すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ふりかえれば「蛇」がいる

2012年12月29日 | 雑記帳
 【読書のこと】

 昨日書いた二人の野球選手と比べられないのは承知だが,まあ「読書愛」(笑)は私にもあるかなと思う。しかし如何せん「読書体力」がないようだ。従って「読書道」を突き詰めるところまではいっていないな(とエラそうに語っておこう)。

 今年の読書冊数は130には達しないで終わりそうだ。
 「こんなほんだな(読書記録)」
 http://homepage3.nifty.com/spring21/hondana.html

 ★5をつけたのは,平田オリザ『わかりあえないことから』とクラフト・エヴィング商会『ないもの,あります』の二冊だけだったが,★4も今考えると同等のように思う。面白い小説やノンフィクションもあった。教育書ではなんといっても,堀裕嗣さんの一連の著作と,昨年発行と思うが,池田久美子『視写の教育 <からだ>に読み書きさせる』が印象深い。
 来年はもう少し節操のある?読み方をしたい。


 【仕事にかかわること】

 4月の転勤はある程度予想していたことだったが,やはりすばっとした切り替えは難しかった。
 以前のような独りよがりの動きはしないように努めたつもりで,その意味では少し評価できるが,その分内なるエネルギーはどうかと反省してみる必要がある。
 前年のような「はがき新聞」のようなまとまった実践を一つも作れなかったので,それはちょっと怠慢だろうか。研究面もやるにはやったが,あと一歩という思いは残る。
 
 自己研修はそこそこできた。2月の東京,8月弘前,9月千葉と,その度に新しい「形」と「人」と出会えたことは今思えば貴重だった。しかし,それを消化し広げる時間が自分にあるのかどうかわからない。
 12月花巻で,野口先生に「発問道場」で指摘されたことは,振り返ってみると発問に関して継続的にこだわってきた内容であり,そこに自分のスタイルへの固執が見える。さて,この後は…というところだろうか。


 【家や自分のこと】

 偶然だとは思うが,我が家の大きな動きは4年ごとにやってきている。
 今年がそうだった。オリンピックイヤーに重なっていることも面白い。

 今年,私以外の家族3人(いずれも女子)が,それぞれ退職,結婚,就職という人生の一大転機を迎えた。これは黒一点?の私にとってもかなりヘビーなことであったが(あまり大した役目を果たしていない宿六であることを反省している),どうにか無事に年越しができそうだ。

 有難いことだなあと,年々しみじみと思うようになっているのは「寄る年波」だろうか。それとも,「成熟」なんて格好のいい言葉を使っていいものだろうか。


 最近,益々軽めモードしか書けなくなったブログであるにも関わらず,連日本当にたくさんの方に訪問していただいている。
 感謝しつつ,付き合っていただいて申し訳ないような一抹の気持ちがある。
 来年はもう少しまともに…と思うけれど,結局スミマセン,ハイドーモと言いながら,心身を曲がりくねらせて進む蛇のようなブログになると思います。はい。

 良いお年をお迎えください。

通過点である二人の引退

2012年12月28日 | 雑記帳
 朝から部屋の片づけをしていたら,松井秀喜の引退のニュースがとび込んできた。
 松井は好きな選手の一人だ。理由はいくつもあるが,多くの人が想像できることだ。

 今年はもう一人好きな選手が引退した。
 小久保裕紀である。
 巨人ファンの自分にとって,それまであまり関心を持っていなかったが,あのダイエーからの電撃的なトレードに関わるエピソードは強烈だった。まさに「男意気」そのものだったと思う。

 そういえば,この二人には共通点がある。

 読書である。

 松井は,星陵高校時代に山下監督の「読書の千本ノック」を浴び,「彼ほど読んだ高校生はいない」とまで言わしめた。
 プロになってからの作家伊集院静との交流もよく知られていて,表面にはあまり出ていないが相当の読書家であることが想像できる。

 小久保が,球界随一の「読書家」であることを知ったのは,つい最近雑誌記事で読んだ。歴史小説や自己啓発関連書が中心のようだ。
 あの斎藤一人に触発されてと言うが,次の言葉は凄い。

