すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「大晦日」に向きを考える

2014年03月31日 | 雑記帳
 年度の大晦日。仕事上どうしても「学校の」と考えてしまう。世の中は消費税アップのことで騒がしく,どこの店もふだんよりも客足が増えていることを実感できる。なんだか本当の年の暮れみたいな感じもした。慌ただしさは消費との兼ね合いなのかなとふと思う。できるならば,じっくりと生産の芽を見つめたい。


 さて,心静かに今年度を振り返って何が思い浮かぶだろうか。二年目の勤務校であったので,初年度に始めたあれこれを意図的に進めることはできたろう。その成果がはっきり明確に実感できたかと言えば少し心許なく,それは記録や整理が曖昧だったからと反省する。明日からの自分自身の課題として挙げておこう。


 ストレスをため込むタイプなのかもしれない。高校生の頃から身体の様々な箇所に変調をきたしていた。蕁麻疹,胃痛,頭痛等々,今年新たな兆候が…。どことは言えぬが(笑),はああっ,そうかあと思った。改善しているとはいえ,それが治ったら今度はまた別の箇所だろうなあと…。諦めているが図太くなれない。


 そんなふうに自分の心身に関心が向くのは,外部に対しての興味関心の希薄さも影響しているだろう。新年度は集中力の方向づけをもっと外に向けて行動してみたい。むろん仕事上の具体的な施策を決めること,さらにそれを支えるルーティンワークを徹底していくこと,そして周囲への働きかけを細やかにすること。

「千」と粒々の決意

2014年03月30日 | 雑記帳
 「千の風になって」の「千」には,数そのものと同時に「数が多い」という意味がある。もとになっている英語の詞中にある「thousand」も同様に「非常に多数の」が含まれている。「百」も「万」でもいいのかもしれないが,響きとして「セン」がしっくりくるなあ,一つ一つが見える範囲なのかもしれないと思う。


 ふとそんなことを思ったのは,このブログのカテゴリー「読書」が「1000」という数字を示したから。2005年4月半ばに初めて約9年。投稿の半分近くは読書区分で書いてきた。最初は教育書などが多かったが,途中からかなり拡散し,思いつきの独白など脈絡のないままに書き連ねた。しかし,それでも1000である。


 年間読書100冊以上を意識したのは99年。途中できない年が1年あったが,あとはほぼ順調で計15年だとすると1600~1700冊程度には届いているか。たいした本を読んでいるわけではないが,その記録を日記代わりに残すことを続けられたのは,ブログという形式があったからだろう。自分にとってはいい媒体だった。


 今まで仕事上では100という数は意識してきた。例えば学級通信しかり,教科等の実践上の回数,枚数しかり,であった。しかし改めて1000という数を意識すると,それは単年度でできることではなく,3年,5年そして10年というスパンが必要になる。それは計画的・継続的・意図的であって達成できるのかもしれない。


 もちろん,私の読書ブログなどは計画的とは言い難い。また意図的という面も教育書中心の頃とは微妙に変化している。ただ書き残すという意図はまだ健在のようだ。どこへ向かっているのかはっきり示せ!と訊ねられば,少し尻込みしてしまうが,おずおずとまた明日も書くに違いないと,粒々の決意が残っている。

自分に出来る糸

2014年03月29日 | 読書
 「2014読了」34冊目 ★★★★

 『遺体 震災,津波の果てに』(石井光太 新潮文庫)


 単行本はあの年の11月に出ていた。
 書店で見かけた記憶はあるが,重く感じたのだろうか,手に取ることはなかった。

 三年目のこの春,新刊文庫として置かれていたので買ってみた。
 著者の書いた小説の紹介文を読んだこともきっかけとなった。


 買ってはみたものの積極的にページを開く気にならず,読みだしてからも,夕食前(風呂読書が多いので)には少し抵抗があった。

 四日ほどで読了となった。正直何度も落涙しそうになり,できるだけ想像しないように努めなければならない,という変な感情にとらわれた。
 映画は見たい気もするが,見ることはできないだろうな,と思う。

 あの3月11日以降の数日,そして2ヶ月ほどの間に,被災地から離れていた私達はいったい何を想像していたのだろう。
 特に遺体に関する情報は,発信されていただろうが,目や耳を少し背けていたことは認めざるを得ない。

