すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

『怒り』、観ました

2016年09月29日 | 雑記帳
 小説を読んだ記憶が薄まらないうちに映画鑑賞と思い出かけた。新作をこんなに早く観ることは珍しい。テレビのCMに乗せられた、ということはないのだが、やはり豪華な俳優陣はさすがだ。それゆえ、高級な懐石料理でもいただいたように、もうちょっとボリューム感が欲しいなあと身勝手な感想を抱いたほどだ。


 主役級の演技はそれぞれに魅せてくれたが、一番印象強いのは宮崎あおいだ。小説を読めば、あの愛子という役にあおいちゃんが…とは到底予想できないだけに(本人もその事を語っていたが)、役への入り込みは想像以上だった。俳優というのは凄いものだなとつくづく思う。スクリーンで観た価値が高まった一つだ。



 読んでいない、観ていない人のためにネタバレする表現は避けたいが、犯人に宿る狂気はうまく映像化されていたと思う。特に原作にはないと記憶しているが、犯人の住んでいた部屋へ警察が入る場面だ。いわば「怒りの巣窟」と化しているその場には、世の中に対する様々な鬱積が吐き出され「言語化」されていた。


 「怒」の字は間違いなくそれらの象徴だ。しかし考えてみれば、犯人とて怒りの感情だけに支配されているわけではなく、点であった感情の増殖を抑えきれないだけだ。その心性には様々な原因がある。ラスト近く、ふと頭に浮かんだのは「まも(護)り」という一語。人は何かを護るために怒る…あまりに唐突か。


 護るために「逃げる」こともある。二者択一ではなく具体的な対処も様々に思いつくが、現実場面ではよりどちらかに偏るのは仕方ない。その崩れやすいバランスを気づかせてくれる物語とも言える。登場人物は各々、護るために怒ったり、逃げたりしているが、いったい何を護りたかったかが問われる終末となる。

「お陰様で」を温める

2016年09月28日 | 読書
Volume22~山﨑武也の言葉シリーズ②

 「会話の中でよく『お陰様で』という表現を使っているが、ただ口先だけでいうのではなく、さまざまな恩恵に感謝する思いを、一度胸の中に入れ温めたうえで言葉にしてみることが必要であろう」


 いくら年齢を重ねても精神的成長をなかなか実感できない自分だが、周囲に対する「感謝」の念だけは、年々強くなっている。
 この思いは、唯一と言っていいほど確かだ。
 それが齢をとるということなのかもしれない。

 単なる挨拶代わりに「お陰様で」と使っている場合が全くないとは言えない。
 しかし、多くの人に対して何らかの関わりを持ち、いくつかの影響をうけ、力を与えていただいているんだなあと、しみじみ思うことは年々増えている。



 「一度胸の中に入れ温め」るという習慣は、きっと自分自身の心も温めるに違いない。
 そのためには、ふだんからモノやコトを持ち過ぎず、目の前のことに集中していけるような姿勢が必要だ。
 抱え過ぎている身体や心は、それを実行するスペースを狭めていることだろう。

 複雑になっている今の世の中だからこそ、昔のCMコピーにあった「シンプルライフ」的な暮らしを求めたいものだ。

 温かい「お陰様で」を、常に口にできるようにしたい。

二手前から振り返る

2016年09月27日 | 雑記帳
 こんなに熱心に大相撲を見たのは初めてである。初めて両国国技館に足を運んだことがきっかけにはなったが、やはり見続けてある程度ポイントがわかると、より面白くなってきた。今場所、印象に残ったのは嘉風と遠藤。嘉風は取り口が明確、遠藤は落ち着きが素晴らしく映える。あっ、県民栄誉賞の豪風は別格です。


 テレビ観戦の楽しみの一つは、解説の話である。複数回登場する「親方」もいれば、単発という人もいる。今までは元舞の海の話がわかりやすく、一番適切かと思っていたが、それと並ぶ人材がまだまだ居ることも確認できた。しかし無鉄砲さ(笑)にかけては、レギュラーとも言える元北の富士を超える人はいない。



 細かい相撲技能についても理解が深まったように思う。14日目のラジオ放送!解説で、舞の海が語った点は全ての競技や仕事などに共通するのではないかと得心した。曰く「敗れた理由を振り返ることが大事です。どうしてそうなったかを、一手前、二手前から考えていくのです」。結果を遡って分析していく大事さだ。


 さて、場所前の多くの予想とは全く違う結果になってしまった。個人競技では珍しくないかもしれない。優勝した豪栄道は、前半はごく普通のように感じたが、勝つことでリズムを得て、それが勢いに変わったことが手に取るようにわかった。序盤の連勝で原動力を作る。そして気迫を持ち続けると、結果が生まれる。


