すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

夏の聞き耳メモ…その2

2008年07月31日 | 雑記帳
 モラロジーの研究会で、今年も秋田においでになった野口芳宏先生のお話を聴いた。

 先生のお話はいつもキーワードが明快だ。
 メモせざるを得ない言葉が次から次へと出てくる。
 自分にとっては新しい知識であり、それに触発されて考えの深まることも多い。

 今回の演題は「道徳教育の今昔」。
 講演前、挨拶にうかがったら「私にしては、珍しく資料を準備したんだよ」と先生がおっしゃった。
 それは、明治の学制発布の折に使われた「太政官布告」等であった。
 その序文で初めて「学校」という言葉が使われた事実…考えてみればその通りのことではあるが、なぜか新鮮だった。そうした本質的な問いを自ら発していなかったということである。
 さて、そうした新鮮な響きをもった言葉を三つ挙げる。

 参校
 「小學生徒心得」の第二条にある。
 今、この言葉を辞典で調べると「ひきあわせて考えること」という「参較」の意味として出る。しかし、この言葉はまさしく「学校へ参る」。つまり、学校は高貴なところであった。参拝や参詣を考えてもわかる。敬われる場所だった。
 それゆえ「登校」へつながるのは、自然なことだろう。それほどの高みを持って、今学校は存在しているだろうか。

 赤子
 第五期国定終身教科書にある例文の中に、親が子に対して敬語をつかう場面がある。自分の子になぜ敬語かと問いかけ、野口先生は「それは、子どもが国の、天皇の赤子だから」と説明なさった。
 単に「あかご」という意味でしかなかったこの言葉は「人民」の意も示すことを伴って、目の前に現れた。今、親に見立てるべき存在はあるのか、そんなことを考えた。

 主徳
 「最も根本的な徳」という意である。「枢要徳」とも言うらしい。様々な身につけたい徳はあるにしろ社会にとって必須な徳とは何か…?野口先生は「忠」と「孝」をお出しになった。対象となるべきは「公共」であり、「親」である。私たちの心の中にきっと少しは根付いているはずだと思う。
 だからこそ、昨今の事件にある「親を困らせてやろうと思って、見知らぬ人を危める」愚を、私たちは信じられない思いで見つめている。

夏の聞き耳メモ…その1

2008年07月29日 | 雑記帳
 愛知の玉置崇先生のお話を聴いた。

 精力的な活動を続けておられる一流の教育者である。
 昨年同様、経10年研修の1コマとして本県教育委員会が招いたものだが、公開講演の形をとっているので参加することができた。

 「授業改善に向けて」と題された講演は実に充実していた。
 特に感心させられた点を三つ挙げる。

1 つかみの上手さ
  さすがに落語を趣味となさっているだけあり、気の利いたネタと繰り返しの妙が聴衆をぐんと惹きつけていた。
2 バランスのよい構成
  講話だけでなく、映像資料も存分につかい、聴衆に作業や実習をさせ、発表させながら、まとめていく…まさしく授業と呼んでいい内容だった。「授業の大原則」としての20項目を自ら具現化させている姿勢が随所に感じられた。
3 道徳の新しい提案
  玉置先生ご自身の授業ビデオも流されたが、道徳授業に対する一つの提案という意味づけもあった。ある素材(この場合はチェーンメール的なもの)について「とり得る行動」を列挙させ、その価値判断をして、対立点を話し合いによって深めていく手法は、面白いと思うし、高学年以上ならば十分に可能だと考えた。共感できる提案だった。

 少し不満に思った点を述べる。
 演題のサブテーマとして「自分があこがれる授業イメージをもとう」を掲げられ、それが「本時」のねらいなのだと思う。確かに冒頭はそれを強調しておられたが、全体を振り返ってみたときどうだったかなと感じた。
 10年経験者にはヒットするテーマ選択だと思う。だからこそ、もう少し焦点化が必要ではなかったか。私なりに考えれば、次の二つは折り込みたい。
・(参加者)一人ひとりが、自らの授業をふりかえる手立てが必要である。
・すぐれた授業例がもう少し多様に紹介されるべきである。
 むろん、和田裕枝先生の授業ビデオはなかなかのものだったし得るものも大きかったことは否定しないが、少なくてもあと2,3例…と思う。