 この本に書かれてある遺体に関する描写は綿密であるるが,当然ながら,その現実の何百分の一,何万分の一も伝えきれていないのだと思う。
 しかしその差に立ちすくんでいないで,行動できる人こそ,こうした優れたルポをつくり上げられる。

 民生委員の千葉さんを初め遺体と向き合った多くの人たちの視点で構成していく手法は,斬新だったし,映像的でもあるように感じた。
 気後れしながら読み進めた自分も惹きこまれていった。


 この「物語」は,これ以上ない悲惨な状況のなかで,自分に出来ることを糸を手繰り寄せるように進める,またその糸を他方にも伸ばしていった人たちを描いた。

 千葉さんは古希を越えた方だが,取り上げられた方々の年齢に自分と同年代の方が多いことに気づいた。
 それまでのキャリアを通して身につけた技能を発揮しているが,行動を支えるのは精神力や胆力と呼べるものかもしれない。
 何気ない会話の数々から,強く感じられる


 今,仮に何かの厄災に見舞われたときに,自分たちの年代こそ中心になるのだと覚悟を改めて教えられた気がする。

「かんせい」を利用する

2014年03月28日 | 雑記帳
 異動片付けの手を休めて、また活字に見入ってしまった。


 「グローバル人材育成の在り方」という講演記録(要旨と思うが)に次のような一節があった。


 「かんせい」を漢字で表し、国の特徴を当てはめると、感性(仏),閑静(独)、歓声(米)、官製・慣性(日)、漢制(中)、韓制(韓)などが思い浮かぶ。それぞれの国の特徴をとらえ、それぞれに合った対応していくことが重要である。


 具体的にどんなことか、またこれらの国の並びに何か意味があるのか、残念ながらそこまでは記されていない。
 従って、あくまで自分なりの想像であるが、米までと日からの境目はある程度はっきりしているだろう。

 もちろん欧米とアジアという地理的な区分であるし、個優先社会→全体優先社会という見方もできる。

 とにかくなんといっても我が国の日本の「官製・慣性」が注目だ。

 「官製」…お上頼りの気風というものは、そうそう抜け出せない。
 それでもだいぶ進展している要素もあるのか、「民営化」という言葉の頻度も減っている気がする。


 「慣性」は長所ととらえられる部分もある。
 「運動状態を持続する性質」ということは、持続的であるし、効率的という面もあるだろう。
 それを「惰性」と言ってしまうと、緩慢なイメージもするが、積極的な慣性という形で仕事を進めていくことは、案外大事なことではないか。

 国の特徴をとらえた対応とはそういうことか。

 そうすると「官製」も案外悪いことだけではなく、「官製」でやった方が目的に照らし合わせて効果的な場合もあるはずであり、そういう見方も必要だろうと少し思った。

できる限り中立であろうとする

2014年03月27日 | 雑記帳
 異動が決まり、机上や書棚の整理をしていて見つけた「きょうこう」という冊子を開いてみた(これだから仕事が進まない・苦)。

 安彦忠彦氏(名古屋大名誉教授)が、こんなタイトルで寄稿されていた。


 あらためて「教育の中立性」の重要性を確認する


 わずか1ページの論考ではあるが、ちょっと考えさせられる。

 最初に、こうある。


 教員一人一人は「教育の中立性」を真剣に考えているか


 難しい問題である。
 正直に言えば、教育の中立性など土台無理ではないか、という思いが強い。

 「教育委員会制度」の変革が目前に迫っている。
 今後確実に行政(首長)による関与が強くなることは明らかだし、従来であってもかなり影響をうけてきたことは否めないだろう。

 だから「絵に描いた餅」と言うことは容易い。

 だから、美辞麗句ではなく現実に即すべきだという考えも容易い。

 しかし、戦争をくぐり抜けて、教育の根本をとらえ直しながら現在があると考えたときに、安彦氏の次の言葉の意味は噛みしめなければならない。


 確かに完全に中立ではないとしても、「できる限り中立であろうとすること」自体は知恵として大切である。


 どこで、何に中立であるべきかが問われてくる。

 私たちの行動の基盤となるのは、言うまでもなく法である。安彦氏もこの文章の終盤にこう書いている。

 学校の教員は公的な法律等の規定のもとで教育を行っていることを明確に認識すべきである。


 従って、その規定とはどの範囲に及ぶものか、また本当にそれは規定なのかという吟味が、私たちに必要になるのではないか。

 現場が硬直してくると、教育に関する優先度決定が鈍ってくるように思う。

 「中立性」は優先度の高いものであることは、いつも声を大にしておかねばならない。

feedback

2014年03月26日 | 雑記帳
 【feedback】(フィードバッグ)

