すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

遠くに掲げられている,いい絵

2012年08月31日 | 読書
 『総合教育技術』(小学館)の今月号は読みごたえがあった。
 「学びの共同体」の特集や「大津市いじめ自殺事件」の特別企画など教育情報としてタイムリーなものもそうだったが, 「これからの教育のカタチを考える」と題された特別提言で、ICT教育に関する論考は,特に考えさせられた。

 大岩元氏(慶應義塾大学名誉教授)は、日本のIT教育の目標について、「道具(ソフト)を使いこなす教育から、道具を創り出す教育へ」の転換を主張している。
 ITの本質は何かと問いかけ、利用するという具体性を偏重してきた我が国の教育の在り方を批判し、プログラミングを教える教育への転換を熱く語っている。

 戸塚滝登氏(サイエンス・ライター)は、紹介によると我が国のコンピュータ教育のパイオニア教師の一人だそうである。戦後日本の教育現代化の「風」について紐解きながら、現在の閉塞状況を「デジタルスクール」の創出という形で打開したいと願っている。
 過去の反省点、つまりは上からの強制ではなく新しい情報教育の創造を目指している。

 描くイメージが不鮮明な点もあるが、概ね理解できる。
 私も小・中の教育課程はその点を踏まえて改善されるべきだと考えている。
 ところが、学校の現場から具体的に語りだそうとしようとすれば、とたんにトーンダウンをせざるをえない現状がある。

 確かに5年前と比べたとき、職員用パソコン配置の普及、大型ディスプレイの設置など大きな進展といえよう。
 だが、肝心の利用促進が思うに任せない。本校の例であるが、似たような周辺の学校も多いはずだ。
 具体的には教室でのネット利用制限、ディスプレイの数・規格の不足があり、それは決定的ですらある。
 これらがセキュリティや予算の問題と絡むことは百も承知である。ゆえに現状では要望を出してもなかなか理解を得られない。つまり、行政における理解者が圧倒的に不足している。

 社会におけるデジタルの浸透をわかっていても、学校のなかは取り残されている。
 そして、こういうものかとつい諦めがちになっていく私のような弱腰の者も増える。
 実践したいと思ってもなかなかできないから、ちょっと遠ざかっているうちに、周囲はどんどん進歩していて、自ずと消極的になり、関心も薄くなっていく気配すらある。
 いったん引いた腰はなかなかもどらない。

 デジタルの進化は、その速度が圧倒的なだけに、逆に距離感が広がっていく。
 だから雑誌の提言は、今のところ、いい絵だとわかってもずいぶんと遠い処にある感じがする。

逆手にとって語りかけられるか

2012年08月30日 | 雑記帳
 私の住む県では、今まで業界2位であるRが圧倒的に多かった。今月半ば、学区内にはじめて出来た店もRだった。

 その次は数年前から業界3位のFが追いかける展開だと思う。

 ところが最近(今日も2軒)、業界最大手であるSが相次いで開店し、こんな人口減の進むところでも商売が成り立つものか、いらない心配がわくほどである。

 なんのことはないコンビニ出店である。

 いまさらその広がりを話題にするほどでもない。
 心配すべきはその店や組織の盛衰ではなく、私たちの心に広がっていく「コンビニ化」という意識である。

 つまりは「楽」「早い」「便利」を実現している小売の広がりは、私たちに別の要素に対しても、そんな生活意識を植えつけている。

 たとえば「食のコンビニ化」「医療のコンビニ化」などという言葉は見かけた気がする。
 そして、囁かれだした?(いや、もうすでにどこかで出ているはずだが)「教育のコンビニ化」である。

 消費者マインドの強い保護者、そして子どもの存在はいたる地方で見られるようになった。
 それはまた、より個人のニーズに応える方向、つまり「楽・早・便」が大きな要素として出されてくるのではないか、と危惧する。

 「もっと楽にできることはありませんか…早く対処してください…これは全然便利ではないので困ります、もう少し快適にして…」そういう声に、一つ一つ今自分がしていることの意味づけ、価値づけを語らなければならなくなってきているのかもしれない。

 教育に携わる人間ならば、多くはそうした傾向には首を傾げるだろう。
 しかしまた、現実として私たちも、仕事を管理している立場から、スピード、成果、評価…に追い立てられている状況であることは否定できないし、それは外部からの声と無関係なわけではない。

 八方ふさがりのような状況でも、少なくともこのことは、様々な機会を通じて、何度でも、繰り返し言っておくべき、確かめておくべきだろう。

 楽で、はやくて、便利なことで、子どもはしっかりと育ちますか?

