。

 まずそれは,五十路になり,友を失って強く感じたことであった。

 時は,自分を奪う前に,まず色々な物を奪う。

 そして,ちょっとした買い物トラブルの末に噛みしめたことであった。

 しかし,何かを失えば,また何を得ることもあるのだろう。

 たぶん「時と人」の作家は,この二つの真理の距離を長くみせたり,縮めてみせたり,様々な方向から語ってみせたりしているのだ。

 その意味では観察力と構成力の作家と呼べるか。

 短編でないものも一つ読んでみるか,という気になっている。

ひなびたリズムで語れと言われても

2012年01月24日 | 雑記帳
 今学期はしばらく出前していなかった紙芝居を、いつくかの学級でやりたいと考えていた。
 降雪が再び本格的になってきた今日を,スタートにしようと朝に決める。

 手持ちの新美南吉と宮沢賢治のシリーズから、『手袋を買いに』と『雪わたり』を出し、下読みをする。対象は3年生だ。図書室にある本も紹介しながら進めようと思った。

 さて、『雪わたり』を読み始めて、下欄にある「演出ノート」に次のような一言があり、ひっかかってしまった。

 ひなびたリズムで

 本文ではこの部分の下にある。
 「かた雪かんこ しみ雪しんこ/四郎とかん子は、小さな雪ぐつをはいて、/キック キック キック/野原にでました」
 冒頭にあるので,この部分だけでなく、全体を通しての「演出」なのかもしれない。

 「ひなびた」はわかるが、「ひなびたリズム」とはどんなイメージなのか。

 検索してみたら、「ひなびた」と「リズム」がくっついている例はほとんどなく、わずかにAmazonのあるクラシックCDの説明に「鄙びたリズム」とあるだけだった。

 (略)1番のレントラーの鄙びたリズムにはいかにもウィーンらしい味わいがある。

 この解説は、ある分野の専門的知識がないと分からないことの証明のような気がする。
 しかし、そんなに頻繁に使われる表現でないことだけは、はっきりした。

 おそらく「都会的・洗練されている」と対比される「牧歌的・泥臭い」ということなのだろう。
 『雪わたり』の世界はまさしくそうだろうとは思うが、では具体的に「ひなびたリズム」とはどんなふうに表現するのだろうか。

 思いつくまま挙げてみる。

・音の長短という面では、長い方が主になる。
・強弱という面では、どちらかといえば弱いか。強くなるのは特定のときか。
・速度は遅いほうが主で、また一定しない面もある。
・軽快さではなく、重くモッタリとしたイメージ。しかし重厚とは少し違う。
・アクセントは個々の言葉でも違うが、語尾の方に持っていく場合が多い。
・濁音を混じらせて、訛りに近くしていく


 もちろん、実際に読んでみればこれらの原則?と異なる箇所もあるが、まずまずポイントをとらえていると言っていいだろう。

 ただ,どうもこの「ひなびたリズム」という表現は、読む場面では今一つしっくりこないなあと思う。
 音楽の場合だと,そんなに違和感は持たないのはどうしたことだろう。

 「都」と「鄙」を、異質ととらえるか落差ととらえるか、言葉と音楽では違いがあるのではないだろうか。そんな仮説がわいてくる。

「トイ屋」と称されること

2012年01月23日 | 雑記帳
 一週遅れの放送で、「運命の人」というTBS系の連続ドラマ初回を見た。
 http://www.tbs.co.jp/unmeinohito/

 山崎豊子原作ということで、時期は少しずれるがかつての「華麗なる一族」が思い出される作りだった。実在の事件がもとになっていて、キャストも豪華のようだが、スタートとしてあまり芳しい視聴率ではなかったようだ。

 そんな下世話?なことはともかく、本木雅弘扮する主人公の新聞記者がずいぶんと勇ましい。個人の性格を超えて、時代がそういう要素を求めていた部分もあるだろうと思う。

 スクープをとり、飲み屋で後輩連中に弁舌を揮うその弓成記者が、こんなこと(正確なセリフではないが)を言う。

 新聞記者は言われたことだけを書く「ブン屋」ではなく、そこから真実を訊き出す「トイ屋」でなければならない。

 トイは「問い」に違いない。
 なかなか洒落たことをいう。
 現実のストーリーとはちょっと別の展開になるとしても、明快な主張である。

 言うまでもなく、描かれているこの時代の政治(佐藤栄作首相時)に絡んで、最近になって多くの秘密事項が隠されていたことが明らかになっている。

 その時代を生きた人々が愚かだったとはけして思わないが、「重要な情報を公開することがけして有益ではない」といった旧態然とした観念や、「勢力抗争の中における駆引きの取引材料」としての扱いの横行が、それらを見逃していたことは想像に難くない。

 そんななかで、本質的な「問い」を持っている人の存在は貴重だったし、まだマスコミの中にもそういう信念を持った人はいたのではなかったかと予想される。

 敗戦を経験し、国が行う情報操作の怖さを身をもって体験してきた人たちの中には、自分の中に生ずるごく小さな問いも疎かにせず、ねばり強く権力に対峙してきた方も多いと思う。

 そういう経緯を経てきたには違いないが、今の日本のマスコミの報道状況は…

 と嘆く展開は、あまり普通で、あまりに安易に過ぎるか。

 テレビや新聞に期待することはほとんどないという方もいらっしゃる。
 しかし、今現実にこれだけの情報提供の頻度があり、目に触れているとすれば、無視することはできないだろう。

 肝心なことは、対象となっている我々が「問い屋」になるということだ。多くの「問い屋」を育てることだ。

 いや「屋」というのは,表現上は難しいかなあ…そんなことを考えていたら,教師というのも「問い屋」と称されてもいい職業であること,だからこそ,そのセリフが心に留まったのだろうことに気づいた。

