すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

なんて「めいさく」揃いなんだ

2015年09月30日 | 雑記帳
 赤十字が募集しているという献血推進の俳句に、数年続けて応募しているのだという。テーマは献血に限らず自由ということなので、学習発表会の掲示物にも使えるだろうからという計画もあって、ほとんどの学年で取り組んだようだ。学年か学級で3作品ほど秀作を選んでほしいと頼まれたので、目を通してみた。

 やはりというか高学年よりも低学年の句が圧倒的にいい。特に1年生の作品が面白い。連休中の宿題にしたようなので、もちろん家族の手伝い、助言もあろうが、そうした秀作になりそう?な句より、子どもの心がダイレクトに出ている「めいさく」に出会えるのが楽しい。偶然かはたまた突出した才能なのか。


 なつやすみ しるばーうぃーく ふゆやすみ (TK)

 これほどまでに休日を希求した句を私は知らない。



 ハタハタだ このきせつには ハタハタだ (AR)

 秋田県民納得の句。「だ」の言い方で表情が変わる句。



 ともだちと まいにちあへて うれしいな(AH)

 「あへて」に込められた思いの優雅さ。「おはようやす」と言うのかしら。



 献血というか健康関連、前向き思考の作品には勢いがあった。


 きみもなろう だれかのための ヒーローに(MT)

 体操のお兄さんか仮面ライダーが言いそうな感じだ。ヒーローは疲労に似ている。



 元気さえあれば 何でもできるはず(SK)

 アントニオ猪木選。体中に血が巡っているので献血OKである。


 そして、そうでもない普通の人は、こんなふうになるのだろうか。

 おとうさん けんけつしてから ビールのむ(SS)

目を逸らさず息を止めずに

2015年09月29日 | 読書
 【2015読了】93冊目 ★★★
 『物乞う仏陀』(石井光太  文春文庫)


 本を読むにつれ、我々がふだん子どもたちや家庭を語るときに「多様」などという言葉を使うことが、あまりに無意味、無力であることが思い知らされた。ここで語られている事実については、あまりにも無知だった。著者が訪れた国々の貧しさはある程度わかってはいたが、真相そして深層に驚きを隠せなかった。


 山岳地帯に住む少数民族の暮らしがテレビに映ることがある。貧しく辛くはあるがどこか牧歌的で精神的に満たされた部分も見える…などという受け止め方がいかに部分的いかに皮相的であるか、そんな連想もわいた。ここで語られたのは、人為的に「生産」された障害と、どうしようもない不幸の連鎖なのである。


 自分の知識は、地雷や枯葉剤などによる事故、または先天的障害といった程度であった。または国家として行き届いた体制を取れるだけの国力がない、組織的な支援が必要といった点で留まっていた。肝心なのは、そうした状況が連鎖する、波及することであり、断ち切れない民族の業、深い対立が横たわっていた。


 正直に言えば、文章に沿って想像力を駆使し映像化する通常の感覚にブレーキをかけた。それほど悲惨な実態が描かれている。ただ途中で止めようという気にはならず、その意味で惹き込まれる文章だった。それは著者がまさに体当たりで、慎重に足を運び、目を逸らさず、息を止めず、その場を描こうとしたからだ。


 最終章「インド」で語られるレンタチャイルドの実態はとてつもなく辛い。そして結論は、あまりにこの世界の暗さを訴えている。「告発し糾弾したくとも本当の意味での加害者がいない。見渡す限り、犠牲者しかおらず…」真実を知り「きかなければよかった」と洩らす著者。その地点からの発刊に大きな価値がある。

仕掛け、発明、頼みの綱

2015年09月28日 | 雑記帳
 9月25日に「工夫って何?」と問いかけて終わったので、ちょっと追究してみることにした。

 広辞苑にはこうある。

 くふう【工夫】①いろいろ考えて良い方法を得ようとすること。また、考えついた方法  ②精神の修養に心を用いること。

 一般的に①のことだが、②も捨てがたい意味だなあ。
 「いろいろ考える」ということはわかるが、今一つ「どういう状態」を言っているのか、ぴんとこない。
 例えば、「それに工夫はあるのか」と問われた時に、具体的に「ここが工夫だ」と言えるためには、どんな内容のものが対象になるのかということをはっきりさせたい。


