『言えないコトバ』(益田ミリ 集英社文庫)からもう一言。
自分は直接子供には言っていない気がするが、大人たちとの語らいでは時折出てくるその言葉を、こんなふうに考えてみたことはなかった。
「今の子供はかわいそう」
と言われて、うれしい子供はいるのだろうか?
確かに。
自分が子供だったら「だから、どうした」としか返答できない。
それから、筆者は続けてこうも書いている。
また、反対に
「今の子供がうらやましい」
と言われるのも嫌だった。
確かに。
「それで」「何が言いたいの」と返すしかあるまい。
「かわいそう」も「うらやましい」も、結局のところ、言葉を発した人間との比較で生まれている言葉である。
しかし、その人間の「いつ」と比較しているのか。
単純に「子供の頃」と比べているように思うが、実はそれはあくまで「今」の自分が見た子供の頃であり、評価を下している自分こそ問題視されなければならない。
「かわいそう」「うらやましい」を作っている社会、大人…嘆いたり羨ましがったりする前にすることがあるだろっ、ということか。
言われた子供自身がどうにもできない現実を、同情のような見せかけコトバを吐いて、ごまかしているに過ぎないのではないか。
第一、「かわいそう」「うらやましい」と呼んでいいような感情を、子どもたち自身が持っているかどうかを、本当の意味で確かめることなどできないのだから。
当たり前のことではあるが、子供にコトバをかけるなら、その子がうれしくなるような、または、くそっがんばってやるとしんから思うような、そんなふうに気持ちを動かせるものを選んでいくべきなのだ。
自分は直接子供には言っていない気がするが、大人たちとの語らいでは時折出てくるその言葉を、こんなふうに考えてみたことはなかった。
「今の子供はかわいそう」
と言われて、うれしい子供はいるのだろうか?
確かに。
自分が子供だったら「だから、どうした」としか返答できない。
それから、筆者は続けてこうも書いている。
また、反対に
「今の子供がうらやましい」
と言われるのも嫌だった。
確かに。
「それで」「何が言いたいの」と返すしかあるまい。
「かわいそう」も「うらやましい」も、結局のところ、言葉を発した人間との比較で生まれている言葉である。
しかし、その人間の「いつ」と比較しているのか。
単純に「子供の頃」と比べているように思うが、実はそれはあくまで「今」の自分が見た子供の頃であり、評価を下している自分こそ問題視されなければならない。
「かわいそう」「うらやましい」を作っている社会、大人…嘆いたり羨ましがったりする前にすることがあるだろっ、ということか。
言われた子供自身がどうにもできない現実を、同情のような見せかけコトバを吐いて、ごまかしているに過ぎないのではないか。
第一、「かわいそう」「うらやましい」と呼んでいいような感情を、子どもたち自身が持っているかどうかを、本当の意味で確かめることなどできないのだから。
当たり前のことではあるが、子供にコトバをかけるなら、その子がうれしくなるような、または、くそっがんばってやるとしんから思うような、そんなふうに気持ちを動かせるものを選んでいくべきなのだ。
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