すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

弱気な隕石の欠片

2015年06月30日 | 読書
 【2015読了】60冊目 ★★
 『3652  伊坂幸太郎エッセイ集』(伊坂幸太郎 新潮文庫)

 別のエッセイ集でも読んでいることだが、著者は「エッセイが得意ではありません」と書いている。確かにそんな気がする。小説に比べれば、どこか冴えない印象の文章が続く。大半の文章が敬体で書かれていることは、腰が引け気味な姿勢を表しているし、窮屈さのなかでそろりそろりと文を進めているように思える。著者の妄想力の流れとは違う形式なのだ。


 だから逆に「おっ」と思うのは、ボーナストラックとしてつけられた二つの掌編「定規」と「ソウルステーション」、さらにチラシのように文庫に挟まれた特別掌編「小説新潮の話」だ。これらはさすが手練の書き手であると唸った。本編にも人気作家の思考の断片のようなものが、あちこちに散りばめられていて目を惹かれる部分も少なくない。いくつか引用する。


 僕が昔から好きなパンクロックは、政治や社会に対する不満を歌っていますが、その歌詞はたいがい陳腐で、僕の考えとは一致しないものも多かった気がします。ただ、聴いているとどきどきしてくる楽しさがあったのは確かで、僕のこの作品もそんな風に届けばいいあな、と今は思っています。(「魔王」や「呼吸」のこと)

 小説というのはもともと、不穏で、歪んだ道徳について描くものかもしれない。

 漠然とした隕石のようなものが読者に落ちてほしい、といつだって願っている。


 ここに書かれた思いは、中途半端なファンではある自分にも伝わってくる。キャラを立てる名手ともいうべき伊坂は、その人物にのって縦横無尽に思考を駆け巡らせるので、そこに乗せられると、本当に音楽のリズムに酔ったり、クライマックスに高揚したりする感覚に似ている。読書遍歴が多くあり、未読の作家がいっぱいだったので読んでみようと思った。


 その意味では、伊坂ファンのためのいい読書案内、音楽案内、漫画案内にはなっている。作家がこういう類いのエッセイを書くということは、ある意味で自分の正体を曝すことなのだから、それをまとめて出版するとなると、やはり揺らがない地位(この言い方は微妙だなあと思いつつ)にあることの証しだろう。文体が結構弱気なのでそのギャップもまたいい。

形式に甘えている雰囲気

2015年06月29日 | 雑記帳
 「形式にこだわること、ことばを吟味すること」と題して、『窓』という研究紀要に文章を寄せている。もう20年以上も前のことだ。当時、6年生に対して作文の授業を、市毛勝雄先生などの実践をもとに「作文の型を学ぶ」ことを中心に進めていた。「起・承・束・結」という構成で行数を固定して書いていく形だ。


 自分もその立場になって、20行構成で「授業研究の印象」を書き上げている。なかみは大したことを書いていないが、意は伝わってくるようだ。やはり作文学習の一つの核は形式と言える。その「作文」はここでは引用しないが、書いた後の振り返り的な文章は、内容としてはずいぶん奮っている印象がある。若い。


 学習指導案もまた形式を重視しています。伝える相手に対する要件を設定しているからです。その範囲で思考を練る必要があります。ということは、ことばの吟味が厳しく要求されるべきでしょう。
 「子どもへの支援」という項目があります。そこには「~~よう助言する」などと書き込まれますが、どうしてそれが支援といえるのか、私たちは深く考えているでしょうか。



 「どうしてそれが支援といえるのか」…言いたかったのは、「助言」の「目的」だったろうか。それとも「レベル」のことだったか。見方を変えれば、助言による「わかる」「できる」が、最終的にその子の力になっていく見通しがあったか、とも言える。「ことばの吟味」と簡単に書いたが、そんな生易しいものじゃない。


 「形式にこだわる」と言えば、確かに自分はその性質があり、かなり拘りがある。それはきっと何かの反動だと推測している。勝手気ままに書けるネットのこうした文章にあっても、変な縛りを入れて構成するのだから…。確かに限定された中の思考は楽しい時もあるが、最近どうも形式に甘えている雰囲気が漂う。

