すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

盛り上げて、輝くもの

2006年10月30日 | 教育ノート
 学習発表会の練習、真っ只中である。
 表現力を伸ばす絶好の機会ととらえるなら、
 そのための原則は、案外シンプルなことかもしれない。
 
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 研修会の講師であった上條先生は、「お笑い」が一つの趣味ということもあり、授業の始まりからぎっちりと子供たちの心をつかんでおられました。そしてその授業の終盤に、こんなことを口にされました。

 「作文が上手になる秘訣を一つ教えます。それは友達が発表したら、盛り上げてやることですよ。」

 先日ご協力いただいた保護者アンケートを集約したら、子供たちに学校で身につけてほしいこととして「自分の思いや考えをしっかりと表現する力」を挙げてくださる方が、圧倒的に多い結果がでました。
 いわゆる表現力…それも音声や文字による言語表現ということになると思います。国際社会では、一般的に日本人が不得手である力とも言えるのですが、日常のコミュニケーションや将来の職業選択等を考えても、今後益々必要になることは間違いありません。

 時期は学習発表会練習の大詰め。連日「表現」の練習、つまり様々な言葉、動きなどで精一杯伝えようと子どもたちは頑張っています。
 担当の職員の指導にも熱が入っています。技術的なことはできていても、気持ちの面でゆるんだり、恥ずかしがったりすると、表現の力が弱まってしまうことが多いのも子どもの常です。従って、盛り上げるだけではしっかりとした力にはなっていかないようです。そのあたりに現実的な悩みがあるのです。硬軟の指導を織り交ぜながらの奮闘が続く毎日になっています。

 それはさておき、ご家庭で発表の話題など出ましたら、それはもう「盛り上げて」やっていただきたいものです。
 そうした期待の目で見つめられるからこそ、舞台上の子供たちは一層輝こうとするのです。
(10/27)

空気をよむという自己決定

2006年10月28日 | 雑記帳
昼休み、職員室横に位置するホールが騒がしい。
雨模様のためか、一台だけある卓球台に子どもたちが群がっているらしい。

一本勝負の勝ち抜き戦という厳しいルールで
たくさんの子が台を取り巻いているなか
一人の男の子が勝ち続けている。
周囲の子たちが、盛んに声援?を送っているようだが…

一斉に声を合わせて、叫んでいる
えっ、なんと言ってるんだ?
「がんばれ」でもなく、「ファイト」でも「いけいけ」でもない
えっ!

「クウキヨメ」

これはこれは…意外なかけ声である。
テレビバラエティでよく使われるその言葉を真似て
自分の順番がはやくくるように
勝ち続けている子に対してのブーイングだったのである。

それにしても
「クウキヨメ」とは…

しかし、考えてみると、この言葉は
対象者に向って「自己決定」を促しているわけだな

「負けろ」ではなく、「はやく替わって」でもなく
クウキをヨミ、順番を交代するようにしたらどうかということだ。

そして、その声は次第に強く大きくなっているではないか
盛り上がっているといってもいいほどだ
その空気のなかで、自己決定を促されても、行方は決まっているだろう。

千石保氏は著書の中で『自己決定主義』という言葉をつかい
若者の新エゴイズムの風潮を鋭く指摘しているが
こんな空気の中では、責任の伴う自己決定は生まれにくいのではないか。

ずいぶんと飛躍してしまった。

チャイムはなり、もうホールは静まりかえっている。

縷述~つながる授業 その8

2006年10月27日 | 教育ノート
 先週の金曜日に、上條晴夫先生をお迎えしての研修会を持った。
少人数ながら充実した会だったと思う。参加者の感想をまとめ集約したものとは別に、
自分なりに気づいたことを少し書いてみた。
 来月は、いよいよ野口先生をお迎えできる。
 そこでもきっと、いい学びがあると思う。


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 先週の研修会講師であった上條先生には、前任校でも「話す・聞く」をテーマに職員対象の講話をお願いしたことがありました。そのときに、自分なりに感想を次の三つの視点でまとめました。

       安心感     距離感     共有感 


 今回、5年生を対象として授業をしていただきました。題材は作文であり、音声言語を対象としたもではありませんが、そこで強く配慮されたのもまさしく上の三つではなかったかと思います。

