すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

解するという重み

2008年09月30日 | 読書
 リーダーの最も肝要な資質、条件はと問われたらどう答えたらよいだろう。
私は、躊躇無く次のように応える。それは「本質、根本を解する」ということである。これに尽きる、と思っている。

 『道徳教育改革 第7号』の連載に野口芳宏先生はそう書かれた。

 学級担任であれ、教科担任であれ、校長であれ、その場面でリーダーの役割を担うことが最も大きな仕事である。
 学級づくりとは何か、授業とは何か、学校とは何か…ひと通りの「本質」「根本」の理解はおそらくしている。
 しかし、この理解がどれほどの強さで沁みているのかどうか…この言葉を読むと少しぐらついてしまう自分を感じる。

 どこかで見かけた文章を単になぞる言い方をしているのではないだろうか。
 自分がその本質、根本として解したことを、日々の現場で実践していない限り、その不安は常に付きまとうことになる。
 借りてきた表現が借りっぱなしであっても構わないのは、しっかりと離れずその人格の一部になっている場合ではないか。

 解するとは、実際の行動の連続を指している。

自覚的偽善でヨロヨロ

2008年09月28日 | 読書
 『私の嫌いな10の人びと』(中島義道著 新潮文庫)を読む。

 中島義道の本は以前にも読んだことがあるが、今回もかなり強烈だ。
 中島の講演会には結構人が集まるが、講演後「『気に入らない』と私に訴える」人が出てくるという。
 その講演を聴きにいく人の気持ちが、なんとなくわかる気がする。たぶん、近くでそんな機会があったら私もいそいそ出かけ、聞き終わってから直接訴えはしないにしろ腹が立つ気分を抱えることになるのではないか。十分に予想されることだ。

 「10の人びと」とは、常識的には「いい人」であることを象徴している存在である。
 例えば…

 常に感謝の気持ちを忘れない人
 いつも前向きに生きている人
 「けじめ」を大切にする人
 …

 しかし少し立ち止まってそれらの行動を眺めたとき、明らかに今の社会が透けて見えることも確かだ。
 だからある面痛快ではあるが、その論理を自分自身に当てはめたとき、どうしようもなく反発するか自己嫌悪に陥るかのどちらかだろう。
 そして、その後どうするか…。これが難しい。
 解説の麻木久仁子は「『無自覚な独善』というゆりかごからはいだし、『自覚的偽善』という道をヨロヨロと歩む…」と書く。
 その心情はやはり無念だし、本当にそれらを抱えていけるのか不安もいっぱいだ。

 それだけ、この哲学者の言い分は見事だと思ってしまう。講演を聴いて精神に支障をきたす学生がいるそうだが、十分に予想される。
 例えば、こんなふうにぐさりと刺されるから。

 いちばん手抜きがしやすい方法は、しかも安全な方法は何か?大多数と同じ言葉を使い、同じ感受性に留まっていることです。


三つの角度から考える習慣

2008年09月27日 | 読書
 『七田式 フィンランドメソッドで「頭のよい子」が育つ本』(イースト・プレス)を読んだ。

 数多く紙幅が割かれているのは「マインドマップ」についてであり、そのメリットや具体的な例が繰り返し出てくる。
 まだ本格的に手を出していない手法ではあるが、興味があり試行錯誤している現在なので十分に活用できそうだ。

 天才「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の7つの習慣に学べ、というパートが面白かった。
 7つそれぞれが関連を持ち相互につながっているのだが、特に納得させられたのは「いつも人と違う視点から見る習慣」である。

 少なくとも三つの角度から考えるという習慣が子どものころからあったのです

 ダ・ヴィンチは絵を描くにも、前、横、下から見る習慣を身につけていたという。
 ノートには発見や学び、ひらめきを書きつけていたというが、それもきっと複眼的なメモになっていのかもしれない。それはマインドマップ的な手法に通じていくのだろう。

 たとえば、昨日理容店にいったことのような日常的な出来事を思い浮かべても、これを自分の視点で書くか、店の人の立場で書くか、家族の立場で書くか…というように三つ程度ならすぐに可能である。
 要はそれをフォーマット化し、繰り返すことである。複眼的な見方や批判的な思考はそうやって養われる。