 「これだ!」と思う本に出会ったら,最低でも7回は読むようにしています。

 繰り返し読む本はあるにはあるが,自分の胸に手を当ててみても7回重ねて読み切った書はない。


 一流の人物は例外なしに読書家であるという事実は,学ぶという本質にかかわることだろう。
 対象に向き合う,素直に受け入れる,問いを発する,そして,あきらめずに寄り添う…学び続けるとはそういうことだ。

 現役引退は避けて通れないことだが,同時に通過点であるという思いも,この二人なら持っていると思う。

チーズタイプの男の願い

2012年12月27日 | 雑記帳
 明日は片づけをするため休みをもらったので,実質今日が仕事納め,いくつかの原稿や記録を仕上げて退勤した。

 花巻の会から始まった12月はなんだか妙に速く過ぎた。
 途中体調を悪くし,ユンケルでなんとか乗り切ったが,学期末のバタバタに加え,一気にいろんなことがやってきた感じだった。

 そんな中でも,校内報「縷述」はどうにか3回発行できた。
 内容はたいしたことではないが,いつものようにアップした。
 もしよろしければ。
 http://homepage3.nifty.com/spring21/CCP149.html

 今年の最終は「ふりかえり,整えたい」と題して,いじめや教委のことに触れてみたが,本当に正念場を迎えるのはきっと来年以降だと思う。気を引き締めてかかりたい。


 と言いながら,どうでもいい話題を書く。


 「先生の性格は チーズタイプ!」と、職場の忘年会で渡されたカードに書かれてあった。何か占いのサイトから引っ張ってきたものらしい。
 解説を読む。

「とても繊細な感受性の持ち主です。」
 いやあ、それほどでも、と思う。

「鋭い直感力を持ち、まわりの人たちとの調和のとれた状態を望みます。」
 前段は嬉しいほめ言葉だが少しあやしい。しかし後半はその通りだ。気弱だもの。

「過敏な性質が、まわりからのさまざまな要求をキャッチするので、時にそれにふりまわされることがあるかもしれません」
 うわあ、言い当てられた。
 要するに八方美人で見栄っ張りで、人からよく思われたいだけだ。

 しかし、「が」と続く。

 「そのインスピレーションには自分とみんなをしあわせにできる力を秘められているでしょう。」
 なんときれいな終わり方。読む人を失望させません。希望の持てる忘年会になりそうです…。

 周りの人は、「ぴったりじゃないですか」と言ってくれるけれど、それはどの部分を指しているのか、とても怖くて聞けはしない。

 会が始まって、最初の挨拶を求められた。
「スピーチ、チーズと私」と口を開いて、幼い頃食べられなかったチーズの思い出を語り、変遷があって今は大好物になり、
「チーズは私に、チャレンジということを教えてくれました」とまとめたら、笑いが起きた。

 とそんなことで…
 楽しくかつ有意義に過ごした忘年会でした。

 黄色い明かりの馴染みの店によってから、三軒目はラーメン屋へ。
 日付が変わった頃乗った代行車のフロントガラスの向こうは、まさに白一色。この冬最高の厳しさ。
 こんな日でも「冷やし中華」(800円也)を食べているのだから、この頑なさはいったいどこからくるのか。

 来年はチーズタイプの本道を極め、あらゆるものに溶け込み、愛される存在を目指してみようか。

文芸への助走,失敗

2012年12月26日 | 読書
 『文芸ブルータス』(マガジンハウス)を、ひと通り読み終えた。
 「ひと通り」とは一応目を通したが、10人の作家の作品全部を読み切った、という感じまでは届かないということだ。

 読み進めないなあと感じた作品は、目を流しているという状態だった。四篇がそんな感じだったので、結構好き嫌いが激しいのか、読書体力がないのか…。

 気づいたことを二つ、三つメモしておく。

 万城目学の「悟浄出立」は、西遊記を下地にした創作だが、一見読みづらそうな印象を持ったので、ちょっと声を出してみて読んでみた。
 そしたら、急にイメージが湧いてきて、どんどんと読み進められるようになってしまった。
 以前もそんなことがあったが、やや活字中毒的な自分には字面で判断してしまうことがあり、その時に文に少し声を乗せてみることで、ぐんと魅力を感じたという体験だ。
 一つの読書法として,これもありだなと思う。
 「悟浄出立」という作品自体は、実に面白い発想である。八戒の前世?が語られることが中心になるが、その八戒が実に渋い言葉を吐く。

