すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

年度末の読み散らかし

2021年03月31日 | 読書
 公私ともにちょっとバタバタする年度末となった。時間が限られたなか、楽しく読み進んだ本、ナンダアと言いながら読み飛ばした本…少し混沌とした年度末読書メモ。


『向田理髪店』(奥田英朗 光文社文庫)

 久しぶりの奥田英朗小説。相変わらず読みやすい。小林薫主演(笑)でTVドラマ化でもされそうなストーリーだ。語り口の安定感に読み浸る。舞台と設定は、北海道の中央部のとある町。日本全国至る所にある過疎地域の実態、そしていかにもありそうな話題が連作で示される。自虐的に思えたのは当事者に近いからか。

 六篇いずれも、地方の過疎地域が抱える問題がそっくりと当てはまる。地域性の違いはあろうがそれを国民の共通性が上回っていて、共感している自分が少し情けなくも感じる。一番、苦笑せざるを得なかったのは「過疎地に必要なのは娯楽なのである」という一節。要は、娯楽の質が文化を決めていくということか。


『絶望名人カフカの人生論』(頭木弘樹 編訳 新潮文庫)

 これだけネガティブな文章に溢れている一冊は読んだことがなかった。だから、最初は珍しいと思いつつ読んでいくが、正直つらくなり、飛ばし読み状態になった。ただ、哀しみ苦しみの最中にいる者にとっては、このネガティブ、後ろ向きの発想は心に染み入ってくるかもしれない。個人的に感じ入った表現もあった。

 「いつだったか(    )したことがある。生涯でもっとも美しい体験であった。」という一節がある。もしクイズ的に(  )を考えるとすれば、様々な答が予想されるが。カフカは「足を骨折」と書いた!正直、何故か予想もつかない。それを、訳者は「目に見えて、癒えていくから」と考えた。なかなか深い。



『生きるとは、自分の物語をつくること』(小川洋子・河合隼雄 新潮文庫)

 2005,6年頃の対談集。キーワードは紛れもなく「物語」だ。誰しもが物語を持ち、その価値は一元的ではない。しかし、生きることに躓いたり、苦しんだりして、そこから歩み始める時に、物語が膨らんでいくことは確かだろう。見たいものばかり見る、流されるままに動くでは、しっかりした筋は作れないと想った。

「ここは」からスタート

2021年03月30日 | 絵本
 絵本というカテゴリーを作っておきながら、ほとんど投稿できていないのはどういうわけだ!と自分に発破をかけてみる。

 一昨年から自前で購読している本も多いので紹介をかねて、書き散らしてみる。

 昨年の夏に『ここは』という絵本を買った。
 これは雑誌等でちょくちょく目にする詩人最果タヒが書いた一冊。
 絵は及川賢治



ここは、
おかあさんの
ひざのうえです。


が始まりの文章で、そのあとは
「○○○○○ でもあります。」
「○○○○○ でもあるね。」

という形で、おしまいまで続けられていく。

 哲学的?に読めば、自分がいる場の捉え方の拡大や、自己という存在の身体性に働きかけたり、俯瞰的な見方を教えてくれたりする。

 これを読み聞かせれば、どんな感想がでるだろうか。

 興味はある。
 しかし、自分自身の予想の幅が拡がっていないので、ちょっと無理かなという気がして、買って半年以上になるけれど人前で読んではいない。


 しかし、改めて読み、凄い!アイデア(笑)を思い付いた。
 もし自分が現役教員なら、これを読み聞かせてから、詩を作らせる。

 つまり
「ここは
 教室の
 じぶんの席です」

といった一文を書き出しに指定し、その次を考える作業を課すという展開だ。

 4年以上なら可能だろう。
 どんな見方をし、どんな表現が出てくるか。ちょっとワクワクする。
 図工に絡ませても面白いか…叶わないけど妄想している時間はそれなりに楽しい。




身辺雑記という薄い膜

2021年03月28日 | 読書
 エッセイとは「随筆・随想」と訳される。また少し品に欠けるが「身辺雑記」という言い方をすることもあるだろう。その意味で、本当に身辺のことだらけだなあと感じる一冊。なんと24年間に発表した文章を収録している。ただ、時代感なく読ませてくれる印象が残ったのは、この作家の筆力か。選材のセンスか。