 一方の稀勢の里。家庭内で勝手に「がっかり山」と名づけた。素人が見てもわかる技術的な欠点を修正できないままに、夢が小さく萎む結果となった。これだけ日本中の声援を受けながら上へ進めないのは、稽古や準備の様子を聞くにつけ、本人はもちろんだが、周囲にも責任があるような気がしてならない。残念だ。

その一言が物語ってしまう

2016年09月26日 | 雑記帳
 「一事が万事」という慣用句の信頼度はけっこう高いのではないか。と言いつつも「たまたまそうだった」とか「人間だからミスもある」と、どこかで許容しそうになる。しかしそういう甘さは、結局自分にはね帰ってくるのだ。「人の振り見て我が振り直せ」という、スーパー格言にそって書いてみようではないか。



 昨日、たべびとブログにアップしたレストラン。料理以外で気になったことがあり、十分な満足をして店を出る形にならなかった。軽いことから挙げてみる。豪華な前菜には柔らかめの料理、スープ系もあった。しかしそこにスプーンがつかなかった。言えば済む問題だったが、そこに最初の小さな引っかかりがあった。


 二つ目、水のお代わりをした。ハーブの葉が入れられて、冷やされた細長いガラス製のピッチャーが出てきた。いいねえ、と一瞬思う。ところが、蓋になるステンレスの部分が綺麗とはいえない状態だった。そして極めつけ。階下のルームに通されたのだが、上からある食器が落ちてガチャ―ンという破裂音が響いた。


 どうやら手が滑ったらしい。その後、上から聞こえたシェフらしい人の一言。「あっ、やってしまったか」…直後に発せられたのがそれかと、唖然としてしまった。もちろん、場所は少し離れていて私たちに実害があったわけではない。しかし、背後から聞こえてきた突然の音に、階下の客は確かにびくっとしていたのだ。


 まず言うべき言葉は「失礼しました。皆さま大丈夫でしょうか」ではなかったか。処理を終えた後にテーブルに来たウエイターが「すみませんでした」と軽く言ったのは覚えているが、順番が全く違う。おそらくそこには、この店空間が誰のためにあるかという認識がはっきり示されている。それは前の二つも同様だ。


 トラブルの声かけも、蓋を磨くことも、料理に添える道具も、客の心を一番に優先する気持ちがあるなら明らかに変わってきたのではないか。そう言えば、別室の家族連れの中にご老人がいた。帰りの階段を上るのに少し難儀していた。事前の席準備や、案内のフォローという面で配慮できなかったかと思ってしまう。


 店には個性がある。そしてまた客も個性をもつ。従って100%の合致は叶わないとしても、店から客へというサービスの方向性だけは一貫しているはず。何で客を満足させるかという特化はあろうが、偏りが大きいと魅力を失う可能性は高い。結局のところ店の良し悪しとは、客の心を想像する幅と深さによって決まる。

物事を複雑にしないたった一つのこと

2016年09月25日 | 読書
Volume21~山﨑武也の言葉シリーズ➀


 「一つのことに心を込めれば、物事は複雑になりようがない。物事が複雑になるのには、心を込めていない証拠である。」 


 仕事を進めていくことは、ずいぶん複雑なものだと感じてきた。

 一つのことを決断するためには、たくさんのことを勘案し、様々な立場に配慮する必要がある。
 それをできるだけ多くリストアップしながら、大方が満足したり納得したりするベターな結論づけをする。
 しかも「スピード感をもって」といった常套句さえ求められる。

 そうした量的な対応が仕事の大半であるかのように、時々錯覚を覚えたりした。

 その過程のなかで見失うのは、「目的」は何かということ。
 本質的な対応はいかにあるべきかということ。

 つまり「心」が追いやられる。




 見聞きする、そして経験した様々な現実は、そんな「美論」を嘲り笑っているようだ。

 しかし、少なくとも「スピード感」といった経済の言葉に惑わされないようにすることで、心は込められるのではないか。

 かつて、一年生の劇の練習を見ながら、ある子の台詞「心を込めるってどういうことだろう」について、あれこれ考えてみたことを思い出している。

物語りの終わりは、手渡される

2016年09月24日 | 読書

『物語の終わり』(湊かなえ  朝日新聞出版)