 結果に含まれる情報を原因に反映させ,調節をはかること。(広辞苑)



 昨日の会議である方の話にあったことである。

 「フィードバックという言葉は、もともと軍事用語だったらしい」

 「砲弾の着弾点が、目標からどのくらい離れているかを射手に伝える」という意味とのことだ。

 その真偽はともかく、ちょっと面白いと思った。


 年度替わりの今、仕事についてフィードバックするべき時期だが、実際は忙しさにかまけてなかなか進まない。
 
 ただ、端的に「目標からどのくらい離れているか」を心に留め置くことは大事だと思う。
 そして、それは経年変化的にはどのような位置をとっているのかも考えねばならない。
 それによって、手のかけ方が違ってくるはずだ。

 調べていくと、次のようなサイトに行き着いた。
 
 http://nb-max.com/121348/

 ここで語られている「改善フィードバック」と「強化フィードバック」という思考区分は、有益だと感じる。
 目標からの距離と、その距離の推移がどちらを選択するかに大いに関わる。


 また、いつも改善だけではつらくなるし、強化によって自分を力づけていく要素が、学校現場には必要だろう。

 意識的にみていきたい。

ドラマ低迷を嘆いてみる

2014年03月25日 | 雑記帳
 テレビドラマがつまらないと言われて久しい。ドラマファンと自称できるほどではないが、結構見ている自分にとっても、特に今クールは面白味に欠けたという気がしてならない。かなり独断的にその原因を探ってみたい。まず題材が似たり寄ったりになってきている。刑事モノ、医者モノ、恋愛モノ、悲劇モノ…。


 フジの「医龍」と「チーム・バチスタ」は見るには見たが、さすがに新鮮味に欠けた。シリーズもののメンバーだったらキャストは仕方ないとしても、筋立てがほとんど予想できるパターンだったことが残念だ。先端医療や安楽死などのテーマを扱っても、脚本の発想が出回っている情報を超えていない気がする。



 珍しくテレ朝の「緊急取調室」という刑事モノを見た。謎解きめいた導入は初め良さそうに思えたが、結局「アンフェア」もどきのような展開になった。最近このパターンが多すぎるように思える。警察であれ、政治家であれ、学校であれ、秘められた不祥事を暴くパターンに、視聴者はやや食傷気味ではないのか。



 話題の「明日、ママがいない」。不謹慎かもしれないが、最初これは笑った。芦田愛菜の演技があまりに大人ぶっていた。まるで「子ども刑事」か(笑)、途中から慣れてきて、なんだか様になっていたのは、さすが天才子役ゆえか。世間的には賛否両論があった。一体何がタブーと言えるのか、また考えさせられた。



 芦田愛菜といえば、このドラマでは新旧?天才子役の共演があった。芦田と、安達祐実。安達が子を亡くした精神不安定な母親役を演ずるのだが,どうしてかつての天才子役とはぱっとしないのか、と全然違うことを考えながら見入った。他のそうした例もいくつでも挙げられる。結局,ドラマが輝きを吸い取るのか。

とてつもない微差

2014年03月24日 | 読書
 【2014読了】33冊目★★


 『微差力』(斎藤一人  サンマーク文庫)

 著者の単行本は読んだことはないが、文章は雑誌等で目にしている。付録のCDで声も耳にしている。
 ある意味でのカリスマだろうし、独特の雰囲気がある人物だ。

 さて、この文庫、題名だけで想像できることがあった。
 予想してみれば、大方の人は私と同様にこんなふうに考えるのではないか。

 曰く
 「微差の積み重ねが大差を生んでいくのだ」
 曰く
 「微差を実行する力こそ、改善へのステップとなる」


 確かに、その通りだった、半分は…。


 第三章に著者は、このように書いている。


 微差が大差を生むのです。

 微差で大差がつくんです。

 微差がかたまって大差になっているんです。



 さらに書いている。


 微差が大差なんです。


 いつのまにか「微差 → 大差」が、「備差 = 大差」となっている。

 結論として、そうだとしか言いようがない。
 つまり、微差が微差のままであるのは、続かないから、かたまらないから、途切れ途切れであるから。

 微差が大差になるためには、ただその実行だけが必要だということだ。


 と、ここまでは当たり前といえば当たり前のこと。


 私はもう一つのポイントがあると見た。

 それは「微差の発想」という点である。

 そういう書き方はしていないが、この著には明らかにその点が仕込まれていると思う。


 「微差の実行」と「微差の発想」。


 この二つのアプローチは、とてつもない微差を生む。

減点法,教科書を越えて

2014年03月23日 | 読書
 「2014読了」32冊目 ★★

 『はやぶさ式思考法』(川口淳一郎  新潮文庫)