『夢のなかの魚屋の地図』(井上荒野  集英社文庫)


 有名な小説家を父に持つ女性作家は結構目立つ。著者もその一人で、このエッセイ集でも父親や家族を題材にした作品が多い。やはり一般家庭とは少し異なる日常があり、それはネタになりやすいのだろうし、感性も磨かれるに違いない。読者にとっての「覗き見趣味」的な好奇心をそそるし、好条件が揃っている。


 本名だという名前、あの直木賞作品「切羽へ」が妹の名前であるという事実を知ると、どんな尖った生活をしてきたのかと想像してしまう。まさしくそういう面と、案外、平凡な食べ物に関する部分などが織り交ざって、読んでいて飽きなかった。個人的に共感したのは「人生に必要な三つのもの」「記憶」の2つだ。


 「記憶」は面白い。著者は「旅先のホテルなどで、備品のプラスティックのブラシを見ると」幼い頃のある記憶が蘇るという。それは取るに足りない友達とのある諍いの場面…似たような経験は自分にもある。些細な物事に接し、人生においてどうでもいい記憶がフラッシュバックする時、それは何だろうと常々思う。


 終章の「最後」という文も印象深い。幼い頃、食卓の紙ナプキンを畳んでいた記憶を語り、その「最後の一枚」はいつだったか思い出せないと書く。そんな日々の埋もれ方を「無数の、とるにたらない最後のときを積み重ねて、日々は過ぎていく」と著す。身辺雑記は、掬いきれない多くの出来事の膜のようなものだ。

常に出来事を愛でる

2021年03月27日 | 雑記帳
 読み返しもこれを最後とする。

 掲示として挙げる詩や文章で、使いやすかった(これはずっと前からだが)のは、まど・みちおだ。
 それらの詩句は有名なので、ここに載せたりしない。

 意外なところで、村上春樹の文章を二度使っていた。
 小説は苦手だが、エッセイなどは変化球的で面白いなあと思う。

 10月に挙げた「雑文集」のなかのこれもその一つだ。

 小説家とは世界中の牡蠣フライについて、どこまでも詳細に書きつづける人間のことである。
 自分とは何ぞや?そう思うまもなく(そんなことを考えている暇もなく)、僕らは牡蠣フライやメンチカツや海老コロッケについて文章を書き続ける。そして、それらの事象・事物と自分自身とのあいだに存在する距離や方向を、データとして積み重ねていく。



 実に比喩的で考える余地のある文章だ。さすが!と褒めるのは失礼か。

 結局、引用して打ち込んだが掲示せずに終わった『ビートルズへの旅』という本で、リリー・フランキーが書いている文章も似ているところがあるなあ、と読み返して思う。


 なにかを表現する時、誰しもが、自分の心の奥底に潜む物質と、作品に定着させた時の物質変化における距離を測る。
 つまり、深層に沈む、自己の酷い部分、身勝手な心、情けない感性を、作品という名刺にいかにして、刻んでゆくか。
 ありのままではなく、どのように昇華させてゆくか。



 さて、またまたコロナで少し沈滞していた2月。

 ブータンの言葉を扱った図書を見ていて、選んだ語句を最後にしよう。

小麦を蒔いたら、小麦が実ります。
大麦を蒔いたら、大麦が実ります。
すべてのことには 原因と結果があるのです。

今ある自分は、もともと自分が蒔いた種なのです。



 『ブータン人の幸福論』にあった作詞家リンチェン・カンドの言葉である。

 自然災害などに適用するのは無理があるかもしれないが、それに対応する私達の動きそのものには、全て当てはまるというのは言いすぎか。
 しかし、「人はその性格に合った事件にしか会わない」という小林秀雄の言葉に照らし合わせれば、どんな出来事も結果であり、どんな出来事も原因になりえる。
 要はどう受け止めるかに尽きる。