 そこで、辞書をあれこれ操ってみると「和英中辞典」に見所がある。

 くふう【工夫】
  <仕掛け> a device <発明> an invention  <手段> resources



 ほおっ「仕掛け」「発明」という言い換えはなかなか使えるのではないか。

 仕掛けにもいろいろと意味はあるが、「装置・からくり」という面を強調してみたらどうだろう。つまり「こうしたら、こうなる(かわる)」という点の強調である。

 発明は、さらに「新しさ」「奇抜さ」が加わるか。「今まであまりないことだが、やってみたら効果があったこと」、そういうことを指す。

 手段はそのままなので少しひねってみよう。resourcesには「まさかの時の」手段、方策といった形容があるようだ。reは当然「再び」だし、sourceは「わき出る」ということを考えれば…いい意味が見つかった。
 「頼み(の綱)」つまり、それがあることによって上手くいく可能性が高くなるものだ。


 よって、工夫とは何?の結論として推奨するのは…


 工夫とは「仕掛け」である。

 工夫するとは、何か新しい「発明」をすることである。

 工夫があるとは、最後の「頼みの綱」を持っているということである。

偏愛と執着の人、語る

2015年09月27日 | 読書
 【2015読了】92冊目 ★★

 『小川洋子対話集』(幻冬舎文庫)

 時々(年に2,3回か)ラジオで小川洋子の読書紹介みたいな番組を聴くことがある。高音でソフトな印象のする声質が特徴的だ。文章の静謐さとはちょっとばかり違うが、その声のイメージでこの文庫を読んだ。対談相手は様々だけれど、作家とは、このように話す中で自らの小説の書き方の秘密を語るものだなと感じた。


 作家田辺聖子との対談にある一節。「結局、小説というのは、ストーリーとか役に立つ教えとか、論理じゃなくて、ほんとに些細な、小さなことの積み重ねで支えられているものだなというふうに思います。」まさに、小説という言葉の由縁を語っている。「大説」でない話に、どれだけ普遍性を持たせるかということだ。


 レベッカ・ブラウン、柴田元幸との鼎談ではこのように語っている。「私の場合は、小説のある場面が頭に浮かんできまして、それは非常に鮮やかなんです。」ストーリーが思い浮かぶのではなく、場所が初めに出てくるということを別の対談で語っている。場所の印象、一瞬の記憶を拡げていく才能に長けている作家だ。


 発刊された頃、名作『博士の愛した数式』がベストセラーになったので、対談のなかにも数学の話題が何度か出てきている。特に、詩人清水哲男との対談で「数学と現代詩」について語られた箇所は刺激的だった。「わからないところを光栄にする」共通性?は、人間がいかに知的存在であることを証明するような言葉だ。


 佐野元春、江夏豊とはマニアックに音楽、野球の話をする。五木寛之とは宗教論、人生論を語る。これらも興味深かったが、読んで一番笑えたのは翻訳家岸本佐知子の巻、稀代の妄想女王とのやり取りは、およそ社交的とは言えない二人の生々しさが妙に伝わってきた。似ている要素がある…偏愛と執着こそ資質だ。

「実感」「典型」そして「多様さ」

2015年09月26日 | 雑記帳
 家庭科の授業を考える場合のキーワードの一つに「実感」がある。実感を伴わせるためには、どんな方法があるか。もちろん題材によってそれはまちまちだ。しかし原則はあるだろう。まず「モノ」があり、準備する場合、これは直接的に訴えかける一番のものだ。それによって何か共通体験を得られれば出発点になる


 その準備ができない、何かで代替する場合はどのようにするか。これは「思い出させる」必要がある。「経験」に働きかけることだ。そのためには一定の質量を、子どもたちが頭の中に思い浮かべられることが必要だ。全ての児童に共通した経験があればいいが、そうとも限らない。少しリサーチが必要な点と言える。


 リサーチをもとに、ある程度の「典型」を作り、イメージさせておくことが一つの実感となるだろう。そして比較対象を登場させる。これは基本的に差異をどれだけ出して、どんなふうに絞り込むかだ。だからこそ、拡散型の発問指示と、集中型の発問指示を使い分けねばならない。基本は、拡散→集中となるだろう。


 「○分間で、できるだけたくさん見つけよう」から、「○○に当てはまる(この言い方のパターンは多様だが)ものはどれか」といった流れで組みたてられる。たとえば「掃除の工夫」を例にすると、後者の発問は「△△するための工夫と言えるのはどれか」と言った絞り込みが考えられる。十分に汎用的な発問だと思う。


 口任せに書いて反省する…さて、実生活に一番近い学習が「小学校の家庭科」である。材料に事欠かない。ただ、今その家庭生活を全て取り上げられるかと言えば、結構な配慮が要求される。生の材料を扱いにくい状況が広がりつつある。「家庭」が見せている貌の「多様さ」。個々を大切にする学びの困難さが見える。

