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何度も遅刻できる精神は

2018年07月01日 | 読書
 「遅刻」ってコンプレックスなのか、と普通は思う。単なるだらしなさであり、やる気の問題じゃないのと決めつけてしまいがちだ。しかし、この本を読むと「遅刻」そのものの奥深さ(笑)に気づかされるから、愉快だ。遅刻したことはないと言えないが、ずいぶんその点は気を遣って暮らしてきた。その意味が問われる。


2018読了65
 『コンプレックス文化論』(武田砂鉄  文藝春秋)



 中学の同期にMという男がいた。卒業文集に「遅刻」の詩を書いたことが妙に忘れられない。常習犯的な彼は学校へ向かう道で「今日もやってしまった」と心で呟く。取り締まり側!の生徒会役員だった自分が、その一節を覚えているのはきっと裏返しの憧れであっただろう。何度も繰り返し遅刻できるその精神への。


 こんなエピソードが紹介されている。『風の谷のナウシカ』の製作を宮崎駿は「遅々と」進めていて、しびれを切らした鈴木敏夫が関係者を集めて進行管理の高畑勲に厳しく言ってもらおうとしたが、高畑は「間に合わないものはしようがない」と言い放ったという。この精神は、やはり表現する仕事に欠かせない。


 それをごく普通の仕事や生活に当てはめようとするのは無理だろう。私だって「会議に遅れるのは、一人の時間損失ではなく、参加者全員の時間を奪うことだ」と言い続けてきた。しかしそこに求めるのは効率性であることは間違いない。「遅刻癖」を持つ人たちにとっては、きっと全体に合わせるのが非効率なのだ。


 中谷宇吉郎は「能率生活は、人間を非常に疲労させる」と書いた。疲弊するのは肉体ではなく精神、「人間の芯」だという。給与生活者の多くは「遅刻」をしないことに汲々としている。それが崩れたら失うものの大きさを知っているから。ただ、それゆえ失ってきた多くのあれこれに目を向けてみることは意味がある。