すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「鍛える国語教室in花巻」ふり返り②

2010年11月30日 | 雑記帳
 野口先生の最初の講座は「発問道場:発問力を鍛える」であった。

 発問をテーマにした講座はもちろん何度か聴いている。
 特に印象深いのは、仙台でお聴きした時で、簡単なレポートをどこかに残しているはずだ。おそらくこの「学力形成の五つの観点」も同様ではなかったか。

 ①入手、獲得
 ②訂正、修正
 ③深化、統合
 ④上達、向上
 ⑤活用、応用
 

 「ポイント」としてまず挙げられるのは、次の点であることを先生はいつの場でも適切に語られる。

 形成学力は何か 

 この原則はいつもぶれないし、いつも心に響く(そして私はいつもぼんやりして忘れがちだ)。

 ところで、野口先生がここで取り上げられた発問は、発問という大きな括りの中では限定的であることを、参加者の多くは感じとっていたはずだ。

 野口先生がおっしゃる発問は、いわゆる「集中的発問」と言ってもよいだろう。
 様々な発問の類型があるが、私自身よく使っているのは(言っているのは)「集中型・拡散型」である。
 同様に「択一型・共有型」「選択型・発見型」「マルチ・セレクト」などという言い方もあるようだ。

 従って、講座の中で「無限定の問い」と評価された発問であっても、学習過程の中に有効に位置づければ、かなり効果を発揮するのではないか。

 今回取り上げた俳句や短歌、そして短い詩などに読解指導においては、基本はやはり「集中型」になる。
 そして、さらに全員の授業参加を促すには「拡散型→集中型」という発問の流れも有効であるだろう。
 自分がかつて一番に考えていたのは、「集中型→拡散型」という、いうなればオープンな過程であった。

 その意味で今回は、自分だったらこんなふうに発問を組み立てていくかなと、そんなことも思い浮かんだ講座だった。
 ただ、その選択と流れがどんな学力を形成するのかは、もう一歩突き詰めてみる必要があるだろう。
 いつも基本に立ち返って考えてみる。何度も問い返す…先生の答はいつも行動を促している。

「鍛える国語教室in花巻」ふり返り①

2010年11月29日 | 雑記帳
 私の入った小学校(もう数十年前に無くなった校舎だが)には「礼法室」があった。畳敷きのずいぶんと広い部屋だったという印象がある。
 しかし、そこで何か教わったという記憶はまったくない。

 横山験也先生が「礼儀作法」について精力的に調査をしたり著書を出したりしていることは知っていたので、今回の講座は楽しみの一つだった。

 一時間の講座、本当にメモすることがいっぱいある内容だった。
 卒業式などの折に証書授与、礼の仕方など毎年指導する機会があるのだが、実際に自分の知識もあやふやであり、複数の学校でその度に得た知識をもとにしているので、実に心許ない、アバウトなやり方だったと思う。

 その意味で、きちんと出典を示し、さらに「基本・原則」を知っていることの大切さを強調なさっていたことが印象深く、勉強になった内容だった。

 作法の基本
 1 人には敬意を払う
 2 物は大切に扱う
 3 体の所作を整える
 

 具体的な身につけ方として、比喩的に書道における楷書の重要性を話されたが、これも納得だった。
 人がある所作を完全に身につけたということは、快のレベルが上がったととらえてもいいのではないか。
 つまり、そのレベルが高いとは人間性の高さと言ってもいいことである。

 後半で「作法の落とし穴」ということに触れ、「高慢になる危険性」を語られた。これも納得である。基本に照らし合わせたとき「敬意・寛容」と全く逆の感情にとらわれるとすれば、それはいかほどのものか。

 原点は何か…野口芳宏先生のいつも言われるその言葉に常に立ち返り、少しずつ作法を学んでいきたい。
 横山先生の二冊の著書も購入したので、読了してからまたこの稿を起してみたい。

 さて、礼法室。思い出したことが二つある。

 そこで予餞会をした。
 友達がエレキギターを持ってきたことに憧れを抱いた場所だ。
 もう一つ、雪深い三学期。二階の礼法室の窓から、仲間と一緒に外の雪面に向けて飛び下りる遊びをした。最高に面白かった。

