すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

車庫上でユギチョシしながら

2018年01月31日 | 雑記帳

(20180130 暮れの月~車庫上より)

 今日は1月末日。旧暦では12月15日となっている。「三冬(さんとう)」という旧暦の言葉では10月は孟冬、11月は仲冬、12月を季冬と言い、季が「」を表すそうである。もはや冬も終わりに近いはずなのだが、ここ一週間は結構厳しかった。おかげで(笑)自然的筋トレ、除雪技能は高まる一方だったということか。


 「三冬枯木秀 九夏雪花紅」(さんとうこぼくひいで きゅうかにせっかくれないなり)…「真冬の枯れ木に秀麗な花が咲き、真夏に赤い雪の花が舞う」と訳される。ありえないことを言っているが、逆説的な表現によって、ありきたりの思考を脱却せよと教えている。禅語にはこうした文体がしばしば見られるという。


 我見や執着を否定し続け、自己を徹底に究めることで、見えなかった、聞こえなかった存在にたどり着くと解されるようだ。難しいことだと思う。「ユギチョシ」をしながら、多くの人はナンデコンナコト…ユギノナイドゴヘイギデァ…ふと頭をよぎる。その感覚を散らばして、心の中に「秀麗な花」を咲かせられるか。


 先日亡母の三年祭をした折、親族としみじみ先祖の苦労を偲んだ。まだ60歳頃だった亡き祖父の腰は大きく曲がっていたと目に浮かぶ。世代、地域、仕事を考えれば、その姿は一般的だったろう。それに比べれば…と車庫の上で腰を伸ばしてみれば、ウゥーゥと声が出て、東の空の雲間からは暮れの月が見つめている。

空の見え方を心に訊く

2018年01月30日 | 読書

(20180123  冬陽の空~大雪が近づいた日の朝でした)

2018読了11
 『なにごともなく、晴天。』(吉田篤弘  毎日新聞社)


 「肌が合う文章」という言い方は変かもしれないが、まさにそう言いたくなる小説だった。今年は、この人の作品を読もうと決めたことが間違いではなかったなあ。鉄道高架下に並ぶ商店街の売れない骨董屋で働く女性が主人公。店の上にある部屋で暮らし「なにごともなく」日常を送る彼女とその周辺の人が描かれる。


 大きな事件が起こることはないけれど、小説の体を成しているのは確かだ。それは、皮肉のように「晴天通り」と名づけられた商店街から「見えない晴天」を見上げている彼女の気持ちが、最初と最後では明らかに違うから。物語とは当然そんなふうに作られていくだろうが、つくる佇まいは、次の一節に出ているか。

 「どうあがいても手に入らないもの、自分とは無縁と思ってきたものが、ふと気づくと自分の手もとにあったり、あるいは、すぐそばに寄り添うように立っていたりして、人生というのは、先に進むほどに良くも悪くも意外なものをもたらしてくれる」

 そう考えられる布石のような一節がこれではないかと感じる。

 「この世には大なり小なり、人の数だけ『じつはね』があると思った方がいいのかもしれない。なにごともなく平穏無事な日々というものは、多くの人たちの『じつはね』で成り立っている」


 そんな視線で窓の外を見やれば、降り続く雪の向こうの家並みにも「じつはね」がいっぱい詰まっている。この話では登場する友人サキ、ベーコン姉さん、そして元探偵の八重樫さん…らの境遇も語られる、実はそんなに突飛なことではない「じつはね」がほどよく絡まり、人生の意外なものの手触りが感じられてくる。


 「探偵」とは魅力的だと思ったことがある。しかし実は「じつはね」を探る仕事だ。苦い作業とも思える。そう考えると、世の中にある「隠し事、やせ我慢、沈黙」こそが平穏を保つ要素とも言える。それらとどう折り合うか、もしくは打ち破って踏み出すことが、個の選択になる。空の見え方はその反映と言ってよい。

見世物に必要な見物とは

2018年01月29日 | 雑記帳
 大相撲ファンを気取っていたが、栃ノ心の出身「ジョージア」を米国のジョージア州と勘違いしていたのは、我ながら情けない。「グルジア」なら知っていたのに…と言い訳するのもみっともない。ともかく絶体絶命状態だった初場所の主役に躍り出たこの怪力力士には気力がみなぎっていた。他の不甲斐なさが目立つ。