 『山女日記』と同じようにミステリ色がない作品である。こりゃあもはやハートウォーミングだと思いつつ、少し書評を見たら「湊は新ステージへ」とある。うーん、そうか、「イヤミスの女王」からの脱皮なのか。ちょっと嬉しいような、かなり寂しいような複雑な気分だ。けれど、仕掛けはしっかりと用意されていた。



 連作短編集である。最初の作品「空の彼方」がなんだかずいぶん独特だなあという感じで読み終えた。書名に暗示されているように「終わり」が明示されない結びだった。それはそれで…と次を読み進めると、その「空の彼方」の話が登場して…、とそんなつながり方をするのだが、最後に全体構造がわかってくる。


 登場人物の旅する舞台が北海道。この北の地を舞台とした小説は数々あるが、特に観光地のイメージは結構浸透しているので、読みやすさの要素になっているかもしれない。北海道を選んだ訳を予想すると、おそらくは「移動」時間の長さ…人は歩く時、乗っている時考えをめぐらすことが多い、なんと単純な思考か。


 書名『物語の終わり』は、全体の鍵となる冒頭作品が未完の結末であることを示す。しかし、当然ながら作者のメッセージが強く織り込まれている。きっと、この後どうなるかの予想ではなく「物語の終わりは~~~~だ」という意識の投げかけだ。そして物語は人の手から人の手に渡っている現実も象徴している。巧い。

手練の描く小市民史

2016年09月22日 | 読書
 『幸せになる百通りの方法』(萩原 浩  文春文庫)


 今年の直木賞作家。前にもほんの少しだけと思って検索したら、2冊文庫本を読んでいた。あまり強い印象はないが、さすが人気作家らしく?手練れと思ったことは覚えている。この文庫は7編から成る短編集。主人公や設定は異なるとはいえ、驚くのはそれぞれの題材に対する取材力の細かさ、豊かさと言っていい。


 7編には「原発・節電」「オレオレ詐欺」「婚活」「リストラ」「出版、ネットゲーム」「歴女」、そして標題作には「自己啓発」といった舞台が用意されている。世相を鮮やかに斬っているように思え、解説子が書く、まさに“萩原版『クローズアップ現代』~笑ってヘコむ平成の小市民史”と呼ぶにふさわしい作品だ。



 惹句をいくつか紹介しよう。

◆二十一世紀の大気は、酸素と窒素と情報で形成されている

 言い得て妙。そして、それが無ければ本当に生きていけなくなっている我々人類の行方を考えざるを得ない。オーバーか。

◆適当(テキトー)を重々しく語る

 会社の上司が、部下の提案に対して守りに入ったときの常套句をそう表現した。曰く「時機が来たら、考える」。身の周りでもよく聞く。

◆言葉だけなら、誰もが神様。

 手足を動かさずに口だけ動く輩、批判はするが自らは行動しないタイプを揶揄する言葉としては最上級の表現ではないか。


 原作は読んでいないが『明日の記憶』『愛しの座敷わらし』と映画で観た作品もある。この短編群も単発ドラマとしていけそうだ。キャラのたて方が今風であり、読者が入り込めそうに思う。ふと自分なら、と妄想した時、リストラされたことを家族に言い出せず、公園生活をしている『ベンチマン』だろうかと笑った。

本番をたくましく生き抜け

2016年09月21日 | 雑記帳
 ぐっと涼しくなって、秋本番と呼びたい日が続いている。稲刈りも始まり、黄金色の田んぼが映える最も美しい風景が目を楽しませてくれるだろう。今年もぜひ何枚かいいショットを残しておきたい。山の収穫シーズンも始まるが、こちらはまだ早いようだ。2回足を運んだが、お目当ての茸にはまだ出合っていない。


 それにしても数か月ぶりに里山に入ると、自然の持つ逞しさに感心してしまう。生態系にはまったく疎いこともあるが、それが逆に新鮮さを与えてくれるのかもしれない。今頃になって小さく芽吹くように生えてきたり、保護色を上手にまとって姿を見せたり、生き抜いていく知恵だなあと突飛な連想も浮かんでくる。



 今年の祭典は、実母が亡くなったので控えることになった。祭典当日、結果的に都合がよかったことになるが、かつて受け持った子どもたちに誘われていて、いそいそと出かけた。かつて記した「ミツバチ教師」の時代に担任した世代である。子育てに忙しい2人が参加できなかったが、他の8人は顔を揃えてくれた。


 最後に受け持った子たちなので、思い入れは強い。しかしこちらの感覚はともかく、受け持ったのが低学年時だから、個々の記憶は頼りないのが普通であろう。それをなんと「退職祝い」という招待、記念品や寄せ書き等と気遣ってくれ、まさに至福の時であった。こんな宴をつくる若者に育ったことが何より嬉しい。