 どちらも、礼法のかけらも感じさせぬ記憶だった。

意味を教えるよりも

2010年11月28日 | 読書
 『子育て貯金箱』(伊藤善重著 新風舎)を読み終えた。

 この本を一言で語るのは難しいが、読めばおそらく「なんだか怪しげな」という印象を持つ人も多いかもしれない。
 それはとにもかくにも「戸塚宏」の名前と実践が強調されているという理由になるだろう。
 多くの出版社がそれを理由に断ったという。あのソニーの井深大氏の推薦があったにもかかかわらずである。
 
 まだ消化しきれない部分も多いが、触発された本であることは確かだ。
 それは例えば、こんな文章である。

 思考力を育てるには、語彙を豊富にすることが極めて大切です。そのためには、単語の意味を教えず、使い方だけ教えるのが効果的です。 

 文字、読み、意味という三点セットで教えることは正当といえるのだろうか。
 若い頃はあまりに普通すぎて疑いもしなかったが、実はそういう方法から段々と自分は離れていった傾向もあったな、と振りかえることができる。

 それは教育界の流行?になる前から少し取り組んでいた、素読、速読であったり、辞典を使った指導であったり、そんなところで顔をのぞかせていたように思う。
 杉渕実践や内田樹氏の「SCANする力」という文章に強く惹かれたこととも大きくつながっている気がする。
 
 意味や理由にこだわることで、肝心な能力、感覚が育つための時間を減少させているのではないか。
 こうした考えはあまりに短絡的だろうか。思慮が足りないのだろうか。危ういのだろうか。

 戸塚宏が著した『本能の力』を再読してみようと思っている。
 3年前にはこんなことを書いていた。 
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/8639e68fcd7f2236eed76168c138099b

つながって見えた映画

2010年11月25日 | 雑記帳
 映画通でも洋画ファンでもないので、今頃になってこんな名作をテレビで見てちょっと感動したりする。

 『カッコーの巣の上で』
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%B7%A3%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%A7

 ああ、ジャック・ニコルソンね。
 そういえば、先週の映画劇場にも出ていたじゃないか。

 『最高の人生の見つけ方』
 http://wwws.warnerbros.co.jp/bucketlist/

 この映画で印象深かったのは、モーガン・フリーマン扮するカーターが、エジプトのピラミッドに登頂した時にニコルソンが演じるエドワードに言った言葉。

 「古代エジプト人はこう考えていた。死んだ魂は天国の扉の前で2つの質問をされ、その答えによって扉の中に入れるかが決まる。自分の人生に喜びを見出せたか?他者の人生に喜びをもたらしたか?」
 
 エドワードは最初の質問はOKだが、二つ目は…と口ごもる。
 まあ、それが後半の見所になっていくわけだが。

 ところが(こんなつなぎ方はないねえ)、『カッコーの巣の上で』のマクマーフィー(ニコルソン)は、その二つ目を見事にやってのけたじゃないか。

 チーフというネイティブアメリカンが、廃人のようになったマクマーフィーを殺し、病院を脱走するエンディング。
 それはまさしくマクマーフィーが命をかけてチーフにもたらしてくれたものだ。まさしく喜びへ向かう脱走だった。

 ああ、映画っていうのはこんなふうに作られるんだね、という見本みたいな感じがした。
 ジャック・ニコルソンがつながって見えた。

文明を運ぶ文化

2010年11月24日 | 雑記帳
 日曜夜に見たNHKスペシャル『天空の一本道』が心に残った。

 先月、BSで冒頭だけ見た記憶があったので、あああれだと思いながらつい最後まで見入ってしまった。

 http://www.nhk.or.jp/special/onair/101121.html

 洗濯機を背負い、三日もかけて絶壁のある山道を歩いて自分の村まで帰るという暮らし…映像で見ただけではむろん理解できないことも多いだろうが、何故という問いが次々と出てくる。