久しぶりのことメモ

2015年06月28日 | 雑記帳
 久しぶりに雨らしい雨が降った。待ちかねていた人も多かったと思う。天気がいいことは基本的に嬉しいのだが、やはり晴れの日が続くとどこか落ち着かない気分になることも確かだ。今日の朝、近くのコンビニに行った帰り、妙に緑がくっきりと目に入ってきた。「雨に洗われた」という意味が心に落ちた気がした。


 久しぶりに梅酒を飲んだ。結構好きなのだが、人が集まったりしないと出さないのでめったに口に入れない。今回出したのは、昨年仕込んだ芋焼酎バージョン、そして何故か残っていた平成20年仕込み。どちらも美味いが7年寝かせたものはさすがだ。これは一杯ずつしかふるまわず、芋の方はペロリと一本空けた。


 久しぶりに読んだ自分の若き頃の文章は鋭かったなあ。頼まれ事があり、昔の資料を引っ張り出したら、「教務だより」と題して発行していた自分の通信が綴じられていた。今読むと少し堅い気がするのだけれど、当時の問題意識が浮き彫りにされている。例えば「授業で誰を一番最初に指名するか」…真っ向勝負だ。


 久しぶりに盆踊りを踊ってみた。学校で練習会があった時に子どもと一緒に合わせただけだが、体は覚えているなあと思った。しかしそれは自己流。先週、東京で師範をしている女性と語りながら「地元の踊りは何が違うか」を、ハンドルの遊び理論?のような事象を持ち出して解説していることに自分自身が驚いた。

疥癬虫が脳についてる

2015年06月27日 | 雑記帳
 調べ物をしていて、知り合いの方が書いた詩の一行に「慥かにとらえてきた」とあった。漢字が読めない。調べてみたら「たしか」。広辞苑も「確か・慥か」と併記されている。意味の「二」として「慥」が置かれ、「<自分の記憶によれば>まず間違いなく」と書かれてある。「心」に「造る」だから納得できる意味だ。


 ところが明鏡では、意味の「二」は「断言はできないが、たぶんそうだろうという気持ちを表す」とある。あれあれ?トーンダウンだ。大漢和にあたる。そこでは「そそくさと急場をつくろう気持ちのこと」などと身も蓋もないことが書かれてある。あれあれ、そうすれば、件の詩の内容もなんだか考えが曖昧になる。


 「たしか」には「確か」と「慥か」があることは確かだ。通常は圧倒的に「確か」が使われている。「慥」は一般的でなく、「こしらえる」という意味もあるから限定的だ。「たしか」という意味は幅を持っていて、「間違いない」から「たぶん・おそらく」まである。伝える時の声のニュアンスで表現していることが多い。


 会議資料に「疥癬」という言葉が出てきた。読めない…隣も即答してくれない。質問したら「かいせん」と読むらしい。「癬」という字は「白癬」の言葉があり、水虫関係なのでわかっていた(苦笑)。しかし、この「疥癬」とはいかなる病気か。辞書では「伝染性皮膚病。指間、腕(中略)ひどくかゆい」この程度である。


 「疥」が気になり、頼みの大漢和辞典へ。「介」が「わける、境界線をつくる」意味であることはわかったが、これも皮膚病の記述が圧倒的である。疥癬虫が寄生するらしい。少し興味がわくが、疥癬の最後に書かれた意味で、我に返る。…「とるに足らない災いや、心配ごと」。疥癬虫が脳についているのかもしれない。

ライフ、ライク、ライト

2015年06月26日 | 読書
 【2015読了】59冊目 ★★
 『いま伝えたい!子どもの心を揺るがす“すごい”人たち』(水谷もりひと ごま書房新社)