 今場所の特徴的なのは、連勝連敗が目立ったことか。一人横綱となった鶴竜が典型的だった。中盤から失速した力士も目立ったし、逆に盛り返した者もいた。技術的な点よりメンタルの波を感じたのは私だけだろうか。番付下位の入幕組が頑張った。横綱や人気力士が次々欠けるなかで、沈滞したムードを救ってくれた。


 大きく負け越し次が心配な本県出身豪風が、23日付の新聞インタビューに寄せたコメントが渋かった。「毎場所毎場所、時間は過ぎていく。年は重ねていく…経験がありますから。勝った負けたで心が揺れているようでは、今の自分はいない」。記事は「ベテランの自負」とまとめていた。心揺れる者は噛み締めたい言葉だ。


 それにしても「四横綱時代」と華やかに喧伝されたのは一体何だったか。故障者の続出、場所外での不祥事…文化としての大相撲の衰退は明らかであり、興行面の好調さが逆に大きな不安を覚えさせる。大相撲は「見世物」ではあるが、一番の見物(みもの)が個性ある力士たちの取組であるという体制を築いてほしい。


(わずか八ヶ月前の国技館前…撮っておいて良かった)

徹底しない悩みの訳は

2018年01月28日 | 読書

 放春花(boke)2

2018読了10
 『100の悩みに100のデザイン』(南雲治嘉  光文社新書)


 先日、気の置けない友人と一献やっていたときに、何気なく「デザインの仕事をやってみたかったなあ」と呟いた。口にしてから少し自分でも驚いた気分になったのだが、教職を続けてきたなかで、まんざら無縁だったわけでもない。それは「デザイン」という語がずいぶんと広範囲に使われ出しているからだろう。


 このユニークな書名の本書では、デザインの本質を「問題を解決すること」とし、『デザイン辞典』からその意味を引用している。曰く「デザインとは、ある目的に向けて計画を立て、問題解決のために思考・概念の組立を行い、それを可視的・触覚的媒体によって表現すること」。英和辞典では、初めに「計画」とある。


 「可視的表現」の部分が強調されがちだが、最近の著名デザイナーの仕事はプロデューサー的要素も強いのは一般的だ。その意味では著者が喩えとして出した「料理人(レシピ)」「医者(処方箋)」は頷けるものがある。学校教育でもよく「グランドデザイン」等使われていた。そこに色や形や図や関係性を持ち込む。


 この新書は端的に日常的な仕事や生活の悩みについて問題解決法を図解するパターンでまとめられている。図解はここ十数年多少勉強したが、学んだこととの共通点を感じた。つまり問題把握、目的設定、計画立案、遂行手順等を絞り込みながら、筋道をつけていくこと。デザインとは、積み立て、組み立て結晶化だ。


 考え込んだ一節「初めてのものに出合ったとき、人は二つの反応を見せます。好奇心と恐怖心です」。好奇心を持つ者はデザイン志向なのだという。他人への興味もより強い。では、そうでない人つまり恐怖心が大きく自分への興味がより強い者は…というとアート志向だそうだ。うむ、徹底できない訳はそこにあったか。

頭を良くするたった一つのこと

2018年01月27日 | 読書

 放春花(boke)1

2018読了9
 『疲れない脳をつくる生活習慣』(石川善樹  プレジデント社)


 もうこの齢なら「疲れない」ではなく「ボケない」なのかもしれない。と思いつつ手にとったのは、著者を注目しているから。この若き予防医学研究者はビジネスマン向けの著書が多く、切り口がシャープで、実に明快な提案をする。この本のテーマは流行りの「マインドフルネス」。自分もやれそうだと思えてくる。


 当然、瞑想法も詳しく書いているが、肝心なのはその「新しい習慣を身につける」方法。次の三つが有効と記す。「①少しずつ始める ②いつもの習慣の『ついでに』に始める ③本来の目的以外の喜びを得る」。これは以前読んだ本にもあったけれど、実に汎用性の高い原則だと思う。何かを成し遂げるための鉄則か。


 その著者が、保護者や子どもたちから「どうやったら頭が良くなりますか」と尋ねられ、いろいろと調べた結果に「自信をもっていえるのは」と出した答えが実に端的なことであった。なんだと思いますか…「姿勢をよくしましょう」これは、科学的に実証された効果のある三つの教育法の共通点から導き出された。


