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すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

読書録25~豊かな時間の宿る実

2025年05月22日 | 読書
 寝床読書は朝の目覚めに左右されるが、この三日で二時間を超えたぐらいだったか。『熟柿』を読みきった。佐藤正午の小説としては珍しい。「読ませられた」という感覚がある。物語は2008年から2025年まで、ある一人の女性の視点によって描かれる。楽しい筋ではないが、彼女の心中に嵌っていた時間だった。





 それこそ小説の醍醐味であるし、他の作品に比しても没入感があった。『月の満ち欠け』と並べられると評価できる一冊だ。主人公がある登場人物の心を評した「見て見ないふりのできない」姿勢ということが、ある意味でこの話の底辺に流れているのではないか。一生の中で何度か遭遇するだろう場面は誰にもある。


 見過ごし方にはパターンがある。鈍感で気づかない場合、迷いつつもつい保身に走り看過する場合…いずれ想像力の欠如。他者と向き合う心の薄弱さ。誰しも抱えているかもしれないことを前提にしながら、せめて身の周りの事象を見つめ直そうと殊勝な気持ちになった。そのために「浮かれない」日常は基底となる。


 題名である「熟柿」は、冒頭から人物の傍らでイメージを形作る深い要素である。しかし終末に、その語の意味は大きな希望となる。文中で使われた辞書は「大辞林」らしい。他の辞書には見出し語として「熟柿主義」と載っていた。曰く「時機が来るのを気長に待つ主義」…今、ずいぶんと縁遠い考え方と言えよう。


 かつて市毛勝男先生の模擬授業を受けた時、発問に対する応答の挙手がなく、ずいぶんと長い時間が流れた。そしてふいに先生自身が「この沈黙はなんと豊かだろう」と仰ったのだ。沈黙の内容を想像できる余裕こそが豊かさなのだと知った時を、今「熟柿」という語と共に思い出す。素晴らしい表紙デザインとともに。

読書録24~言葉を拾うその前に

2025年05月21日 | 読書
 もし「今月の流行語大賞」という企画があれば「私は米を買ったことがない」になるかもしれない。確かにツッコミどころ満載の言葉だが、それを拾って深く考えてみる前に、マスコミや様々な情報がああだこうだと圧しつけてくる感が強く、それに慣れっこになっている自分に気づく。それは心身を鈍らせないか。





 著者はまえがきにこう書く。「言葉を大切にする人間は、暮しを軽蔑しない人間だ」…『暮らしの手帖』の連載がまとめなおされた一冊の核になる一節だ。では「大切にする」とは、どういうことか。具体的な行為として「見つける」「考える」「意味づける」「反映させる」ことが思いつく。ずいぶん時間がかかる


 職を持たない自分のような者であれば、それも可能…いや、これは意識し続けなければ到底できない。「米を買ったことない」騒動の決着が、結局は個人の資質、政治家の体質に消化され、政局の要素になるだけを繰り返すこの国では十分な注意が必要だ。拾うべき言葉かどうか、一旦立ち止まり判断する癖が必要だ。


 2016年から2022年までまさに揺さぶられ続けた時期、著者の拾った様々な言葉もきちんとピン止めしておかなければ、いつの間にか落ちこぼれる。読みながら自分の気持ちを思い起こし、ピンを止め直した。政治の右傾化、コロナ感染防止初動時の動き、東京五輪への言説、そして顛末…しっかり覚えておきたい。


 言葉を取り上げ世の中を批評し続ける著者が「矛盾したことを言うようだが、言葉を探しすぎる、拾い過ぎるのもよくない」と書いた一節がある。それは谷川俊太郎の絵本『ぼく』の創作を追ったドキュメンタリーでの発言に依っている。曰く「言葉を介さないで感じ取るってことがすごく大事だ」。俯瞰してみたい。

なんで今さら『飛ぶ教室』

2025年05月18日 | 読書

 教職経験者だから光村図書出版は馴染みがある。若い頃は所属していた研究会で多少関わったし、民間研修会の場でも勤めている方と何度か親しく話させていただいた記憶もある。雑誌『飛ぶ教室』は知ってはいたが、それほど興味は持てなかった。図書館に勤めて、絵本絡みで数冊手にしていた程度と言ってよい。

 

 それが何のはずみか(お気に入りの著者検索をして中古本注文する時に目に付いた)2冊ほどバックナンバーを買い求めてみた。ケストナーの小説名から題を冠した「児童文学」誌で、対象は小学校高学年以上とされているようだが、実際は、児童生徒よりそのジャンルの愛好者が購読するのではないかと思える。

 

 

 正直、児童文学への興味は高くない。それでも多彩な作家が童話からYAと称される作品まで並んでいて、つまみ食い的に読むのも一興である。定点絵日記といういしいしんじ、金井真紀のミニエッセイには挑戦の視点が見えて楽しい。また「BOOKS」(新刊紹介)が、絵本、児童書、YA、大人の区分で充実している。