 常に出来事を愛でる覚悟ということか。

光や灯りを求める心を

2021年03月26日 | 雑記帳
 選んだ詩などを読み返してみると、数としても「光」「灯り」がキーワードになっていることに今さら気づく。


 1月に選んだ坂村真民「念ずれば花ひらく」から選んだ詩篇は、まさに「光る」そのものだった。

光る 
光る
すべては 
光る

光らないものは
ひとつとしてない

みずから
光らないものは
他から
光を受けて
光る



 6月には、原田直友「ほたる」という詩を選んでいた。

ピカッ と光って
しばらくして

あっちで
ピカッ と光って

おかあさん
ほたるは あのくらがりを

自分(じぶん)を見うしなわないように
ときどき てらしているんですね



 「光」と言えば、テレビで番組化されるほどに今は「焚き火」ブームのようである。
 様々な見解があろうが、石川道夫を書いた「火を囲んで」は、そうした人たちの思いを代弁しているようだ。
 前半2連だけを載せてみる。

火をかこんで話をしよう
思っていることはなんでも話そう
考えることはいい 沈黙もいい
しかし話すことはいちだんといい
話すことは行動の第一歩だ

火をかこんで話をしよう
火花のようにはじけとぶことばで
鋼鉄のように強いことばで
宝石のようにちみつなことばで
音楽のようになつかしいことばで



 明るさを求めるのは人間の性のような気がする。
 全体としては「暗め」の一年だったように捉えられるから、その反動も多少混ざっているかな。

 光や明るさは、暗さの中でこそ貴重であり、絶えず日が照らしている状況が本当にいいものかと疑うことも必要なのかもしれない。

48の言の葉セレクション・壱

2021年03月25日 | 雑記帳
 今年度、図書館のエントランス掲示を担当した。
 「今月の言の葉」と題して、毎月、詩や短文などを4編ずつ掲げることにした。

 かつて、この図書館の館長であったT先生は、校長時代に「詩と絵のある学校」を標榜していらした。その感化を受けて、私も似たようなことを学校でしてきた。

 今、幸せなことにT先生が校長退職後に就いていらした仕事に携わることができ、同じ事を図書館でも可能だろうと思い立った。

 しかし、現実に毎月4編を選定するのは、結構きつかった。
 だから教員時代に校内掲示したデータも参考にした。結果的には48編中10編をそこから引いている。
 4編は小学生から大人まで、ある程度の段階を考えていたので、年少者向けには教員時代の遺産(笑)は好都合だった。


 さて、改めて読み直すと、当然ながら自分の好みが強く出ている。
 人によっては、説教臭く感じられた方もいたかもしれない。
 ただ、感想カードの中に「今月の言の葉が素敵だ」と嬉しい一言を書いてくださった人もいて、目に留めてくださったことに感謝する。

 まとめとして、いくつか(今でも心に響く句)を自分に言い聞かせる意味でも再掲しておこうと思う。


 6月に恩蔵絢子という脳科学研究者の著書『脳科学者の母が認知症になる』から引用したのは次の部分だ。


 辛い状況だからといって、辛い感情だけが生じるわけではない。
(中略)絶望的な状況の中で感じた小さな明るい感情が、のちのち、自分を支える力にまで育つのである。一つの出来事に、どのくらい多くの感情を感じることができるか、それはこの世を生き抜く一つの知性である。



 年間通して、コロナ禍に振り回された感があり、辛い状況のなかでの暮らしに目がいったように思う。その意味では、絶えず内部を見つめることの大切さは強調していた。

 と思えば、こんな文章を7月に挙げていた。

とりあえず時の流れに身を任せてみる、という手もある。
とりあえず風に吹かれて漂ってみる、という手もある。
とりあえず逆らわず言いなりになっているフリをしておく、という手もある。
とりあえず今はぐっと我慢して反撃のチャンスを待つ、 という手もある。
とりあえずビール、という手もある。


 これは辻仁成の著した『立ち直る力』からの引用である。

 真面目だけでは息が詰まる。とりあえずといういい加減さは「良い加減」である。

スマホというドラッグを…

2021年03月24日 | 読書
 『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン 新潮新書)を続けて読む。脳内でストレスのシステムと同様に発達してきた「報酬システム」。ここでのキーワードはよく見聞きするドーパミンという物質。人の行動を促し、満足感につなげる役目を担っている。ドーパミン量を増やすことが人間を突き動かす原動力になるという。