 コンビニの出店拡大による生活の変化を認めながら、それを逆手にとって語りかけていくしたたかさも必要だろう。

分かるための道具,仕掛け

2012年08月29日 | 読書
 なんという題名の新書か忘れてしまったが、このような文章に深く頷いたことがある。

 「わかることは、分けることがはじまりです。」

 「分かる」と表記することの訳もそれで納得がいくし、世の中を認知していくことは、すべて「分ける」ことから始まっていると考えることは、まんざら的を外していないと思った。

 いつから書棚に積まれていたか思い出せないほどだが、ようやくこの本を読み終えた。

 『関大初等部式 思考力育成法』(関西大学初等部 さくら社)

 奥付を見たら2月20日とある。
 ちょうど2月に本県の教育研究発表会に参加したとき、「思考力」をテーマにしたある学校の研究発表があり、興味深く聞き入った。
 それもきっかけになったし,ネット上の紹介などもあって手にしたのだと思う。

 私が聞いた発表の内容も「思考ツール」の活用に焦点が当てられていており、「思考の内容・要素」とまとめられたものと、本著が掲げた「思考スキル」には共通の部分があった。
 しかし、その進め方、子どもに対する働きかけの手法は当然異なっている。

 思考スキル18項目を、最終的に6項目に絞り込んだところが、この本(実践)の大きな価値のように思う。
 さらにシンキングツールの図化だ。実際に授業にかけてみないと評価できない面はあるが、このシンプルさが価値ある道具になると思う。

 かの発表では、児童に提示しているツールの主は「語り始めの言葉をまとめたもの」であり、そうなると誰しも予想できるように、かなり膨大な項目、量の提示となる。
 多くの現場で、それに類した掲示を見かけるが、実際には活用できていない面も少なくないだろう。まして思考力となれば、20項目もある思考の内容・要素に対応する語り始めの言葉は、かなり範囲が広いはずだ(ゆえに絞り込みも難しい)。

 そこで、図の登場となる。
 我々世代にはお馴染みの?ベン図だけでなく、Xチャート、ボーン図など自分がまだ使っていない形式もあり、興味がそそられた。
 おそらく、それらの図を使って作業するなかで、豊富な語り始め、書き始めの言葉が意識されることは間違いないと言っていい。

 「思考力育成」は、言うまでもなく「言語活動の充実」と重なる。そのものであるといってもいいのかもしれない。
 しかし、だからといって、単純に言語技術をたくさん教え込むことで成立するものではない。

 その観点からも,授業における「道具」や「仕掛け」の必要性、有効性を感じさせてくれる一冊だった。

 こじつけのようだが,その道具も仕掛けもほとんどが,結局「分ける」ために使われている。そしてそれは「分かる」ためなのだ。

「だいじょうぶ」と声かけながら

2012年08月28日 | 読書
 『だいじょうぶ』(鎌田實・水谷修  日本評論社)

 著名な二人の往復書簡(「好感日記」と題された雑誌連載と対談が収められている)である。

 当然という言い方がふさわしいかどうかわからないが、自らの働きかけと体験の豊富さゆえ名の知れた二人であるから、多くの心揺さぶられるエピソードが書かれてある。
 そうした体験をもとにして、現代社会に対する痛烈なメッセージを放っている本だ。

 そのやさしさ、暖かさに多くの人が共感し、社会に向けての動きとなっているものも少なくないが、今一つ国を動かす力となり得ていないのでは,と感じるのは私だけだろうか。
 どこか道筋がつながらない箇所があるのか。または,そういった願いへの求心力がまだ弱いのか。

