すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「だから」にも訳がある

2011年01月31日 | 雑記帳
 「『だから…なに?』って友達によく訊かれるんだよね」
と、いつだったか函館の大学に行っている娘がこぼしていた。

 一瞬なんだろうと思ったが、もしかしたらと思い当たることがあって、話すとやはりその通り。

 我が家で話すときに、家族そろってとても頻度の多い言葉遣いがある。

 「んだがらあ」

 例えば、こんなふうなやりとりになる。

 「今日の雪、ひどかったなあ」
 「んだがらあ」
 「全然、前が見えなくなって、車運転してでも進まれなくて…」
 「んだがらあ」

 展開によっては、次のように続くこともある。
 「前の車のテールランプを頼りに進むしかなくてしゃあ」
 「んだがらあよう、前に車いない時はちょっと待って、後ろの車越させたりしてなあ」

 「んだがら」は、「んだ」+「から」という形ということだ。
 「んだ」は「そうだ」「その通り」という秋田方言としてエース級ののことばである。それに原因・理由を表す「から」をつけたことになる。
 そうすれば、「それだがら」という所が妥当な訳だが、我が家では(いや、そういう家も人も結構多いと思う)では、「そうだね」という同意のニュアンスが強いように思う。
 もっと言うと「んだから、大変だったね」「んだから、本当によかったね」などの省略とみることもできるだろう。

 家族皆心優しい(笑)ので、「んだがら」が連発されるときもあり、ある時そのことを笑いあって話したこともある。
 娘にしてみればそんな調子で、少し方言色を消して「だからあ」などと口を合わせていたとすれば、「だから…何?」と突っ込まれるのは当然なのかもしれない。

 それでも大事にしたい言葉だな、と改めて思ったのは、野中先生のブログにこんなことが書かれていたから…。

 通ずるものを感じた。

 「んだがらあ」

雪ネタを探して

2011年01月28日 | 教育ノート
 これだけ雪が降ると、そのことを話題にするのもおっくうですし、気持ちとしては早くこの季節が過ぎてしまわないかと思ったりします。しかしちょっと発想を変えて(というより本来そうあるべきなのですが)、「雪」が教材にならないかどうかという視点も持ってみましょう。

 なんてことを、先週発行した校内報に書いた。
 合わせて「北海道雪プロジェクト」や本町の積雪状況を記録しているサイトなどの紹介もした。

 そして数日、このことは頭の中にあったのだが、さて自分が集会で何か話す段になると、またまた考えてしまい、「節分ネタ」でもいいか、やっぱり学習のこともしゃべりたいな、などと散漫になってしまった。

 本腰を入れて悩んだ?末に、今回のネタにしようと思っているのは、「雪」のつく漢字。「○雪」なら結構あるのではないか、とひらめいた。

 その昔、岩手出身?の新沼謙治が「津軽恋女」という歌を唄った。なかなか良い歌詞でしたな。
 調べると、九仁京介という人が書いている。さびの部分である。

 降り積もる雪雪雪また雪よ
 津軽には七つの雪が降るとか
 こな雪つぶ雪わた雪ざらめ雪
 みず雪かた雪春待つ氷雪

 
 もちろん、全て漢字で書ける。ちなみにざらめ雪は「粗目雪」と書く。しかしこれはひらがなの方が感じが出るだろう。

 さて広辞苑、類語辞典などをめくってみると、確かに多い。ざっと30以上はある。といっても私ぐらいの齢だと一度はどこかで見かけたような、聞いたような気もしないではない。
 わずかに、これは初めてだなあと思ったのが「斑雪」。

