すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ロンドを楽しむ

2017年01月31日 | 読書
2017読了10
『疾風ロンド』(東野圭吾  実業之日本社文庫)

 久しぶりの東野作品。少し前に映画化されていたと思うが、観ていない。多くの作品もそうであるように、やはり映像に合いそうな文章だ。今回はスキー場の場面が圧倒的に多く、雪国生まれとしてはイメージ化しやすく、いつも以上にすらすら読めた気がする。また、次はこうかと筋の予想が出やすい?話だった。



 予定調和なんて言葉を使うのはふさわしくないだろうが、ある人物が出てくると必ずこの後絡むはずと思えたり、この大事な品はどこかで移動すると予想できたりするので、案外易しい筋立てなのかなと一瞬思う。しかしそこは稀代のベストセラー作家。いろんな箇所で様々に読み手の予想を上回って展開させている。


 さらに、いわば脇役となる登場人物のサイドストーリー的な点も、現代の世相にあることを取り上げていて、このあたりのリサーチ力こそ売れっ子の売れっ子たる所以かと思う。ところで、題名の「ロンド」とはどういう意味だっけ…、読み終えてから湧きあがった。たしか音楽用語だった…輪舞曲、回旋曲とあった。


 「輪になって踊る舞踏」とともに「繰り返される主題の間に別の副主題がはさまれるもの」という意味もある。そうかあ、雪山の生物兵器探索という大きな流れの中に、ボード選手の葛藤や家族内の問題などを入れ込んでいることを見事に表していると、感服してしまった。このあたりのセンスもスタイリッシュだ。


 「どこかで誰かが不幸に見舞われた時、他の者が考えなきゃいけないことは、自分たちも同じような不幸に見舞われないよう用心して、精一杯幸せを作り出して、その気の毒な人にも幸せが回るようにすること…」。きっとこの素敵な言葉は映画の台詞になる。誰がその役か興味が湧いた。麻生祐未だった。これは適役だ。

「新しい道徳」は進んだのか

2017年01月30日 | 読書
2017読了9
『新しい道徳』(藤原和博 ちくまプリマ―新書)

 およそ10年前の発刊。著者が和田中学校の民間人校長として脚光を浴びていた時期の著書である。『新しい道徳』という書名で思い浮かぶのは、一昨年に北野武が書いたベストセラー。それに学校で使われる副読本にも、そういうタイトルを冠したものがあったはずである。そう思い起こすと、いったい何が「新しい」かだ。


 道徳とはある一定の社会の中で通用するものだから、地域や時代、状況によって違いがある。従って詭弁を弄するようであるが、道徳は常に新しいのが当たり前である。それは一刻一刻時が過ぎるからであり、その更新速度の違い、濃淡に差はあるといえ、人々の道徳観は変わり続ける。どこで区切るかなのである。



 道徳の教科化が決定し、動き出している。この著が発刊されてからの10年をそこまでの過程と考え、語られていることに沿って注目してみる。大きな観点として「正解」から「納得解」、言い換えれば「一般解」から「特殊解」といったことがあるのは確かである。それは時代の流れとも言える。道徳に反映されたのか。


 著者は「新しい道徳」の中心として「コミュニティに生きる人々の『美意識』」を挙げ、日本には根付かない宗教の替わりに「学校を核にして地域社会を再生していく」ことを強調する。自らが積極的に働きかけ進めてきた芯でもあろう。そして、この書の締め括りを、こんな一文にするのである。

 日本では、もし「教会」の替わりが務まる組織があるとすれば、それは「学校」しかないからだ。

 かなり強烈なこの「提案」が、ここ10年間でこの国で進んだことと照らし合わせてみると、その結果(途中経過)も明らかになるのではないか。


 ハードとして顕著なのは、学校の統廃合が進んだことだ。これを「組織」の減少とみるか、再編とみるか。培われる「美意識」のためにプラスとなりえるか。プラスにするための努力が意識されているか…政治の問題である。「組織」の中で働く者たちには状況変化の自覚はあっても、手立て更新のハードルは高い。


 ソフトは種々だが、教員免許の更新制スタートも大きい。研修そのものの意義は疑わないが、このような一律な方法が「納得解」と呼べるか、根本的に疑問を持つ。目指すところと真逆の手法で進むのが、我が国の倣いか。そういえば、担当省庁の「天下り」問題の持つ価値観を、新しいと呼べないことは明らかである。