 ともあれ、私が個人的に心を留めたエピソードが二つある。

 水谷氏が夜間高校に勤務して「12年間必ずやったこと」は、4月に教科担任を集めて、中間試験の問題を早く作って見せてくれと頼むことだったという。
 ツッパリや不登校の子どもたちに80点以上の点数をとらせるため、答えを覚えさせていくのに必要だったからだ。
 そのように作られた形であっても、自信や自己肯定感をつけるきっかけにはなる。
 この実態が示すように構造化してしまっている問題が、なぜもっと早く解決できないのか。今更のように強く感じる。

 鎌田氏は秋田県の農林関係の学校で、木や森好きの子どもたちの仕事がないことを悔しがった。
 ここには雇用、経済、そして政治という大きな問題が横たわるが、現実にそうした問題に正対していく発想が、やはりこの国にはないのかなと思わせる。
 いくら、キャリア教育が大きく叫ばれても、その果てにはビジネス的な要素の色だけが濃くなっていると思うのは、私だけではないだろう。
 多様な希望を叶える社会づくりが薄っぺらではどうしようもない。

 「だいじょうぶ」と身近な人に声をかけるのは簡単だ。
 いや、声をかけるだけなら簡単だ。
 その声に自信を込めて言えるかどうか。
 その自信の範囲をどこに定めて、口を開くか。

 考えれば考えるほど、声は遠ざかっていく。

 いやそうではなくて、言葉によって、声によって、力を引き戻すんだよ。

 「だいじょうぶ」と他者に声かけながら、その声によって自分を励ましているのだな、きっと…。
 この二人もそうじゃないだろうか。

収穫満載,往復550km

2012年08月26日 | 雑記帳
 4時過ぎに起床,5時5分に家を出る。
 早朝の道路はすいすいで,5時25分頃に横手から秋田道に入り北上へ向かう。

 ここで,妙に下り線(東北道から北上経由で秋田に入ってくる)の車が途切れずに通行していることに気づく。
 ゴールデンウィークの日中でなければ見られぬ風景である。8月下旬の早朝なのに…。

 ふと車のナンバーをとらえるとほとんどが関東以西,そして観光バスもいくつか…。 そうかあ行き先は大曲かあ,花火だ,もうこの時間帯から移動が始まっているわけだ。
 やはり今日は大イベントの一日である。

 そんな車の列を尻目に,東北道へ。
 午前6時台にここを走ることはめったにないが,この下り線の通行状況は本当に特徴的である。
 圧倒的にトラックが多い。7,8割というところだろうか。日本の流通の一端を見る思いがする。

 順調な流れで,小休止しても8時過ぎには大鰐弘前インターを降りることができた。 「道の駅」をちょっと覗いてと思ったら,ここの駅は9時開店だそうな…。
 8時半頃,会場の弘前第三大成小学校に到着。

 今回は参加人数は多くないが,野口塾中心メンバーの方々がいつもに増して多いような気がする。野口先生や方々にご挨拶をして,授業会場へ。

 担任の駒井さんによる朝の会に続いて,野口先生の授業である。
 「わすれられないおくりもの」という物語教材,位置づけとしては全文通読後に題名読みで,概観をとらえるといったところだろうか。
 漢字表記,学習用語,理由づけ,討論等々,様々な要素を盛り込んだいつもながらの自在な内容だった。

 「私ならば」と考えたは,先生のような「受け」に全く自信がないからなのだが,もっと教材(部分的でも)を声に出して読ませるだろうなということだ。
 廊下側の席にいた女の子は聡明だった。先生の問いかけの声の変化を感じて,答えを修正し,一番に指名されたのだった。
 声の力は大きい。黙読ではなく,実際に声に出して該当部分を読み直す大切さを考える。

 続いて,発問道場である。
 形式が変わっている。野口先生から衝撃の一言が…。
 「今までの形では発問力は向上しなかった」
 指導事項を明文化するこの形に換えて三度目だという。
 正直,自分の頭の堅さを感じてしまう講座だった。
 「発問力」とは何か,古くて新しい課題に思えてきた。

