すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

月末,落ち着かなくさえずる

2014年04月30日 | 雑記帳
 このひと月は「落ち着かない」という一言に尽きるような気がする。異動があったので当然と思いながら,地元であり以前も勤務した職場であるので,もう少しスムーズに動けるかと予想していた。しかしちょっと停滞した感が強い。他に迷惑をかけるほどではなかったと信じたいが,それでも自己評価は30点程度だ。



 継続してきた朝の挨拶は,ここでも続けている。ただ人数が増えた分,きつく感じることがある。一人一人と声をかわすのは物理的に無理だが,それならばと思い,全員と目を合わすという行為を課してみると,かなりの集中度で行える。しかし,その行為が余裕なく映ってはいまいか,と少し心配になる。



 ここでも学校報を書かせてもらうことになった。現任校で教務主任時代から書き始め,なんと19年目だ。内容はともかくこの継続年数はめったにないのかもしれない。週1回を基本ペースにすると年間50号。このあたりが程よいと思う。レイアウトや読みやすさには気を配っているが,当然それだけでは駄目だ。



 子供達への話にしろ,保護者への挨拶にしろ,広報や対外的な発言にしろ,そして職員への言葉かけも含めて,口当たりのよさだけでなく,一貫性のある姿勢で臨む大事さを改めて思う。キャリアが長い自分が見分けねばならないのは,根本にかかわることとそうでないことの区別であり,時間のかけ方と効果の相関だ。



 月末の今日,ある集まりで某新聞の記者から取材をうけた。公的な会なので個人的見解を極力避けることがつらかった。それにしても説明の後,細かく訊ねられたりすると,そこから思考が働き,考えがまとまるものだと改めて感じる。もっと話す機会が必要なのだ。意識的につくっていかないと萎んでしまう一方だ。

決意を持って差し伸べる手

2014年04月29日 | 読書
 「2014読了」46冊目 ★★★

 『自分を愛する力』(乙武洋匡 講談社現代新書)
 

 この本のテーマである「自己肯定感」や,自己有用感,自己有能感といった類いの言葉が頻繁に使われるようになったのは,いつからだろうか。
 文科省の正式文書にもある。きっと心理学用語として以前からあったけれど,普及したのはそれらに使われ出してからかな,と予想してみた。


 では,以前の子どもたちはそんなに肯定感や有用感があったものなのか。
 いい意味での上昇志向を持つ子が多かったと思うし,その意味では自分の可能性を信じる面は,今よりは強かったのかもしれない。
 しかし,そんなに自分の内面を見つめていたものなのか。
 結局は見た目や評判の世界で生きていこうとしただけではないか,などということも頭に浮かぶ。


 乙武さんの著書はいくつか読んでいるし,この新書に書かれているエピソードも他で読んでいるものもあった。
 それを「自己肯定感」という視点でまとめ直した本と言っていいようだ。
 しかしまあ,乙武さんの本はいつもその結論に達してしまうのだが…。

 これは,乙武さんという個性的な存在のアピールが強烈だから,そうなってしまうのだろう。

 つまり,他者から見える圧倒的なハンディと,それを全然感じさせない明朗快活な積極性。
 そのギャップが関わる者に一種の驚きを与えるからだろう。

 その驚きから発する「なぜ」という疑問。
 それに対する解の象徴?としてよく登場するのが,乙武さんを初めて見たときの母親の一言「かわいい」である。
 全てが,そこからスタートすることに異論はないだろう。

 存在をまるごと受けとめる,こうした格好のいい言葉はよく使われるけれど,それは理性としてあっても感情としては難しい。
 乙武さんの両親であっても,この間を何度行き来したろうと思う。
 それは表面的に表れないにしても,深い心底で渦巻いているのではないか。

