『奇跡のリンゴ ~「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』(石川拓治 幻冬舎文庫)
この一冊を、成功物語と括ることは憚られる。
これは警告の書であり、希望の書であると感じた。
何が警告されていたか。
リンゴ栽培に農薬が必要なことは知っていた。しかし、これほどまでに農薬に深く依存し、農薬づけにされながら収穫される実態には思いが及ばなかった。
その不明を恥じながら、読むにつれて重なり合うように浮かんできたのが、仕事上の「教育」のことである。
虫や病気を寄せ付けないための農薬散布が繰り返されることによって、個体の持つ耐性はどんどん下がっていく。リンゴそのものの生命力はどんどん弱っていく。土と木、枝と実の結びつきはきわめて弱く、多くの世話をかけることでしか維持できない畑。
それによって品種改良を重ねられた、見栄えのいい、消費者受けする味のリンゴがどんどん生産されていく。
教育現場や子どもたちの現状と、どこか似ている、何か共通する傾向が見えてくると思うのは、けして私だけではないだろう。
台風の酷い被害があった年の秋に、木村のリンゴ畑は被害が軽く、多くの果実が残ったという事実が物語ることは、あまりにわかりやすい。
このままではいけない。しっかりと土に根をはり、虫や病気に負けない、いや共存する意識を持たなければ…。
木村が何を決意し、「最悪」「無残」な状態からどう歩んできたか、数々のエピソードが語られる。筆者の文章力もさることながら、その一つ一つの出来事は、「ひとつのものに狂った」人間の顔が立ちあがってくるようで、引き込まれてしまった。
特に死を覚悟しロープを手にして入った山中の場面、また畑の一本一本の木に語りかける場面…。
これほどの強さがなければ、希望は開けてこないかもしれない。しかしまた、人が何かを本気で成し遂げようとするとき、逆風の中にも必ず支えがあるということを、この本は教えてくれる。
それは家族の存在であり、少数であってもわずかに背中を押してくれる人たちだ。人は人を簡単に見捨てない。
そして、現場にこだわり続けることによって得られるトータルなものの見方という感覚だ。
どんなに研究しつくした学者の論文も、日々動き、変わりゆく畑の姿を解明はできない。そこにいる者、何度も試行錯誤しながらけして離れない者だけが、結局より広くを見渡せる。
繰り返し登場する、畑や木や葉や虫を見つめる木村の姿がそれを証明していることは、ひしひしと伝わってくる。
「人間そのものが、自然の産物なんだからな。自分は自然の手伝いなんだって、人間が心から思えるどうか。人間の未来はそこにかかっていると私は思う。」
こう話して「リンゴの木の手伝い」に向かう木村。
その考えは自分の直接の仕事に結びつくものではないかもしれないが、大きな流れの中で見失ってはいけないことだと共感する。
さて、何の手伝いができるだろうか。
この一冊を、成功物語と括ることは憚られる。
これは警告の書であり、希望の書であると感じた。
何が警告されていたか。
リンゴ栽培に農薬が必要なことは知っていた。しかし、これほどまでに農薬に深く依存し、農薬づけにされながら収穫される実態には思いが及ばなかった。
その不明を恥じながら、読むにつれて重なり合うように浮かんできたのが、仕事上の「教育」のことである。
虫や病気を寄せ付けないための農薬散布が繰り返されることによって、個体の持つ耐性はどんどん下がっていく。リンゴそのものの生命力はどんどん弱っていく。土と木、枝と実の結びつきはきわめて弱く、多くの世話をかけることでしか維持できない畑。
それによって品種改良を重ねられた、見栄えのいい、消費者受けする味のリンゴがどんどん生産されていく。
教育現場や子どもたちの現状と、どこか似ている、何か共通する傾向が見えてくると思うのは、けして私だけではないだろう。
台風の酷い被害があった年の秋に、木村のリンゴ畑は被害が軽く、多くの果実が残ったという事実が物語ることは、あまりにわかりやすい。
このままではいけない。しっかりと土に根をはり、虫や病気に負けない、いや共存する意識を持たなければ…。
木村が何を決意し、「最悪」「無残」な状態からどう歩んできたか、数々のエピソードが語られる。筆者の文章力もさることながら、その一つ一つの出来事は、「ひとつのものに狂った」人間の顔が立ちあがってくるようで、引き込まれてしまった。
特に死を覚悟しロープを手にして入った山中の場面、また畑の一本一本の木に語りかける場面…。
これほどの強さがなければ、希望は開けてこないかもしれない。しかしまた、人が何かを本気で成し遂げようとするとき、逆風の中にも必ず支えがあるということを、この本は教えてくれる。
それは家族の存在であり、少数であってもわずかに背中を押してくれる人たちだ。人は人を簡単に見捨てない。
そして、現場にこだわり続けることによって得られるトータルなものの見方という感覚だ。
どんなに研究しつくした学者の論文も、日々動き、変わりゆく畑の姿を解明はできない。そこにいる者、何度も試行錯誤しながらけして離れない者だけが、結局より広くを見渡せる。
繰り返し登場する、畑や木や葉や虫を見つめる木村の姿がそれを証明していることは、ひしひしと伝わってくる。
「人間そのものが、自然の産物なんだからな。自分は自然の手伝いなんだって、人間が心から思えるどうか。人間の未来はそこにかかっていると私は思う。」
こう話して「リンゴの木の手伝い」に向かう木村。
その考えは自分の直接の仕事に結びつくものではないかもしれないが、大きな流れの中で見失ってはいけないことだと共感する。
さて、何の手伝いができるだろうか。