 お昼,食事後に並んでいる書籍を見ていたら,今月お招きした山中伸之さんが顔を見せる。午後から参加という。皆さん素晴らしい行動力だ。
 購入した本は,小学館,明治図書,さくら社各1冊ずつ,4998円也。なんというバランスの良さ(笑)。

 午後一番は,藤原友和さんのファシリテーション講座。
 ワールド・カフェという手法を使って,物語文についての交流を進める。
 初体験である。ここでも自らの堅さを感じる。
 一番肝心なことは「聴く」ことだと体感できたのは,何よりの収穫だ。著書を購入したので,読んでから再び考えてみたい。

 楽しみにしていた木村秋則さんの講座。
 あの著書『奇跡のリンゴ』に書かれたことには本当に圧倒された。そのご本人は,なるほどというエネルギーだった。
 私がとらえたキーワードは「見る」。
 常識というものにとらわれ,目が曇っている人のいかに多いことか。稲作何十年という人でも,育った稲の根を見るのが初めてだったという例は,どの仕事においても警鐘ととらえるべきではないか。
 講座終了後,ちゃっかりと一緒に写真を撮らせていただいた。家人に自慢できる。

 それにしても驚いたのは,藤原さんが講座をファシリテーション・グラフィック(そう言っていいのかな)のように記録していたこと。
 それは素晴らしいの一言。これができるようになるには「要約力」が必須だな…と,まず,旧型人間の発想をしてしまう。
 もちろんもう一つ大事なことがあるはず…そこまではわかる。

 最終は,野口先生による講座。
 話の根本は変わらないが,いつも何か新しい切り口を提示なさるその内容に,思わず背筋が伸びる。
 今回は特に「いじめ」を加害者教育,被害者教育という視点で語られたことに,はっとする思いがあった。

 きっかりと4時10分に終了。挨拶もそこそこに帰路へ。
 途中,二度凄い雨に見舞われたが,まずまず順調に我が家へ7時半頃に到着する。

 少し遅い夕食を家族ととりながら,BSで花火中継を見る。
 大会提供花火にあれこれ言っていたら,眠くなってきた。

明日からの通信を書くために

2012年08月25日 | 読書
 石川晋さんが前著に続いて「学級通信」の本を発刊することを知った頃,学校は夏休みに入り,各学級担任が面談や家庭訪問をしている時期だった。
 ある日,面談から職員室に戻った担任のひとりがこんなことを残念そうに語った。

 「保護者に『うちには通信が来ません』と言われ,ちょっとショックだった。」

 継続的に発行していた職員である。その親が全然見なかったのだとすれば,いくつか理由は考えられる。また,その事実を今まで連絡してこなかったことも結構問題が深い。

 ああ,いくら保護者と連携をとりたいと思っても,こういう状況じゃあなあ…がっくりくるよなあ,いくら学級通信を頑張って発行しても無力なのかなあ…そんな思いがふと頭をよぎった。

 盆過ぎ,夏休み後半になりネットで注文して届いたその本。

 『学級通信を出しつづけるための,10のコツと50のネタ』(石川晋 学事出版)

 いくつか,えっと思ったことがある。

 一つはB5版だったこと。まあ驚くほどのことではないだろうが,なんとなくA5版のイメージを持っていたので,ああそうなんだという感じをもった。
 ○○集とかワークシートに使われるので,職員室や教室で直に使われることを願ってのことだろう。
 中身を見ていけば,実物引用も豊富だし,スペース的に余裕のあるつくりが見やすさにつながっている。

 もう一つは,「★恥を忍んでお見せする…はじめて書いた学級通信第1号」である。
 その勇気ある?アイデアもさることながら,そこに記されている改善ポイントの中身に,ここでもああそうなのかと思ってしまった。

 「学校名が不完全」「見出しの書体をゴシックに」「見出しの表記が体言止めと述語体が混在」…と自らの通信を例にして,書かれてある改善内容が,「形式」を問題にしていることについて,肩すかしのような感じを持ちつつそれでいて妙に納得している自分がいた。