 「過程こそがいちばん苦しい…この人間界ではそこに最も貴いものが宿ることもある」

 さて、字面で判断できないといったものの、堀江敏幸の「デッキブラシを持つ人」は意図的に改行を少なくし、一文を長くしている文体で、どうにもついていけなかった。
 この人の書く小説はするっと来るものとそうでないのが明らかで、これはまたどうしたものだろうと思ってしまう。

 絲山秋子「ニイタカヤマノボレ」は、優れた作品だ。
 鉄塔から伸びる送電線を五線譜に見立てて、音符を載せていく預言者の存在が深い印象を投げつける。そこで「わたし」が叫ぶ「ニイタカヤマノボレ」…そう、あの戦いの暗号だ。
「戦争ならもうとっくに始まっている。そして終わらない」という語りの強烈さにも心が動かされるが、実はコミュニケーションの問題を突き詰める設定となっていて、本当にいい短編を書く作家だと思った。

 伊坂幸太郎も、西村賢太も、まあまあそれなりの作品であった。
 舞城王太郎は初めて読んだが、奇妙な恋愛小説だった。『群像』誌に載ったものらしく、これは今までのジャンルとは全然違うのだそうだ。
 いとうせいこうも初めて読んだ。作品「私が描いた人は」…これもちょっと独特のスタイルで、少し難解な気がした。

 それ以外の作品は、舌で舐めてみただけで、身体のなかには入れずじまい。
 そこまで無理に詰め込んでみなくてもいいでしょう、という思いの裏には、やはり作品につき合っていく貪欲さ、気力がなくなっているという現実がある。

 以上、文芸への助走、結局跳べないまま終了。

口福は,幸福にきっと近い

2012年12月25日 | 雑記帳
 たまたま泊まったホテルで新聞を見ていたら、作家の平野啓一郎が、「作家の口福」と題した文章を寄せていた。
ふだん購読していない新聞なので、土曜版の連載なのかどうかわからないが、そんな趣のある紙面設定だった。

 平野は、知人のオーディオ・マニアのこんな話に納得したと書く。

 人は、質が上がった時には意外とわからない。しかし、下がった時には瞬時にわかる、と。

 そして「食もそうじゃないか」と思い、文を続けている。
 学生時代にうまいと感じていた食べ物を、今食べたときに懐かしさはあるが、「ウマい」とは感じられなくなっている自分のことを吐露している。

 確かにそういうことはあるなあ、と思う。
 本当に懐かしく食べたものは、舌がその味を覚えていて一瞬昔の世界へ引き戻されるような感覚を持つのだが、だからといってそれは本当に「ウマい」のか、三個目を食べたあたりからその思いに取りつかれる。
 多くの場合、昔の食べ物がウマいわけがない。

 例えば、私は酸味の強いリンゴ、今はあまり出なくなった「紅玉」が好きで、今年もなんとか買い求めて食してみた。
 しかし、確かにあの独特のすっぱさ、抑えめの甘さのバランスがとてもいいと感じつつ…やっぱりきちんと熟して蜜の入っているフジがおいしいだろうという結論に達する。
 居酒屋のメニューだけではなく、魚肉ソーセージやコロッケなど家庭での惣菜、品種改良された果物、野菜などでも、まったくそうだ。

 幼い時や若い頃の味覚は、やはり信用おけないというか、発展途上なのだと思う。そして、味覚は劇的に変わらず、年月や経験を重ねることで、微妙に変化し続ける。
 かつては「おふくろの味」といわれた、各家々の味は今どのくらいの割合で残っているのだろうか。

 さて、給食を食べている子どもの姿を見るにつけ、家庭での食事を想像できることもある。
 安価なわりに工夫されたメニューに、難癖をつけたがるのは齢のいった人たちであって、子どもたちの多くは素直に口に入れている。
 家庭の食環境が多様化している現状を見れば、給食の果たす役割は、その子によって大きくもあり、小さくもある。
 ただ、既製品的な味にならされている現状はおそらく強いだろう。