 「姿勢→呼吸→集中力」をキーワードにその理由が述べられている。このように、一見単純ではあるが、そこに本質を見出せる要素が詰まっている一冊だった。読了後、自分が実際に変化させたのが、今、この状態である。それはPCのディスプレイの位置を高くし、キーボードを低くすること。実に明快、楽である。

「まるごと好き」になる人

2018年01月26日 | 読書

(20180126 厳冬風景~今朝の車庫のマブ)

 もう旧い実践だが、工藤直子の詩授業は私にとって一つの定番だった。当時多くの人が実践したと思うが、最初に「のはらうた」の詩を紹介したときの、子どもたちの笑顔と喰いつきのいい眼差しは今でも覚えている。「おれはかまきり」なんか最高だったなあ。「おう なつだぜ おれはげんきだぜ」と真冬に呟いてみる。

2018読了8
 『まるごと好きです』(工藤直子 ちくま文庫)


 85年刊なのでずいぶんと古いエッセイ集である。著者の講演を二度聴いたことがある。最初は二十数年前、二度目は5年前。どちらも失礼ながら「関西のおばちゃん」という印象。ある意味でその訳がわかる一冊とも言える。台湾生まれ、転校を重ねた小中時代、そこで培った他者との接近の仕方が人間性を形作った。


 転校したら「お絵かき」を始め周囲の興味を集めようとする。それをきっかけにどんどん友達を増やした。「お話」も一つのツールだった。「八方美人心配性」だったという高校時代、友から「あんたの仲良し好きにはまいった」と笑われるほどだった。反面、毎日の日記を「陰の友だち」としてひたすらに書き続ける。


 「のはらうた」に見られるような感性は、幼い頃の環境に強く影響を受けたようだ。動植物だけでなく、石にも熱中した様子が書かれている。興味深い一節がある。「文を書く方法に、自然などを『擬人化』するというのがあるが、わたしの場合、むしろ逆に、人間を『擬自然化』してとらえているという気持ちが強い


 「人間好き」と語る著者の創作に人間が登場しない訳をそんなふうに語っている。樹や鳥や虫の詩を書くとき、著者は「なってみる」のだそうである。擬人化、擬自然化どちらの言い方をしようと、いかに深く入り込めるか、その一点に尽きる。創りあげる観念のために「まるごと好き」になる体験が出発点に間違いない。

冬ど真ん中を思えば

2018年01月25日 | 雑記帳

(20180125 吹雪と窓と障子に陽射し)


 手元にある歳時記を見ていたら、今日1月25日は「日本最低気温の日」だという。富士山頂かと予想してしまうが、明治35年に北海道旭川市で記録されたマイナス41度となっている。今月は結構気温が低く、昨日から「数年に一度の寒波」と繰り返し報道されている。やはり今の時期が「冬ど真ん中」だと思わされる。


 降雪量も増え除雪をして疲れてくると、踏ん張るための支え言葉が欲しくなる。こんな禅語を見つけた。「風吹けども動ぜず天辺の月 雪圧(お)せども、挫(くだけ)難し礀底(かんてい)の松」…後半部はふさわしい。「谷底の松はいくら雪が積もっても折れることがない」と、何事にも動じない堅固な心と体をたとえている。


 つくづく昭和期の子どもたちは偉かったものだなあ。私が初めて受け持った子の中には、どんな豪雪の日でも6km近い道を徒歩で通学した女児もいる。その姿は中学校卒業まで変わらなかったはずだ。その年月の培った力とは、いったいどれほどのものだろう。そう考えると「冬の負荷」は、心の芯にある気がする。


 「冬ど真ん中」から、つい大相撲界を連想してしまった。立て続けに明らかにされる不祥事は、風雪が止まらず先行きが見えない路のようだ。今日出た報道では、前年からの例の「事件」が起きた内実も予想される。そしてこれは、ただ待っていれば春になるものではない。そう考える不届き者は、凍った路頭をさまよえ。

厳冬食温麺(弐)

2018年01月24日 | 雑記帳
 これはまた凄い寒波がやってきました。

 しばし外の様子を忘れるために、「たべびと」シリーズその弐。

 温かいと言えば、言わなくとも、ラーメンでしょう。


 麺食い野郎、最近のラーメンシリーズということで、まず


 そもそも「味噌」好きなので、シンプルに「味噌ラーメンコーンのせ」で。
 これは、おろしにんにくを入れて、さらに味が深くなります。
 野菜もいっぱいとれて栄養満点です。


