ブログ引っ越しを済ませ、2カ月が経ちました。
依然、こちらの方のサイトアクセスが多く…少し戸惑っています。
同じものを移動させても、20年以上のキャリア?の重みはやはりこちらに傾くようですね。
ということで(笑)残暑お見舞い申し上げます。
今はこちらで↓ 飽かずに書いています。
https://spring254.hatenablog.com/

家人が病院の待合室で聴いた、高齢者同士の会話を懐かしがって教えてくれた。「オレな、まだぁ 薬ミイロも 増えでよぉ」…ミイロとは「三色」のこと。つまりは、また投薬が三種類も増えたという話だ。「イロ」かあ…この頃あまり使わなくなった。これも方言だろうか、いや違うはずだと電子辞書を開いてみた。
広辞苑には「いろ【色】」の見出しがあり、⑥-①として「種類。品目」が載っている。明鏡国語辞典にはその項目はないが、語意としては明らかだ。そうか、まず「色々」「いろいろ」の意味が「種類が多いこと」と一般的に知られているわけだから…そう考えて、そもそもが「色」が始まりだとすると少し調べたくなった。
「いろいろ」は名詞「色」の畳語形、最初はやはり「さまざまの色。各種の色」を表していた。今でいうなら「色とりどり」ということか。平安時代にはその対象は「花」「木の葉」「綿・織物」「糸」「紙」「玉」などであり、それが続いたという。室町時代後半より「さまざま」へ意味の主流が変化したとある。(日本国語大辞典より)
「色」自体は言うまでもなく意味の幅がかなり広い。一般的な「性的情緒」に関わることは漢語の影響で、それは平安朝になってからだと言う。昔の物語では「衣服の色彩」がずいぶん定められて貴賤を表していた。目に映る物の反射光線の波長の違いによって、人が受け取る感覚は違うし、差別化されてきたことか。
公共的箇所や個人住宅等、身の周りの風景が色鮮やかになったと以前から感じてきた。社会発展、暮らしの余裕とはそんな部分に現れるのだろう。ただ、人間の内部は色鮮やかさをどう受け止めるのか、ふっと心よぎることがある。自然色とは違う外的情報により染められていく心模様に、余裕を無くしてはいないか。
土曜朝、雨が降っている。今日の小学校運動会はやはり順延だな…と思っていた午前六時ちょうど、バーンババーンと花火の音が響く。えっ、えっと思わず声を上げたが、ああとすぐに気づく。「今日5月10日、火防地蔵さんのお祭りだな」と家人に知らせる。ほどなく娘から順延を知らせるメールが転送されてきた。
2025.4.30 小学校グラウンドに花散らしの雨が降った
教職経験者として40年近くこの時期のこの行事、判断の悩ましさを経験しているので、先生方がどんな心境は容易に想像できる。自分もいろいろな思い出があったなあ。しかし、立場が変われば、運動会そのものを見る目は全く違っていて人間とは勝手なものだなあと、つくづく思い知る。何事も都合よく解釈する。
2025.5.3 土手並木の八重桜が見頃を迎えた
先日観た映画『花まんま』にもそんな場面があった。クライマックスの結婚式で、主人公である兄がスピーチをした時だ。自分がどれほど妹のために頑張ったかを熱く語るが、そのうち捻じ曲げられた記憶もあると気づき、周囲の方々への感謝を口にした。「出来事」の記憶を手繰り寄せてみることは、無意味ではない。
2025.5.8 自宅の花水木が盛りに近づいた。
忘却がなければ人間は生きていけない。ただどうしても忘れられない記憶もある。今日はある縁者の命日。大勢の人に囲まれ、周囲を愉快にさせた人物だ。その死は、多くの人が驚きを持って受け止めたはずだ。あれから三年が経つ。関わり合った出来事の大半が温かく満ちていたことを思い出すと、また寂しくなる。
2025.5.9 孫たちと出向いた公園では、ぽつぽつと様々な木々が花を咲かせていた。
いつもより「桜日記」アップが順調だった春。観るチャンスも多かった。その分だけ、散った姿に余計に無情を感じるのか。上述の映画ではツツジが印象的な役割を果たしていた。人は花を見入り、和み癒され、名残りを惜しむ。そして人は世を去り行く時、花に囲まれ、見送られる…人も花も、名前だけが残される。
「物は試し」という慣用句をこの頃あまり聞かない。古びた言い方になったか。生活として一般的になっていて例えば「お試し」という語はかなり高頻出だ。これは「無料」が頭についてくる場合が多く、要は商業ベースの一環ということか。それを踏まえながらも「物は試し」にあるチャレンジ精神は大事にしたい。
楽器を買うなんて何十年ぶりだろう。たぶん三十代の時に、何を思い立ったのかソプラノリコーダーを購入したことがある。たぶん縦笛指導に力を入れていた頃だ。受け持っていた子どもたちは上手だった。一緒に何かやろうとしたのかな。もうどこに仕舞ったのか皆目わからない。さて、今回手に入れたのも「フエ」だ。