 癌で亡くなった父親が「自分をうらんでいるのではないか」と語ったエピソードは,その痛みをずっと抱えてきた長い時間を物語る。


 多くの成功体験を積めば自己肯定感が育つという論は,むろん賛成ではあるが,単純な思考と推奨には与しない。
 成功体験を与えることは大事だけれど,慎重さも必要だ。

 つまり,その子の抱える現実と可能性をよく見つめたうえで,決意を持って差し伸べる手である。

 それは,乙武さんが慕う小学校恩師がしたような厳しさと表裏一体であることを,理解しておきたい。

凡児の凡事徹底

2014年04月28日 | 雑記帳
 【凡事徹底】(ぼんじてってい)

 なんでもないような当たり前のことを徹底的に行うこと、または、当たり前のことを極めて他人の追随を許さないことなどを意味する四字熟語。(実用日本語表現辞典)



 前半の意味で使いますか。
 「または」以降の意味で使いますか。

 後半を求めたいなどと思ったら、前半はできないだろうな、と考える。
 そして、その言葉が身についている人は、後半の意味を持つ存在なのだろうな、とも。

 この言葉の象徴的存在であるようなかのイエローハット創業者鍵山秀三郎氏が、掃除を続けることを人に揶揄されながら、それでもなお続けたエピソードは知っている人も多いだろう。

 氏の次のような言葉がある。

 「ざるで水をすくっても、必ず二滴か三滴はたまる。それを繰り返しているうちに、バケツにいっぱいになり、たらいにいっぱいになる」

 自分の毎日の仕事を「ざるで水をすくう」と思うのはつらいことだ。
 また、そう決めつけても良くない。
 自分にその単調な作業を繰り返すだけの根気がないことを知りつつ、どうにか水を貯めていきたいと…私が考えそうなことは

 速く水をすくってみよう

 ざるの目を細かくしてみよう

 複数のざるを組み合わせてみよう



 浅知恵か。

 「凡児」徹底だ。

桜と寿司と警戒心

2014年04月27日 | 雑記帳
 今年も年明けは豪雪と言われたが,三月下旬から天候がよく一気に雪解けが進んだ。
 そして桜の開花も例年並みになったようだ。
 去年は全体的にその咲きぶりは良くなかったようだが,今年は期待が持てそうだ。

 花粉もいくぶんおさまった気がするので,この春は積極的に花を愛でてみたい。

 と,最初に足を運んだのは北上展勝地。
 一度は行ってみたいと思っていたところだ。

 晴れわたった天気に遠景の山々が映え,新緑の樹木とのコントラストもいい。
 多くの人が訪れたくなる場所だ。
 シャッターも多くきった。

 久々,なんと半年ぶりに写真ブログ「すぷりんぐ+フォト」にアップした。


 「ことしのさくら」と題してみた。いくら続けられるだろうか。
 せめて,五ヶ所は撮りたいと目標宣言しておこう。

 さて,帰路に昼食をとろうと回転すしに寄ってみた。
 地元ではけして行くことのない(笑)チェーン店「K寿司」である。

 ははあこれがと,初めは感心しながら例の特急レーンを見たりするが,なんだか空しくなってくる。
 どこか「食べさせられている」印象が強くなってくる。
 ディスプレイ操作をしながら注文するのは別にこの分野だけではないが,寿司っていうのは違う気がする。

 バックヤードで調理する人がいるのは当然である。しかし,どこかで作り手が顔を見せていてほしい…そんなふうに感じるのは,もはや古いのだろうか。

 別に,目の前に小野次郎がいなくとも,コースが3万円以上でなくともいい。(もちろんそういう世界に身を置くことはないと知りつつこんな 表現することを,どこかで嗤う)

 口に入れるものに対して,直接性,身体性が失われていくことに対して,もっと警戒してもいい気がする。

 これは何かを観るということにも通ずるとも思う。

「間抜け」の正体

2014年04月26日 | 読書
 「2014読了」45冊目 ★★

 『間抜けの構造』(ビートたけし  新潮新書)