 

 「言葉のちから」と題して哲学者の若松英輔が連載していた。副題が「十歳の君へ、八通の手紙」となっている。しかしその内容は十歳程度ではなく、中高生でようやくというレベルだと感じた。歯ごたえのある文章で、ぜひ教育現場の方々に読んでほしい…と。言葉によって言葉以外の力を知り、言葉で伝える意味。

 

 初め手にした70号は特集名「前編」で、短編・掌編が4作品載っていた。読んでしまうと気になるし、つい続きの71号を購入する。さらに、上記の若松連載も最初から読みたくなり、68号まで探す。なんとそれは創刊40周年記念でインタビューは谷川俊太郎の号だった。なんとなく空にある教室へ向かう気分だ。


読書録23~なまはげ、あります

2025年05月14日 | 読書

 4月初旬、まだ本屋大賞結果が発表される前、関連サイトを見ていたら、見覚えのある一冊が!!「発掘部門『超発掘本』」として、かつて読み入った『ないもの、あります』があるではないか。これは面白かったとブログ検索したら、2012年。最高級に褒めちぎっている。なんと題が「転職するなら、この商會へ」。

 

 今思えば、その数年後に始まる吉田篤弘マイブームの予兆か「ないもの」を「ある」として目をつけるのは言語センスが中核だろうが、「商品紹介」として仕立てている内容には、人生観・処世訓が色濃く散りばめられている。「こんな本を書きたいんだよう」と心が疼く。十数年前の書名に込めていたのだった。

 

 では少し倣ってみよう、と「もの」を考えてみるが簡単には思いつかない。「犬も歩けばあたる棒きれ」とか「豚の真珠」「猫の小判」はどうだろう…って全然センスがない。しかもそれらは、ほとんど価値が見当たらないものだ。あっ「壁にある耳」…これならどうか。そんなのは盗聴器で十分、あっ犯罪志向か。

 

 

 書名だけで読みたくなる(秋田県人の性か)。しかもお気に入りの著者だ。児童文学のジャンルではあるが、登場人物の設定はなかなかよろしい。アキトという秋田からの転校生のまっすぐな物言いは、かのベストセラー本「成瀬」を連想させた。その少女が高齢者に関心を持ち、葬儀場に潜入?するには理由があり…。

 

 「なまはげ」場面が終盤にあり、会話に今まで考えなかった一節があった。なまはげはおどすだけの存在ではなく悪い子じゃないと、信じてくれる人がいる。守ってくれる人がちゃんといることに気づかされる行事であること。伝統行事の廃りが激しいが、その点を大人はどうフォローしていくか考えさせられた。

 

 


読書録22~上手もヘタも

2025年05月10日 | 読書

 新聞の読書欄に、佐藤正午の新刊書評が載っていた。同齢であるこの作家は気になる存在。手にした小説のどれもが素晴らしいと感じたわけではないが、あの『月の満ち欠け』のように心を高ぶらせてくれないかなという期待がある。読みたい。さてこのエッセイ集は9年前の発刊、現在は別版編集されているようだ。

 

 独特の「冗長さ」についていけるかどうかは読者次第だと思う。しかし、その文体にある思考回路は、活字なのに「アナログ」に近い。つまり枝分かれしている細かい脈路に誘い込まれていくようなものだ。太い幹の存在を忘れてしまうほどに、脈路に味があったりするものだから、結局ナンナンダという場合もある。

 

 もちろん、ハッと思わされることも少なくない。「Ⅱ作家の口福」にある「ゴミ捨て場で、ゴミ袋をあさることを結婚に見立て」(る)発想や、「Ⅲ文芸的読書」というタイトルのもとになる「話芸と文芸」の対比や類比など、やはり個性際立つ作家と言える。人の言動にある「割り切れなさ」を描くのに長けている。

 

 

 紙芝居でイソップ物語を演じたこともあり、ネットで見かけたときに気になり購入した。ジャンルとしては、ビジネス、啓蒙書にあたるだろう。全部で71の物語が要約紹介され、著者がそれから学ぶことを記している。六章のキーワードは「尊重思考」「喜与思考」「楽観思考」「快生思考」「上昇思考」「行動思考」だ。

 

 目新しいことが書いている訳ではない。ただ、短い寓話も読みとり方(視点人物の転換)によって教訓は異なると改めて思う。そして、強調されるのは「心の持ち方⇒潜在意識への働きかけ」だが、結局は「行動」が伴わなければ結実はしない。となれば最終結論は「利他」と「あきらめない」ということに尽きるか。