 明日から冬休み。
 日に三度、どんな食事をしているのか、おそらくそれだけを書かせても、家庭生活の大方は想像できるのではないか。

 きっと「口福」は「幸福」にかなり近いのである。
 積み重ねられていく感覚である。

誰かが「みとる」年の瀬

2012年12月24日 | 読書
 雑誌ブルータスがまた粋な特集をして,『文芸ブルータス』という号を出したのは,12月初めだった。
 http://www.zassi.net/detail.cgi?gouno=32599

 他の文庫本などもあったので,この三連休になってからようやく読み始めた。
 半分ぐらいは,一冊も読んだことのない作家たちだ。

 冒頭に掲載されている有川浩は,『阪急電車15分の奇跡』の原作者ということは知っていたが,映画を見ただけで小説は読んでいない。
 どんなものか,どれどれと読み始めたが,この『みとりねこ』がなかなか面白かった。

 犬や猫と一緒に暮らした経験もないし,おそらくこの後もないと思うのだが,動物好きでそういう経験をもっている人なら,これは泣けるんではないかなあという気がする。
 拾われた猫が,時期を同じくして生まれたその家の子どもの成長を見守り,その子の独り立ちの時に寿命を終えてしまう話だ。

 実は先月,私的な祝いの場でそれと似た物語があり,自らの感情を吐露した方がいた。
 私自身は様子こそ想像できてもぴんとこないし,ある面では可笑しみさえ覚えてしまったのだが,今この小説に重ねてみると,やはりジーンとくる話ではある。


 こんな言葉を,話者である「浩太(ねこ)」が語る。

 猫は訪れる摂理に逆らわない。

 この人間こそが,最終的に逆らえないと知りつつ,逆らおうとしてもがく者か。
 しかしある意味,そのもがきが文化となり,文明を作ってきたとも言える。
 どこまでそのもがきが続くのか,そんなふうに地球上の他の生物は見ているのかもしれない。「みとりナントカ」となって…。

 どうして,こんな壮大な結論になるんだ。
 年の瀬の感傷か。

曲と生活する人

2012年12月22日 | 雑記帳
 昨日は勤務校で「あきたっ子グローバルビジョン~目指せ!未来の国際人」という会が開かれた。
 県事業としての企画を市教委が主催したもので、近隣の小学校から5,6年児童が集まり、外国と関わりを持った地域の職業人、学生を招いて話を聴くという内容だった。

 私には事前に、第一部全体会のゲストであるプロギタリストの柴田さんの聞き役をしなさいと依頼があり、その方とともにステージに立つことになった。
 トークの大まかな流れをこちらで作り、前もって承知していただいていたが、当日朝初めてお目にかかったので、詳しい打ち合わせはできなかった。

 それでも小学生相手になんとか70分間もたせられ、まずはほっとした。

 イギリスの音楽大学を卒業して、そのままロンドンを起点に24年間演奏活動をした方であり、演奏もさることながら、いろいろと興味深い話も少なくなかった。

 「難しい曲」についての質問が児童から出た時に、そういう難曲はいくつもあって挑戦しているが披露していないという話になった。
その過程を、柴田さんは次のように表現した。

 曲と生活する

 うわあ、凄いことばだなあと思った。

 フロアで聴いている小学生には無理と思いつつ、「曲と生活するってどんなことだろうねえ」と投げかけた形でまとめたが、これは大人でもどう解釈するか難しい。

 会終了後、廊下を歩きながら「身体化ということかな」と思いついた。
 校長室にもどって、少しの間、柴田さんにそのことについて訊いてみた。
 料理のことやアイススケートのことの例などを挙げて語ってくれたが、今ひとつストンと落ちた気はしない。
 いずれ私の思った「身体化」では、まだ技術的な解釈であることはわかった。

 この境地はきっと、真剣に一途に一つのことを追いかけた人にしかわからないのではないか…そんな思いが湧いてくる。

 つまり、曲とともに起き、食べ、動き、話し、眠る生活。それは、曲が頭から離れないというイメージではなく、溶け込んでいて、時々ふっとメロディが過ぎるような、心の中に消化されていくようなイメージだろうか。
 「寝食をともにする」という言い方もあるが、ある程度の時間をかけて、その曲のメロディやリズムが身体に宿ってから表現に向かう…