 どうしてそこに住み続けるのか
 どうしてテレビで見る暮らしに憧れないのか
 どうしてそんな(危険な)選択をするのか

 そう言語化して気づくのだが、自分がもしそんなふうに問われたら、どう答えるのか、的確で強固な言葉を持っているのか、ふと揺らぐ心も確かにある。

 いくら不便でもそこに住み続けるのは、自分が居る場所だと思うから。それが幸せに通じると信じているから。もしくは離れるだけの気力がないから…。
 テレビで見る暮らしに憧れても、すぐに距離は縮まらないことを知っている。少しずつ少しずつ近くなってくるものだ、という認識を持っているから。

 これは、そのジョラサ村に住む人々の気持ちを代弁したわけではないが、この程度にしか予想できない。
 いずれ、もっと強い信仰のようなものが心を支えているのだろうが。

 妻が欲しがったという洗濯機。それは今確かに幸せの象徴なのだろう。それを黙々と背負って歩む夫。
 考えてみると、対照的とも言える「物品の便利さ」と「強靭な体力で危険を冒して運ぶ難儀さ」がミックスされている。

 文明を運ぶ文化…この落差に戸惑いを感じたのは私だけだったろうか。
 そして、おそらくは文化は文明に蝕まれていくだろう。
 いや、そんな軽率な結論付けはできないか。
 ジョラサ村の文化とは私たちが考えるそんなひ弱なものではないかもしれない。

 ふと、良作と名高い中国映画「山の郵便配達」を思い出した。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E3%81%AE%E9%83%B5%E4%BE%BF%E9%85%8D%E9%81%94

 何かを伝える、届けるということは、幸福につながるとても大きな行為だと思う。
 内容そのものが大事であることは言うまでもないが、もしかしたらそれ以上に、手段が何であるか、どうであったかは、伝える側にとって途方もなく大きい問題ではないかということを、今さらながら考えさせてくれる。

学力向上フォーラムで考える

2010年11月23日 | 雑記帳
 「学力向上県民フォーラム」という催しがあり参加した。

 (いくつかの報道↓)

 http://ten.tokyo-shoseki.co.jp/news/detail.php?id=20101122174519

 http://www.sakigake.jp/p/akita/news.jsp?kc=20101121d

 http://mytown.asahi.com/areanews/akita/TKY201011200239.html

 午前は授業公開。午後からパネルディスカッションがあり、そのテーマは「秋田と福井の教育 徹底討論!」というものだった。
 パネリストとして、秋田大の阿部昇教授、福井県から牧野義務教育課長、そして小学館の矢ノ浦記者という三名が登壇された。

 なにしろランクとしては「全国トップ」の二県であるので、お互いに褒め合いのような形になるのは仕方ないかもしれない。
 まして「当たり前」と感じてやってきた教職員が多いなかで、そこから得られるものはどれほどのものかと若干首を傾げたくなるが、いくつか納得できた点、考えさせられたことがあったのでメモしておきたい。

 全国学力テストのランクが高いということは、おそらくやっていることは似かよっているのだろうという予想がつく。いくつかの共通点が出された。
 しかし興味深いのは相違点だ。

 阿部教授は、施策としての人的な配置を、学習面では秋田がTT重視、福井が少人数指導、習熟別重視と分けた。この発想の違いも突き詰めてみれば面白いだろう。
 そしてこれは、矢ノ浦記者が「秋田~農村型の教職員風土~内向的、同一歩調…」、「福井~商工型の教職員風土~外向的、一工夫してしたい…」などという仮説を立てたことと大きく重なるように思えた。

 さて「トップ層(全問正解者)の育て方」という話題になったときに、阿部教授が、授業改善のことはもちろんとして「宿題から家庭学習、自学などへのステップ」を挙げられた。なるほどと思いつつ少し気になっていたことが頭に浮かんだ。

 宿題で習慣づけて、徐々に自分で内容を決めて取り組む形にしていることが、様々な問題への対応力も育てているのではないかということはわかる。
 ただそれが、例えば「苦手な漢字の書き取り」「難しい計算式の練習」というような弱点補強が中心だとすれば、あるいはテストの類似問題への取り組みだとすれば、それは少々さみしいことだ。

 もちろんかつて自分も特定の子に特定の内容を指示して集中して行わせたこともある。計算が苦手な子、視写が極端に遅い子…何人かの顔が浮かぶ。
 しかし、「自学」という場合はやはり子どもの意欲を喚起する内容を半分は取り入れていくべきだと思う。そうしてやってきたつもりだ。