 つまりは「安定した仕組み」なのだ。

 「学級通信を出しつづける」ために必須なのは,確かに情熱であったり,ネタ集めであったりするが,それ以上にしっかりとした枠組みを作っておくことだと念押しされたような気がした。

 そして,この著書がフォローしようとしている幅は,「出しつづける」だけでなく確実に「見させる,読ませる」まである。

 たとえば,「コツ6 『保管』の仕組みを作ろう」である。
 ファイル利用するこのやり方は,そういえばかつての同僚もしていたように記憶している。こうした方法に気づき,しっかり位置づければ,保護者から「うちに通信が来ません」と言われるようなことはかなり少なくなるだろう。
 ちょっとした工夫で,今そんな言葉に嘆く場面を減らせることは,現場感覚としてかなり大事だ。

 先行実践にも目配りしながら,役立ち感十分なコツとネタが紹介されている好著だと思った。
 そして少し想像力を働かせれば,学級通信が担任と生徒の物語に重要な役割を果たしている様子が見えてくるようだった。


 さて,自分も学級通信には思い入れを持った一人だ。
 ネットワーク誌に「たのしい実践」として実践紹介したこともあった。それは当時作っていたサークル冊子の企画の抜粋でもあったことを思い出した。

 十数年経った今,ぺらぺらと見直せば,苦笑せざるをえない表現がたしかに多い。
 ただ「二番打者論」?や「自分をみてもらう」という芯は案外変わっていないのかな。
 そして,教務主任時代から書き出した「学校だより」の継続年数が「学級通信」のそれを越してしまったことに気づき,改めて驚いている。

鍛える力を設定する

2012年08月24日 | 読書
 最初に読んだのはもう10年以上前になるが,この本はとても印象深い。

 『子どもに伝えたい〈三つの力〉』(斎藤孝 NHKブックス)

 当時『声に出して読みたい日本語』は既にベストセラーになっていた。しかし私にとってはこちらの著書からのインパクトが強かった。

 副題に「生きる力を鍛える」と添えられている。
 当時教育現場を席捲していたと言ってもよい「生きる力」の中身が,ある程度自分にストンと落ちたということだ。
 その後,公的に「生きる力」の内容として提示された「豊かな心」「確かな学力」等々といったことより,ずっと明快だと今読み直してもそう思う。

 三つの力は,「コメント力(要約力・質問力)」「段取り力」「まねる盗む力」である。
 この「中間項的な設定」の仕方は実に絶妙だと思ったのである。
 それは具体的な指導事項の一つ一つと結びつけやすいし,抽象的なコンセプトの文脈でも十分通用する意味を持っている。

 読み直しながら考えてみると,今盛んに重要なキーワードとして登場してくる「言語活動」そして「対話」に,深く結び付いていることがわかる。
 この著書に書かれてあることが,そういう動きに直接影響を及ぼした点も大きいのではないかと思えてくるほどである。

 発刊当時の動向と絡めて「総合的な学習」との関連も大きな部分を占めているが,今「活用」と称されていることの共通点が非常に多いことも気づく。

 いわゆる「総合」は時数的な面も衰退し,その精神さえ何か姿が変わったように存在している状況にある。
 しかし,最終的に「生きる力」が具現化されるための学習に一番近い内容としての位置づけは変わらないはずだ。
 いわゆる全国に名高い研究実践校の多くが,今でも総合的な活動にこだわっていることも頷ける。


 さて,再読して新たに第五章,第六章に目を惹かれる。

 存在証明=アイデンティティの教育

 クリエイティブな関係・場を作る技


 「コメント力」「段取り力」「まねる盗む力」を授業として組み立てていく際に,どんな視点を持ち,具体的にどう構成していくかかが記されている。

 教師が生徒の思考すべてを管理するやり方でなく,教師がすべてを知りえない場を授業の中に作っていくことが,重要な工夫となる。

 そのためには,例えばこうしたことが必要になる。

 「テキスト探し」を生活の中で習慣化する

 場全体を貫くテーマを一つのキーワードで言い表す


 それらはまさしく,教師自身の「コメント力」や「段取り力」が試され,高められていく場になるだろう。
 授業づくりそのもので鍛えられるのは教師だなと,当然のことを思い出す。

