すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「語りの人」の希望と誠実さ

2014年07月31日 | 読書
 「2014読了」74冊目 ★★★

 『輝く夜』(百田尚樹  講談社文庫)


 小旅行のお伴に持参した。
 単行本時の書名が『聖夜の贈り物』。
 5編の短編はいずれもちょっとさえない女の子が主人公であり、聖夜に奇跡的な幸せを手にする物語。
 1時間ちょっとで一気に読み切ってしまった。テレビドラマにしても十分いけるようなストーリーだった。

 いつもながらではあるが、作者の卓越した構成や表現に感心してしまう。

 内容について十分楽しんだ後、岡聡という編集者が書いた解説になるほどと思わされた。

 その解説の題はこうだ。

 「語りの人」

 岡氏はこんなふうに表現している。

 百田尚樹は日本でも最高のナレーションが書ける人物なのだ。ナレーションとはそのまま語りのことだ。


 テレビの放送作家としてのキャリアが、百田が自らの資質を磨く場であったことは間違いない。
 そして、その時間と空間で熟成された魅力は、次々と発刊されてくる小説群に見事に表されているのだ。

 そして、岡氏はその底にあるものをこう言い切っている。

 とにかく好きになったこと、面白いと思ったことへののめり込みが半端ではない。(略)その対象と魂の底で触れあうというような没入の仕方なのだ。

 そのうえで「自分が興味をもったことを人に伝えるのがとにかく天才的に上手いのだ」と称える。

 ここを読むと、「語り」とは何かと考えさせられる。

 テレビ番組を例に考えてみるが、語り手は到着地を知っていて、そのことを露骨に見せることなく、聴き手の興味を高め、内部に引き込もうとする案内人か。

 そうなると、語り口とは技術ではなく、対象への没入の示し方の一部だという気がしてくる。
 そこがピタリと当たっている番組などを時々見かけることがある。


 さて、ここに書かれているハッピーエンドの短編も、発刊されている長編小説の多くも、作者が語るところの「希望」の表現に違いない。

 そして、作者がその条件として「誠実さ」を重視していることが、実に分かりやすく伝わってくるのが、この短編集である。

 こんなドラマは現実には稀であっても、支えとしたい気持ちは誰しもが持つ。

人力を痛感する今どきの仕事

2014年07月30日 | 雑記帳
 久々に観光目的で東京へ行って、今さらながらに思うことがあった。

 どちらも「今どきの仕事」のことである。

 一つは浅草の人力車。
 知ってはいたが、改めて間近に接すると、そうだよなあと思ったこと。

 車夫は英語を話せないといけない。

 大観光地の浅草。まったくの直感的なイメージでは観光客の半分以上が外国人。
 そうすれば当然のように外国人を乗せる割合が高いわけで、体力があるとか、案内好きとかという要素と同様に、英語の会話能力が必要であることを納得できる。

 各地の観光地にも人力車が散見されるが、同様な傾向ではなかろうか。
 外国語解説するための機器、グッズなどあれば、その点はクリアできるだろうとはいえ、やはり人の力以上に頼りになるものはない。


 もう一つ、スカイツリーの窓ふき作業。

 雑誌かテレビかで話に聞いてはいたはずだが、目の前に登場されると、ちょっとびっくりしてしまう。
 当然ながら、他の観光客からも注目の的だ。
 ほとんどの人がカメラに収めようとする。

 ははああん、こんなふうに作業していくのか。
 全部終えるのに、何日かかるのだろう…
 今日は風がないようなのでいいだろうが、強い日もやれるのかなあ…
 乗り降りはどうなのだろう、怖い目にあったなどということはないのか…

 次々に想像が膨らむ、当人に質問してみたい気持ちがわき出る風景だ。

 これも窓枠に自動的にワイパーのようなもので簡単に出来そうだと考えるが、これもやはり人力が確実なのだろう。


 付け加えて、今回の観光や接客業で気づいたことに「客の回転、流れを上げる工夫」がある。
 会計のシステム、トイレ設置の数などを考えていくと、明らかにそこに行き着くと感じた。
 どうすれば、多数を滞らず集客できるか、という工夫が目立つようになっている。


 しかし、結局のところ、客が行きたいと思う場所は、接する人の笑顔とかしぐさとか、細かい配慮だなあと痛感させられた出来事もあった。

 人の力はいろいろな場で発揮されるが、やはり目の前に直接現れる人の力ほど訴えかけるものはない。

ああ浸食されて…手を

2014年07月29日 | 読書
 『私の作文教育』(宇佐美寛 さくら社)を少しずつ読み進めていくシリーズ2回目。


 P41
 短い一文ずつを少しずつずらしながら書く,そのように書くことによって思考する。このような思考の技術は,文字の手書きによって担われている。



 この「ありがたい教え」もキーボードで打っている自分が情けない。
 しかし,それはそれとして,実に味わいのある教えではないか。出会いは初めてでない感覚もある。似たような文章はどこかで読んでいる。