冗長率のことを冗長に語る

2012年01月22日 | 読書
 「冗長率」という言葉を知った。

 冗長の意味は知っていたが、「率」がつくとなると??である。
 ネット検索でいくつか引っかかるが、言葉の意味を直接表したものはない。

 平田オリザ氏の雑誌連載に登場していて、次のように説明されている。

 一つの段落、一つの文章に、どれくらい意味伝達とは関係のない言葉が含まれているかを、数値で表したものだ。

 「えーー」「まあ」といった間投詞や、一部の接続詞や繰り返しなど、意味伝達に関わらない言葉の割合ということだ。
 そして、一見無駄で論理的でないそういう言葉が、実は話の上手さや説得力に関わりが深いという。

 その操作に長けている人が、コミュニケーション能力が高いとしている。例として挙げられているアナウンサーやキャスターを思い起こしてみると、なるほどという気がしてくる。

 そして、最後のまとめ方にこうある。

 国語教育において、本当に「話す・聞く」の分野に力を入れていこうとするならば、少なくともスピーチやディベートばかりを教え冗長率を低くする方向にだけ導いてきたこれまでの教育方針は、大きな転換を迫られるだろう。

 うーん、どうだろうか、と思う。
 「スピーチやディベートばかり」という件は少し誇張されているように感じるが、まあ「冗長率を低くする方向」は確かにその通りだ。
 だが「冗長率を低くする」そのものは…やはりこのことはなんと言ったらいいか、方向として的確かつ妥当なのではないか。
 「だけ」と書いていることは、多様な道筋の否定をしないと受けとめられるが、それはそうとして、達意の文章を書けるように、達意の話し方ができるようにすることが,そう国語教育の第一義であろうし,あまり付加的な要素を高くするのも,どうかと思ったりなんかする。(とずいぶん冗長率を高くして書いてみました)

 仮に「冗長率が高い話し方」を教えようとするならば、具体的にどんな内容になるのだろう。
 「気乗りしないときの話の合わせ方」とか「あいまいなままで先延ばししたいときの言葉の使い方」などとなるものか。それはオーバーにしても、おそらくはペア、グループでの話し合い場面や演劇的な手法などを通して、その有効性などを探っていくことになろう。

 それにしても、結局のところ、そうした操作ができることは、冗長率の低い話をする力を持っていてこそではなかろうか。

 もちろん「話し方・聞き方」に関して、多様な教材開発があっていい。
 しかし少なくとも義務教育においては、冗長率を低くして話すという機会を重ねていくことが、最終的な操作の能力を高めることにつながる(と信じて、歩みを進めたい)。

 冗長率などという言葉に惑わされて?指導そのものが冗長になってはいけない。
 ええ、まあ、そんなところでしょうか。

物語に支配されない力

2012年01月20日 | 読書
 題名から「ああ,あの事件だな」と思ったし,著者の名前にも惹かれた。

 『37日間漂流船長』(石川拓治 幻冬舎文庫)

 2001年のことというから,あの事件からもう十年以上経ったのか,ひと月以上一人で漂流して助けられたニュースがテレビで頻繁に流れ,飄々?とした容貌,語り口をしていたような印象も記憶に残っている。

 『奇跡のリンゴ』の著者が贈るもうひとつの奇跡の物語

 それが帯に書かれたコピーである。確かに「奇跡」の出来事と言っていいだろう。
 様々な条件…積んであった食物や道具,海流,気象などの自然もあるにはあるが,どう読んでもこの本は船長の武智さん自身そのものの行動に焦点化される。

 「あきらめたから,生きられた」という副題がつけられている。武智さん自身の言葉でもある。なかなか含蓄深い。私が抱いた全体の印象もそれに近いのだろうが,次のようなことであった。

 生きるために,生きる

 悟りとは,このような境地かもしれない


 武智さんは,端的に言ってしまえば「欲」が少ない。
 実はなんとかなるだろうという楽観性が,この漂流を引き起こしたと言えなくもない。しかしその時点の選択は、やはり彼自身の人生観に支えられているのだなと気づく。

 昔、年寄りがよく語った「イノチコンジョウ」という方言?がある。一面では困難な場に立ったときの度胸と言い換えてもいいかもしれない。「腹が据わる」という言い方もある。武智さんの場合に近いものを感ずるが、まだ言い得ていない気がする。

 何かのため、誰かのためと思えば、それは悪い意味ではなくやはりどこかぎらぎらしてしまって、そういう場面にあえば、きっとじたばたしてしまうことだろう。
 ただ生きるため、人間には生きる本能があるため、ただ目の前でできることを淡々としていく…漂流というどうしようもないほど非日常場面が描かれているのだが、考えさせられるのはやはり日常だ。

 さて,著者が記した「はじめに」に印象深い記述がある。
 救出後,一躍有名になった武智さんは,取材や招待によって何度も漂流話をするが,いっこうに流暢にならない。そこが普通と違うことを指摘している。

 何遍同じことを聞かれようと,他の誰かにした同じ話を繰り返すことを嫌う。小首をちょっと傾げ,そのときのことを思い出し思い出ししながら,自分の言葉で訥訥と話す。

 もしかしたら,この在り方が「生きる」ということではないか,と大げさなことを思ってしまった。

 順応,馴致…といった能力が実生活を支えている面はとても大きいが,生存はそれらとまた全く異なる力も必要であることを,深く考えさせられる。

 それは,知らず知らずのうちに作り上げてしまった物語に支配されない力と言っていいかもしれない。それこそが本物の物語を作り出す…ちょっと観念的すぎるか。