 ビートたけしが「間抜け」と口にしたとき、その範囲はおそろしく広いだろう。

 軍団や若い芸人について語る場合の表面的?な言葉と、世界に輝く北野武監督が語る言葉では、意味はつながっていてもその深さにかなり隔たりがあるのではないか…。

 まあ、そんな期待をもって、この本を読んだが、その語り口は多くがビートたけしであったなあ。ただ、裏(表?)は北野武の部分がきっちりと出ていて、特に「映画の間」についてはさすがと思わされた。

 「間」という言葉の意味はずいぶんと広い。
 「間抜け」に通ずるのは、おそらく「ほどよいころあい」「その場の様子」といったところが中心になろうが、空間的、時間的という本来の間ともつながっているので、考え始めるとより分からなくなる。

 読み進んでいて、自分なりにイメージが湧いてきたのは、「鳥の目・虫の目」ということだ。マクロ視点、ミクロ視点の自在さが「間」ということではなかろうか。

 どういう行動を「間抜け」と称するかは、語る人の価値観にもよる。

 しかし大抵の場合、物事の大枠をとらえていない人は失敗を犯す。
 また、細かい部分に目が行き届かず、ずっこけてしまう人もいる。

 どちらも兼ね備えている人もいるだろうし、偏っている人もいる。どちらも身につけられず途方に暮れている人もいるだろう。
 「間」による人物評価は、そこを表しているに違いない。


 しかしその尺度も、どの高みで語るかで変わってくる。
 語りにくい深遠な?ことばなのかもしれない。

 ある雑誌を読んでいたら、かの太宰治が川端康成を批判した言葉が載っていた。

 「あなたは、作家というものは『間抜け』の中で生きているものだということを、もっとはっきり意識してかからなければならない。」

 作家が「間抜け」の中を生きる存在ならば、それは「人間」から「間」を抜いて「人」であろうと喘ぐからそうなるのだろうか、と言葉を弄んでみた。

「指導」の確かな基本

2014年04月25日 | 読書
 『教師におくる「指導」のいろいろ』(家本芳郎  高文研)


 もう一つ、「ほめる」は書きとめておきたい。

 ほめることが難しくなったか…その判断ははっきりくだせないが、難しさについて書かれた文章には納得がいった。
 家本先生は、「ほめるに価するようなことをしないから」という理由の他に、次の五つを挙げている。

 ・教師が学校の規則という尺度で子どもをみている
 ・教師自身が「いい子」で育ってきている
 ・子どもがすぐ得意になる
 ・ほめてばかりいると、ほめないとやらなくなる
 ・ほめても効果がない。かえってシラける。

 こうした分析から「ほめ方のセオリー」を導きだしている。

 昨日宿題を忘れた子が、きょう半分やってきたときを例に、次のような言葉でほめるそうだ。

 「半分やってきたか。よし、よくやった。たいへんだったろう。では、こんどは三分の二以上やってこい。辞書をひいて調べるんだぞ。できるな」


 この言葉は以下のようなセオリーを充たしているという。

 ・一人の子どものものさしでほめている
 ・ほめながら、ちょっと高い目標を示している
 ・目標にせまるために何をすればいいか教えている
 ・子どもの努力に共感している

 短いほめ言葉のなかにもきっちりと要素を盛り込むことは、意識的な訓練が必要だと思うが、こうした実務的な研修もあっていいかもしれない。

 子どもの緩い実情ばかり気にして「ほめる」ことに消極的になってはいけない。


 では、何もないときはどうするのか…それに対しても、家本先生はそうじの実例(終わりましたと報告にきた子が、実はきちんとやっていない場合)を示して、こう結論づける。

 ほめることがなければ、ほめることをさせて、ほめてやる


 「指導」の確かな基本がここにあるような気がする。

指導を学ぶ者が目指すこと

2014年04月24日 | 読書
 『教師におくる「指導」のいろいろ』(家本芳郎  高文研)

