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すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

読書録21~人気本を眺めて

2025年05月06日 | 読書

 気になっていた作家だったが読んではいなかった。今回、本屋大賞ノミネート(結果2位)もあり、やけに書名が気に入った。おそらく「高校球児の母」だろう。そこにどんなドラマがあるのか…情報先は他にもあるが小説という形で語られる姿は、独特の背景を持ちながらも、やや普遍的な母親の矜持も読みとれた。

 

 当然「母」側からの視点だが、逆のつまり「息子」の視点が響く場面もある。アルプス席の大観衆に紛れ、遠くから叫ぶ母を、グラウンドから見つめていたと息子が語る最終盤が印象的だ。思いは光るといった形容が浮かぶ。最後に進んだ地方大学が「秋田」だと匂わせる、方言台詞には落語的なセンスも感じ取れた。

 

 

 これは雑誌の新刊案内で見かけたとき興味が湧いた。たまたま図書館の新刊コーナーに並んでいたので、借りて読んでみた(というより、眺めてみた)。「ある日、地球に『めずらしいもの』を探しに来た宇宙人ふたり-----」という設定はなかなかに面白い。第一章「住宅街の謎」から始まる身の周りウォッチングだ。

 

 取り上げられるのは「標識」「すかしブロック」に始まり「電線の鳥」「踏切」など多種様々。トリビア、雑学的な宝庫とも言え、これをもとにクイズはいくらでも作れそうだ。私達地球人(笑)はいかに身の周りのことに気を遣わないか、思い知らされる…って、いちいち気にしていたら、春日三球(古)のように眠れない。

 

 ラストの謎「定礎」はヘェェェだった。建物にある記念碑的な石板と認識していたが、なんと正式名称は「定礎箱」。入っている物があるとは考えなかった。関わる者には常識でも、一般的に知られていない事物は山ほどあるに違いない。どのジャンルでもいいから「謎」と考え見つめる目は、脳を働かせる。小学生に薦めたい。


読書録20~落ち着かなさの訳

2025年04月30日 | 読書


 秀逸な表紙カバーデザインだ。カバーを外せば下のようになる。書名活字の中心が微妙にずれていたり、端が欠けていたり、重なっていたりする。目にしてと何かしら不快感を持つ人も少なくないはずだ。不快とまで言わなくとも、心にどこか落ち着かなさを覚えないだろうか。この著を読み進むと、似たような感覚になる。



 雑誌「群像」連載がもとになった一冊。連載時タイトルは「『近過去』としての平成」だという。もともとその雑誌に掲載された橋本治の絶筆「『近未来』としての平成」の続編になるような内容を編集部は考えていた。書籍化にあたって筆者は、「自分が行きついた『なんかいやな感じ』」というテーマ?を前に据えた。


 そのことは「あとがき」に詳しいが、橋本が語った時代認識にそった形で進んだと著者は考えているようだ。橋本は、平成や現代について、もう前には進まないのに「『先へ進んでいる』という錯覚が生まれている」時代だったと捉えていた。従って、筆者が取り上げている体験や思索は、その掴みで括ることができる。


 自分の「落ち着かなさ」とはつまり、錯覚を指摘されたと言っていい。それは「平成」という時代とともに自ら歩んだ道を肯定しながらも、踏み出せなかったあれこれ、決別できなかった旧いしがらみなどへの後悔めいた思いと重なる。書名デザインのように、どこかが欠け、ずれ、半端なまま圧し込まれている感じだ。


 政治やメディア、社会的事件など語る対象は広範囲だ。身の周りから国家的変遷まで、もっともらしく理屈づけされた情報や世評を鵜呑みにせず、発言の根元を疑ってみる姿勢を絶えず持ち続ける25歳年下の批評家。彼を知ってもう十数年が経つ。初単行本はちょうど十年前だ。「なんか嫌な」存在ながら読み続けている。

https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/7d7d537c4f96d3a5ac2923428a5bbabe

読書録19~黒いシミの豊かさよ

2025年04月28日 | 読書


 続けて「ベスト・エッセイ」2024年版を読む。こちらでも印象深いのは馴染み?の人が登場してくる話だ。くどうれいん「長野さんは陸を泳ぐ」は、絵本作家の長野ヒデ子さんとの交流が書かれてあり、22年に我が町にいらした時の様子が懐かしく思い出された。会話の声の調子が甦ってきて心が温かくなった。


 「ヒデ子さんは、その人生が絵本のような人なのだ」という筆者の比喩をどう受けとめるか。感情表出のストレートさを挙げていたが、私なら「何事も遊びにする達人」と言い換える。それは人との出会いや日常生活を丸ごと「お気に入り」にしてしまうパワーを持つからだ。親しく接したあの時間がまた思い出される。