 もう一つは、資料の「授業の大原則」。
 内容的にもちろん過不足はないのだが、その列挙が整理されていない印象を受けた。
 「授業以前に考えるべきこと」「授業中の行為」「教職全体に関わること」が混在している。もちろん明確に区分できないものもあるが、20という項目数の多さも含めて、吸収・活用していくにはもう少し絞り込むべきではないのか。

 ともあれ、現場教員として、また管理職として、そして今は教育行政に携わる人として、常にその場をリードしていく玉置先生の今後に期待いっぱいであり、生の声を聴くことができて、本当によかったと思った。同世代として今後も益々注目していきたい。

意図的教育の拡散

2008年07月27日 | 読書
 学校が純粋な教育だけの機能(単独機能)から、生徒指導、食育等と「学校の生活化」が進行したからである。つまり、「学校の生活化」し、「社会が教育化」しているわけである。

森隆夫『悠+』7月号(ぎょうせい)

 「生活化」という言葉は、現実として「教育目的」が増大していることを示している。
 そして、「無意図的教育」を行う社会では、経済的な意図で行われることがますます肥大し、結果として子どもたちはそこで多くの知識を得、思考し、人格を作り上げていく。

 教育目的の内容の多くはその社会への適応であることには間違いないが、社会のテンポの速さ、変化の目まぐるしさに追いついていけない現状がある。
 いっそ単独機能に立ち返ってという思いは強いが、「教育化」を強めた社会は、学校の単独機能さえ侵食しはじめているではないか。

生きる力の中身としての批判力

2008年07月26日 | 読書
 「批判力」(批判的思考力・批判的理解力・読解力)を軽視ないし無視しておいて、いくら「生きる力」と言っても虚しい。「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断」することを奨励しても、中身は虚ろである。
 
『文章吟味力を鍛える』(阿部昇著 明治図書)

 学習指導要領には「批判」「批判力」という言葉はない。
 実社会でも学校でも「競争」はあったが、反面「和」がずいぶんと強調されてきて、真正面から「批判」を取り上げている実践などは稀ではなかったか。

 そしていつしか、批判にはあげ足とりとか文句とかいうイメージがつくようになった。
 これはやはり、批判を教育で正面から取り上げてこなかったからではなかろうか。
 また、批判的な意見を述べる人をきちんと評価してこなかったからではなかろうか。

 内容の否定的な面を取り上げる理由は、もっとよく、もっと正しくという強い意志があるからだという根本のところに目を向けたい。そういう筋を明確にしながら、批判力を高める教育活動が組織されなければならない。

 批判力が必須な理由を阿部氏はこう書いている。

 自分を変え世界を変えていくため

「事実」の幅の狭さ

2008年07月24日 | 雑記帳
 休日にたまたまつけたテレビで、再放送のドラマ『きらきらひかる』に見入ってしまった。
 なかなか魅力的なドラマである。いくつか理由はあるが、ここではさておき、
 監察医の一人、杉が語ることばが意味深い。

「生きている人は、嘘をつく」
 
 事件、事故における証言場面において語られる内容に、善悪の意図がなくても「人は嘘をつく」。
 先入観、思い込みにより、事実はそのままで伝えられることはきわめて少ない。
 しかし、死体は語らないからこそ、そのまま事実が残っているはずだ…という構えがこうしたドラマの芯にはなっているのだろう。