 著者は、「スマホは、報酬システムの基礎的なメカニズムの数々をダイレクトにハッキングしている」と書く。スマホは、ドーパミン量を増すため脳が欲する新しい情報、環境、出来事等の提供媒体として、人間の心身を虜にしていると言えるだろう。第3章の見出しはこうだ。「スマホは私たちの最新のドラッグである


 かのスティーブ・ジョブスが、自分の子どもにiPadを持たせなかったことは有名だ。ビル・ゲイツも子供が14歳になるまでスマホは持たせなかったという。これはテクノロジーがどんな影響を与えるかを見抜いていたことにほかならない。けれどその事実と裏腹に商品は世界中を席巻し、脳の機能を支配していく。


 第4章から7章は、具体的に危惧される内容が記されている。「集中力」「睡眠」「メンタルヘルス」そして「学力」。SNS全盛の中で、様々に懸念されることを脳科学的にとらえている。特にネットでのつながりは「比べあっている世界」の拡大となり、それが精神状態に影響を及ぼすとすれば、看過できない気がする。


 結論は見えている。汎用的に語れば「テクノロジーで退化しない」ための行動となるだろう。最終章で、当然の「スマホ利用制限」を筆頭に複数のアドバイスがまとめられている。個人的には「使いこなせていないスマホ(笑)」のままでいること。社会的には「利用規制への社会的合意形成」に微々たる力を使いたい。

脳の進化と現代環境は…

2021年03月23日 | 読書
 第一章冒頭に点ばかりの図が2ページ掲げられている。この図及び説明だけでもこの本を読む価値は大きかった。点は1万個描かれてあり、「この点1個が、20万年前に私たちの種が東アフリカに出現して以来の一世代を表している」。つまり1つが20年だ。私たちが享受しているこの機械文明は、点何個分の世代か。



『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン  新潮新書)

 非常に明快に伝わってくる。インターネットは2個に満たないし、スマホなど点1個でもない。しかし、私達の暮らしは今それによって覆われているのだ。第1章の見出しは「人類はスマホなしで歴史を作ってきた」であり、その観点に脳の進化を重ねれば、ギャップの大きさは想像をはるかに超えるのかもしれない。


 「人間は現代社会に適応するようには進化していない」と著者はいう。小集団で狩猟や採集をしていた期間は圧倒的な長さで、生きるためにどんな知恵を働かせるかを追い求めてきた人類である。そこで培われた脳や身体の進化が、たった数百年で激変した環境と合わせることが困難なのは、考えてみれば当然の理だ。


 第2章以降は、脳の働きと現代の暮らしを照らし合わせ、我々の思考と言動の訳を教えてくれる。第2章は「ストレス、恐怖、うつには役目がある」と題されこれもまた興味深い事項が紹介される。本文からは引用はしないが、冒頭に引用されているロバート・サポルスキー(生物学者)の文章が、非常に示唆的だ。

 「地球上に存在した時間の99%、動物にとってストレスとは恐怖の3分間のことだった。その3分が過ぎれば、自分が死んでいるか敵が死んでいるかだ。で、我々人間はというと?それと同じストレスを30年ローンで組むのだ。


 ストレスに対する選択は「闘争か逃走か」だという。見事な表現だ。人類はどちらかを選択して生き延びてきた。サバンナに暮らす時代も現代社会でもそれは適応される。ストレスに向き合った時に抱く様々な負の感情…恐怖や不安などが危険な世界から身を守り、生存率を高めてきた面があるという点は納得できる。


不安は人間特有のもの」という一節も理解できる。それは未来を予測する能力であるのだが、「現実の脅威と想像上の脅威を見分けることは、脳にはできない」と聞けば、現代社会においてストレスが長期化することは当然だ。だから脳は、「報酬システム」によってバランスをとろうとする。そこに登場したスマホだ。
つづく

春場所中日の愚痴か

2021年03月21日 | 雑記帳
 一相撲ファンとして、今書き残しておきたい。三月場所の二日目を横綱土俵入りから結びの一番まで見ていて、白鵬が変だと感じて家人に「ちょっとおかしいよ」とは口にしていた。翌日休場が発表され、「またか」という落胆やあきらめの感情がわいた。ここ2,3年はずっと繰り返されていて腹立たしくも思える。


