すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

非言語的表現が使える場

2008年04月30日 | 読書
 言語の表現も理解も十分にできない子どもは、非言語的表現を多用し、また大人の表現から非言語的メッセージを読み取ることが得意である。
平木典子『児童心理 2008.5』(金子書房)

 非言語的表現が一番使えるのは、対面するときであることは言うまでもない。
 そうすれば「思い」を伝えたいときに、文字言語はそれだけで不利ということになるが、活字であればそれはなおさらであり、その欠点をどう補えばいいのか。まあ、逆手にとるということもあるが。

 さて、メール文化に覆いつくされている現状で、活字言語や記号だけで伝わりにくい中身がなんなのかはっきりさせる学習が必要になっている。
 表現は身体でするものである…肝心なのは、いつもそこだ。

艫綱の解かれる日

2008年04月28日 | 読書
 艫綱(ともづな)  蠱惑(こわく)  馥郁(ふくいく)

 霧笛荘夜話(浅田次郎著 角川文庫)に出てきた言葉だ。今までお目にかかっていない気がする。「ふくいく」は知っていたが漢字としては初対面だ。

 ふと、中島みゆきの『命の別名』という歌の冒頭が思い出される。

 ♪知らない言葉を覚えるたびに 僕らは大人に近くなる
  けれど最後まで覚えられない言葉もきっとある♪

 齢だけは十分すぎるほど重ねたが十分に言葉は知っていないな、と今更ながらに思う。

 「最後」まではまだまだ時間はあるのだろうけれど、未だにこんなに覚えられない言葉があるのはきっと自身の艫綱が解かれる日が少なかったのだ
と、覚えたばかりの言葉を使って、きれいにまとめてみる。

分析批評は感動に始まる

2008年04月25日 | 読書
 分析批評は、感動に始まって、やがて冷静な論理的思考に終わる学習を目指している。 
 井関義久 『国語教育2008.5』(明治図書)

 「分析批評」には遠い位置にある言葉だと思っていた「感動」。
 こんなふうに言い切られると、少し「感動」する。

 その表現の素を挙げてみれば、分析批評、感動、論理的思考という三つの用語の関係、始まりと終わりという対比、目指すという方向性を持つ述語、ということになろうか。
 これだけでも批評に近づいているのだろうか。

 教室の実践に一つ新鮮な視点が増えた気がする。

去り際の背中に

2008年04月24日 | 読書
 生徒や部下が自分の背中を見ていることに自覚的な人は、あまり多くないと思う。同じように、授業や会議でどんな立派な言葉を並べても、去り際の背中にそれが見られなければ、結局は何の説得力もないことになる。
 山辻哲雄『早朝座禅』(祥伝社新書)

 言葉や面と向かっての表情の重要性は言うまでもないことだが、それらを凌駕するのは背中である。
 ここに「思いの強さ」という精神論の局地がある。

 批判的な言い回しで使ってきた精神論という言葉だが、なぜかずしんと重いのは、物事を自己中心に考えてきたことへの悔いかもしれない。
 きっと去り際の背中は軽いだろうなと思う。

もっと細かにもっと疑って

2008年04月21日 | 読書
 僕たちが食事をするように、あるいは楽しみで何かのメディアに触れるように、表現されている何かを見たときに感じる共感的な意味での感動の精度はとても低くて、自分に関係のあることがそこで行われていれば人は感動するよ。だけど、その精度や価値を疑うこともやっぱり必要で。
 穂村 弘(『新刊展望』5月号より)

 「自分に引き寄せて考えてみる」ことがわが師の一つの教えである。しかしそれは客観性を伴わなければ、単に自己中心的思考、独善と称されることだろう。

 自分に関係のあることは、ぼんやり見たり過ごしたりしていては気づかないものだ。そうやっていて気づくことなどは、むしろ価値が低いものだと考えた方がよい。

 もっと細かにもっと疑って対してみて、それでもなお共感できることこそ価値が高い…そんな思いが浮かぶ。

単純にするための支え

2008年04月20日 | 雑記帳
 プロは、難しいことをですね単純にするんですよ。アマチュアは簡単なのを難しくする。

 延吉正清(NHKプロフェッショナル仕事の流儀 3/11放送)