 そしてふっと思い出したのは,かなり以前に「書くことは…」と題して綴った小文だった。その書き出しである。

 手書きで学級通信を盛んに書いていた頃,大先輩のS先生に「毎日みだいに書いでいるど,あんまり書ぐごどなくとも,ペンを持って一行書き出せば,途中で少しおがしぐなっただて,最後までなんとかたどりつくもんだ」と言われ,頷いた記憶がある。

 宇佐美理論の真似事のような時間を持てていた時もあったのだなあと素直に感動する。
 キーボード執筆もそういう面が皆無とは言えないが,手書きとの感覚の違いは明らかだろう。
 「今日は…」と白い原稿枠に向かって,子どもや教室の様子を書きこんでいく時に,思考していた自分の感覚はもはや思い出せない域にある。

 そして,その文章(2001年のものだ)には,「ワープロ画面が目の前にないと,書くことさえ思い浮かばない自分に唖然としたことがあった」とも記してある。

 文明の利器に浸食された我が身体か…責任は自分ですが。

 完全に手書きへ戻ることなどあり得ないが,どこかで枠を設けないと,このまま思考の劣化が進みそうだ。

 宇佐美先生が紹介している二冊の本『視写の教育~からだに読み書きさせる』『縦に書け!』は,幸いなことに持っているし,この休みに再読してみようと心に決めた。

「できる」に向く人生観

2014年07月28日 | 雑記帳
 久しぶりにビジネス誌を読んだ。

 特集名が「孫正義の褒め方・叱り方」である。ソフトバンクユーザーではないが,同時代に生きる者として孫正義には多少なりとも関心がある。

 要するにポジィティブということなのだろう。
 それを示す,圧倒的な言葉があった。

 「できる」と「できない」の決定的な違い

 そう問われれば,切り口はいくつかあろうが,孫はこんなふうに語るという。

 「『できない』と『できる』ではどっちが簡単だと思う。『できる』というのは,100でも1000でも一万でも,ありとあらゆる方法を自由に考えて,その中から一つでもゴールにたどり着く方法を見つけ出せばいいんだ。」


 「できない」の結論は一つだが,「できる」の方法は多数ある,ということだ。

 ここには,失敗や成功に重きを置いていないとも思われる人生観がある。

 もちろん孫が成功者であることには変わりなく,その言葉を成り上がり者の傲慢さと揶揄する人もいるだろう。

 しかし私達の目の前の課題も,大小に関わらず「できる」と「できない」の選択の場合がかなり多い。

 ぱっと解決の難易度を考えてしまう習慣に陥ったり,メリットデメリットで慎重に天秤にかけたりするより,できる方法のあれこれを楽しむ見方を強めた方が,幸せに近い気はする。

その日の天使を探そうよ

2014年07月27日 | 雑記帳
 『つらいことから書いてみようか』の「『あとがき』に代えて」に著者自身が書いたコラムが紹介されている。
 「しあわせのトンボ」と題されたその文章に作家中島らもが語った印象深い一言がある。

 その日一日には必ず一人天使がいる。


 一日の中で出会った様々な人の中に,「その日の天使が一人」いれば,それがあればやっていけると語っている。

 そんなことを思うと,学校という場所は天国みたいなものか。


 今学期も4月以来,校門前での挨拶を続けてきた。
 今までより若干人数が多いので,テンポが速くなってしまうが,それでも全員と目を合わせようと意識してきた。
 それにほとんどの子が応えてくれるし,いつもと違う場合は少し気にかけるようにしている。

 そんな中で,ああ「天使」だったなあ,と思うことが幾度かあった。

 子どもたちが張り切る運動会や遠足の日は,まさに天使だらけなのかもしれない。
 目を見開いて,朝の挨拶より前に「ああ,どきどきするぅ」と呼びかけてくる子や,リュックを背負って眩しいほどの笑顔を向けてくれると,心がほわあっとしてくるようだ。

 また,昨日のある出来事に関して,高学年らしく「昨日はありがとうございました」としっかり挨拶しに来てくれる子どももいた。
 ちょっと心配している子の面倒をみようと,盛んに声をかけてやる姿も何度か目にした。