 「まだらゆき」「はだらゆき」とも読むが、「はだれゆき」という言い方がなかなか心地よい。

 はらはらと降り、うっすらとまだらに積もるような雪のことらしい。
 ああ、これだと情緒があるなあ。

 しかし、まず子どもたちに話すとしたら現実から…つまりは、「大雪」そして「豪雪」ですか。

 斑雪まではまだ時間がかかるだろうなあ。

ヨンパチを懐かしむ

2011年01月27日 | 雑記帳
 降り続いていた雪のせいで、会話もまさに「雪一色」である。

 連日繰り広げられるそんな話題のなかに「ヨンパチ」という言葉が出始めたのは、先週の半ば頃だったろうか。
 さすがに半月も晴れ間を見ていないと不安が募ったと思う。

 ヨンパチ… ヨンパチゴウセツ… 48豪雪… 昭和48年から49年にかけての冬のことである。

 なんとWikipediaに載っている。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%85%AB%E8%B1%AA%E9%9B%AA

 私の住む地域で最大の積雪量を記録した冬。
 
 その年、受験生だった自分は、もう二月早々に登校しなくてもよかったので、直接的な被害の記憶はあまりない。
 しかし思い出を語る人の口からは、様々なエピソードが紡ぎだされる。

 バスも何も動かず、歩いて通学した…
 電線をまたいで渡ったものだ…
 二階の窓から出入りした…

 その前年通っていた電車が廃止になり、バス通学になったのだがわずか10キロ進むのに4時間もかかるような日があったことは確かだ。
 ただそんな酷い思い出以上に、高校生活最後の日(卒業式ではなく、明日からもう自宅学習してよいと言われた日)に、夜遅くまで遊び呆けた記憶の方がずっと強く残っている。奥羽本線に乗って少し遠くの駅まで出かけ、初めて訪問する友の家で遅くまで駄弁りながら泊まった、楽しく愉快な時間である。
 
 あの頃は、雪なんて怖いと思ったことはなかったなあ。

 守られていてばかりの暮らしに果たすべきことも達すべき場所も見えなかったからか。

 そして今…それにしても降り続いた。
 どうしようもなく狭くなった路地。
 改めて、空き家が目立つことや老人世帯なんだろうなあと思わされることのなんと多いことか。

 連日の事故報道、危険を感じるほどの周囲の状況、運転への気遣いの多さ…そんな中でも人は暮らしていける、と自分を元気づけるが、すこし怯えがあることも確かだ。
 重くなった心と身体を感じるのは、雪のせいだけではないかもしれない。

 ヨンパチが懐かしく思えてくる。
 怖さを知らない頃の幸せほど眩しいものはない。

懐かしい青い空

2011年01月25日 | 雑記帳
 青い空を見て「いいなあ」なんて思ったのは久しぶりだ。

 スキー教室の引率で、子どもたちの滑る姿を撮る合間に、思わずシャッターを押してしまった。
  ↓
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-ec08.html
 こちらのサイトもずいぶん御無沙汰だが、それだけ印象に残る風景がこれまでなかったということか。

 さて、穏やかな正月を過ごした後に降り続いた雪。
 あれは6日だった。
 出張で秋田市へ高速道路で向かう朝は吹雪。路面は凍結。
 厳しい一日だなあと思ったが、そこから荒れた天気がおさまることもなく、本当によく降り続いたと思う。二十日間である。
 一時の小康状態はあったにしろ、まさに小康。

 幹線道路でも路面がしっかり見えたのは、私には今日の午後が三週間ぶりということになる。
 その運転のストレスのなさよ。もちろん時間が経てば凍ってアイスバーンということになるかもしれないが…。

 この期間、人々の会話や報道の様子を見て、いろいろと考えさせられたこともある。
 それを思いつくままに書き起こしてみることも大切だなと思う。雪国に暮らすことの意味も掘りおこしてもよくないか。

 しかしそれは後日にしておいて、なんとも有り難く懐かしいと思った今日の青空である。

場や副音声や田舎住まいや

2011年01月24日 | 読書
 『話の後始末』(立川志の輔・天野祐吉 マドラ出版)

 中古書店で手に入れた2001年刊の本であるが、とても面白かった。
 志の輔の落語があって、その後二人のトークという形式。「大人の学校」とか「江戸大学」などと記されている章もあって、そうした催しの書籍化ということだろう。