 みやざき中央新聞のことは以前から少し知っていた。サイトも訪れたことがある。編集長の“熱い”社説が評判のようだった。

 よく訪問するブログでこの本の紹介があったので、よい機会だと思い注文してみた。
 子どもたちへの話のときに参考にできるかな、という考えもあった。

 全編を読み終え、「ネタ」として小学生に使えそうなものは予想したより少なかった。
 まあ、自分自身の咀嚼が足りないこともあるかもしれない。
 高学年であればいくつかのエピソードは、いい材料の一つになるには違いない。

 ただ、そうしたネタ収集以上に自分にとっていくつか心に響いた内容があった。

 著者は、最近なり手の少ないPTA会長の役回りを進んで引き受けた。5年間も務めたという。
 その仕事のなかに楽しみを見いだしたことが大きい。そして教育の現状からこう断じた。

 「第一に親の教育」これに尽きる

 この提言は明らかに本質をついているが、同時に難しさも抱えている。

 単純に共感しつつ、次の文章にうつると、これがまた納得、自省を促される。
 学校に数多く足を運び、著者自身の目でとらえた真実であろう。

 学校には、幸せそうな先生と幸せそうに見えない先生がいることも知った。

 そして、こんなふうに文章は続く。

 幸せそうな先生は教師になってからも人間として成長した人だと思う。

 実は、教師になって仲間や同僚に誉められた経験は何度かあるが、7,8年前に勤めた職場である同僚に「本当に幸せそうに見える」と言われたことは忘れられない。
 何かができる出来ない、上手下手、見栄えがするしない…などをすっ飛ばしそうな賛辞である。
 かといって、著者の論に添えば自分は成長できたのかなあ、といささか不安も持っている。
 で、思い浮かんだのが…成長を導いてくれた我が師のこと。今夏は行かねばなるまい…と決断し、申し込んだ。


 と、読書から離れてしまった…

 さて、後半の第三章に心に残る話が多い。
 特に、予備校に勤めていた小島さんのエピソードがいい。
 面談をしたらふてくされたような態度の生徒がいて、後で手紙を送った。
 それから一カ月後、授業に出てきて、「ちゃんと勉強する」と宣言した理由が、「デッカイ満月を見た」ことだと語る。そして、小島さんにこんなことを言う。

 「先生もたまには月でも見ねぇと、つまんねぇおばさんになっちゃうぞ」

 内省の時を逃すな、これは全ての大人に言えることだな。


 「終章」は「ライスワークからライフワークの時代へ」と題されて、まさに身をつまされるお年頃の自分にぴったりではある。
 本文の中に、その題名とつながる二つの言葉を見つけて嬉しくなった。
 「ライクワーク」そして「ライトワーク」である。

同期会でのキニナルキ

2015年06月25日 | 雑記帳
 会に出席しないSの話をしていた。少し噂は聞いていたが高校の頃か、ひきこもりというか対人恐怖症的になったらしい。それでも都会に出て、ある職についたがリストラにあって今は…。こうした会には参加しないらしい。「中学校の頃、あのKくんたちの奇妙な笑いがね…」などとドッキリすることを一人が言う。


 自分もその「たち」の一員だったか。確かにSをからかったことは覚えている。反面、彼が修学旅行に行く前に「自分は寝ぼけるから」と心配なことを打ち明けてもらったし、だから隣に手首をつないで寝たのもオレだ…と言いたかったが、止めた。人は、美しく、自分に都合のいいことだけを覚えているのも普通だ。


 Tがなるほどと思うことを言った。「昔だったら、還暦で集まる時には、親の介護なんて話題にならなかったんだ」。それを理由にして欠席した同期生はかなりの数に上った。長寿社会はこんなところに影を落としている。10年後はどうか…。親が寿命を全うしたとしても、今度は自分が介護される側になることもある。


 見た目も若く服装のセンスもよく、夫は○○で、自分も□□してますといった「絵に描いたような幸せ」を手に入れたかのような者もいる。しかしそんな話が出てくるときまって揶揄したくなるのが、自分の性分。今回も「じゃあ、なんで同級会に来るんだ。これ以上幸せになりたいのか、それとも不幸を求めたか(笑)」