「エレフエ」という電子縦笛を知ったのは、FBで知り合いが退職祝として贈られた記事を見た時だ。あっ欲しい、使えるかもと思った。以前から、読み聞かせ時に何か小道具を持っていきたいと考えていた。リンゴなどの実物を持ち込んだ時もあったが、定番になるようなモノ…音を出すという方法もアリだろう。
今月から来月にかけて「カエル」が登場する絵本を選んだので、♪かえるのがっしょう♪などを導入に使うのはどうだろう。歌でもいいが、音色も変えられるしショボくても楽器演奏だから、目先も変わるだろう。ということで届けられた笛で、懸命(笑)の練習をして準備する。以前ほどには指が動かないのは、やむ無し。
さて当日。四冊目として表紙を見せる前、「どんなお話だと思う」とおもむろに笛を取り出し「実は…」とあのメロディーを鳴らす。最初はポカンとして聞いていた子たち。「あっ、カエル」と口にした子がいて、みんなで歌い始める。音色を変えてもう一度、また元気よく…御爺は笑顔で語り始めることができましたよ。
今期のNHK朝ドラはなかなかよろしい。どうしても前期との比較になるが、時代の取り上げ方が王道と言えることも要因だろう。キャラクターは好みと言っていいが、主人公の特徴をよく生かしているのでメリハリが感じられる。当然ながら話題になっている土佐方言…この「たまるか!!」は小気味のいい言葉だ。
やりとりの設定でニュアンスはわかる。「くだらな土佐弁辞典」というサイトには実にシンプルに【意】わあ! まあ!と載っている。つまり「驚き」「感嘆」を表している。これが「たまらない」と関わることは容易に想像できる。すると、「たまる」という語について確かめてみよう。漢字として「溜」「堪」が該当する。
「溜まる」は「集まって多くなる」ことで「貯まる」につながる。一方の「堪る」は「保ち続ける・こらえる」という意味で、ここから「たまらない」という用い方が出てくる。慣用句は結構あるものだ。いずれも否定である。「たまったもんじゃない」「たまったことではない」「たまるものか」「たまるものではない」
「たまるか!!」は否定形とは言えないものの、「信じられない」「本当か」「うっそー」と同様のニュアンスがある。相手からの言葉・返答に対して「感情の爆発が堪えられない」とも考えられ、やや激しい表情が伴うので面白い。名作「あまちゃん」での「ジェジェジェ」が思い出されるが、そこまでは浸透するかどうか。
この感嘆表現、我が周辺ではどう表すのだろうか。「たまらん」に近づければ「コデァラレネァ!!」という語があるが、即答の使い方ではない。ぱっと驚く時は「ナエデガ!」。「たまるか!」も悪い場合の反応もあるだろうし近いかもしれない。ただやはり、その後に付ける語が大事。例えば「ヤッタシャー」などになるか。
桜日記2025.5.3 「家の桜、まだ満開だから宴会デゲルド」「ナエデガ、ヤッタシャー」
前月、前々月のややバタバタした印象と比べると、落ち着き充実した一か月間だった。もちろん世間は関税や米価や選挙で騒がしかったが、自分との距離が近くなかったせいもあり、そのせいで心が乱されることはなかった。ただ、いずれも関係のない問題ではなく、引き寄せて思考してみる習慣は忘れてはいけない。
年度スタートの月であり、関わっている団体・組織で計画づくりをした。様々な事業などを維持していく難しさを、ひしひしと感じてからかなり時が経つ。それを先送りにしてきた責任は、私達世代以上の高齢者にあることを認識しつつ、せめて何を捨て何を残すか、明確に口にしていかなければという思いが強まる。
今月も葬儀や法事など黒い服を着ることが多かった。「死は自分(本人)にはなく、他の人にしかない」…誰の言か失念したが、つくづくそう思う。身内を含め親しく接した人、影響をうけた方…それらの「死」が我が身に入り込む。「あの人は心の中に今でも居る」と想える意識を保ち続けたい。健康はそのためにもある。
暮らしのキーワードだった「手入れ」は出来たのかな。いくらか重ねられるような動きはしたが中途半端だ。読書した数々の本が結構面白かったし、後半は観桜にも恵まれたし、それを言い訳にしたいほどだから、まあ心身の手入れをしたと認めることにしよう。肝心なのは自ら「日々是好日」にする精神の持ち様だ。
さて、五月。例年通り春山の恵み採取はあるが、これは安全第一にする。こども園読み聞かせはちょっとした新しい趣向を取り入れる予定。学校読み聞かせもスタートする。これらは楽しみでしかないので、マンネリに陥らない工夫のみだ。「羽後噺」も定期的更新を続けている。文化的貢献の一粒ぐらいにはしたい。