 いずれこれも頭で考えを巡らしたに過ぎない。
 そしてまた言葉で語りつくせない要素があるからこそ、音楽なり美術なりの素晴らしさが際立つことも思い起こす。

 わずか2メートルほどの距離で、プロの演奏を聴く機会などめったにないことだ。
 「演奏しているときの息遣いも聴こえてくるので、こちらが緊張してしまいました。」
と伝えると,ギタリストは笑ってくれた。

「黄金の時代」の話

2012年12月21日 | 読書
 『「黄金のバンタム」を破った男』(百田尚樹 PHP文芸文庫)

 あれは小学校3,4年の頃だったろうか。
 学校の体育館に集められた全校児童の前に、一人のボクサーが姿を現した。

 東洋ジュニアフェザー級チャンピオン、石山六郎。
 この町に生まれ、この小学校の卒業生であった。
 時の東洋チャンピオンの凱旋である。詳細な記憶は薄れているが華やかな印象として残っている。さらに言えば、私の実母の従弟筋でもあったため、晴れがましい気持ちも湧いていたのだった。

 そんなふうに昭和30年代から40年代にかけては、ボクシングが一つの国民スポーツとしてあったと思う。
 その頃、一世を風靡したファイティング原田の戦いを中心に据えながら、その前後、周囲を丁寧に描いたノンフィクションがこの著である。

 驚くのは、そのテレビ視聴率の高さである。
 昭和34年の普及率や調査方法がどうなのか多少疑問は残っても、矢尾板貞雄VSスカル・ペレス戦の残した視聴率は凄いの一言でしかない。

 92.3パーセント

 この歴代1位の突出すぎた数字は別にしても、原田の時代の世界戦などは軒並み50パーセント超。この話の中心となる「原田VSジョフレ」戦は67.3パーセントであり、歴代の高位を占めているのが、当時のボクシングなのである。

 懐かしい名前もずいぶんと登場した。
 白井、矢尾板は解説者としての馴染みが深い世代であるが、海老原、沼田、西城…、斎藤清作という名が「タコ八郎」だと知ったのは結構過ぎてからだったが、そのキャラクターも思い出深い。さらに漫画「明日のジョー」のエピソードにつながる指摘も興味深い。

 個性的な小説で発揮している著者の筆力を十分に感じさせる力作だと思う。

 大学時代ボクシング部に在籍したこともあるという、このスポーツを愛する著者は、その時代の素晴らしさを描きながら、冷静にそれ以降のことを分析してみせる。

 ボクシングという競技が人々の心を摑めなくなったともいえる。

 これは経済発展、社会生活の変貌に伴う「人々の心」の変化とも符合するのではないか。
 原田のボクシングスタイルに象徴されるようなファイティングさを持ち得なくなっている…そんな単純なものではないだろうが、下地としてそういう流れはあるかもしれない。
 柔道や他の格闘技などを見ても、どこか大人しく、細分化された評価点が浸透してきて、単純に見る側にとっては退屈に思えてきたりしている。

 しかし、そうは言ってもそれは時代の流れだとわかる。
 この著にあったボクシングができた当時の様子にはちょっと驚かされ、考えさせられる。初めはフットワークを使ってかわしたり逃げたりしていなかったというのだ。まさに「拳闘」の世界が始まりなのだ。

 持って回った言い方をすれば、格闘技においても、強いかどうかを単純な要素で決定しない…つまり生き残れる方が偉いのだという論理が大きく幅を利かせるようになるのが、歴史というものだ。

 と、どうでもいいことを考えながら、つくづくこの本は「黄金の時代」を描いているなあ、と題名の「黄金」とはかかわりなくそう思う。
 ブームのようにもてはやされる時期の輝きを見た気がする。
 そうして今は…。

 石山六郎は、ちょうど一年前に65歳でその生涯を閉じていた。
 悲しいことに私の周囲では、誰の話題にもならなかった。

目の前は「ガックン」の連続

2012年12月20日 | 読書
 『黄昏』(南伸坊・糸井重里 東京糸井重里事務所)

 「ほぼ日」のサイトで対談していたものに、書き下ろしを加えた本である。
 癒し系と言ってもいい二人が、旅をしながら無駄話に花を咲かせている。
 ほとんどドーデモイイ話に終始しているのだが、どこか魅力が漂う。ほぼ日に集う人たちが積極的に開き、人気コンテンツとなったので書籍化されたらしい。私も一、二度のぞいたような気がする。