 志の輔は富山出身、天野も厳密にいうと江戸ではないらしいが、双方とも何か江戸っ子気質で世相を斬りまくっている感じがして、読んでいて気持ちがいいし、また妙に納得させられることも多い。

 本とかラジオとかテレビというのは、場を犠牲にする代わりに、広く同じように行き渡せる(天野)

 東大出というのは、一人でいるととても頭がいいんだけれど、集まると馬鹿になる(志の輔)


 床屋で文字の読める人が新聞を客に読んでやる時代、置き薬屋が家に来て様々な情報を知らせる時代…そうした時を経て、どんどんコミュニケーションの場は少なくなっていた。
 そして同時に「自分で考える」という習慣が失われ、誰かにどこかへ誘導されている現実になかなか気づきにくい。

 本当に考えや思いをぶつけ合える「場」ということを考えてしまう。
 ネットにその可能性がないわけではないが、伝え合える情報量の「少なさ」は対面しているときの比ではないし、やはりその自覚が大事だと思う。
 意識的に残す、作る姿勢を崩してはいけない。

 この本でもう一つ納得したのは、メディア的な比喩だが「副音声」ということ。
 こうした音声切り替え的な発想は、今の閉塞感を打ち破るヒントになるのではないか。
 では今、具体的に自分がしていること…うーん少しはあるかな。


 さて、雑な感想以上にこの本を読んで強く思ったこと。志の輔の生の落語をもう一度見たいなあ。
 田舎住まいを悔しく感ずるのはこんなときである。

僕のなかのニガイ大根の部分

2011年01月23日 | 読書
 『僕のなかの壊れていない部分』(白石一文 光文社)

 初めて読む作家である。
 確か何か賞をもらっているはずと、調べたら直木賞だったが、結構この本は難解だなあと感じた。
 奥田英朗など非常にエンターテイメント的な作家も受賞しているし、直木賞って幅が広いんだなということを初めて思う。
 
 この主人公は理解しがたい男だった。親しくしている若者男女二人の心も、どうもつかみきれない部分が結構ある。
 心情に寄り添える登場人物は、主人公から批判、非難される側の人たちばかりで、その意味では居心地の悪さを抱えながら、しかしどこかそれに身を委ねたい気分もあって、ほぼ一日で読了してしまった。

 主人公が小説などの一節を丸々暗記しているという設定があり、引用箇所が多いのも読み手を惹きつける要素かなと考えた。
 三島由紀夫が多いことも、生と死というテーマにはふさわしいのだろうが、このあたりは文学的素養がないと読みとれないことも多いのかもしれない。

 半分まで読み進めていたら、主人公の内言として突然「真知子」という名前出てきて、あれっ読み過ごしたのかなと前をめくったりすることもあった。結局、主人公に大きく影響を残しているその人物のことが中盤部以降で語られる。
 自分なりに、主人公の「壊れていない部分」はその真知子さんの存在かなあと思ったりする。

 ここで引用された常岡一郎という宗教家の文章は、わかりやすく興味深かった。

 つまり、人間に食べられる大根が、その人間に復讐しようとニガイ大根になったとしたら捨てられて断絶してしまう。甘くしようという人間の誠意に応えて美味しくなれば、様々な場所へその種が行き渡り、願わずとも求めずとも子孫繁栄する…というお話。

 なんと滋味深いではありませんか。

 しかし、この小説はそんなハートウォーミングさとはかけ離れたチクチクするような話でした。
 表紙に感じがよく出ています。
  ↓
 
http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4334923631/ref=dp_image_0?ie=UTF8&n=465392&s=books

牧歌的に語れ…ない

2011年01月22日 | 雑記帳
 人が集う学校空間は、本来、牧歌的でなければいけない

 全連小(全国連合小学校長会)会長向山行雄氏の言葉である。いわば、全国の小学校教育現場のトップがこう語った。
 自らの高校時代の旅の思い出を述懐しながら、呟くように記された言葉はなんとも重い。
 多くの教職員も心の底では同感なのではないだろうか。

