すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「ほぼ思考」で生き残ろうぜ

2018年07月29日 | 雑記帳
 録画していた「NHKプロフェッショナル仕事の流儀」で、辞書編集者として著名な飯間浩明さんの回をみた。氏のネットに載っている発信も面白く、興味深く見入った。新語を扱う場面で「ほぼほぼ」という語が出て、これが某社で選んだ「今年の新語2016」大賞に輝いたのだった。ちなみに去年は「忖度」である。


 一応「ほぼほぼ」という語は知っていたが、口にした記憶はない。使われ方からすると完成、決着等が要求される業界から始まったのだろうか。強調の繰り返しは日本語でよく見られるから、自然とも言える。「まあまあ」など典型的だ。ところで、「ほぼ」には「粗」と「略」という漢字が充てられることを改めて知った。


 この頃某携帯会社のCMでも「ほぼ」がキーワードになっているが、つい最近ある話を聞いて、「ほぼ」という語がパッと強く思い浮かんだ時があった。先週出向いた野口先生の素麺塾で、山中先生が「AI」について話題にされたときだ。実際に語られた言い回しは少し違うが、検索してみたらあったので、引用する。

 「たとえば「私は岡田と広島に行った」と「私は岡山と広島に行った」という文章を読んで、前者は岡田さんと広島に行ったということ、後者は一人で隣接する岡山と広島に行ったという意味だろう……と推測することは、AIには不可能です。」人工知能に勝つには「読解力テスト」から!?


 つまりAIの「意味内容」の理解には限界があるということだ。ふと、それは人間の「ほぼ」という思考にも関係があるのではないかと考えた。「岡田」といったらほぼ姓名であり、「岡山」が広島と並んだらほぼ地名だと判断しているから、容易に文章の意味が推測でき、字面の似通った文章の違いも理解できるのだろう。


 無意識に繰り返している「ほぼ思考」。語彙力が基盤とはいえ、類推していくためには欠かせない。『ほぼ日刊イトイ新聞』というサイトは「ほぼ」を冠しながら日刊以上のことで巨大になった。それを見習えば、一見緩そうなこの副詞の偉大さをしみじみ感ずる。「ほぼ思考」で生き残っていこうぜ!と言ったら極端か。