 指導言の代表は「発問」だとは思いながら、量的には「指示」を考える頻度が高かったように思う。
 授業とはある面で指示の連続で成り立っているとも言えるから当然かもしれない。

 その意味で家本先生のいう「経済性のある表現形式」を志向することは頷ける。
 小学校学級担任であれば、言うまでもないことだ。
 ただ、そのための学級集団づくりは欠かせない。
 つまりはこういう結論になる。

 授業の指示は、簡潔明快な経済的な表現によらねばならないが、その裏に授業スタイルをつくりだす細かな指導を必要とするのである。


 この著の例であれば「話し合って」という教師の一言で、班の動きや課題確認、そして話し合いまでが流れるところまで仕上げたい。

 こういった学級担任との阿吽の呼吸ともいうべき関係づくりが、指示を極限まで減らすだろうし、それは教師の力量を測るものさしの一つでもあった。

 しかし、例えば授業のユニバーサルデザイン化といった言葉に象徴されるような学級実態の中では、より緻密な言葉の選択が求められるし、表現の幅広さも追求しなくてはいけない。

 一方では形式的な約束事の徹底、もう一方では豊かな表現力の駆使、そういった二面性の使い分けが「指示」に求められている。


 そのほか「過程を見せて引き上げる」「失敗談を語る」等々、今の状況にあってもいわば「まねしたい」ことが豊富にある著である。
 ただ、「「まねる」ということ」と項目が一つ起こされていることから、学ぶべきことは多い。
 家本先生自身が批判をうけたことばとして紹介されている、次の言葉は今も噛みしめてみたい。

 他人の成功した実践例を聞くと、さっそくまねしてやってみたくなるが、そのときの状況やその人の実践体系から切りはなして、たんなる手としてうけとってしまうと、自分の実践のなかで有効であるとは限らない。


 ここにもしっかりと自分を凝視する姿勢の必要性が語られている。

 「指導を学ぶ」というダイレクトな言い方はしなくなったが、私たちの仕事は、その補給で成り立っている。
 そして「指導を学ぶ」者として、忘れてはならない言葉がこう記されていた。

 指導とは、自分をこえるものをつくりだすことなのである。

「得」をなぜ説くか,の時代

2014年04月23日 | 読書

 「2014読了」44冊目 ★★★

 『教師におくる「指導」のいろいろ』(家本芳郎  高文研)


 先週に読み切った本と同じく、80年代後半の著書である。


 この本が出た頃、自分にとっては一番指導技術へ傾倒していた時期だと思う。
 その頃読んだらどうだったのか、にわかに想像はできないが、今の自分には納得のいく本だった。
 むろん、もはや時代が違うので、感覚的なずれはあるのだが、それ以上に「指導」の本質を考えさせてくれた。

 中心となる第一章「「指導」のいろいろ」の冒頭にこう書かれてある。

 教師の教育的力量は、指導の力・管理の力・人格の力の複合体である。


 そのうえで、こんなふうに項目をまとめる。

 こうしたなかで、いま強く求められているのは、指導の力である。


 この本出版の意義はまさしくそこにあるだろうし、「指導が入らなくなった」という認識は30年前も今も同じで、より深刻になっているとも思える。
 家本先生が、この章で提示している「いろいろ」には次の18項目がある。

 説得する  共感する  受容する
 教示する  指示する  率先する
 模範を示す 助言する  励ます
 ほめる   話しあう  フィードバック
 対応    リハーサル つきはなし
 挑発    アジテイション 人間味をだす