 まず導入の「後出しジャンケン」。これは安心感であることはすぐに分かります。ゲームという形で失敗も楽しむ感覚を提示していきます。さらに、最初はあまり声がでていなかった子どもたちに対して「声が出ていない」とさりげなく注意しますが、次の大声に対しては「うるさい!」とにこやかに反応してみせます。「お笑い」を一つのテーマとしている上條先生ならでは、と感じました。

 何人か気をつけて見ていた児童がいるようで、個別に接するときに、微妙な距離感を量っていることが分りました。ある男子児童に対して、身体を擦り付けるように迫っていって促したりする場面もありました。また、物理的なことだけでなく、活動内容に対する心理的な距離感という面も、時間制限をアバウトにしていることなどに表われているという解釈もできるでしょう。

 共有感はなかなか難しいことですが、冒頭の「協力して」という言葉や終末での「作文の発表のときは盛り上げることが上達の秘訣」といった言葉に、意図が表われている気がしました。さらに今回は個々の文章による振り返りだったのですが、時間があればきっと話し合いや発表が予想されたことを考えると、ふりかえりこそが、共有感の一番のポイントとなっていくとも言ってよいでしょう。
(10/26)

「脳にいい学校」のイメージ

2006年10月25日 | 雑記帳
 『脳の中の人生』(茂木健一郎著)には 
昨日書いた「スピーディーで、明快」と逆のようなことも書いてある。

 ノーベル賞受賞者の小柴博士が、折にふれ「ゆったりと楽しむこと」を強調していることから
  
 短い時間に成果を上げる「ファスト・ラーニング」ではなく、
 ゆったりと楽しむ「スロー・ラーニング」こそ大切だ


という考えを紹介する。

 効率的な情報処理はコンピュータに任せ、人間が伸ばしたい創造性に目をつけた考えである。

 脳の持つ創造性を最大限に発揮するためには、外部からの強制ではなく
 内側から自発的にわき上がってくるプロセスほ生かす必要がある。
 そのためには、時間をかけるしかない。


 なんとも、脳とは複雑なものである。

 脳科学の成果の教育への導入が始まっている。
 断片的な知識を承知で、今自分たちが行っていることを見直して
「脳にいい学校」をイメージすれば
一日の時程の中にメリハリがついているかどうか…
つまり、子どもの行動や思考などが多くのバリエーションを持っているかどうか…

 このあたりが、脳の発達への影響を計るポイントではないか。

当たり前の判断で、脳を元気づけろ

2006年10月24日 | 読書
 脳ブームの立役者の一人?である茂木健一郎氏の本を読んだ。

『脳の中の人生』(中公新書ラクレ)

 興味深い事項が満載の新書である。

 黒板に問題を書き、よくこんなことを子どもたちに向かって言うことがあった。

「難しいでしょう。いいんだよ、悩みなさい。考えなさい。
 それで脳みそのシワが増えて、賢くなっていくんだよ。」

 脳みそのシワという言葉もずいぶん怪しいのだが
まあつまり、悩む、判断を迷うことは頭をよくする練習みたいなものだ
というとらえ方をした言い方である。

 茂木氏もこんなことを書いている。

すぐにわかるような、やさしい判断をするときと、なかなか結論を出すことのできない難しい判断を下そうと努力しているときと、どちらが、司令塔である背外側前頭前野皮質は活性化しているだろうか。自らの体験に照らして直感的に考えれば、難しい判断をしようとしているときの方が、司令塔である脳の部位も活動しているように思われる。

 しかし、これが違うという文章が続くのである。

背外側前頭前野皮質は、実は、やさしい判断を下しているときの方がより活動的であるということが明らかになった。

 昨今の計算・音読ブームなどとも関連があるように思う。
 学習ということへの生かし方も十分考えられるべきだろう。

 ところで、茂木氏はこの章のまとめをこんな形にしている。

当たり前の判断を下すとき、そこには自分という人間の深い傾向が表れている。

 悩むことは無意味ではあるまい。違う部位や接続という観点でみれば重要なことであるはずだ。
 しかし、単純な判断や選択の繰り返しが生きるということでもある。
 その一つ一つの行為が、脳の司令塔を元気づけているのなら、
やはりスピーディーで、明快である方が、「前向き」ということなんだと思った。

教師によって差し出された「毒」

2006年10月19日 | 雑記帳
 20年近く前に購読した本がある。

 『授業づくり上達法』(大西忠治著 民衆社)