 「子どもは皆天使だ」などというつもりはないが,一人一人のなかに天使性?はあるだろう,と仮説を立ててみれば,出会いの楽しみは広がる。

 その日の天使を探してみようよ…長期休みが言わせる余裕か。

 また,少し視野を広げることも夏休みの要諦であれば,その姿勢は日頃ごやっかいになっている地域住民や家族の中にも適用されてしかるべきか。

つらいことから書いてみたり

2014年07月26日 | 読書
 「2014読了」73冊目 ★★

 『つらいことから書いてみようか』(近藤勝重 幻冬舎)


 上手いなあ,この題づけ。
 もちろん本の中身の大事なことから取っているのだけれど,絶妙だ。

 副題は「名コラムニストが小学5年生に語った文章の心得」。

 冒頭の序「書く子は育つ」は,教室での作文指導の悪しき例が示されている。

 露骨にそのまま同じことが全国どこでも行われているとは思いたくないが,似たり寄ったりのことはあるだろう。
 そこには,学校という機関がある程度背負う宿命のようなものも感じて…。
 それが自分の一番つらいことだったりして…。


 ともあれ,著者が記したこの真実は,深く心に留めねばならない。

 子どもが本心を隠して文章を書いて,文章が好きになることも,また自分自身を好きになることもありません。


 作文指導のヒントになりそうなことが豊富にある。

 なかでも村上春樹の文章を例に,なぞなぞから「たとえ方」を学ぶなどはとてもユニークだ。
 村上春樹はほとんど読み込めていないので,自分では使えないかもしれないが,もしかしたら他の作家でもできるのでは,とちょっと目を見開かされた思いがする。

 担任を離れてからも,何度か「作文」の授業をさせてもらったことがある。
 「楽しく」が主眼になり,「気軽さ」を求める姿勢でアプローチしてきた。それ自体は間違いではないけれど,この本を読んで思うのは,作文指導はやはり「寄り添う」ことが根底にあるということだ。

 子どもが書いたことの,何について,どれだけ共感できるか…このアプローチを常に持っていないと,非常に底が浅くなる。
 そして「つらいこと」を起点とする発想は,案外その姿勢にマッチしている気がする。

 それは小手先の技術論ではなく,人間を見つめる目をどこにおくか,ということだろう。

言葉のない時間を巡る

2014年07月25日 | 雑記帳
 姪が子どもを授かり,先週無事出産した。この県にあって,いやこの国にあってまさに「子は宝」。本当に嬉しいことだ。生まれて間もない子を抱かせてもらう機会があった。いくら見続けても飽きないという心理は,いったい何だろうとつくづく思う。ほんの少しの動きに宿る,安らぎ感のような存在が眩しいのだ。


 作家の小池昌代がこんな文章を書いている。「皮膚一枚を通して,言葉など介在させることなく,確かに何かが行き来する。あの流れ,あの物質?何と呼ぼう。いや,言葉なんかで呼ばなくていい。」ことさらに言葉にしようとして,駄目になっている自分を感じたりする。そこに浸っていい時間をもっともっと多く。


 夏休み前の学校報に,建築家安藤忠雄の文章を引用し「子どもが子どもをする」機会を見守ってほしいといった旨を書いた。規制だらけの世の中で,子どもがなんとなく窒息しそうな気配がある。それでもプールであげる歓声や,遊具をめぐって小競り合いしている声はまだ聞こえる。こういう時間にも言葉は消える。


 児童の保護者が事故で亡くなり,職場代表として葬儀に参列した。働き盛りの逝去は実に無念だ。ここにも弔辞で言葉を失った友人の姿があった。届けたい人にはけして届かない声は,意味を寄せ付けない。言葉を重ねて高まってくるのは,声を発する者自身の悲しみであり,辛さだ。慰められるのもまた自分である。

「唯一」という表現が気に障る

2014年07月24日 | 雑記帳
 『総合教育技術』の8月号を読む。「リーダー力と教師力を高める夏休み!」という特集設定はよくある。しかし、それにつけた形容句は「1年間で唯一のチャンスは、こう生かす」。めくってみると「唯一、余裕のある夏休み」ということらしい。素直に頷けない気がする。「唯一」という表現がどうも気に障る。


 巻頭インタビューは鎌田實氏。「問題のある子」が増えているようだが…という質問に対する返答に頷く。「(あらゆる階層の集団で)10%ほどが、いわゆる“ちょっと変な人”として存在する」。それは前提であったことで、私たちの仕事の質が変わってきたということに想いを馳せねばならない。策はそこから。


 多賀一郎氏「ヒドゥンカリキュラム」の項で「何度指導しても整理整頓できない子がいたら、叱らないで『しゃあないなぁ』などと言いながら、先生が片づけてあげてほしい」とある。わかるなあ。「しかたない」とちょっとニュアンスが違うと言う。関西人以外ではどうするか。「まったく、もお」などはどうか。