 理想は、その日の授業との連動であろう。
 発展的な調べ学習や自己発見的な内容になったら素晴らしい。
 それが駄目なら、得意なこと、好きなことの継続である。
 そのために教師はもっともっとメニューを豊富に提示していけることが求められる。
 そうやってこそ、家庭学習において子どもは意欲を高めるのではないか。

 学ぶ意味をあまり手近に求めるような習慣をつけてはならないと思う。

チャリーンと音を立てる言葉

2010年11月22日 | 読書
 『子育て貯金箱』(伊藤善重著 新風舎) 

 いいタイトルである。
 子育てに関する言葉を「貯金」している感じでメモを続けている身としては、実に心強い。そして、またこの本にはチャリーンと音を立てて、中に入れたい言葉が随所にある。

 序章は「教育の目的」である。

 大上段に構えて毎日を生きている訳ではないが、肝心なことは時々問いかけねばならない。
 おびただしい出版物、公的な書類には本当にたくさんの立派な「目的・目標」が言語化されているが、では具体的にはどうなんだと問いかけられると、ずばりと言い切れるものか。
 その面で、このフレーズの気持ちの良さ、爽快さは格別である。

 極論すれば、役立つ人になりたいと生徒が思えばその教育は成功であり、その自覚がもてない教育は失敗である。

 自活力、自立は、そのために身につけるものだと言いきっている。
 そしてその目で現在の教科書を見ると、「目的が霞んでいます」とも書いている。
 確かに福祉やボランティアのことが大きく取り扱われてはきたが、どこか表層的な印象を持つ。

 ここにも痛快な言葉がある。こんなふうに「評価基準」を使った文は初めて見た気がする。

 教育の評価基準は、人が三十才でどれだけの生活力を持ち、生き甲斐をもって生活するかに尽きます。
 
 今、三十才をどのように評価するか。
 社会環境という条件をひとまず横に置いて、教育の評価としてどうなのかと冷静に見渡すことも意義があろう。
 受け持った一人一人に訊いてみたい気持ちがわいてくる。

不自然と無理を重ねる

2010年11月20日 | 雑記帳
 ぎょうせいで発刊している月刊誌『悠+』12月号の特集は、「言語活動でつくる“考える”授業」である。
 巻頭論文に続いて事例がいくつか続き、最後に提言として野口芳宏先生が執筆されている。

 「教師の言葉力を鍛えよう~教授話法を中心に」 

 先生ならではの内容であるし、先生ほどこの提言にふさわしい方はいらっしゃらないだろう。
 こうした内容は何度か読んでいるはずとは思いつつ、一番にそのページをめくってみる。

 「まずは教師自身の言語活動が前提」…何事にもそういう構えを崩さずに私たちを導いてくれる先生の文章には、同じテーマであっても必ず新鮮なキーワードが提示される。
 そこは本当に凡人には遠い境地である。
 今回、私の心をとらえた言葉はこれである。

 価値ある不自然  価値ある無理

 公務として授業で語られる言葉は、「常より大きく、常よりはっきり、常よりゆっくり」あるべきである。
 それは、たしかにある程度不自然であり、多少の無理をしていることだ。
 しかし、そのことによって子供に届くわけであり、そこでの「自然」や「普通」はいわば、構えのなさ、工夫のなさを示しているに過ぎない。

 「自然でさりげない話し方によって心に染みた」などという言い方を聞くことがあるが、それらは達人、名人の話である。
 しかもそうした方々は、不自然と無理を重ねたことによって、そう感じさせないものを身につけたに過ぎないのではないだろうか。

 勘違いしてはいけない。
 まだまだ不自然と無理を重ねなければならない。

結構怖いトラウマとは

2010年11月19日 | 雑記帳
 トラウマって言葉を初めて目にしたのはいつなんだろう。
 たぶん、大学の心理学のテキストかなにかだろうと思う。
 文字よりも先に聞いたのだったら、「虎の顔をした馬」とか「ゼブラの変形」とか思ってしまう性質なので覚えているだろうから、きっと教科書っぽいもので文字として見たに違いない。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E7%9A%84%E5%A4%96%E5%82%B7