 「牧歌的」の意味にこだわれば、「素朴」「叙情」という二つの要素がある。
 つまり現状は、複雑であり虚飾めいていて素直に感情を出せない(ことが多い)となる。一様ではないが外れてはいない。

 その原因を、歴史や様々な施策に求めるのは簡単なことだが、単なる繰り言にしかならない。いやそれもある程度腹を決めてかかれば、力にはなるだろうが、そんな度量もないなあ。政策レベルで語ることはやはりそれなりの立場の人にお願いすることとし、ここはひとつ、牧歌的に現状と傾向を述べてみよう。

 学校現場で「牧歌的」と称してもよいことを考えてみると、一見ねらいが明確でなく、効率性が低く、時間を浪費しているように見える言動と言えるだろう。
 ほんの一例としては、廊下でのおしゃべり、ぼんやり外をながめる、口笛をふいて歩く、様々な人や物事を大らかに受け入れる、学級楽しみ会、すぐ役立つというわけでない実技研修、地域で流行っていることなどの世間話…
 これらに類する行動の頻度によって、その学校の牧歌性が決定する。おそらくその度合いは、地域性、学校規模、管理職の潔癖性、職員の牧歌的資質?などによって要因づけられる。
 現状としては全国的に下落傾向にあり、それは様々な教育施策が功を奏し、教育公務員としての自覚が高まっていると評価されることもできよう。事業仕分け的観点からも非常に好ましく、努めてこの傾向を推進、維持していくことが肝要である。

 …怖い結論になった。おまえはどこかの官僚か、と自分突っ込みをしたくなる。

 制度や施策に背を向けていくことはできない。しかしそれをどこか客観的にとらえる感覚は失いたくないと思う。高みとまではいかないが、ずらして見るような習慣とでも言おうか。
 そうすれば、学校に降りかかる雑多な問題も職員個々のことだって、少し柔らかくなって感じるのではないか。

 組織に牧歌性を求めることは所詮無理だ。
 個の心の中に見いだすしか、手はないのである。
 ありきたりの結論となった。

基準を自らに課す厳しさ

2011年01月20日 | 読書
 『教師のための 叱る作法』(野口芳宏著 学陽書房)

 「『叱り』の成立」と題して、読者7000人ほどのメールマガジンに原稿を載せたことがあった。
 心のつながり、そして叱り方の一貫性ということを結論付けた論考だったが、暴力行為について否定的な見解を述べた部分もあった。
 そこに喰いついたのだろうか、一通の感想メールが届いた。

 あなたのような軟弱な考えが戦後の教育を荒廃させた

 匿名であったために反論は叶わなかった。ただ自省として、軟弱なのかなあという小骨のような引っかかりは残っていた。
 
 野口先生の今回の本を読んで、それは何か、どんな形をした小骨なのか見えた気がする。
 
 「基準を自らに課す厳しさ」と表せるだろう。
 先生の叱る基準、原則はずいぶんと以前から知っていたし、自分もそのようにと心がけていた。
 
 生命の危険にかかわること
 他人の不幸の上に自分の幸せを築くこと
 三度注意して、改善の見込みが認められないとき


 明確である。
 しかし、よく振り返ってみて、細かな部分(そしてそれはとても大切場面であったりする)で見過ごしてきたことはなかったか、と不安になる。

 この本の一節に、先生が六年生をもっていた時の誕生月のお祝いのことが記されている。担任であった先生を祝うために子どもたちが少し羽目をはずした内容を取り上げた。
 その「翌日」に、先生は子どもたちを諭したという。
 そのような場での行為について叱ることなど、「大人げない」「大らかさがない」と評価されるむきもあるのかもしれないが、先生は毅然として叱る。