 読解力向上の決め手は「練習」だとフィンランドの教師は語るという。
 どういう練習を、どの程度やっていくか、これは授業づくりにも教科経営にも直結することである。

「さち」の道具

2008年09月26日 | 雑記帳
 蜂飼耳という若い詩人の文章に出会った。

 『古事記』に次のような一節があるという。

 火遠理命、海さちを以て魚を釣るに、都て一つの魚も得ず

 海の獲物をとる兄「海佐知琵古」から釣り針を借りた、山の獲物をとる弟「山佐知琵古」は、海へ出ていくら釣っても魚は釣れなかった。「さち」は獲物であると同時に、獲物をとるための道具も意味しているという記述になっているそうだ。
 「さち」は紛れもなく「幸」である。

 手段でもあり、収穫でもある

 数多の幸福論が出版され、語られているが、結局上の言葉に集約できそうな気がする。
 「幸せを求める」という表現は半分の意味しか持たず、対象ばかりではなく手段や道筋そのものを指しているということ。

 もっと原典に返って考えるならば、幸の一つは道具であり、自分は何かそのための道具を持っているだろうか、という思いも湧く。

 それが、今普通に人間社会にある道具である場合もあるだろうし(例えばペン、鉋、車…)、自らの知識や体力という場合もあるだろうな、と漠然と考える。
 それらの混合はもちろんあることなのだが、きっと道具を最大限に意識できている人間の方が「さち」を感じているはずだ。

共通意思形成は難関

2008年09月25日 | 読書
 『教師のための「クラス・マネジメント」入門』(岡本薫著 日本標準)を読み終えた。
 今まで読んできた著書同様に、ふだん何気なく使っている言葉に対して目を見開かされることが多かった。
 また、漠然と似たような思いを抱いていたことがずばりと言い表わされている(つまり、断言できない自分の弱さに気づかされる)、その点では小気味のよい本だった。

 「プロ」=「お金をもらっている人」ではない

 もちろんこれはテレビ番組で有名人が語るというようなスタンスではなく、もともとの語義から論を進め、日本の教員養成や教職研修の在り方に大きな疑問を投げつけている言葉だ。
 「高度な専門的職能」を意味するプロフェッションを担う者…免許更新制が大きく動き出している現在、それをどう具現化するか、文科省は大きなマネジメントであることを意識しているのだろうか。

 中心をなす「クラス・マネジメント」については、次の言葉が実に明快だ。

 「期間内に達成可能な具体的目標」をつねに持つ

 それがマネジメントの基本であり、また応用範囲の広い枠組みでもあると思う。自分の仕事の振り返りにとっても有効なポイントだ。

 さて、この本は「マネジメントの専門家」である著者が、出版社を通じて延べ45人の教師から意見を聴いて出来上がったものだという。たくさんの具体例もCASEという形で示され、岡本氏のコメントがついている。
 後半に「共通意思形成」が大きく出てくる。校長との共通意思形成、保護者との共通意思形成、同僚との…、子どもたちとの…。

 ここは現実場面として一番難しいところではないか。現状把握から原因特定、そして具体的な目標を設定し、手段も的確に選択するところまではいいが、その次として他者との関係がクローズアップされる。情報を共有するという段階は、そこで初めて登場するわけでなく最初の現状把握から必要なわけで、それを踏まえてこそ納得を得られる、説得力のある説明になってくるのだろう。
 従って、ここに係る労力と時間はたぶん著者の想像を超えるのではないだろうか。

 マネジメントの本質についての理解が進まない世の中であることは、著者の指摘通りである。従ってこの著書もある意味では「共通意思形成」に向けての発信なのだろう。
 十分参考になったが、具体性を持たせるのは自分たちなのだと改めて思う。そのためには正直チェックポイントが多すぎ、絞り込めないものかと悩んでしまう。

貫くことを象徴する言葉

2008年09月22日 | 読書
 立川談四楼という著者名と『師匠!』という題名の文庫本を見て、中身ももちろん帯に書いてあることにも目を通さずに、ああこれは談志のことに違いないと買ったのは先週のこと。
 土曜の朝にぼけっと寝転がって読み始めたら、これは短編集ではないか。もちろん落語界の師弟がテーマになっているわけだが、あれれえっと自分のおっちょこちょいさを反省した読み始めだった。
 いやいやしかし、これがするするっと読めていく。設定や展開もなかなか面白い。あっというまの2時間だった。