 その時に読んで納得して身につけた技術が確かにあり、自分にとっては印象深い本である。
 今読み直してみて、また新たな発見もあった。
 「流れる視線 とらえる視線」をはじめ、今もって自分の課題となることが多く
なるほどと思いながら読み進めた。

 次の一節も深く頷ける。

 ムチも笛も、一人の教師のどういう教育についての考え方と、どういう教育方法の流れや教育技術(これをこそほんとは教育方法というのだが)の中に位置づけて使われているかということによって、はじめて批判の対象になるものなのである。


 「ムチと笛」は、「教師の言葉」にも置き換えられるなあ…
と思ったとたんに、中学生自殺報道に心が飛んだ。

 私たち教員の多くは、教師の言葉がそれだけで非難の対象にはならないことは感じている。
 これは、教師対子どもという関係だけでなく、対人関係一般にもあてはまるだろう。
 しかし、関係を築けなかったもしくは関係が捻れたなどという場合に、
教師の言葉は子どもを、刺す矢のごとく、絞める縄のごとく、痛めつけることも重々承知しているはずだ。
 その畏れなしにこの仕事をしてはいけない。

 教師は、関係を築くために、その言葉をつかったのか…
 関係が捻れ、裂けていることを知らずに、つかったのか…

 大西氏は「声は教師の一番重要な商売道具」と書いている。

 その道具に載せた差し出された「なかみ」が、
子どもにとって矢や縄や毒に変質していないだろうか
常に目をこらしていないと、気づくことはできない。

縷述~つながる授業 その7

2006年10月18日 | 教育ノート
 秋の研究会シーズン、似たような単元の授業を続けて参観できたので、話題にしてみた。


 9月にお邪魔した三つの学校で参観した授業は、偶然にも「低学年国語・音声言語」でした。そして単元の終期段階、学級の中での発表会、または仕上げの練習発表ということも共通していました。どこの会も発表の内容や方法、評価の問題等が協議で出て有意義でした。
 ところで、ふと振り返ってみたら、こんな違いがあることに気づいたので話題にしてみます。

  三つの学級では、それぞれ教師の立ち位置が違っていた


 教室前方(発表者側)に立つ方、児童席の横(聞き手側)にいる方、そしてグループ別の発表だったために巡回している方、と三者三様でした。
 もちろん人数に違いがあり、指導過程にも若干の相違があるわけですから当然なのかもしれませんが、似たような単元、本時を取り扱っていたので非常に対照的だなあと思いました。
 何のためにそこに立つのかが明確であればいいのです。話し手に寄り添って安心感を与えるとか、聞き手の側に立って頷きながら肯定的な評価をするとか、その混合もあるでしょう。
 ただ、教師が指導者つまり授業を組織していく側として、どこに立ち、どう動くかはかなり意図的に行われていないと授業として曖昧さが残るのではないでしょうか。

 聞き手側で一緒に発表に耳を傾けていた教師は、質問などするように聞いている児童に働きかけていたのですが、結局ポイントを絞りきれないままに終末を迎えたような気がしました(研究授業の緊張もあったでしょう)。どうしてそうなったのかを考えると、こんなことが思い浮かびました。

  立ち位置と同時に教師の目線がポイントになるのでは…

(10/16)

言語陶冶は机上論ではできない

2006年10月16日 | 読書
 言語陶冶は凡ゆる場合に、凡ゆる児童をして参与せしめるもので、教師も亦之と共に動き、之と共に生活する場合に於てのみ、所期の目的を達成することが出来る。

 遠藤熊吉は、言語教育の総合性というものを特に強調している。
それは、「場」をトータルにとらえているに限らず、「内容」もまた総合的でなければならないことを繰り返し説いている。

 一般に言語教育は常に綜合的でなければ実績を挙げ得ない。音、アクセント、朗読、話方等は各々分解せず、有機的関係を保つのでなければ、言語教育は徒らに抽象的となるであらう。

 「標準語指導」は発音指導とも置き換えられるが、この練習の仕方つまり単語でするか文章でするかという取り扱いについても、はっきりと信念を持ち、しっかりと実施している。