 きみちたちが世の中で笑われるようなことをしていけないから

 こう言って指摘したとき、会の責任者を務めた子はわっと泣き出したという。
 
 自分にはそこまでの厳しさがない、と正直に思う。
 秩序に支えられたまさしく正しい教育の姿だと思う。

 心のつながり、叱り方の一貫性…言うにはたやすい。
 しかしそれを基準にした言動に対して鈍感になっているのではないか、と反省させられる。

 はい、軟弱でした、と言うしかない。

三つの言葉が励ます

2011年01月19日 | 読書
 先日、「プリコラージュ」という言葉を知って心に留めていたからか、内田教授の本にこの言葉が出てきた時にはすぐ同じだなと感じた。

 ブリコルール

 プリコラージュする人のことを指す。内田教授は「詩人」という言葉を類義語的に用いていたが、原義は日曜大工のことらしい。
 いずれにしても、手持ちでなんとかするという構えは、自分でもだんだん強くなっていく。


 始業式に出した学校報に、こんな言葉を持ち出してみた。禅語が載っている本から見つけたものである。

 稽古照今

 稽古は「古(いにしえ)を稽(かんがえ)る」ことであり、その繰り返しによって、今の自分が決まってくるとでも言えばいいだろうか。常に基本を大切にすること…稽古とはその意識に支えられている。いい言葉だと思う。

 
 こんな言葉も知らなかったのと笑われそうだが、文章中に発見してこんな使い方をしていると驚いた。

 規矩

 「きく」という読み方は、ある人の名前の一部になっているので知っていたが、そうすると何らかの意味があることは少し考えればわかったことだった。
 「規」はある程度予想がつくが、この熟語は…と思って調べたら、なんと「コンパス」を意味することばだという。へええーっ、である。
 これを人名にするとは、なんと奥深い。
 私はこの範囲では絶対ですよ、という感じかな。

 三つとも今の自分を励ます。

二、三の原則を突き詰めてみる

2011年01月17日 | 読書
 『教師のための 話す作法』(野口芳宏著 学陽書房)

 12月の会の折に野口先生がお持ちになった書籍で、買い求めていなかったことに気づき、その場で購入したのだが書棚に上げたまま年を越してしまった。
 
 出版社がどのような編集意図、そして購読層の中心をどこに置いているのか予想してみると、都市部で多くなっている新卒者か若年教員なのかもしれない。

 しかし内容が基本的な事項や初級者向け?ということは全然ない。これは、先生の全ての著書にあてはまるのだろうが、つまりは「話す」にかかわる原則とそれに裏打ちされた実践、技術が余すところなく紹介されていると言っていいだろう。

 だから、もしかしたら読み方にも初心者、中級者、上級者という区分ができるのかもしれないと思ったりする。
 まあ読者キャリアからすれば、中級者レベル以上には達していると思う自分だが、例えばということで、こんなふうに分析してみる。

 第三章-9  無用な発言は打ち切る
 第四章-2  子どもの話はすぐに否定しない
 

 この二つの提言は、具体的な授業場面ではいってみれば対立する要素を含んでいる。
 ある子が授業中にふと思いついた突飛な発言を口にしたとき、それにどう対応するか。この二つの原則から導きだすわけだが、様々な状況、実態に対応して働きかけていくことになろう。いうなれば、その塩梅を決めていく手順を頭に入れて対処しなければならない。
 実際にその項に書かれていること、予想できることなどから組み立ててみると次のようになるだろうか。

①「なるほど」といったん受けとめる
②自然に受け流して次にうつる、または、はっきり否定するための流れ(全体に問いかけるなど)をつくる
③部分的に認め、誤りの部分やかけ離れた部分は説明して認識させる
④内容のみだけでなく、意欲や発表の仕方、聞き方等の評価できるところは誉める
⑤仮に、否定され傷ついた様子であっても、回復力を信じる

 と書いていくと、そこにはどうしても「基礎」「下地」が必要であることが見えてくる。
 つまり、子どもの発言の適否や重要度を判断する教材研究、意図や考え方を見抜く児童心理の理解、学びに向かう集団としての学級づくり…である。
 特に学級づくりは効力を発揮することは言うまでもない。

 そしておそらく授業場面でのこうした細かい対応は、日常のそれ以外の場でもまた大きく学級経営全体としても適用させることが可能だろうし、そう考えるとこの本に書かれている二つ三つの原則を突き詰めてみることがかなり有効になるという結論が出せる。