 「創造的仕事のための24章」と副題がつけられている。

 冒頭の「減点法を止めて,加点法にしよう」という章が根本だと感じた。
 どこまでを創造的仕事と呼ぶかは明確ではないが,少なくとも宇宙開発や科学的な発明分野などにおいては当然かもしれない。
 また,私達自身が100点満点の減点法に慣れきっているなあ,と改めて考えさせられた。

 例えば,加点法を採られているフィギュア・スケートを見ていても,どうしても「ミスをしないように」という気持ちが強いなあと今さらながらに思う。
 転倒などはもちろん大きな減点であっても,それを挽回できるほどの高度な技を展開することが肝心なのであり,そんなふうに切替できるマインドもまだまだだ。

 もちろん減点法の根付いた日本のミスの少なさは,例えば品質管理などには絶大なる力を発揮している。
 それを認めながらも,もっと幅を広げる時期であることは誰の目にも明らかだろう。


 「教科書には過去しか書いていない」という4章も刺激的だ。

 著者はこう書く。


 学びのプロになってはいけない。

 たくさんの教科書,文献をつかって勉強し,「学ぶこと自体が目標だ」という錯覚に陥るのだという。研究者の世界ではあることなのかもしれない。
 過去に学ぶことは大切であっても,それは「目的」ではなく,それが明確にできないものは発想まで手が届かないということだろう。
 研究分野においても,学ぶことの目的化が進んでいるとしたら,それは構造的な問題になっているのではないか。


 「時間を守ることを美徳」と教えられてきた私たちの国は,農耕社会から工業化,企業化の道を歩み,成功を収めた。
 だが,中東の国の人々は「時間にルーズ」が一般的だという。
 それは羊を追って暮らしてきたから,約束の時間守るより羊を迷子にしないということが大切で,「時間に遅れるな」と教えられていない,という件も非常に納得がいった。

身体の声に耳を澄まそう

2014年03月22日 | 読書
 「2014読了」31冊目 ★★

 『腸をダメにする習慣、鍛える習慣』(藤田紘一郎  ワニブックスPLUS新書)


 自称健康オタクであるので、また以前著者の書いた「腸が考える」という件はインパクトが強かった。
 

 この本も書いていることはだいたい予想できたが、軽読書のつもりで購入した。

 とりあえず、いくつか新しい健康知識を知ることができた。
 ただ、それ以上に、常識という枠に縛られている生活全般の見直しを迫られているような気になった。

 個人的な生活もそうだが、たとえば社会全体の風潮、進み方についても考えさせられる。

 O-157やO-111に関しての記述はこうある。


 大腸菌を悪玉菌と呼び、抗菌薬や殺菌剤を使って人間が排除しようとした結果、大腸菌は生き延びるために、約200種もの変種を生みだしました。その多くが、生き抜くための強い毒性を持つようになったのです。


 突飛な連想かもしれないが、社会全般が多様なものを認めなくなっていて、それが人間自身を追いこみ、時に猟奇的な事件、不可解な問題につながっていることと似ているように思えた。

 昔の社会は現在よりも固定化され、階層化されてはいたが、人間同士の関係はずっと幅が広かったように思う。
 当然ながら管理があっても網目が広く緩やかだったのではないか…。

 その中で、人は「あるがまま」の部分を一定は保障されていた気がする。
 今の世の中は、自由だ、個性だと言いながら、それは結局誰かの手の内で踊らされている感覚が抜けない。


 いろんなことが頭の中(つまりは脳)で渦巻く。
 では、ここで「腸」は何を考えているのか…それを言語化できたら凄いが、はたして可能か。

 ただ、腸も含めて、身体が何を望んでいるか、落ち着いてよく聞こうという姿勢は、大事だと思う。
 具体的には「食文化」や「生活常識」を見直してみることから、始まる。

 「落ちたものを食べる」ことに積極的にはなれないが、とりあえず、石鹸で手を洗うのは日に2回ぐらいにしよう。