 思いだしても笑えるのが、三次会で隣に座ったSの一言。花巻温泉からの帰りにミニ観光として立ち寄った宮沢賢治記念館。私は所要で先に戻ったので同行していない。どうだったと問うと、周囲は「難しかった」と口にしたが、Sは衝撃の一言…曰く「字がきたなかった」。そうかあ、自分にはその観点はなかった。

幸せを呼ぶ行為とは

2015年06月24日 | 読書
 【2015読了】58冊目 ★★★
 『幸せの仕事術』(小山薫堂  NHK出版)

 この本は2年前に読んでいる。
 新刊がきれたので、なんとなく書棚を見ていて再読したくなったものだ。

 前の感想で「置き換え」という発想で、日常や仕事を見ていくことを書いていた。
 我ながらなるほどと思ったが、自分が継続していくためにはもう一工夫が必要だろうか。


 さて、今回読み直しをしながら改めて思ったこと。
 何度も繰り返して書かれているように、著者を突き動かしている思いとは「人を喜ばせたい」という一点である。
 そのために考え、行動する。その結果を自分が喜ぶ、または惜しがる…それらの筋道すべてを肯定していく姿勢が徹底している。

 かといって、強固というイメージではなく、自然体なのだ。

 エピソードとして面白いのは、次の二つだった。

 一つは大学での講義。ある女性の作ったカレーは、女性が誰かを明かさないままでは、食べたい者はいなかったが、その女性が誰か知ると、全員が食べたいと手を挙げた。
 これこそ、人はモノを買うのではなく物語を買うという至言の納得度を高めるいい例だ。

 さらに、次の一言はこの物質があふれる社会、生活において、非常に大事な目のつけどころを表していると思う。

 身近にあるものに目を向け、「もったいない」「無駄である」と思ったものに、何かもうひと手間加えることで、みんなを幸せにするいいアイデアが生まれるんです。

 これは食生活に関して、我が家にも凄まじく実践している者がいる。
 残りモノの再利用率の高さは限界に近い(笑)ように思う。

 それ一つでも尊敬に値するのかもしれない。
 それはまた、幸せを呼んでいる行為なのかもしれない。

時計、動き出す

2015年06月23日 | 雑記帳
 ふだん腕時計はしていない。しかし同期会の祝賀の席の進行を任されたので必要かと思い、机上に置いたままだった時計を取ったら、なんと動かなくなっている。単純に電池切れかと思い、近くの量販店に持ち込んだら「ソーラーですよ」と言われ頭を掻いた。あれっ、ではどうして動かない。光は当たっているのに。


 もちろん一万円足らずの安い時計だが、電波時計だから通常だったら再稼動するはずではないか。時間もなかったので、時計をしないままに祝賀会をこなした。進行用の机にはデジタル時計もセットされていたし、不便を感ぜずにやり終えた。一日半の全日程を終えて帰宅後、再び、何故時計は動かないモードに戻る。


 あちこちボタンをさわっても、妙な表示が出たり、速い回転で秒針がまわったり…結局、説明書かと思い、最初からやり直すこととなった。必要度の低い腕時計だったら、こんなことをしているよりいつか買ったらいいという考えも頭をもたげたが、捨てきれないなあと思う。本当に使い物にならないのか、おまえは。


 マニュアルに従って、初期設定や時刻合わせをしたら途中までは順調だったが、電波を受信できないまま時間が過ぎた。途中から、なんだか自分のようだと妄想する。「還暦」は「生まれ年と同じ干支になる」つまり、一回りして0からの再スタートという意味もあるらしい。時計もリセットしたかったことがあったか。


 標準電波の受信復活を願って南向きの窓辺に放置した時計は、帰宅したら元通りに…なっていなかった。どうしてか。もう一度説明書を見てやり直す。しかし再び変な時刻を指してしまう。結局、受信できないということか。では、窓を変えるか。風呂場の東向きはどうだ。…おおうっ、しっかりと現在の時を示した。