 「言葉」について考えさせられる文章が多かった。三木卓「自分の言葉を」には、筆者が「詩」を書き始めた頃、「紙の上に書かれた文字が立ち上がる感じ」をもった日が生き生きと記されている。藤沢周「心の海辺で」には、二十歳の頃の自分が「混沌を、鈍重な筆致で描写する」までの「回り道」が描かれていた。


 そして何より、再びこの文言に出会い内省した。「言葉は究極のデジタルである」。永田和宏「AIと連歌を巻く」の中にあるこの一節は、正直失念していたが、以前筆者の新書を読んだ時に同箇所が刺さり、書き散らしていた。言葉の有限性については当然であり分かっているつもりになっていたが、半端なままだ。
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/bc6793e468e0b880f233abcb184cfd94


 直筆がアナログ、機器の活字がデジタル…というレベルではない。今、こうしてキーボードで打ち出す文字は、思考の中から抽出され、選択された記号に過ぎず、その連なりの表出で何かしら表現するが、分離された矮小な世界だ。とすれば、紙面上の黒いシミを豊かな世界と受けとめる感覚を磨くしかあるまいよ。

読書録18 ~手に甦る感触

2025年04月24日 | 読書


 友人が「ベスト・エッセイ」集を読んでいるのを知り、面白そうだと寝床読書の友とした。字数が程よいこと、作家ばかりでなく様々なジャンルの方の執筆、そして2022年の文章という同時代感もあり、読みやすかった。ただ容易く読み流していいものかと、ページを閉じて想う。例えば冒頭の一編の結びはこうだ。

 どっちにしても、自死した者との「あの素晴らしい愛」の再生は絶対にない。

 精神科医のきたやまおさむが、盟友である今は亡き加藤和彦について語っている。「横並びの愛」を歌った名曲「あの素晴らしい愛をもう一度」は、加藤と一緒に作られた。結局「心と心」を通い合わせられなかった自責の念が漏らされる。しかしそれはある意味で、個々の通じ合いの限界を語っていて、複雑だった。


 小説家の田中慎弥が寄せた映画監督青山真治への文章は、人との出会いが刺激となり、いかに自分の創造力を推進させるものなのか、典型的に述べられていた。心が共振できる存在とは、離れた時にいかに自己を内省させてくれるか示してくれる人たちと思える。様々な方々が逝ってしまう昨今、田中の言葉は重い。

 生きるということは、生き残っているということだ。持ち時間が、音を立てて少なくなっていく。


 稲垣栄洋「雨が降るって…」や阿川佐和子「松岡享子…」も興味深く読んだ。神林長平の「『フィクション』の力」は、先達が語ってきたことと重なるが、改めてその声に耳を傾けさせられた。創造力を駆使できる者は、「現実を映す鏡」を私たちへ差し出す。それは読者や視聴者の想像力を鍛え、生きる力を育む。

 飢えて死にそうな子どもたちに必要なのは、パンと希望という『フィクション』だ


 読んで身体感覚が呼び起こされたことに驚いたのは、アントニオ猪木について記された2編だった。川添愛は、数々のセンスあふれる言葉のこと、夢枕獏は、その鍛えられた肉体のことを書いていた。最盛期の70年代、仙台Fデパートで聴衆の群れの中から手を伸ばし、会場から去る猪木の胸に触った感触が確かに甦った。

読書録17~図書室に似合う

2025年04月19日 | 読書
 お気に入り作家の児童書を、久しぶりに読んでみた。一種のファンタジー、そして寓話的要素も入っている。中学年あたりから読んでほしい一冊である。主人公のチイは、花屋をしているおばあちゃんに憧れ「花屋」を目指しているのだが、おばあちゃんからは、「花にためされる日が来ることだろうね」と言われる。

 小学生の将来の夢、女の子なら「花屋さん」が定番の一つだったが、今時はどうだろう。いずれ子どもが今見る将来の夢は他愛無くとも、対象となる「何かに試される」機会はある。それは学校で計画的に行うより、自由度の高い場面で訪れる気がする。仮に「職業」として実らなくても、そのキャリアは人を鍛える。




 内田麟太郎という名に惹かれて、中味もわからないままに購入した一冊だ。帯に「少年詩集としては たぶん 初めての コンクリートポエトリー」と記されている。学生時代に詩をかじっていた身として、いかに勉強不足かがバレテしまう。その語に関する知識がなかった(忘れてしまったのか)。解説は以下の通り。
※コンクリート・ポエトリー
 テキストのもつ具象性に注目して
 空間的・視覚的に表現された詩