 ふと、そもそも「事実とは何か」などという思いが浮かぶ。
 自分の五感でとらえた目の前の現象の、ほんの一部でしかない。
 どこかを切り取って言葉にしてみたこと…切り取るという行為は選択であり、そこには必ず自分の意思が働いているだろう。従って、仮に何かを証言しなければならないとき、それはあくまで自分の位置で、限界ある能力でとらえたものに過ぎないことを、まずは知るべきだ。
 安易に「事実」と言い過ぎないか。人の口から語られる事実なんて、非常に幅の狭いものに過ぎない。

 と、また変な方向へ。

 『きらきらひかる』を見ている自分を切り取るか、見ているようでありながら違うことを考えている自分を切り取るか、その選択によって、また次の事実が方向づけられる。

山も半分、人も半分…

2008年07月23日 | 読書
 「山は半分殺してちょうどいい…」
 
 『相剋の森』(熊谷達也著 集英社文庫)のキーワードとなる言葉である。
 名作!『邂逅の森』と同様にマタギを取り上げた作品であるが、舞台が現代であり、主人公が女性ジャーナリストという設定もあってか、その主張はかなりわかりやすかったと思う。
 安易に「自然との共生」といった言葉で括るな、そういう姿勢が冒頭の言葉に込められている。作中人物の一人である老学者は「共死」という言葉を使っている。
 つまり、山を半分殺す(「のす」と読むそうだ)ということは、「人も半分殺す」ということ。
 もちろん、物騒な殺人ではなく、「人の欲望を半分殺す」という意味である。
 マタギの流儀のようなものは、そんなふうにも言い換えられる。
 同じように、人間の暮らしも考えられるべきだろう。

 自然や環境の問題はもちろんそうだが、そのことは人間社会全般にも当てはまる。
 連日、様々な事件報道に目をやるとき、結局それは殺されていない欲望が全てであることがわかる。年少者にも欲望を殺すことを教えていない、躾けられていない世の中なのである。

 人も半分殺してちょうどいい…

 「のして」と読めば、警句として強く響くような気がしている。
 
 「相剋の森」は人間の心の中にあるということ。

教室で使ってみたい侍言葉

2008年07月17日 | 読書
 コンビニの雑誌が並んでいる棚に、ちょっと目を引く題名の新書があった。

 『日常生活で使ってみたい「侍」の日本語』(市川スガノ著 日本文芸社)
 
 「武士の言葉を現代に応用した実戦会話術」というコピーも表紙にあるが、まさか実際に使えるわけではないだろうが、面白そうな企画ではないか、笑えるはず…と休日読書用と思って手を伸ばした。

 なかなか笑えた。日常のビジネスシーンなどをサラリと揶揄している文章が軽妙だ。

 それにしても取り上げられた60ほどの侍言葉のほとんど耳にしているというのは、やはりテレビの影響か。時代劇全盛に育ったこの年代はさすがだ、とわけのわからない自画自賛をしてしまう。
 わずかに「手もと不如意」という言葉だけが初対面だったが、それ以外は「使え」と言われればいつでも使えるほど意味を知っているから、怖い?
 ふだん活用していないのが不思議なほどだ。

 では(そんな続き方ではないが)この書物を利用してきわめて個人的に、「教室で使ってみたい侍言葉 ベスト3」を選んでみる。

これは異なことを
 あげ足を取る発言や他者の非難に終始している子がいたときに使って、何のための話し合いかを意識させる時などどうか。あまり理屈っぽく言ってくる子へ「片腹いたいわ」も効くかも。