 原因は長い間暗い場所に置き、警告期間も十分あったのに気づかなかったことだ。その結果、通常では標準電波を受信できなくなった。しかし、明るい方さえ向けば、受信してしっかり動く。まるで自分の心身にも当てはまるような気がした。手にとると「まだまだ現役でいけそうだよ、君も」と時計が輝く(わけがない)。

醜さに気づくために

2015年06月22日 | 読書
 【2015読了】57冊目 ★★★
 『サファイア』(湊かなえ  ハルキ文庫)

 久しぶりの湊かなえ。書店には未読の文庫本が他にもあったが、字の細かいのは避けて(齢を感じます)、最新のこの一冊を選んだ。
 短編集なのでするっと読める。確かに、湊かなえ色なのだが、短編だと物足りなさを感じてしまうことも確かだ。視点人物の変換などもあるが、短いと少し単純に思えたりもした。

 その点、最後の2編、表題作の「サファイア」と「ガーネット」は連作の形になっており、読み応えを感じたし、布石や仕掛けも感じさせるいい作品だ。
 また「イヤミスの女王」と称される著者自身を意識させる人物を登場させており、興味深い。
 なぜ、著者は人間の暗部に焦点を当て、どうしようもなさを描こうとするのか、その一端にふれた気がする。要はこの一言か。

 「己の醜さに気づきやがれ!」

 あの『告白』を挙げるまでもなく、学校生活の中の情景の描き方には独特の鋭さがある著者である。
 ここでも「ムーンストーン」という短編では際立っている。一人の子の幸福や不幸の引き鉄は、学校生活のいたる所にあるものだなと改めて思った。


 著者と学校との関わりの一つが、先日テレビで放送された。
 日テレの『アナザースカイ』という番組
 トンガ王国を訪れた著者、訪問の理由は、自身が青年海外協力隊としてこの国の学校で教鞭をとったからだという。

 そこからは、当然だろうが「イヤミス」色は感じられなかった。
 かといって関係ないわけではない。
 おそらく、人は思いっきり振れた場での体験をしていないと、逆の地点も的確に見えない。
 その意味で、醜さに気づくためのいい場がトンガだったと仮定してみることもできるのだ。


 やはり長編を読みたいなあ…夏休みが待ち遠しくなってきた。

流行らせようぜ、生産的怠慢

2015年06月21日 | 雑記帳
 先日必要があり自分のブログに検索をかけてみた。目的とした事柄とは別に、おうっと思うような言葉と再会した。「生産的怠慢」。9年前の文章に「15年前の学級通信を~」と記してあるので、二十数年経つということ。気になってネット検索をしたら…なんと言葉として完全ヒットしたのは我がブログのみだった。


 とすれば、どんな本を読んで「心にしみた」のだろう。教育書だったろうか。実際あまり売れなかったものだろう。しかし、自分にとってはぐんと深い。中身の例として挙げた「指示されない読書」「中断されない思考」「目的のない会話」…姿としては怠慢にしか見えないこれらの行為、取り戻したい気がする。


 週末に同期会があった。三次会で隣席になった地元製造業で要職につく同期と話した。人員管理的な話になり、現状の厳しさをお互い慰め合った?わけだが、その中で彼が「昔はぼやあっと煙草をふかして、あれこれ考えを巡らせることがよくあったが…」と言ったことを聞き、かの「生産的怠慢」とフィットした。


 「今ならそんな姿は、何してる!の一喝で…」と続けた言葉を聞くまでもなく、駄目社員的な烙印となる。某有名企業の「カイゼン」を追随するように様々な合理化が図られ、「姿」として見えていること、証拠書類などが必要になっている。ところがそんな態勢や体制で抑えられるものもあることをみんな知っている。


 教育現場でも「生産的怠慢」を声高に叫ぶことは難しい。余暇の効用、リラックスの重要性…などと着飾った言葉で代替えしていくしかないのだろうか。高度成長期の日本は、働け稼げ歯を喰いしばって頑張れで覆われていたが隙間や緩みはあった。今それらが埋められて息苦しい。「消費的勤勉」と見える姿もある。