 この二人の魅力ってどこにあるのだろう。
 繰り返し書くが、無駄話、ドーデモイイ話だらけである。それが読み手を惹きつけるとすれば、そこに漂う空気感のようなであることは間違いない。

 作り出すのは、「否定をしない」ということか。
 もちろん会話が同意や協調だけで進んでいるわけではない。一種「ホントにオマエはクダラナイナア」という言い合いを呈している雰囲気もある。
 しかしそれは表面上のことで、そこに互いの人格を認め合っている余裕のようなものがある。

 何度も書くが、無駄話、ドーデモイイ話である。
 それは普通の対談本と違って、どこか拡散的に語られ、そしてそのまま浮遊していくというようなイメージか。
 それを二人の魅力と言ってもいいだろう。

 もちろん、ある方面では「達人レベル」の二人だからこそ、話題の選び方にもこだわりがあり、含蓄がある。

 『黄昏』という書名に関して話しているところがある。
 その章が、「『黄昏』じゃないぞ。」というのも、実に、らしい。

 老いということを重ねたイメージの書名だろうが、糸井はこんなことを語っている

 年とるって、じつはそういうことじゃないんだよね。一定の速度でゆるゆる坂を下っていくわけじゃない。落ちるときはガックンガックン落ちていくけど、そうじゃなければ、ふつうに平らな道が続いているんだよ。

 南の頷きをうけて、こう続ける。

 だから、その「ガックン」をひとつ跳び越えちゃっただけで、ずいぶん先まで楽しく歩いていけるじゃないですか。

 これは魅力的な言葉だ。

 ある意味では年齢に関係なく、いやこれは言いすぎだ。ただ少なくとも人生後半戦の世代にとっては、40代でも70代でも当てはまるのではないか。
 目の前の「ガックン」をどう意識して、どう向き合おうとしているか、たぶん一年一年がその連続だ。
 糸井は、そのようにして様々な方向に手を伸ばし、歩き続けている(ように見える)。

 そういえば、今年はその糸井を初めて生で見て、話を聴いた年でもあった。三月の気仙沼である。
  http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/dcca8d49117843908be50f70ac80ac55

楽しい物語だったということ

2012年12月18日 | 読書
 『SOSの猿』(伊坂幸太郎 中公文庫)

 解説を書いている評論家曰く,

 『SOSの猿』は,古くからの伊坂ファンにはあまり評判が芳しくなかったようだ

 かなりコアなファンもいると思うのでそういうことはあるのかもしれない。
 私はいつものように楽しく読めたが,確かに夏に読んだ『あるキング』も少し印象がそれまでとは違った気がしたし,この作品もちょっと目まぐるしすぎる要素もある。
 それでも私にとっては,やはりエンターテイメント作家として,かなり惹かれる一人であることに違いない。
 そして違いなかった。

 ストーリーの中に,ひきこもりの少年と監禁された親子が出てくる。
 天童荒太ならどう書くだろうか,などと突飛な発想も浮かぶほど,重苦しくない?印象を持っていることに気づく。
 つまり,伊坂幸太郎作品には必ず救いの手が差しのべられ,どこからか光が差し込むような展開を見せてくれるからだ。
 作品に色があればどこか明るい薄黄系のイメージか。

 そして,どこかしたたかにユーモアを持つ存在もいたりして…。
 今回は主人公の母親とその友達のおばちゃんたちのやりとりは絶妙だったなと思った。それからコーラスの雁子さんのキャラも実によく立っている。

 『あるキング』ではマクベスの台詞引用が目をひいていた。
 今回は引用ということではなく西遊記の登場人物そのもの,孫悟空が姿を現して…という縦横無尽ともいうべき設定である。そんないわば実験的ともいうべき話も,えっと思わせながらすんなり入りこませてくれるのがなんとも伊坂らしい。

 こんな一節がある。

 物語は,語り手が喋ればそれが真実となる

 これをどう受け止めるか。
 つまり「喋る」方法をどう突き詰め,どう豊かなものにしているか,この点だけが物語として成立するか否かの分かれ道なのである。