 談四楼は、立川流の第一期真打であるそうな。落語は聞いたときはないが、文章は上手だなあ。『赤めだか』の談春にも唸らされたが、こちらも相当に筆が立つ。
 既刊である『シャレのち曇り』もさっそく読んでみたい。

 さて五編の小説はどれも人物の輪郭がはっきりしていて、筋立ても見事だ。きっと画像にしても映えるのではないかと思う。中でも「先立つ幸せ」という作品がぐっと心に迫る。
 主人公の師匠は、踊りの名手である男色の噺家である。そういう設定が全くの異色ではないらしい、ということも新しい発見だった。特殊な世界の裏を垣間見たような気にさせられた。それ以上にこの師弟の格好良さが心に刺さる。
 その師匠の遺書に残された字句が「先立つ幸せ」であるが、何かを貫くことをこれほどまでに象徴できる言葉はそうあるまい。
 そして、そう残せる者は傍目からはドラマティックに人生を過ごしているように見えても、その日常はきっと驚くほど淡々としている。

 もしかしたら、談四楼の本当の師匠もそうなのかもしれない。
 唐突に「こうとしか生きようのない人生がある」という小椋佳が唄った歌詞の一節を思いだす。

特色を転がしてみる

2008年09月20日 | 雑記帳
 ごく普通の言葉を、たまには少し転がしてみるのもいいか。

 特色

 むろん、よく目にする「特色ある学校づくり」などという文言から浮かんだものだ。

 まず、この熟語のでき方は「特→色」であろう。つまり「特な色」。
 特とは「ことにぬきんでること・他とは別であること」
 色とは多義な言葉であるが、広辞苑によればおそらく第四義「ものの趣」の中の「②けはい、きざし、様子」それに「③調子、響き」あたりが当てはまるのではなかろうか。
 従って、同じく広辞苑では「特色」は「①他と異なるところ ②他よりすぐれたところ」と解される。

 講談社の類語大辞典ではどうだろう。
 「性質」の欄に書かれてある。
 「同じ種類の物事において、他とは特に異なっている性質」そして「◇ふつう、すぐれた点についていう」という説明も加えられている。
 あれっと思うのは「性質」なんだ、ということ。性質というとあらかじめ備わっているというイメージが強いが、後天的という場合もあるだろうし、そこはあまり関係ないか。

 「特色を出す」という言い方があるが、これはもともと備わっている、長い期間すぐれた点として認められていることを出すということだろうか。
 「特色を作る」となると、新たにという意味付けか。そもそもある物事に特色があるのかないのか、誰が判断するのか、という思いも浮かぶ。

 ふと、人の特色っていう言い方はしないなあ、と気づく。ただ集団になると、あのチームの特色と言ったりする。ただ兄弟や家族にはそういう使い方はしないから、これはやはり意識的に作られた集団なのだろう。地域の特色という言い方もある。これも歴史的背景や政策などによって形づくられるものだろう。何かの指標に照らし合わせて優れているとか、評判が拡大しているとか、そうして経緯が必ずあるのだと思う。

 さて、「特色ある学校づくり」である。
 そもそも「学校」は特色を持つべきところなのか、という疑問が少し浮かんだりする。
 しかし、それは法令に載っているものである。大切なことに違いない。
 では、なぜ大切なのか。何のメリットがあるのか。
 出すべきものか、それとも作り出すものか。
 そうした学校づくりを進めていくとすれば、一番肝心なことは何なのか…

 と、少しおぼろげながら見えてくることがありました。

もっと「外の闇」を

2008年09月19日 | 読書
 『しつけに使える 学校の妖怪・こわい話』(中嶋郁雄著 学陽書房)を読んだ。

 「教育的な視点」で書かれた、「妖怪伝説」「怪談」の本

と書かれてある。面白い発想の本だと思う。
 たぶん昔からの言い伝えや伝説には、そうした意図で語られたものは多いはずだし、最近(でもないか)では、「もったいないお化け」という強烈なキャラクターもいた。

 小学生に話を聞かせるときに、イメージをどう形づくるかが大切なことで、その点コミカルなタッチで妖怪を列挙しているこの本は活用できるだろう。
 もちろん、総数35の妖怪をすべて登場させてはパニックになるだろう(笑)から、学級の実態に合わせて登場願う数名のお方に絞るべきだろう。担任教師のいい助手役になるかもしれない。