 さらに、少しだけ変化をつければ


 「肉納豆ラーメン」と名づけてみました。
 薄めの豚肉と、ひきわり納豆をトッピングします。
 これは、納豆を掬うレンゲがあればいいですね。


 さて、醤油系を最後に。


 これは、なんと昨晩の麻婆豆腐の残り物を利用した逸品。
 この香辛料は、通販でもイチオシの本格モノで
 そんじょそこらのレトルトとは違います。
 「四川担々風ラーメン」と名づけました。辛口好きにはたまりませんわ。

厳冬食温麺(壱)

2018年01月23日 | 雑記帳
 寒波到来まであと少しか。

 最近ご無沙汰している「たべびと」ネタで、せめて目だけでも温まってもらおうと
 麺食い野郎が登場してきました。

 二連チャンで紹介しましょう。

 今日は、うどんそば編。

 この時期、先日載せた「ひっぱりうどん」がイチオシではありますが


 どうでしょう。本場、讃岐うどんを「かま玉」にして…。
 卵と極太麺の相性はぴったりですね。


 我が家の定番であるこれは、春夏秋冬いつでもいいですが、


 冬は格別美味い気がする「カレーうどん」です。
 今回は中太麺で、食べやすく仕上げています。
 もちろん、カレーの残りを使っているわけで、家計にやさしく、身体にあたたかく…ということです。


 さて、そばと言えば「冷がけ」「ざる」が中心ですが


 「温がけ」にして美味しいのは、この「温とろろ」です。
 この食べ方は乾麺でも十分なので、ぜひお楽しみください。
 ただし、とろろを全部食べようとすると、
 つゆを飲み干す必要が出てくるので、高血圧気味の人(オレだよ!)はご注意を!

橋を渡れば、出逢える

2018年01月22日 | 読書

(201801-- いつ花開くかはお任せで)

 詩集としてとっつき易いのはアンソロジーだろう。テーマに出版社の意図や工夫が表れる。編者が誰かによってもずいぶん色合いが違ってくる。この詩集は「恋愛」と名がついているけれど、かなり範囲が広い。編者は語る。「恋うとは遠いものに橋を渡すこと、そうだとしたら、詩のことばはみんな恋を生きている


2018読了7
 『恋愛詩集』(小池昌代・編  NHK出版)


 冒頭は『一目惚れ』というポーランドの詩人が書いた作品。それに吉原幸子の『初恋』という詩もあるけれど、いわゆる男女の恋愛に焦点を当てた詩だけではない。宮沢賢治が二度登場し、一つは「報告」という二行詩。もう一つは「無声慟哭」なので、賢治を少しでも知る人は「恋愛」の意味の想像が拡がるだろう。


 若い時目にした詩にまた出会えた。それは滝口雅子の『男について』。本県出身の伝説のフォークシンガーである山平和彦が、デビューアルバム『放送禁止歌』の中で、曲をつけ発表している。後年、ある新書でその詩を見つけ性的情念のような感覚が迫ってきたことを覚えている。これも「恋愛」の強烈な側面である。


 編者の小池は、「恋歌」の読者は、現在進行形の恋する者ではなく「今日も明日も、一見恋とは程遠い現実のなかで、汚れにまみれながら生きている、わたしたち」だと言う。「恋」には初期も晩期もあり、種類と段階にあふれていると書く。人がそれぞれに発した「念」が漂流していて、詩によって呼び戻される感覚か。


 印象深い詩が並んでいる。『伝説』(会田綱雄)の「蟹」と「わたくしたち」のイメージの深さには胸を絞めつけられる。『はる なつ あき ふゆ』(大岡信)には、言葉の響きが描き出す情景の仕掛けに参った。時代を重ねてしまうからだろうか、編者も記すように『好日』(天野忠)の最終連の「落差」にはめまいがした。

 引用してあるサイトを紹介しましょう。
 『伝説』http://www.haizara.net/~shimirin/on/akiko_02/poem_hyo.php?p=1
 『はる なつ あき ふゆ』http://kz-style.seesaa.net/article/35649356.html
 『好日』http://loggia52.exblog.jp/16824010/