家庭科のお勉強

2015年09月25日 | 雑記帳
 家庭科の校内授業研究会がある。指導主事を招いての研修である。しばらくぶりなはずで、どこの学校に勤務していた時だったか、「洗濯」が内容だったことだけは記憶にあるが…。担任をしていた頃にも残念ながら家庭科の研究授業はしていない。よってかなり貴重な機会だ。少しは事前準備をして臨みたいと思った。


 まずは学習指導要領。前との比較をすれば、何が重点になっているかわかるという予測のもとに、資料を開いてみた。「目標」では「家庭生活への関心を高める」「家庭生活を大切にする心情をはぐくみ」に変更になっている。家庭への帰属意識を高める方向へ一歩進んだか。いずれにしても「実践的な態度」である。


 以前の要領では8つの内容だったものが、中学校に倣って4つに項目化されている。「家庭生活と家族」「日常の食事と調理の基礎」「快適な衣服と住まい」「身近な消費生活と環境」。記載されている内容は前より若干細分化されている。変更点を拾ってみると「大切さが分かり」「~~に気付き」「工夫できる」が目立つ。


 内容の取扱いに関していくつか特徴的なことがある。一つは「道徳教育」との関連である。「目標」の変更に関わる文言からは当然予想される。次に「食」に関しての配慮である。これは「食育」という言葉がダイレクトに入っているし、無視できない現状だろう。ただ総合的な扱いや自己の課題実践の削除が気になる。


 取扱いの最後に「~様々な言葉を実感を伴って理解する学習活動」「~~方法を考えたり説明したりするなどの学習活動」の充実が記されている。これは「言語活動の工夫」をサブテーマに掲げた本校にとってずばりの命題である。授業中、どんな言葉が交わされ、それがどれほど実践意欲に結び付くか、検証はそこだ。


 県の重点リーフレットを見る。わずかなスペースに各教科の重点、課題、目指す姿がまとめられている。ざっと見て他教科との比較において「工夫」という言葉の頻度が突出している。ざっと600字程度の文章に7回出ている。紛れないキーワード、別資料には「工夫の過程」の記録シートがある…「工夫」って何?


小学生の悩みをビジネス処理?

2015年09月24日 | 雑記帳
 ビジネス誌に「小学生の悩みベスト10」という記事が載っていた。そもそものテーマが「悩み」なので、ちょっとしたお遊び程度だろうが、それはそれで興味深い。1位「なぜ勉強しなくてはいけないのか」2位「友達ができない」3位「死んだあとどうなるのか」…予想される範囲か。この悩みに経営者等が答えた。


 「良質な回答例」とされる文章が掲載されている。「勉強」に対して「よく考えて行動する練習だ」「取り組んだ経験が生きる力になる」等…大人なら分かるが、小学生はそれで納得するか。かといって「その問いが解決できるよう勉強する」も格好良すぎる。とりあえずその疑問を認め、つべこべ言わず勉強させるか。


 2位「友達」は「友達の定義を考えハードルを下げる」「独立独歩に考えを変える」「馬鹿になって雰囲気づくり」という3パターンが示され、これはなかなかだなと思う。実際に子どもたちから相談受けたとき使えるのではないか。少なくとも3パターンのどれが適用になるか、その子の性格を見て決めることができる。


 3位「死」…これは「考えるのはよくない」「考える暇を自分に与えない」「振り回されない」と三者とも同様の結論であり、そのために他の行動・思考にシフトするように言っている。一緒に想像してみようと少しつきあってやるくらいの余裕がほしい。みんなその悩みを抱えていることの実感が必要になってくる。


 4位「運動が苦手だ」5位「人前でうまく話せない」は、学童期では当然一定の子が抱えるだろう。深刻さには差がある。指導する立場としては悩み解消、軽減を目指したいが、その悩みが大きなバネになることも十分考えられる。悩みに応えることは、その観測も見通してより広い受け止め方でありたい気がする。

「品」の勝手な解釈

2015年09月23日 | 雑記帳
 昨日、坪田先生の読書メモにこんなことを書いた。「一読して感じるのは、品の良さであり、これは書く技能とまた違うということを感じた。仕事や生活に向き合う姿勢なのだ。」その夜、寝床でふと「品のよさ」って何だろうと考えを巡らせてみた。自分には間違いなく品がないと思うし、そこをたどればわかるのか。


 品とは外見だけではないが、やはり行動も含めて可視化されている部分で判断するしかない。自らを振り返り思い浮かぶのは、ぱっと目の前のものに飛びついてしまうことか。好奇心旺盛といえば聞こえはいい。しかし軽薄、単純のこと。品があるとはきちんと見定める印象があるし、そこに余裕という雰囲気が漂う。