どの段階でデザインするか

2012年08月23日 | 雑記帳
 今週初め,授業のユニバーサルデザイン研究会の会長をしている桂聖氏(筑波大学付属小)の講演会があったので,県教育センターへ出かけた。

 その名称について興味はあった。しかし関連の書籍はまだ読んでいなかった。申し込んでから日にちはあったが結局目を通せずに,事前準備全くなしで聴くことになった。

 講演そのものについては,導入や内容構成など若干物足りなさを感じたが,まずは初級者篇というイメージで,ある程度の知識を得ることができた。
 サイト上にあるコンセプトがよくまとまっていると,後から確かめてそう思う。
 http://hwm8.gyao.ne.jp/kokugouniversal/concept.html

 講演は「国語授業の…」と題された内容で,いわゆる「話すこと・聞くこと」と「読解」がその中心となった。
 手法としてことさらに目新しい指導法があったわけではないが,「焦点化」「視覚化」「共有化」という三つの視点で,いかに全員を「参加」「理解」に導くかが,模擬授業的な手法も取り入れられてわかりやすく説明され,参考になった。

 ユニバーサルデザインという考え方が,製品や政策の中で語られた延長上に,「授業」と結び付けられたのだろう。もちろんその考え方について異論はないし,当然求められるべきものだ。
 そもそも「全員参加」「全員達成」というキーワードこそ,かつて自分たちが始めたサークル活動の原点でもあったはずだし…。

 しかし,ここで勘違いしてならないのは,「誰にもやさしい,わかりやすい」ことが,授業の基本的な要件ではないということだ。

 バリアフリーが隅々まで行き届いていることは,目的を早く楽に達せられるわけだが,それによって何が養われるか,何が育つか,また逆に何か損なわれるものがないか,といったことに目を向けなければならない。
 つい先日のテレビで,わざと段差を作った養老施設が好評だと紹介されていた。それはある意味で象徴的なことのように思う。

 子ども対象の授業であればなおさらのことで,子どもからどう力を引き出し,学力として意識させ定着させるかが,基盤にあることを忘れてはいけない。

 このユニバーサルデザイン研究会の組織としては,それを「工夫」という用語で括り,多くの実践例や構造化を図っているのだと思う。その成果に期待したいし,今後も注視していきたい。

 「ユニバーサルデザイン」は様々な場で,様々なレベルで語ることのできる言葉だ。
 最終的に目指すべきが広い世界にあることは,きっと多くの人の共通の願いであろう。

 それを前提にすると,目の前にある学校教育の「授業」はどういう位置づけになるのか。

 学級や学校づくり,そしてその上の段階でのデザインのあり方こそ問われるのではないか…そんなふうに考えていくと,自分が揺さぶられる。

教育欲のある人の言葉

2012年08月22日 | 雑記帳
 「素直な心が一番の才能である」

 本県のプロバスケットボールチームのヘッドコーチである中村和雄氏の講演を聴いた。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%92%8C%E9%9B%84_(%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB)
 バスケに詳しい方なら知っているだろう。実にアグレッシブな印象がある指導者で,昨年本県に招かれ最初のテレビ放映があったときなどは,ゲームよりこのコーチの動きを映している時間が多かったのではなかったか,と思うほどである(あくまでも印象です)。

 どんな話をするか楽しみにしていたが,講演としてはやや散漫な内容,構成だった。しかし,所々に面白いエピソードがあり,思わず,エエエエッッとのけぞるような話題も…。

 20代の頃に長崎の女子高に赴任した中村氏の意識は,常にこうだったという。
 「練習したい,体育館に行きたい」

 教師として授業はするけれども,それ以外の校務分掌などは極力携わらない工夫(?)をしたという話には,笑わされ,ある面驚かされた。
 今の時代はそれを許さなくなってきているだろうが,まさに熱き競技スポーツ指導者の典型をみる思いである。