 この順序には注目させられる。

 指導言の主といってもいい「教示」「指示」「助言」の前に、「説得・共感・受容」があること。

 はじめに対象となる子どもありきという姿勢が徹底していると言っていいだろう。
 家本先生はこう書く。

 説得は指導の基本形
 説得は合意の形成



 その技術をみがくには、一つ一つの丁寧さが必要になってくるし、共感や受容なしでは成功しないことは当然であり、結構ハードルが高いとも言える。

 この時代であれば、「師弟の志を同じに」することが説得の目的であった。
 今もその部分はなくなっていないにしろ、かなり対象が多様になっていて一言では語れない。

 いずれにしろ「身に付く・よくわかる」という意味での「得」を「どう説くか」だけでなく、「なぜ説くか」という時代に入っていることは確かである。

 説得一つでもこれだけ考えさせられる。
 この本と時代の流れの照応は、いろいろな思いを生んでいる。
 もう少し読み込んでみたい。

140年前の姿に今を重ねる

2014年04月22日 | 雑記帳
 開校記念日が近いので学校報に書くネタが欲しいと思い「百周年記念誌」を開いた。年表には「明治七年(一八七四)四月廿五日 前郷村西馬音内小学校と称し宝泉寺に創立、教員三名」と記述されている。今年で140年が経過したことだ。学制発布からわずか2年、早い開校だ。読みだすと興味深い記述が満載だ。


 驚いたのは「生徒不在で開校した」ということだ。学制の実施はまったなしで、県でも案をまとめて文部省へ提出、伺いを立ててから許可を得たようだ。従って開校時には儀式や祝宴等もなかったと記されている。上からのお達し、時代の要請に応えるために教場は決めたものの、途方にくれた出発だったようである。



 生徒募集がかけられ101名の生徒の申し込みがあった。しかし、その対象となる学区範囲は、おそろしく広い。現在の町全部と2隣市の一部を含むもので、今現在の小学校数を数えると8校分が該当している。距離にすればゆうに半径10kmどころか、20kmを超す箇所もあるようだ。おそらく全国各地もそうだったか。



 通学の不便は当然のこと、「子供は十歳ぐらいから労働させられていた」という状況を考えれば、実際の就学数が14人と記録されている点も肯ける。おそらくは地元名士の子ばかりであり、教育制度が地域に溶け込んでいくには、あまり過酷だったと言わざるを得ない。就学年齢や学科が定まるには時間が必要だった。



 その頃の様子を想像するには知識不足だ。じっくりと読み進めてみたい。皮肉なことは、学区の広さを制限するために次々と地区ごとの開校を決めていった歴史は、今まさに逆の様相を見せ始めている。広い学区に少ない子ども…表面上の共通点に大きな歴史の波を感ずる。いずれその少数が背負う世の中になるのだ。

お叱りと慰めの400円

2014年04月21日 | 雑記帳
 いわゆる大衆誌の中では最もポピュラーだろう週刊誌「週刊B」を数年ぶりに買い求めた。

 ちょっと気になる記事があったので,休日に目を通したいと思った。
 いわゆる「母親教師の入学式欠席問題」である。

 しかし買ってみて,めくってみたら,つい別の記事の方に目がいって…小保方さんの問題というのはこんなふうになっているんだとか,「オボフ」(小保方フリークの略)という言葉があることを知ったり…,伊集院静の相談コーナーに42歳の女性教師が給食指導のことを尋ねていて,なんとトンチンカンだなあと思ったり…まあ,ネットサーフィンと同じ状態になってしまい…

 件の入学式問題の記事にたどりつくまで結構時間がかかり,読み飽きてしまったというような顛末である。

 実際,「尾木ママ」が批判した内容は,週刊誌サイズでは伝わりにくいし,教育現場の特殊性(それは校種や地域でまた細かく違いがある)は単純ではない。
 そんなレベルで情報をみようとした自分に反省である。

 ともあれ,久々に週刊誌をめくって読んでみると,結構いい執筆陣だなとは思いながら,結局「お叱り」と「慰め」の繰り返しに過ぎないな感じた。

 読み続けていればそれなりの同化が始まるだろうから,おそらく購読者の多数である都会のサラリーマンは,お叱りと慰めで時間を費やすことになる。

 それは職場と家庭という現実社会でも繰り返されていることで,きっとその質の違いに心が多少動かされ,買い求め続けている。

 定価400円は高いか,安いか。