 ところで、私の周囲では最近学校にあまり怪談話が聞かれなくなった。というより、学校でのキャンプや肝試しがあまり行われなくなってきている。
 個人的には最後にやったのが7年前になるだろうか。
 
 昔の木造校舎はもちろん、最近の近代的な校舎であっても理科室、音楽室、そしてトイレなどは絶好のスポットで、恐怖をあおる役回りとしては実にやりがいのある?仕事だった。
 肝試し前のお話役も何回かしているが、これも表現力を鍛えるのには絶好の場だった。

 子どもたちには「闇の体験」が必要だと思う。自然体験としては当然だが、それだけでなく、学校という建物が持つ歴史や因習がそのために利用されてもいいのではないか。人間の集まる所はいついかなる時でも明るくて楽しいものだけではないという真実に気づく場、といったら少し大袈裟か。

 そしてそれを「外の闇」と呼ぶならば、そうした体験が少ない子は「内の闇」を増殖させいくのではないか…そんな考えも浮かぶ。

子故の闇に目を凝らす

2008年09月18日 | 読書
 『せつない話』(山田詠美編 光文社文庫)の中に収められた山口瞳の「庭の砂場」という短編がある。

 文中にある一つの言葉に立ち止まってしまった。

 子故の闇

 初めて目にした言葉であったが、文脈から意味は想像できた。いわゆる「親馬鹿」「盲目の愛」のようなニュアンスなのだろうが、「闇」という響きの重さもあって、なんとなく違う想像が働いた。

 「子を愛する故の闇」と解するのではなく、「子がいる故の闇」ならば、今頻繁に起こる家族間の事件そのもののようにも思える。幼児虐待、子殺し、親子心中…雰囲気としては現在の方が多いようなイメージを持つが、おそらくそれらは古くからあったはずだ。
 愛と憎は背中合わせだが、愛の対極としての無視…子を生すことの意味そのものが問われる。スキャンダラスな事件はその象徴にもなっている。
 それにしても、一昨年本県で立て続けに起こった子どもを殺めた事件の印象が強く、そしてそのどちらも出自や貧困、地域の疲弊が背景として見られたことは、気持ちを深く沈ませる。

 どんなに単純と思われようと、子どもは光であると考えている。未来を照らしてゆく存在である。
 その存在に対して闇の意識が過ぎることはあっても、そこへ溺れることは避けなければならない。
 個々の親子や家族のことは語れないが、それを支える社会、行政、教育…はもっと危機感を強める必要がある。

 子故の闇は、本来の意味においても危険な要素を持つ。曲解した子故の闇と同様にもっと目を凝らさなければならない

「20世紀少年」つながり…2

2008年09月16日 | 雑記帳
 月初めに買っていた雑誌に、『20世紀少年』のインタビュー記事が載っていた。
 インタビューといっても鼎談であり、監督の堤、原作の浦沢直樹、そして主演の唐沢寿明が、まあ気ままに語っているという印象だ。

 原作コミックは「国民的人気漫画」だそうだが、偏った漫画しか読まない自分はその名前さえ知らなかった。
 ともあれ、三人の会話が漫画とロック、フォークとなると、そこはやはり「20世紀少年」だなと強く思う。そこにいたヒーロー、そこにあった正義感、そして反体制へ向かう気持ち、現実とのギャップ、挫折…様々なものが一つの潮流のように感じられる。

 ところで「子ども時代」を語るときに、浦沢が面白いことを言っている。

 「王様は裸だ!」って言う子どもがいるじゃないですか。たぶんいい大人は、それをもっと上手な言い方で表現できるんですよ。

 「いい大人」とは、とらえどころのない言葉ではあるがイメージは浮かぶ。しかし20世紀少年たちが、みんないい大人であればそれで問題が解決できるほど、21世紀は甘くないだろう。
 今この時を見ても「裸の王様」が乱立状態であるが、子どもっぽく真正面から叫ぶ人も、上手な言い方をする人も、みんな揃っているのになかなか現実は変わらない。
 問題は表現したあとのこと、どう動くか、どう続けるか、どうつくり上げていくか…そんな気がする。

 高度経済成長期に育った子どもは、自分がそんなに動かなくても世の中が進んでいく、悪くないようにまわっていく、問題がそこそこ処理されていくという感覚に慣れきっていると思う。もちろん自分も含めて。

 20世紀少年たちの課題は、たぶんそこだ。