 それはそうと、その言葉を聞いてあれっと思った瞬間を覚えていることがある。
 かなり以前の話だが、自分がかつて受け持った子(もちろん成人した)が
「小学校時代に先生から受け持ってもらったことがトラウマになって…」
と衝撃的なことを吐いたのである。

 ええっと思ったが、ここでは「心的外傷」に関する詳しい理解もないままだったので、反論もケアもできないままだった。
 まあ今思い返しても、その使い方はないんじゃないの…という程度なので、大勢に影響はないだろう(そう思い込もう)。

 このように、簡単に「トラウマ」を連呼することが増えたんじゃないかなという気がしている。
 「傷つきやすい症候群」とやらが、単なるその場の傷でなく、ずっと跡まで残るようなイメージをもって、心配したり不安がったり、そして他人を責めたりしているのではないか。

 いっぱい傷をつけて大きくなれ!その数が勲章なんだよう!と大きく叫んでやりたい気もするが、それを到底できないと思ってしまうのは、何故なんだ。

 トラウマか?  
 何の? 
 そういうのは意気地がないだけなんだよ。

 新しい言葉にとびつくのは、今までにない現象が出てきたなら仕方ないが、トラウマと呼ばなくてもいいことを、いや正確にはトラウマでないものをそう呼ぶ事で実際の症状が改善できるのだろうか。
 その言葉自身によってずぶずぶと傷を大きく感じてしまう、そんな悪い回転になっているのではないか、

 さて、今回ある冊子を読んでいて、マイクロトラウマという新しい言葉を知ったのは収穫だった。
 アメリカの臨床心理学の専門家たちの中で流行語のように使われているらしい。
 「小さな嫌な経験を何度も受けることによって生じる心の傷」というとらえ方である。
 例を見ると、生活の様々な場面でマイクロトラウマにつながる言葉かけはある。積み重ねられる性質のものは結構怖いと思う。

内なる息子魂が疼く

2010年11月18日 | 読書
 『ああ息子』(西原理恵子+母さんズ 毎日新聞社) 

 人気漫画「毎日かあさん」が発端になり、投稿を求めた「息子ネタ」が大きく反響を呼び、一冊の本になったということだ。もちろん西原の漫画も随所に散りばめられている。

 幸いなことに?息子を育てた経験がない。
 しかし、私はかつて、いや今も、確かに誰かの息子なわけで、その意味では興味深い事例?の連続だった。
 もちろん自分自身はここに投稿されたような出来事はしていない(つもり)。品行方正な幼年、少年時代だったと思う。

 ただ、書かれているなかに我が内なる「息子魂」が疼く場面が確かにあった。

 戦の章
 
 広い牧場に行った時にどこまでも「ウォー」と言って走り出すとか、自分たちのいつもいる場所に知らない連中が来たときに、かなり大げさな言葉で強がってみるとか…そして極めつけは、台風や大雨のときに、叫んで外を走りたくなったり、何か対決を挑んだりしたくなる、そんな感覚である。

 そういえば小学生の頃、仲間と他人の傘で遊び壊してしまったので、担任の先生に「直してこい」と授業時間中に学校から出され、傘屋を探して半日さまよった思い出がある。
 なんと良き時代かな。

 ところで、かなり前から感じていたのだが、なぜか暴風雪の日に心が浮き立つような気分になることがある。
 心理学や脳科学などでもこうした例はあるのかもしれないが、何かの折に話したら、周囲に変な顔で見られたことがあり、やはり一般的なことではないらしい。
 ところが、ある時同じようなことを言う同僚がいたので、なぜか安心し、一層親近感がわいた記憶がある。

 もっとも、これからの季節に毎日暴風雪などを期待しているわけではなく、仮にあったとしても、我が内なる息子魂が暴走しないように、温かい部屋でゴロロンとして、西原の漫画でも読んで笑っていた方が、「平和」ということなのです。


 それにしても、戦の章に挿入されている西原の漫画は、わかる人はわかるだろう。
 こんな台詞です。

 メリーポピンズは放映禁止映画だと思う。