 発案者がいて、全員が賛同し、飲み食い以外に一人一人の話すコーナーなども準備している…小人数ならではのことかもしれないが、こんなふうに形づくれる大人になったことを喜びたい。自分のはたした役割など露ほどもない。顔を出してくれた親御さんに「親の教育が良かった」と素直な気持ちで感謝を述べた。


 今回の私自身のヒットは、保存していた「連絡帳」を見せたこと。当時の親と同じ三十代たちは、実に興味深そうに静寂に包まれて読み込んでいた。ともあれ、今が人生の本番。生まれ育った土地は同じでも個々の現在は様々だ。これから芽吹く者もいるはず。しっかりと根を伸ばし、たくましく生き抜いてほしい。

「眺める」目が生むもの

2016年09月19日 | 読書
 『それでも前へ進む』(伊集院静  講談社)

 昨年の元旦に読んだ本を再読した。その日のうちに感想メモをこのブログに残していた。「少し勾配のある道」とは、新年にふさわしい決意表明だったか。しかし、実際には「ゆるゆると下り坂」という現実だったのかもしれない。言っても詮無いことだけれど、少しだけ反省の念にとらわれる。「それでも前へ進む」か。


 今さらながらだが、この作家のよく使う言葉を見つけた。「眺め」である。JR東日本のCM誌連載であり、「車窓にうつる記憶」が章名なので、使いやすいだろうが、今回は思った以上に目についた。「美眺」という表現も繰り返し使われていた。ここで一つの仮説、「眺める」がこの作家の本質を表しているのではないか。



 「眺める」は明鏡国語辞典によると三つの意味を持つ。「遠くをのぞみ見る。また視界に入るもの全体を見渡す」「その方に視線を移す。見やる」「物事やその成り行きを見る」…つまり、一定の事物に対して少し距離感を持ちつつ、継続的に観察しているイメージが感じられる。一面ではドライであるが、眼差しは強い。


 全著作とは言わないが7,8割は読破している。かなりモチーフが似通っている作品も目立つ。家族、特に父親との確執。弟の死。美術や野球への関心。そして二度目の妻の死…それらから目を離さずに眺めているから生まれてきた作品群だったと思う。さらに「眺めのいい人」というエッセイもあった。これも典型的だ。


 大事なことを見分ける感性が必要だし、その思いを強靭に持ち続け、言語化する行為に長けている作者だ。「眺める」という動詞は一般的には「ぼんやり」という表情が伴う。ただそれはおそらく「効率性」「経済性」という観点に照らし合せた印象ではないか。眺めている目は、実は何かを生み続けているのではないか。

「とりつくしま」をさがす

2016年09月17日 | 読書
 『とりつくしま』(東 直子  ちくま文庫)

 死後の世界には「とりつくしま係」がいて、死者の「モノになって、もう一度、この世を体験することができる」お世話をする。生きているモノは駄目だが、死者たちはそれぞれ「思い」のある人に近づこうと、身の周りにあるモノに入り込んで観察を始め、思いを深めていく…発想が秀逸で、なかなかよく出来た話だ。



 読者の多くは、もし自分が死んだら一体誰の傍の何を選ぶかなと思い始めるだろう。11篇で構成される話で、最初は死んだ母親が野球部の投手をしている息子の「ロージン」になる。次は、新婚間もない妻が夫の愛用しているマグカップになる。時には、取り付いたモノとの別れも描かれるが、その筋は妙に優しい。


 死者としての無念さ、やるせなさが、生きている人物たちを見つめていくことで少しずつ解消されていく設定と言っていいのかもしれない。無私になり愛する者を懸命に応援することによって浄化されるのだろうか。結局「生き方」を問いかけているんだなと納得する。それにしても気になるのが題名にある「しま」。


 もちろん「とりつくしま」の意味はわかるが、「しま」って何?どんな漢字を書くのか、と思ってしまった。辞典をみると、なんだかあっけなく「島」なのだ。「島」の意味の中に「④頼りにするものごと。よすが」(広辞苑)がある。そもそもの「洋上に浮かぶ島」からの発想として当然かもしれない。漢和ではどうか。


 島という字の部首は「山」である。つまり異体字ではある「嶋」がもともとの意味を表す。「渡り鳥が休む海の小さい山」(大漢和)ということだ。まさに「取り付く島」。連想すると、この小説の題名は実に感慨深い。亡くなった人たちはいったんその「しま」で羽を休めて旅立っていく。ああ、あの人の島は何だったか。