 例えばハナの如き語も、単に語としてのハナとしてのみ取り扱はずに『サクラノハナ』『コレハサクラノハナデス』『サクラノハナガサイテイマス』と言ふやうな句、文章として、即ち思想表現としての言語活動として取り扱ひ、発音練習も、之に即した矯正が望ましい。

 こうした指導は、徹底をきわめたと思われる。
具体的な指導例もあり、練習のさせ方等細かい心配りも見られる。そのうえで、徹底ぶりが児童に苦痛を与えないか、という心配に対して、次のような主張を展開する。そこには計画性、継続性が明確に見えているといっていいだろう。

 ある限定された場合にのみ強制されることこそ却って苦痛で、適宜機会ある毎に矯正するのは寧ろ容易である。而して今の労煩は後の解放に至る前提なるを思へば、現在の苦心を避くべきでなく、入学時より初まり、晩くも略々三年間に於て深い、堅固な根底が作られねばならないと思ふ。

 その他矯正練習の仕方はもちろん、材料の求め方や遅進児の取り扱いなど、どれをとっても机上論ではなく、子どもにしっかり向き合って言語教育を進めたことが伝わってくる文章である。

 言語教育を通して、その時代の子どもの声と心の変革を迫った先達に改めて敬意を表したい。

積極的に雰囲気を構成する

2006年10月14日 | 読書
 「標準語教育」と限定しないで「話し方・聞き方」と捉えても
遠藤熊吉の考えは、十分に納得のいくものである。
 
 「方言訛音矯正法の一斑」の冒頭には、次の言葉がある。

 正しい言葉の習得には、随時適宜な訂正を加えなければならないことは言ふ迄もないが、先づ教師を中心として標準語の雰囲気を作ることが最も肝要である。此の方が消極的な矯正よりも、その効果幾倍なるかを知らない。

 いわば言語環境としての教師の話し方・聞き方が問われている。
 子どもにどんな話し方をさせたいのか、そのように自分は話しているのか。
教室だけではなく、学校という空間全体における意識の持ち方が大切だろう。

 学校という公の場にふさわしい言語教育をする必要があるし、
環境作りとともに、その意義を把握し、伝えることも欠いてはならない。

 学校生活の意義をよく承知させ、生活改善、言語改良の意義、必要を納得させれば、児童は次第によき言語生活を形成して行く

 時に私たちが忘れがちなことであるが、
「なぜ言葉を学ぶのか」ということは
折にふれ、実際の体験の場で、または具体的な事例をもとに語る必要があるし、
語ることで私たちもまた再認識していくのである。

 而して消極的指導、矯正よりも積極的に雰囲気を構成する方法が一番根本的である事を忘却してはならない。

 

「過去の天才」の仕事を見つめる

2006年10月13日 | 読書
 今さらながらに勉強不足を嘆くことになる一冊の本と出合った。

 『標準語の村』(北条常久著・無明舎出版)
 

 対象となる遠藤熊吉と西成瀬小学校の名は、むろん知っていた。
 標準語教育で有名であることも知識としてはあったし、
その伝統が西成瀬小学校(もう廃校となったが)に残っていることも知人を通して聞いたことがある。

 しかし「標準語教育」自体が、なんとなくもう過去のもののように思っていたし
近隣に住んでいるとはいえ、興味がわかなかったのは確かなことだ。

 郷土関係図書が並ぶコーナーで見つけたこの本は、
コンパクトながら、遠藤熊吉の仕事と考え方をきっちりとまとめており
地理的な身近さを抜きにしても 、十分に刺激的であった。

 前書きに「『標準語の村』を推す」と書かれた渋谷孝宮城教育大学名誉教授は、次のように記している。

わが国の国語科教育は、不幸なことに新出語彙の意味が分って、読めて、書けることと文章の読み書きが出来ることに主眼が置かれてきた。しかし音声の言葉で自分の立場を相手に分かるように話しかけが出来て、相手の言い分をよく聞き分けることが出来る力をつけることが第一義である。


 遠藤熊吉の仕事は明らかに「時代」が要請したものではあるが、「言語生活」を営むための言語教育の普遍的な一面が強く出されている実践である。
 それは、北條氏が紹介した例からもちろん読みとれるが、付録として起こされた「方言訛音矯正法の一斑」が如実に物語っている。
 少しずつ読み解いてみたいと思った。

 渋谷教授言うところの「『過去の天才』の仕事を封じこめない」ようにしなければならない。