寒中見聞録

2017年01月29日 | 雑記帳
 アニメを映画館で観たのは十数年ぶりになる。今はもうない大曲の月岡劇場で、次女と一緒に『千と千尋の神隠し』を観た。それ以来の作品は「大人向けのアニメーション」と話題の『この世界の片隅に』。ある意味平凡で淡々とした構成だが、戦時下の暮らしがじわじわと入り込む。主演「のん」の声があまりにハマる。



 「稀勢の里」の報道で、ええっと思ったのは某TVのテロップに「キセノン」とあったこと。検索したら、わずかであったが2015年あたりから載っていた。力士に愛称があるのは「ウルフ」(千代の富士)程度ならいいが、キセノンは、何やらゆるキャラめいていて、どうにも締まらない。本場所の掛け声にはならない。


 「世界終末時計」がトランプ発言で30秒縮まり2分半になったという。「終末時計」の存在を初めて知ったし、時間換算がどうなるかも詳しく知らない。しかし納得したことは、科学者たちの発信したこの時計が「終末」に向かうのは確かだが、残り時間の変更が可能である点。それは個人も同様だ。やり直しはきく。


 TVドラマを観ていて最近目立つと感じていること。映像に状況を説明するようなデザイン文字が入ってきたり、ジャンルに関係なくお笑いに持っていったりする傾向が多い。さらに、偶然かもしれないが居酒屋シーンが頻出する。そこには家族や知り合いが多く居て…。これはたぶん安心安全の強調だ!唐突の仮説。


 アンチエイジングで有名な南雲吉則医師の講演を聴いた。自称健康オタクの私でも知らない最新知識が紹介され、実に興味深かった。それ以上に内容の構成や話しぶりが練られているし、なにより筋のある人生観が印象深い。何のために伝えるか、伝えたいことをどう展開させるか、学ぶべきことの多い70分間だった。

旧暦元日に、点を打つ

2017年01月28日 | 読書
Volume37

「将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎ合わせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。」

 2005年6月、米スタンフォード大学卒業式でのあの有名なスピーチで。スティーブ・ジョブズが語った一節である。

 できるだけ、計画的・意図的そして継続的ということを頭に染み込ませるように仕事をしてきたと思う。
 それは、指導ということについての師の教えでもあった。

 しかし一方で、何かをなし得たと感じたのは、やはり目の前の一時一時の点を強く打つことに精を出したときだったことは否定できない。

 相反する構えとは言えないが、齢を重ねてくると「将来」の見え方に変化が生ずることは否めないし、計画性より即時性が強くはなっているだろう。



 まず「点を打つ」ということに意図的であれば、それなりの充実は得られるだろう。
 それを成果とか足跡といった言葉で評価するのは他者であり、自分には案外見えないものなのだ。

 「ぽち」という黒点を記しつつ、たまには句読点を打っていく毎日であればいい。
 
 そんなふうに思う、今日は旧暦元日である。

ウンヌンとデンデンと

2017年01月27日 | 雑記帳
 首相の「云々」の読み間違い報道を見ながら、「云」という字について、自分があまり理解していないことに気づかされる。「うんぬん」は読める。さらに「云う」を「いう」と読むこと。漢字のつくりとして使うのは「伝」「雲」…あとは何があるだろう。ぱっと思い浮かばない。そもそも「云」はどういう意味なのか。


 学研漢和大辞典によると、「云」の意味は確かに「いう」であるが「口ごもって声を出す」と説明されている。さらに助詞として「ここに」の意味もある。語調を整える働きがあり、「云々」は「それ以下を省略する場合に用いる」ことにつながる。大発見(笑)は、読み方として「うんぬん」だけでなく「うんうん」もある。(注:「でんでん」はありませんでした)



 『字解』には「云が雲のもとの字である」と記されている。これは漢和辞典にも共通していて、さらに詳しく「息や空気が曲折して立ち上がるさまを示す指事文字で、もと、口の中に息がとぐろを巻いて口ごもること。雲(もくもくとあがる水気)の原字」とされている。「云々」の語感にあるもやもや感?に通ずる。


 「云」の使われる漢字はあまり思いつかない。調べると「呍」「抎」「紜」「运」「耘」「耺」…これらはすべて「うん」と読む。しかし初見では意味がつかめない。ちなみに「紜」は「乱れもつれる」、「耘」は「土をもくもくとこね回す」とある。いずれ、もやもやとした雲のイメージなんだろう。おっ「魂」もそうか。


