白雲去来

蜷川正大の日々是口実

沖縄の戦跡を慰霊巡拝した。

2011-06-17 21:05:00 | インポート

六月十五日(木)晴れ。沖縄にて。

 七時起床。そろってホテルのバイキングの朝食。品揃えが少なく、少々不満。でも観光ホテルではないので仕方がないか。

 朝食の後に海に向かって歩いた。しかし、九時だというのに太陽はギラギラで、とても日なたを歩いてはいられず、日陰を探しながら歩いた。波上宮があるのを発見し、お参りをした。何時だったかは失念したが、沖縄戦の慰霊に訪れた際に、この神社で結団式をしたことがある。参拝の後に海岸線を歩く。

Dscf3398 ※海岸から見た波上宮。

 一時間ほど歩いてからホテルに戻り、シャワーを浴びてからロビーへ。十一時に、金城薫氏に迎えに来てもらい、今日の目的である戦跡慰霊に出る。その前に、ホテルの近くにある産経新聞社の那覇支局を表敬訪問。昨日に続き、宮本氏にご挨拶。宮本氏は、午後の飛行機で石垣島に取材に行くとのこと。

Dscf3409 ※産経新聞社那覇支局にて。宮本氏(左)と。

 宮本氏と別れてから、護国神社を参拝。この神社に初めてお参りしたのは、昭和五十七年のこと。犬塚博英、笠原正敏の両氏のお世話で組織された「民族派学生青年有志・沖縄戦跡慰霊巡拝団」の一員として訪れた時のこと。現在熊本の本渡諏訪神社の宮司である大野康孝氏が当時は護国神社に奉職していた。沖縄戦で亡くなられたご英霊の皆様を思って参拝した。

Dscf3421 ※沖縄護国神。ここを初めて訪れたのは昭和五十七年のこと。

 その後、旧海軍司令部壕へ。此の場所にも幾度か訪れたことがあるが、すっかり整備されていて驚いてしまった。この陣地には当時四千人の兵士が立てこもり米軍と戦った。奮戦した兵士の皆さんはもとより、最も有名なのは、太田實海軍少将が自決直前に海軍次官に宛てた沖縄県民の献身的作戦協力について訴えた電報であろう。その最後の「沖縄県民よく戦へり。県民に対して後世格別の御高配を賜らんことを」は、いつ読んでも目頭が熱くなる。黙祷を捧げて海軍壕を後にした。

Dscf3424 ※海軍戦没者の慰霊塔。

 海軍壕から糸満市にある摩文仁の丘にある慰霊碑へと向う。ここは第三十二軍の奮戦の地でもある。各県の戦没者の慰霊碑もあり私と松本君は神奈川の慰霊碑、隠岐氏は千葉県の慰霊碑を参拝。残念ながら牛島満司令官と長勇参謀の自決の場所の近くに立つ「黎明の塔」附近は工事中で近づけなかった。

Dscf3454 ※黎明の塔を遠望する。

 次に向ったのは、たった一人で遺骨収集を行なっている国吉清さん宅である。私と松本君は二度目だが、隠岐氏は初めてなので、沖縄在住の林史人、我那覇光太郎両氏のお世話で戦争資料館となっているご自宅を訪問し、国吉さんから貴重なお話を伺った。アルピニストの野口健さんが、産経の宮本さんの紹介で国吉さんを知り、国吉さんの遺骨収集をお手伝いしている。そのきっかけは私が中野ジロー氏より林、我那覇両氏を紹介され、その縁でお二人との交流が始まり、更に沖縄に赴任した宮本さんに紹介した。人の縁とは不思議なものだ。

 正に、野村先生が好んで使われた、「人の一生は邂逅の一語に尽きる」である。

 興味のある人は、「野口健公式ブログ」、(2010・11・30日、沖縄での遺骨収集・戦争は終わっていない)を検索してみてください。

 

Dscf3463 ※国吉さんが壕から収集した手榴弾や薬の瓶。何万点もある。

 国吉さんにお礼を言って、ホテルに戻った。 

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