 文字だけでなく記号も使われ、テキストの形式・形態にこだわって表現される。山村暮鳥の「いちめんのなのはな」が繰り返される詩は有名で、やや近いかもしれない。「詩」と見るかどうかは読者の判断。作者自身が「楽しめればいい」と書く。全部とは言わないが確かに面白い。いつか高学年にでも紹介してみたい。

読書録16~逃げずに留まる者は

2025年04月13日 | 読書
 「耕」という字に持つイメージは「始まり」や「基礎作り」であった。文章上の比喩として使ったことも多い。しかし、土を耕すことが大量の炭素排出につながるという環境負荷視点が加わると、複雑な気分になる。様々な知識を得る度に見直すべき思考・行為は増えてくる。その重さの処理に目を背けてはいけない。



 この若き数学研究者の本には触発される。昨年読んだ『数学の贈り物』というエッセイ集も素晴らしく、三日にわたって感想をメモしていた。今回手にとったのは、コロナ禍が始まった頃の日記をもとにして、雑誌『すばる』に連載された文章だ。「緊急事態」をどう捉え、日常行為のあり方を問う記述にまた惹かれた。

 「いまのいま」の豊かさを

 行為に先立つ意味がないのは

 そえたい「か」は学びの時


 コロナ禍、それまでの日常生活を大きく制限された。しかしウィルスへの知識を持つことで喧伝された「withコロナ」。また人間以外の動植物たちにとってはある意味平穏な期間だったこと…きっと当時も考えたろう多様性への視点を、事態が過ぎればすらりと忘れてしまう私たちの呑気さ、危うさを自嘲するしかない。


 結局、新しいウィルスによる感染とは、環境破壊による寄生の変化や、人間のグローバルな動きの拡大によって引き起こされる。温暖化を引き起こしている人類の責任を皆が揃って口にするけれど、行動化という面ではあまりに弱い。自覚しつつ日々の生活に流されている自分は、どのように構え、何をすればいいのか。


 多くの刺激的な知見があった。ことにイタリアの植物学者の言が心に残る。動物は緊急事態に直面した時「逃げる」対処をしてきた。ゆえに身体、神経が発達した。しかし「植物は、環境から逃げずに、その場にいながら問題を解く」…結局この場に留まるしかない者は植物に学ぶべきだ。精緻に感じ取り、心を磨く備えを持とう。

読書録15~65点くらい…

2025年04月10日 | 読書
 どちらも中古で買い求めた短編集。初めから定めていた他の本とともに、送料のことも考えて少し漁って選んだ。一つはお気に入り作家、もう一冊は初めて読む作家なので、それなりに選んだ理由はあった。しかし本とは読んでみなければわからない。期待外れとまでは言わないが、刺激が今ひとつで共に65点くらい(笑)。



 この本は以前図書館で立ち読みしたことを覚えている。少し見ただけであまり印象に残らなかったので、今まで買い求めていなかった。改めて読み直してみたが、帯にある惹句のような印象は持てなかった。確かに「人生について考える7つの動物寓話」には違いない。しかし「胸がすくような」までには至らない。


 寓話とはもっとわかりやすいと思っていた。繰り返しの筋というのが定番で、どれもがその構造を持っているが、そのテンポや人物(動物)設定と今の自分がすり合わないのか、ストンと心に落ちる箇所が少なかった。お気に入りの安東作品。こういう一冊もあるだろう。もしかすれば、再読すれば何か響いてくるかも…。



 これは直木賞作品(もう20年前だが)ということで面白いかな…という印象だけで求めた。昭和期の大阪界隈を舞台に、奇妙な物語設定の作品が並んでいた。ホラーと呼べるのかもしれない。確かに筆力があり6編ともするりと読ませるが、あと一歩欲しい。長編に仕立てた方がじわりじわりと響いてくるよう気がした。


 表題作の「花まんま」は、いわゆる「生まれ変わり」がモチーフ。佐藤正午の「月の満ち欠け」を思い出した。それが頭にあって、読了後えっとなったのは、これも映画化しているではありませんか。なんと今月25日封切。しかも主演が有村架純って。短編原作なので味付けがされ、幅が拡がるなら大歓迎。観に行きたい。

読書録14~「腹落ち」した本

2025年04月08日 | 読書
 今年1月、著者をEテレ「ハートネットTV」で見た。4年前に脳出血で倒れながら、リハビリを重ねAPU学長に復帰したその姿は、自分の意思と意志を今出来る手段で懸命に(いや自然に)伝えようとしていた。本物だけに感じる「気」が忘れられない。この一冊は倒れる前年(13冊も出版した年だ)に書かれている。



 今もって「教えること」に自分の興味が在るのは、かつての職業柄か。いや、人間は教えたがるものだし、「教育欲」(by斎藤孝)という語もあるくらいだ。何のためと自問してみても、結局価値を分かち合う行為の満足でしかない。肝心なのは、「何」を「どのように」伝えていくか。見いだせる価値はその点にある。