読書録21~人気本を眺めて

2025年05月06日 | 読書

 気になっていた作家だったが読んではいなかった。今回、本屋大賞ノミネート(結果2位)もあり、やけに書名が気に入った。おそらく「高校球児の母」だろう。そこにどんなドラマがあるのか…情報先は他にもあるが小説という形で語られる姿は、独特の背景を持ちながらも、やや普遍的な母親の矜持も読みとれた。

 

 当然「母」側からの視点だが、逆のつまり「息子」の視点が響く場面もある。アルプス席の大観衆に紛れ、遠くから叫ぶ母を、グラウンドから見つめていたと息子が語る最終盤が印象的だ。思いは光るといった形容が浮かぶ。最後に進んだ地方大学が「秋田」だと匂わせる、方言台詞には落語的なセンスも感じ取れた。

 

 

 これは雑誌の新刊案内で見かけたとき興味が湧いた。たまたま図書館の新刊コーナーに並んでいたので、借りて読んでみた(というより、眺めてみた)。「ある日、地球に『めずらしいもの』を探しに来た宇宙人ふたり-----」という設定はなかなかに面白い。第一章「住宅街の謎」から始まる身の周りウォッチングだ。

 

 取り上げられるのは「標識」「すかしブロック」に始まり「電線の鳥」「踏切」など多種様々。トリビア、雑学的な宝庫とも言え、これをもとにクイズはいくらでも作れそうだ。私達地球人(笑)はいかに身の周りのことに気を遣わないか、思い知らされる…って、いちいち気にしていたら、春日三球(古)のように眠れない。

 

 ラストの謎「定礎」はヘェェェだった。建物にある記念碑的な石板と認識していたが、なんと正式名称は「定礎箱」。入っている物があるとは考えなかった。関わる者には常識でも、一般的に知られていない事物は山ほどあるに違いない。どのジャンルでもいいから「謎」と考え見つめる目は、脳を働かせる。小学生に薦めたい。


読書録20~落ち着かなさの訳

2025年04月30日 | 読書


 秀逸な表紙カバーデザインだ。カバーを外せば下のようになる。書名活字の中心が微妙にずれていたり、端が欠けていたり、重なっていたりする。目にしてと何かしら不快感を持つ人も少なくないはずだ。不快とまで言わなくとも、心にどこか落ち着かなさを覚えないだろうか。この著を読み進むと、似たような感覚になる。



 雑誌「群像」連載がもとになった一冊。連載時タイトルは「『近過去』としての平成」だという。もともとその雑誌に掲載された橋本治の絶筆「『近未来』としての平成」の続編になるような内容を編集部は考えていた。書籍化にあたって筆者は、「自分が行きついた『なんかいやな感じ』」というテーマ?を前に据えた。


 そのことは「あとがき」に詳しいが、橋本が語った時代認識にそった形で進んだと著者は考えているようだ。橋本は、平成や現代について、もう前には進まないのに「『先へ進んでいる』という錯覚が生まれている」時代だったと捉えていた。従って、筆者が取り上げている体験や思索は、その掴みで括ることができる。


 自分の「落ち着かなさ」とはつまり、錯覚を指摘されたと言っていい。それは「平成」という時代とともに自ら歩んだ道を肯定しながらも、踏み出せなかったあれこれ、決別できなかった旧いしがらみなどへの後悔めいた思いと重なる。書名デザインのように、どこかが欠け、ずれ、半端なまま圧し込まれている感じだ。


 政治やメディア、社会的事件など語る対象は広範囲だ。身の周りから国家的変遷まで、もっともらしく理屈づけされた情報や世評を鵜呑みにせず、発言の根元を疑ってみる姿勢を絶えず持ち続ける25歳年下の批評家。彼を知ってもう十数年が経つ。初単行本はちょうど十年前だ。「なんか嫌な」存在ながら読み続けている。

https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/7d7d537c4f96d3a5ac2923428a5bbabe

読書録19~黒いシミの豊かさよ

2025年04月28日 | 読書


 続けて「ベスト・エッセイ」2024年版を読む。こちらでも印象深いのは馴染み?の人が登場してくる話だ。くどうれいん「長野さんは陸を泳ぐ」は、絵本作家の長野ヒデ子さんとの交流が書かれてあり、22年に我が町にいらした時の様子が懐かしく思い出された。会話の声の調子が甦ってきて心が温かくなった。


 「ヒデ子さんは、その人生が絵本のような人なのだ」という筆者の比喩をどう受けとめるか。感情表出のストレートさを挙げていたが、私なら「何事も遊びにする達人」と言い換える。それは人との出会いや日常生活を丸ごと「お気に入り」にしてしまうパワーを持つからだ。親しく接したあの時間がまた思い出される。