 首相はもやもやした感じを好まない性分のようだから、思い込んで「云云」が「伝伝」と見えたかもしれない。「デンデン」という調子もイケイケな感じがする。「伝」はもともと「傳」であり、「專」は「まるく転がる」という意味。なんだかデンデンがドンドンに転がる気も…。しかし「訂正ドンドン」は少々困る。

神様が宿るような…

2017年01月26日 | 雑記帳
 「この頃、ワギャモノさ、マブって言ってもわがらね。『セッピ』と言わねばな」と、母の一年祭で一緒になった従弟が語った。そうかもしれんなあ。マブ自体は時代変化に関わりなく、毎冬見られるし、通常の語彙としてまだ通用すると思っていたが、進行は案外早いようだ。ボッコ、シガ、ホドユギあたりも危険か。


 念のため開いてみた『秋田のことば』で、面白い誤植?を発見。「まぶ(まんぶ)」の箇所で、「雪の吹き溜まり」と説明し、セッピを「雪屁」と記してある。しかも二か所。正式には「雪庇」。「庇(ひさし)」の形状から名付けられたはずだ。それを「屁」とは…。そのイメージはちょっと下品だし、屁みたいなものでもない。


 
 冬に関する語彙で思い出したのは、先日乗った代行運転の方との会話。「降ってきたんしなぁ」と始まり、昔の除雪、朝の様子など話しているうちに、「あれ、あれはなんという名前だっけ」ともはや定番の物忘れモードの口癖。私より十歳程度年下の運転手の方も、形状は思い浮かぶが「あれ、あれええ」と悩んでいる。


 「藁で編んだやつで、丸くて、道つけるときに…、ヘドロンコでなくて…」結局、翌朝突然思い出した「フミダラ」。正確には「踏俵(フミダワラ)」。除雪などできなかった小屋への通路は、よくそれを使って踏まされていた。ちなみに、踏俵は広辞苑に「相撲用語」としか載っていない。しかし日本国語大辞典には在る。


 『秋田のことば』にはフミダラの見出しはないが、「藁靴いろいろ」というコラムに「ふみだら」として「雪深い地方でこれを履いて新雪を踏み固めた」とある。ふと『わらぐつの中の神様』という物語を思い出す。神様が宿るモノがだんだん少なくなり、彷徨い始めたので荒れた冬空になるんだと勝手な妄想をしてしまう。

作家は著すために見る

2017年01月25日 | 読書
2017読了8
『リアスの子』(熊谷達也 光文社文庫)

 記録を見ると、熊谷達也作品を読み込んだのは2008年。直木賞作品を中心とした、いわゆるマタギモノがあまりに素晴らしい出来で、それ以降はちょっと冴えない印象を持っている。ただこの作品はちょっと違う意味付けかなと感じた。それは教師経験のある作家が、気仙沼を舞台に、あの震災以降に著したということだ。


 「唯一、わたしにできること」と題されたあとがきに、著者は震災を体験したあとの正直な思いを記している。

 少し考えれば想像が及びそうな事態を前に、馬鹿みたいに言葉を失っていた。その情けないまでの想像力のなさに、わたし自身が呆れ果てた。小説を書く者には許されない想像力の欠如である。


 「書けない」と悩んだ著者は、作家としての意味を見つけるために「仙河海市の物語」を、教師体験をもとに書き始めた。それは、モデルである気仙沼に、実際にそこで生まれ育った教え子たちが現在もいて、一緒に何かを作っていきたいからと願ったからであった。それは、表現者としての自分の復興でもあるようだ。



 話の筋は、取り立てて劇的とはいえない。『新参教師』にもあったが、学校という特殊な職場状況や現場でしか見えない詳細は、確かによく書き込まれている。経験者の一人としてはよくわかるゆえ、説明が饒舌な印象もあるし、話の流れをぎくしゃくさせている要素も感じた。しかしそれも含めて正直な筆致だと思う。


 要約すれば、平凡な男性教師が事情のある一人の女子転校生との関わりを通して心を通わせていく、ということ。エピローグ的な設定として、駅伝が取り上げられていた。陸上競技部顧問としてのチーム編成の考え方がそこで綴られるが、震災後の復興を支える大きなテーマと結びつくような…深読みになるだろうか。

流れが引き寄せる勝負の神

2017年01月24日 | 雑記帳
 ポイントは九日目にあったと思う。稀勢の里が琴奨菊に敗れ一敗となった日に、白鵬が高安に負け二敗となった。場所前の稽古情報では、琴奨菊に押し込まれていた稀勢の里が途中で止めたことについて、審判部長は「だから、横綱になれないんだ」と口にしたと言う。その心情もわかるが、当事者の行動にも訳がある。