ぜひもない
 理不尽なことも多い学校生活。立ち直りを早くしないと次の行動についていけない。そこで失敗したときなど、すぐにこの言葉で切り替える。

そこへなおれ!
 これは言うまでもなく強い調子で叱責するときに、迫力満点。

 こんな下らぬことを書いて、面目次第もござらん。それでは御免。

見事な国の人間の精度

2008年07月14日 | 読書
 6月14日の地震からちょうど一か月。

 雑誌を見ていたら、こんな文章が目に入った。
 山根一眞氏が、その地震発生からの四日間について調べたことをもとに「日本の地震対応力」について書いたものだ。

 そして、結論。日本は凄い国だ。見事な国だ。

 地震発生時における国や官庁の動きを評価して、山根氏はそう言い切った。
 国のあちこちに張り巡らされているデータ収集網とそれに対応する各機関の速さについて調べ、その迅速さに恐れ入っているという文章である。
 政府の対応のまずさが大きく取り上げられた、あの阪神淡路大震災の教訓が生かされ、見事なまでに諸機関が準備体制を築いている。
 8時43分46秒の地震発生から、わずか数秒で態勢が整った。震源地の揺れがおさまった数分後を待たずして、各種の対策本部が立ち上がっている。官邸も50分には緊急対策室が設置されていたという。

 もちろん、機械が反応しただけだといえばそれまでだが、そうしたシステムを作りそれを活用させていくのは人間であり、言うなれば大震災の失敗を乗り越えた証しとも言えよう。
 私が今回の揺れの強さで思い出したのは、もう二十数年前の日本海中部地震だが、そのとき津波によって数多くの命が奪われたことを思い出すと、まさしく隔世の感がする。
 情報の伝わる速さも、情報収集しようとする意識も、行動を判断する知識も今とは比べ物にならないはずである。

 しかし、先進的なシステムであってもそれを生かすのはもちろん人である。
 対応の判断を機械に任せているからこそそこまでの俊敏性、即決性があったわけだが、全てが機械でできるわけではない。何事も最終的な判断は人間が行わなければならない。

 機械は日に日に精度を上げ進歩しているが、人間が精度を上げていくためには何が必要なのか。
 災害であるだけに安易に「経験」とは言い難い。やはり意識的な訓練の場を設け、練習していくことの必要性が見えてくる。
 そして、それは災害対応だけでないことも自明である。

新鮮な、ジレンマ、あるよなあ

2008年07月13日 | 読書
 ジレンマ――これは、社会制度や業務の処置の仕方などすべてが、きめ細かく法規やマニュアルなどで決められている現代社会において、専門的職業人が仕事の進め方に柔軟性を取り戻すための、重要な指標となるキーワードではなかろうか。

 柳田邦男『壊れる日本人』(新潮文庫)

 鳥取市にホスピスを開いている医師のエッセイが紹介されている。
 印象的なことばだ。

「ああ、ここに、新鮮な、ジレンマ、あるよなあ」
 
 医療の世界も教育の世界も、ジレンマはつきものである。
 しかし、そのジレンマをだんだんと感ずることが少なくなっている。いや、目を背けてどこかに押し込めようとしているのかもしれない。法規どおりマニュアルどおりにやることでストレスを抱えたくない…というような思い。
 ジレンマが、それを新鮮と思える心が、人間を対象とする仕事をしていくうえでは必須なのだということをかみ締めてみたい。
 医師のことばはこう続く。

 すぐに結論は出さない。逃げない。するとジレンマは、思いがけないところから、融け出していくことがある 

ちょっとした陥穽から

2008年07月12日 | 雑記帳
 先月上旬だったろうか、ホームページ「すぷりんぐ」の転送エラーがでて、アップすることができなくなった。
 本家?のホームページは今では「読書記録」だけが生き残っている状態だけなのだが、それでも2001年を期して始め、どうにか続けてきたので、愛着は大きい。
 いろいろと設定をいじってみたりしたが、一向に元通りにはならなかった。
 ああ、ここらでお仕舞いにしなさいということかなあ、と気持ちは沈んでいたのだが…

 作成ソフトの違うバージョン(ライトという簡便なものだが)が入っていることを思い出し、それを使ってアップしてみたらなんとスルスルとなってしまったではないか。
 ああ、ほっとした。
 読み終えた本を打ち込んでみると、ちょうど50冊。
 少しペースが落ちているのは、暑さのせいか…
 夏休みは20冊ぐらいは、と目論んでみる。

 と、それだけの話である。
 でも、たまにはこんな日常茶飯事も悪くないだろう。
 ちょっとした陥穽から抜け出した気分で書きつけてみた。