 控え目、謙虚といった点も挙がるだろう。「おれが、おれが」の人に品の良さは感じないのが普通だ。従って、服装でも派手なものを着て品があると言われることは少ない。煌びやかであったとすればワンポイントとか、どこかに拘りを持っている場合であるはずだ。それはある意味で計算的な要素があるかもしれない。


 坪田先生の著書の中に一つ見慣れない言葉があった。「選択的注意」…小さな疑問も頭の中にとどめておき、興味を持ち続ければもっと深く知る機会にめぐり合える、というような意味である。それは個人の資質の範疇と思えるが、品の良さと根底で通ずる部分を感ずる。大事に何かの種を育てているイメージを持つ。


 そんなふうに考えると、品のよさとは、表面的な上品さとは少し違って、物事を自分に引き寄せる何かを抱えていることかなあ、と結論づけてしまいたい。「品」という漢字は物を表す口を三つ並べた会意文字。口は性質も表す。一番上に位置する口に、どんな個性を置くかで品が決まる、と勝手な解釈をしてみた。

『和顔愛語』が伝わる

2015年09月22日 | 読書
 【2015読了】91冊目 ★★★
 『和顔愛語』(坪田耕三  東洋館)


 坪田先生がご退官なさったときに、今までのエッセイなどをまとめられた本である。筑波の『教育研究』の巻頭言や『算数授業研究』それに子どもたちの文集への寄稿などが集められている。一読して感じるのは、品の良さであり、これは書く技能とまた違うということを感じた。仕事や生活に向き合う姿勢なのだ。


 以前目にした文章もあるが、目の付け所が探究的で実に惹かれる。結構、漢字ネタがあり、授業を拝見したときに始業前のひと時漢字の話などをしたことを思い出した。秀逸なのは「単位」を表す漢字の紹介があったこと。嵩(かさ)や重さの単位は、確かに関係がよくわかる構成になっていた。まさに目から鱗だった。


 教育観、指導観と呼ぶべき記述も多くあり、職場でも紹介しようと思った。ベスト1は「授業の技」という章で、最近の研究協議会について触れ、こう述べられている箇所だ。「教育の世界のことは表に表現されるものよりも、その内に積み重ねられた哲学の方が強いものである。」それを伝える大事さ、そして難しさ。


 2005年11月の巻頭エッセイに、我が町の盆踊りが取り上げられていることが嬉しい。十数年続けて毎夏見えられている証の一つになった気がする。「伝統」と題されたその文章は「生き残ってきた伝統」「しみじみとした古き日本の魂」と賞賛されている。一流の人の目に留まる価値が、身近にあることを再認識した。


 坪田先生を招いた会は、始まった頃から何年か続けて参加した。確か初回だった。現在の勤務校の体育館で講演が行われ、ある問いを出されたときがある。多くの聴衆の中で挙手したのが自分一人だったことが妙に印象に残っている。あの頃は頭が柔らかかった。今、この本にある問題にはお手上げだった。悔しい。

土俵の上にも時は流れた

2015年09月21日 | 雑記帳
 町の相撲大会が終わった。今年は昨年よりも希望者が少なかったが、頑張りを見せてくれた。全身でぶつかりあうという機会の少ない子どもたち。最初にゴツッと音が聞こえた時は拍手を送りたくなる。祭典奉納相撲でもあるこの大会は34回目を数えたという。いろいろな思い出が詰まっている。紐解いてみよう。


 採用になり2校目。受け持ったのは実に印象深い学級だった。その子たちが相撲大会に出たいと言ってきた。結構な規模の学校だったが職員は消極的だった。課外活動に対しての批判する空気が強かった。では自分だけでやりますと生意気に言い放ち、練習を始めた。もっとも子どもたちの希望の動機は賞品だったが…。


 大人しく目立たないが腕力の強い子がいて、勝ち進み個人戦で優勝できた。実にうれしかった。今だから書けるが、学習はもちろん生活上も非常に問題の多い学年、対外行事には何一つ勝てない有様であり、何かで自信をつけたかったという思いが、少しは報われた気がした。今考えると実に恥ずかしいほど単純だ。


 地元の学校へ務めた時は担任を外れてしまったが、年下の男性教師が揃い、大会に向けて万全の態勢が出来ていた。相撲というと恥ずかしがる男児もいて、半分脅しのような形で出場させていたことも懐かしい。前日の宵宮では、拙宅に集まり酒宴をするのが恒例になっていて、酔いの残るままの監督も結構いたなあ。


 その頃(20年近く前)、ある女児が出たいと希望したが、主催者より断られた記憶がある。時が流れ、現在では半数は女児になっている。団体も女児がいないと組めない状態だ。取組そのものも特徴があって面白い。どちらかといえば男より重々しい感じもするときがある。やはり強くなったのは…。内館さんの功績大?