 その三日目。帰宅が5時過ぎだったので、直接は視聴しなかったが、NHKで解説していた舞の海が、白鵬を痛烈に批判したとネット記事にあったので検索した。自分の中にあるもやもやした思いを代弁してくれたかのように感じた。確かに大相撲は「格闘技」の面を持つが、それだけで成立しているわけではない。

 記事を長く引用する。

「横綱でもない私が、袋だたきを承知で言わせてもらうとですね」と前置きした上で、「過去にはおそらく1年くらい休ませてもらえたらもっとやれるのになと思いながら去って行っていった横綱もいると思うんですよね。でもなぜやめたかという所ですよね」と、引き際について言及した。
続けて「それは自分の事情とか感情よりもこの横綱の地位とか名誉とか、というものを守ってきたからこそ、大切に思ってきたからこそだと思うんですよね。見てるファンは横綱になってしまったがために辞めざるを得なくなってしまったと。そこに、その無念さ、悲劇にファンは共感すると思うんですよね」と思いを語った。



 その歴史について深く知っているわけではない。しかし「横綱」が、最高位とされた大関の上に位置する存在であること。歴代横綱は成績や活躍に限らず、その辞め方や以降の進退によって、大きく印象が異なると把握している。まして、白鵬の実績とは相撲史上トップレベルにあることは衆目の一致するところだ。


 五年前、初めての国技館観戦を、「白鵬連れて国技館」と題づけて記した。その時読んだ「白鵬のメンタル」という新書も興味深かった。しかしその強いメンタルの方向性が、多くの大相撲ファンとは相容れなくなっているのではないか。強い力士の不在は嘆かわしい。しかし、解説者北の富士の次のコメントは真っ当だ。

 「功成り名を遂げる」。まるで白鵬のためにあるような言葉です。優勝44回をはじめ、あらゆる記録を塗り替え多くの偉業を達成して、後は何を望むのだろうか。彼に残されたことはただひとつ。いかに見事な引き際を見せることにあると思うのです。

その蜜はやはり麻薬です

2021年03月20日 | 読書
 「ケナリ」と初めて聞いたのは、臨時教員として勤めた僻地の中学校。女子中学生が口にした語の意味が分からず、帰宅してから尋ねたら、家族の中で明治生まれの祖母だけが「昔使ったことがある」と語った。後で調べたら、方言というより古語で広辞苑に載っていた。「うらやましい」それに「妬ましい」が重なる


『なぜ他人の不幸は蜜の味なのか』(高橋英彦 幻冬舎ルネッサンス新書)

 おっと思う書名に惹かれた。粗い結論として、脳には基本的に「妬み」という情動を発する働きがあり、それは「痛み」を伴う。その痛みを「解消する最適な『治療薬』」が「他人の不幸」であり、その意味で必然的なのだそうだ。道徳的、倫理的にあまり好ましくない感情が起こる訳を知ると、ちょっとはホッとする。


 しかし、だからといってこうした感情を野放しにしていいと語っているわけではない。「脳の自然な反応に従って行動することは、現代社会において必ずしもふさわしいとはいえない」と極めて常識的にたしなめる。この辺りは先日の脳幹・大脳辺縁系・大脳新皮質の働きと明らかに重なる。感情をしつける必要がある。


 ただ、この「妬み」が「悪いだけの感情で、人間に害しか及ぼさないならば、長い進化の中で淘汰されてもいいはず」と書いていることにも納得だ。他人の失敗を喜んだり、邪魔をしたりする非生産的な解消法だけでなく、建設的な作用を及ぼしてきたからこそ、「普遍的な感情として世界中に共有されて」きたのだ。


 端的には「負けるか」「なにくそ」から発する向上心が挙げられる。問題は、それだけでは解決できない事例、日常が巷に溢れているということ。妬みの対象と自分を同列に見る思考そのものをずらしていく、いわば複眼的思考の習慣が肝心だろう。「蜜」は味わってもよいが、それは一種の麻薬であり、自らを弱める。