 教育の場から離れれば,ある意味フリーに自分の考えで推し進めていくことができそうに思う。しかしこの国全体の風潮はどこか常に学校的であり,中村氏の発想はやはり異色であろう。

 昨年の3.11が,本県へ帰るきっかけの一つだったという。
 先日,岩手沿岸部へ選手共々慰問し,それは断られるまで継続したいとも言った。
そして,続けてこんなことまで語ってしまう。

 「ぼくは打算的だから,慰問したら選手の心が強くなって,ゲームで3,4点は点数が上がるんじゃないかと思っている。」

 ここまで心情を吐露できるのは,やはりバスケットボールに対する愛情だろうか。
 最後の方で「サッカーをやっていりゃあ良かったなあ(注目度が高いという意味で)」などとリップサービスで聴衆を笑わせたが,もしかしたら,この人の本質は「教育熱」「教育欲」なのかもしれないと最後に思った。
 それが72歳の今も情熱あふれる姿でコートに立つ原動力に違いない。

 そして,そういう人の話には,いつも冒頭に掲げた言葉が語られることにも気づかされた。

信念と手法の練り合わせ

2012年08月21日 | 雑記帳
 もう一つ,ふりかえりを。
 10日の講座で行われた「トーク」の中で、お二人の講師にこんな質問をぶつけてみた。
 
 「国語の授業づくりで大事にしていることをお聞きしたいんですが、少し視点をかえて、『これだけは絶対にしない』ということはございますか?」

 佐藤康子先生が、最初にこんなことをおっしゃった。(私の記憶だが)

 「音読をさせていて、間違ったらすぐ次の子へ変えるというようなやり方はしません。間違ったら直して読ませるべきでしょ。」

 この発言をどうとらえていいものか、少し迷った。
 結果、マイクが私に返ったとき「音読指導の手法については、そのねらいや効果を見きわめて…」といったことで言葉を濁してしまった。
 時間のなかったことも言い訳になるが,ここで少し書き留めてはっきりさせておきたい。

 佐藤先生がご指摘になった場面の具体が明らかでない。
 どんなねらいをもった授業で,どんな指示があり,子どもがどのような反応を示したのか…まったく見えないままだが,様々に仮定すれば気づきも生まれるだろう。

 まず,指導者の音読指導についての考え方は知りたい。
 間違わず読む,引っかからずすらすら読む,発声や句読点に気をつけて読む,聞いている人に中身が伝わるように読む…様々な段階に応じたねらいを,どのような手法を用いて指導していくのか,ということである。

 たとえば「完璧読み」(読み間違わない)を目指して,その手法としてリレー読みやグループ読みを選択し,引っかかれば交代というルールのもとに行われていれば,佐藤先生の指摘されるような場面は予想できる。
 このときに,子どもたちの心が「完璧」という目的に向かっていて,緊張を支えているのであれば,その手法自体は有効ととらえてもいいだろう。

 しかし,そうでない場合,目標が浸透していなかったり,ある特定の子の負担が多かったりする状況であれば,その活動は形式的に流れ,音読そのものは指導効果が薄くなるだろう。
 学級によっては,徹底された学習規律を持っていなければ,ありがちな場面になるかもしれない。

 結局音読に限らず「手法」の意義や有効性を問題にするとき,私たちはいくつかの段階を踏まえる必要がある。

 少し堅苦しい表現だが,指導事項と目標の設定,その目標と学級経営との関連,目標と手段の整合性,学級集団と手法の適合性が考えられる。
 たいていの場合,指導者はこのような刷り合わせを文章化したりはしないが,例えば研究授業のような場合は徹底して行う必要がある。

 そういう繰返しを経て,教師個々の持つ信念と手法・技術が錬り合わされていく。

 また,講座での佐藤康子先生の熱のあふれる指導をみると,各々の教師が自分の性格やタイプを見きわめて手法を選択していくことの大切さが,ぐうんと浮かび上がってくる。