 この言葉は、「複雑な病変を簡単に終える」という文脈通りの読み方以上に深みを感じさせる。

 授業場面においてもいくつか難しいとされる事柄があるが、その克服や達成は単純なことから始まるのではないか。単純なことをいかに繰り返し、どう徹底させていくか…。
 言葉で書くとなんとも容易な感じがするが、単純なことの繰り返しほど難しいことはない。
 その徹底のために必要なのは強い意志だが、その支えになるのは番組中に使われたフレーズでいうと「圧倒的な経験」ということになる。

 「神の手」を持つと言われる医師延吉の4万5千にのぼる治療は、成功も失敗もみんなファイルされていた。

ウェットな資本主義社会

2008年04月17日 | 読書
 そういう社会の細部を支える、温かなネットワークについては、ぜんぜんアメリカの真似をせずに、ドライな競争主義だけを導入しようとしたことで、この十年間、日本は冷たい資本主義社会になってきたと思うのです。

 鎌田 實 (『いのちとは何か 別冊宝島1505』)

 後戻りできない社会構造のなかで、嘆いたり投げ出したりすることは結局のところドライさを強調していくに過ぎない。

 今、何ができるか。
 鎌田が言うところの「ウェットな資本主義社会」に近づいていくためには、教育の役割は果てしなく重い。その核になるのは、個の尊重とともに連帯感であったり所属感であったりすると思うのだが、つまり人間の「心」をもっともっと意図的に扱う営みがなければ駄目だ。

 手垢のついた「心の教育」では、打ち破ることはできない。

切実さを持って考え直す

2008年04月15日 | 読書
 子どもたちの作文の中の『しかし』だとか『けれども』だとか『が』とか『でも』というような、思考や生き方に屈折を与えて考え直すことばが、急速に衰弱してきているように思われることを実際の作文や、子どもたちの行動のあり方の例を挙げて会員の皆さんに訴えたのを思い出す。
 『いのちの根を育てる学力』(東井義雄著 国土社)

 小手先の短作文指導だけでどうにかなる問題ではあるまい。東井の文章は「教育の根源にかかわる問題」と続いていく。
 つまり複眼的な思考、多面的なものの見方が授業で取り上げられたとき、子どもたちがいかに自分の生活に即してとらえられるか、ということになる。

 ここでも物質的な豊かさ、溢れかえる情報が邪魔をするという要素が十分に考えられるのでないか。

 ぎりぎりの中で選択するからこそ、「しかし」は切実さをもって明確に姿を現す。
 これもある、あれもある、それもよい、どうにかなる…そんな場に慣れきっているから、「しかし」もふにゃふにゃしている。

汲み取り、伝える

2008年04月14日 | 読書
 辛いときに心の支えになってくれた言葉にいくつか出会っています。それらに共通していたのは、私を変えるために発せられた言葉ではなく、私を理解していることを伝える言葉だということでした。
 山田ズーニー(『PHP2008.3月臨時号』より)

 ここにいわゆる生徒指導の原則がある。

 私たちは子どもを変えようと多くの言葉を発するけれど、そしてそれは間違いのないことだけれど、それが時々伝わらないわけは、現象や言動の中にあるその子そのものを理解していないから、理解しようという気持ちがないから。

 よく見つめ、よく聞き、想像力を働かせなければ、そうした汲み取り方は身につかないものだ。

諦めの教育

2008年04月13日 | 読書
「確かめられる」価値についてばかり重要視していると、
「確かめられる」ところだけ取り繕った、
つまらないものが増えていくような気がするんだよなぁ。
なによりも、人間のよさについては、
「確かめられる」ことが少ないように思います。

『思い出したら、思い出になった』(糸井重里著)

 端的に「確かめられる」ものの一つに評価としての数字があるか。
 それを細かくしていったら言語でもできる。いくらでも細かく出来る。
 しかし伝えるための言語化にも限界があり、価値をまるごと伝えることはできないのだ。
 そうした諦めのなかで、教育は行われなくてはいけない。
 
 諦めの中で見えてくることを大切にしたい。
 私たちは、つまらない人作りをしているわけではない。