 「言葉」について考えさせられる文章が多かった。三木卓「自分の言葉を」には、筆者が「詩」を書き始めた頃、「紙の上に書かれた文字が立ち上がる感じ」をもった日が生き生きと記されている。藤沢周「心の海辺で」には、二十歳の頃の自分が「混沌を、鈍重な筆致で描写する」までの「回り道」が描かれていた。


 そして何より、再びこの文言に出会い内省した。「言葉は究極のデジタルである」。永田和宏「AIと連歌を巻く」の中にあるこの一節は、正直失念していたが、以前筆者の新書を読んだ時に同箇所が刺さり、書き散らしていた。言葉の有限性については当然であり分かっているつもりになっていたが、半端なままだ。
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/bc6793e468e0b880f233abcb184cfd94


 直筆がアナログ、機器の活字がデジタル…というレベルではない。今、こうしてキーボードで打ち出す文字は、思考の中から抽出され、選択された記号に過ぎず、その連なりの表出で何かしら表現するが、分離された矮小な世界だ。とすれば、紙面上の黒いシミを豊かな世界と受けとめる感覚を磨くしかあるまいよ。

読書録18 ~手に甦る感触

2025年04月24日 | 読書


 友人が「ベスト・エッセイ」集を読んでいるのを知り、面白そうだと寝床読書の友とした。字数が程よいこと、作家ばかりでなく様々なジャンルの方の執筆、そして2022年の文章という同時代感もあり、読みやすかった。ただ容易く読み流していいものかと、ページを閉じて想う。例えば冒頭の一編の結びはこうだ。

 どっちにしても、自死した者との「あの素晴らしい愛」の再生は絶対にない。

 精神科医のきたやまおさむが、盟友である今は亡き加藤和彦について語っている。「横並びの愛」を歌った名曲「あの素晴らしい愛をもう一度」は、加藤と一緒に作られた。結局「心と心」を通い合わせられなかった自責の念が漏らされる。しかしそれはある意味で、個々の通じ合いの限界を語っていて、複雑だった。


 小説家の田中慎弥が寄せた映画監督青山真治への文章は、人との出会いが刺激となり、いかに自分の創造力を推進させるものなのか、典型的に述べられていた。心が共振できる存在とは、離れた時にいかに自己を内省させてくれるか示してくれる人たちと思える。様々な方々が逝ってしまう昨今、田中の言葉は重い。

 生きるということは、生き残っているということだ。持ち時間が、音を立てて少なくなっていく。


 稲垣栄洋「雨が降るって…」や阿川佐和子「松岡享子…」も興味深く読んだ。神林長平の「『フィクション』の力」は、先達が語ってきたことと重なるが、改めてその声に耳を傾けさせられた。創造力を駆使できる者は、「現実を映す鏡」を私たちへ差し出す。それは読者や視聴者の想像力を鍛え、生きる力を育む。

 飢えて死にそうな子どもたちに必要なのは、パンと希望という『フィクション』だ


 読んで身体感覚が呼び起こされたことに驚いたのは、アントニオ猪木について記された2編だった。川添愛は、数々のセンスあふれる言葉のこと、夢枕獏は、その鍛えられた肉体のことを書いていた。最盛期の70年代、仙台Fデパートで聴衆の群れの中から手を伸ばし、会場から去る猪木の胸に触った感触が確かに甦った。

読書録17~図書室に似合う

2025年04月19日 | 読書
 お気に入り作家の児童書を、久しぶりに読んでみた。一種のファンタジー、そして寓話的要素も入っている。中学年あたりから読んでほしい一冊である。主人公のチイは、花屋をしているおばあちゃんに憧れ「花屋」を目指しているのだが、おばあちゃんからは、「花にためされる日が来ることだろうね」と言われる。

 小学生の将来の夢、女の子なら「花屋さん」が定番の一つだったが、今時はどうだろう。いずれ子どもが今見る将来の夢は他愛無くとも、対象となる「何かに試される」機会はある。それは学校で計画的に行うより、自由度の高い場面で訪れる気がする。仮に「職業」として実らなくても、そのキャリアは人を鍛える。




 内田麟太郎という名に惹かれて、中味もわからないままに購入した一冊だ。帯に「少年詩集としては たぶん 初めての コンクリートポエトリー」と記されている。学生時代に詩をかじっていた身として、いかに勉強不足かがバレテしまう。その語に関する知識がなかった(忘れてしまったのか)。解説は以下の通り。
※コンクリート・ポエトリー
 テキストのもつ具象性に注目して
 空間的・視覚的に表現された詩


 文字だけでなく記号も使われ、テキストの形式・形態にこだわって表現される。山村暮鳥の「いちめんのなのはな」が繰り返される詩は有名で、やや近いかもしれない。「詩」と見るかどうかは読者の判断。作者自身が「楽しめればいい」と書く。全部とは言わないが確かに面白い。いつか高学年にでも紹介してみたい。