 「何」について、著者は「自分の頭で考える力」「社会を生き抜く武器」を挙げる。そのために必要な「社会常識」の知見は、今までいろいろな場で語ってきたキーワード「タテ・ヨコ・算数」つまり「昔の人の考え・世界の人の考え・エビデンス」の重視と言っていい。個別に持っている思い込みが振り払われた。


 「特別対談」が三つ設定され、そのどれもが面白い。中・高校の学校長、生物心理学者、教育学者というラインナップ。特に驚いたのは、動物界で「教育」と呼べる行為はわずか2つだけという点。教育とはかくも難しい。しかも「教育は、世代レベルでしか有効ではない」つまり、人間自身の進化は起こっていない。


 教育全般を扱いつつ、ビジネス書の面もあり精密な「マニュアル化」を強調している。ただそれは画一化を図るねらいではない。師と仰ぐ野口先生が雑誌増刊「学校運営マニュアル」を出版された当時、それは自分のバイブルでもあった。先駆者たちは分かりやすさという基盤を作り、そこから飛び立つ者を育むのだ。

読書録13~おせっかい者が読む

2025年04月03日 | 読書
 先月下旬に読み終えた、久々の教育書。といっても15年も前のあるセミナーの記録である。まずは、何度も繰り返し読んでいるはずだが、内田樹氏の「学校教育を子供たちに授けることによって、最大の利益を受けるのは共同体そのものなんです」という一節に、改めて頷く。教育基本法の「目的」に立ち返りたい。



 「人格の完成を目指し」という冒頭の部分を、「個人の受益」と勘違いしている印象が昨今の情勢ではないか。「平和で民主的な国家及び社会の形成者」にしっかり注目し各県、各市町村の教育委員会はもっと自分たちの共同体を見据えた内容を目指すべきだ。これは首長に振り回されてはいけない事項だ。


 と、現在の選挙公約を皮肉っているのだが…(ここにも経済優先思想が蔓延り、どうしようもないなあ)と愚痴はまずこれでお終い。「教育の危機的状況」は、今も15年前も、それ以前もあまり変わりないとは言え、心ある方々(笑)は徐々に悪化しているという状況のとらえ方をしているはずである。


 この著に記されている「教師以外にこの状況をどうにかできるものはない」という「真実」も不変であろう。その意味で教師志望者の着実な減少はいったい何を意味しているか。背負うべき責任の重さに立ち向かう精神が養われていない…そこまで言えば酷だが、教職の魅力が薄れていることは確かだ。


 ドラマ「御上先生」は実に興味深かった。もちろんエンタメの世界ではあるが、教育を変えるためには官僚ではなく教師になること、と結んだのが何よりいい。間近に接する者の動き、考え、佇まい…それだけが子どもを変えていく。もはや「おせっかい」しか出来ない。まさに読むべき一冊だった。

読書録12~自分のための、自分だけの

2025年03月31日 | 読書
 旅のお供に新書でもと思い、書棚から引き出した。この書名に惹きつけられる。それは「自分のため」と「エコロジー」が結びつくかという問いが沸き起こるからだ。ちょうど五年前の三月に読んでいたこの本を、感想メモはこう締め括っていた…「刺激的で、戦略的な一冊」。改めてそう思いつつ、詳しく見ていたら。


 汎用性の高い考え方だなと印象づけられた。それは「他人と共生するための『エゴ合わせ』テクニック」という箇所だ。ここでは快適な住環境がモチーフとなっているが、そのためにコミュニティを手段にして「合意形成」を図る技術論がある。目指す状況に向かって利益をすり合わせていく原則が示されている。


 ポイントは「感情の対立」と「利害の対立」を分けて考えていくこと。なかなか難しく思えるが、結果的に「自分のため」と割り切りながら、合理的な関係を築くことに慣れなければいけない。トレーニングも必要だろう。エゴから始めてお互いが得すれば人間関係が改善するのは、ある意味当然の成り行きでもある。



 「NHK国際放送が選んだ日本の名作」シリーズは今まで出版された3冊を読んでいるが、ハズレがない。手練れの作家たちの短編集であり、好みはあるにしてもそれぞれに読み味わいがある。今回も「出発」(石田衣良)「決して見えない」(宮部みゆき)などさすがの佳品だった。しかしやはり森絵都は名手だと思う。


 それは歯痛にまつわる話。訪れた歯科医院で、医師から言われたのは「代替ペイン」という言葉だ。何かを喪失したために神経の通っていない歯がとてつもなく疼く。様々に頭を巡らす主人公がたどり着いたのは「自分だけの太陽」だった。それが題名「太陽」を示しているのだが、その物体の選び方がなんともいい。