 求めたいのは気迫、精神力。ただ、それをどのように発揮するかは一律ではない。大相撲という極めて日本的なパターナル社会の中でも認めざるを得ない。しかし、もし一敗で並んだ場合のメンタルを考えれば、その後の取組の不安要素は、比べ物にならなかっただろう。その日の勝負の神が微笑んだというべきか。


 もちろん、稀勢の里の優勝、昇進には難癖をつけるわけではない。昨年の秋場所初日、初の大相撲観戦をした時のイメージが印象的だったゆえに、「流れ」というものは実に面白いものだなと改めて感じるのだ。「綱取り」がしつこく繰り返された秋場所と、今場所初日が持っていた雰囲気には135度ほど(笑)の違いがあった。


 2016秋場所関連
 白鵬つれて国技館①
http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/8d73782ece0c75c909707b20a26b23e5

 白鵬連れて国技館②
http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/6c5521558b92ba603686b078d1c33327

 二手前から振り返る
http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/8d73782ece0c75c909707b20a26b23e5



 稀勢の里報道に埋もれているが、実は沢山の見どころがあった場所だ。御嶽海などの若手の活躍、そして豪風の好成績と勝ち方。得意パターンを築いたか。二度あった投げ技の痛快さ。十分に楽しませてもらった。数年前に、勤務校の長い廊下を肩を並べて(笑)歩いたことが思い出され、晴れがましい気持ちになった。

軽快さの訳を見る

2017年01月23日 | 読書
 重いことに価値があると考えてしまうのはもう古い!と言い訳しつつ、軽い読書で頭をほぐしているこの頃…


2017読了6
『人生の言い訳』(高田純次  廣済堂出版)

 テキトーという言葉を背負う男、高田純次。以前読んだ『適当論』も面白かった。今回は「言い訳」という言葉が多用されるが、ニュアンスとしては、「申し開き・弁解」というより「理由づけの活用法」ではないかと思った。どこをとっても「はぐらかし」文体で落とすが、結局それはいかに俯瞰的かを物語っている。


 授賞シーンなどのコメントについて書いている箇所が面白かった。日本でも肉親や周囲に対して感謝を述べることが一般的になってきたのは、アメリカのように「他人を攻撃する文化」に染まってきたからと指摘する。言わずともわかる「村社会」には潔さの価値が高かった。だから「言い訳」は好まれなかったのだ。



2017読了7
『死なない練習』(長友啓典  講談社)

 論理として成り立たない題名。従って正確には「ちょっとやそっとでは、死なない練習」、具体的には「ガンになって入院しても、死なない練習」ということ。入院時の詳細、前後の心がけなど独特な視点が面白い。美食家、健啖家として有名な著者が食道がんを経験し、様々な制限を受けるなかで辿り着いた境地である。


 読み終わり、ふと「練習」について考える。この著は「練習の本質」を見事にとらえている内容だ。つまり、練習とは「習慣化を図ること」である。そして、そのある意味単調な繰り返しを支える「姿勢、心がけ」が必要である。最終章「三つの呪文」に見られる大阪人らしい明朗さと、鋭い「自分観察」が底にある。

無駄な行為で社会貢献

2017年01月22日 | 読書
volume36

「一見、単純でむだと思われる行為を増やすこと。それは日本経済の活性化にはつながらないかもしれないけど、安全・安心な社会を生むという社会的資本になります。」

 山極寿一京都大学総長は、こう語って「生身のコミュニケーション」の大事さを繰り返して強調していた。
 みんなで集まって食べながら話す、井戸端会議のようなことを続けていく工夫の重要性を指摘している。



 「社会的資本」とは、この場合には社会を支える大切なものという喩えととらえられるだろう。
 しかし「資本」のもともとの意味である「生産の要素、手段」として考えてみたら、どうだろう。

 「生産」とは、そもそも何のためなのかを、この国の現状と照らし合わせ考えた場合、衣食住の上に成り立つコミュニケーションこそ目的ではないかという気もしてくる。

 IT化によって脳化社会がますます進み、生身のことがどんどん薄まっていく。もちろん自分も含めて、という自覚もある。

 もっと身体(手足や口耳)を使って、無駄と見えるようなことをしながら、安心・安全な社会づくりに貢献しなければ(笑)。