 野口芳宏先生の連載は「偉人伝記の積極的活用」。偉人伝記を使った授業へ予想される反論として「教師の恣意に偏るのではないか」を挙げられた。それに対して先生はこう述べられる。「教師は教員免許状を取得した有資格者であり、その判断や見識はそれなりの権威を持つものである」…この自信が揺らいでいる。


 菊池省三氏の「特別講座」。夏休みに一学期の授業を束ねる方策の一つとして「5枚の写真」をもとにした自己評価があった。写真を取り上げる意味は特に明記されてないが、「現実」を切り取った視覚化が自分の実践を際立たせ、明確な評価に結びつくのだと思う。しっかりと向き合うためのいい足掛かりになる。

ソコから始める人の強さ

2014年07月23日 | 読書
 「2014読了」71、72冊目 ★★★

 『海賊と呼ばれた男(上)(下)』(百田尚樹  講談社文庫)


 昨年の「本屋大賞」作品。文庫化を待っていた一冊?二冊である。
 馴染みの書店でレジに持っていくと、ご主人から声をかけられた。

 「作品は面白いのにねえ、実際に言うことは、ねえ・・・」

 なんと答えていいものか…にやりと笑うばかり。

 メディアでのこの作者が発言することの真意はともかく、小説は評判通りの力作だった。

 いろいろな切り口から評することができそうだ。

 自分にとっては何より「経済歴史小説」としての価値があった。
 もちろん世界にとっての「石油」の重要性について知らなかったわけではないが、ほおおおっ、言われてみればという歴史的な観点がたくさんあり、認識を深くできたように思う。

 持たざる国日本が時代を切り開いていくために、どんなことが必要か、主人公国岡鐡造は、はっきりととらえていたし、その底知れぬ胆力は、まるで一つの強烈な磁石のように、人々を惹きつけた。

 それゆえ反発する人や組織は多かったが、小手先の利潤追求や他に阿る気持ちなどを一切ふりきって、ただ猛進するのであった…こんな日本人がいたのだなあと改めて思う。

 鐡造の国岡商店には、出勤簿もなければ、定年もない。
 その思想の拠り所はどこにあるのか…と読み進めていくうちにずんと響いてくるのは、後半に登場する「人間尊重」という精神の重みである。

 それに比べれば、今叫ばれている人権とかキャリアなどという言葉が、ひどくうすっぺらのように思えてくる。

 本質、原則は何かということを常に見据えて生きる凄まじさを教えてくれる小説といってもいいだろう。

 描かれるその素晴らしい場面の数々は胸を打つ。
 しかしそれは厳しさ、辛さ、切なさが昇華された姿であって、軟弱な昭和戦後生まれには、到底手に出来ない境地と言えるのではないだろうか。


 本質とは、簡単に言えば例えばこの文章だ。

 ガソリンがなければ、車に乗らないで、歩けばいい。足はそのためにある。灯油が足りなくてスト―ブが使えなければ、外套を着ればいい。・・・

 石油という仕事に人生を賭けたと言っていい主人公が語ったこの一言は、ある意味で、仕事の「底」を見つめる不断の覚悟が示されている。

 ソコから始める人は限りなく強い。

絶壁の間を船で行く

2014年07月22日 | 雑記帳
 三連休明けなので、ちょいと達成感が下がるが、とにかく一学期終了。お疲れ様でした。「大過なく」という形容を高評価とみてもいいかどうかは別にして、安全管理的な面では騒動になるようなことがなく終えられそうでほっとしている。ただこの安堵感は、なんとなくまだら色の感じで、これが時勢というものか。


 先週、警察から依頼され、朝の挨拶運動に町健全育成関係者等が立ち会い、ほんの少しイベント的なことが行われた。決まったのが最近だったので、特に保護者に連絡していなかった。ところがその朝、パトカーが数台学校の方へ向かっているのを見て、心配になったという保護者の声を直接聞いた。そんな時代だ。


 子どもを取り巻く事件、事故の数が統計的に増えているのか、定かではない。しかし情報として私たちに届く量は昔とは比較にならない。それへの対応も増えるばかり。情報は危険回避のための材料なのだから、処理の仕方に追われるのは本末転倒ではないか。リスクの原義は「絶壁の間を船で行く」だそうである。


 保護者アンケートの集計が終了した。データとしては良好だった。自由記述には検討課題はあったが、励まされる意見も多く寄せられた。その意味では、「絶壁の間」は結構幅があるのかもしれない。もちろん、安心して気を緩めるわけではない。よく行先を見定めて、前後左右を注視し舵を切ることはいつも通りだ。