白雲去来

蜷川正大の日々是口実

女性が船の上で香水を使うの?

2024-08-30 14:35:15 | 日記

8月29日(木)曇り後雨。

大型の台風が九州方面から近づいてくる。何でも人が歩くほどのスピードとかで、足踏みをしている。現地の人たちはたまったものではない。さっさと来て、さっさと行って欲しいものだ。横浜は、文字通り「嵐の前の静けさ」である。

台風という言葉が使われる以前は「野分」といっていた。と歳時記に書いてあった。何でも台風という言葉を広めたのは『椿節弓張月』や『南総里見八犬伝』などを書いた滝沢馬琴で「それ大雨はげしきを颶という。また甚だしきを颱と称う」(椿節弓張月)。最近は、積乱雲が次から次へと発生して大雨を降らす現象を線状降水帯とか言うそうだが、それを初めて聞いたときは、女性が船の上で香水を使うことかと思った。

朝食は抜いた。昼は冷食のチキンライス、インスタントのシジミの味噌汁。夜は、勝烈庵のロースカツを「カツ煮」にしたものと、メンチカツに串カツ。キャベツの千切り添え。トマトサラダ。お供は「お疲れ生」の350m.一本の後に「黒霧島」へ。酔狂亭にて独酌。


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先週の「朝ドラ」には、違和感を覚えた。

2024-08-27 16:54:24 | 日記

8月26日(月)晴れ。

天気予報によると、とても大きな台風が日本列島を直撃するらしい。何年か前の台風でテレビのアンテナが倒れ、雨漏りがするようになり、修理をしたが随分と高いお金を払った記憶がある。日本の家屋の屋根は瓦葺きが多い。断熱や寒さ対策もあるだろうが、台風で屋根が飛ばされないようにするためもあるとのこと。しかし、地震が来ると瓦の重さで家がつぶれるリスクもある。地域によっては台風は毎年のように来るが、大きな地震というものは、そう頻繁に来るものではない。どちらを選ぶかと言っても、瓦葺きの家に住むほどの余裕はない。せいぜい雨漏りの心配をしながら、台風が過ぎるのをじっと待つのが精一杯である。

NHKの「朝ドラ」を見るようになってから随分経つ。愚妻の実家に帰った折に、義父母が見ているのに付き合ってから毎日見るようになった。どのシリーズが良かったかは、新しい物語が始まると、頭が初期化され記憶があいまいになって、思い出せないが、『梅ちゃん先生』も良かったし、前作の『ブギウキ』も楽しめた。普段テレビのドラマなどは見ないものだから、女優さんの名前なども「朝ドラ」で知ることになる。『ブギウキ』に出ていた水川あさみさんも初めて知ったが、ドラマ通の愚妻に聞くと、色々な映画やドラマで活躍している女優さんとのこと。

最近は、一週間分を録画して、金曜日の夜にまとめて見るようにしている。検事総長に初めて女性の畝本直美さんが就任したこともあって現在放映中の『虎に翼』も楽しく見ていたが、先週の一週間分は辟易した。夫婦別姓とLBGTの話ばかりで、こうやってNHKは国民を洗脳していくのかと、見ていて嫌な気持ちになった。私は、夫婦別姓には反対だし同性同士の結婚を法的に認めることにも反対である。反対だからと言って、そういう人たちに何かしようなんてことは思ったことはない。私は、無教養であるし難しいことは分からないが、ただ感覚的に日本の伝統文化に反するという思いがあるからだ。段々、日本的なものが溶けていくような気がする。そういう私も、古ーい人間なんでしょう。先週はNHKというよりも、イヌアッチイケー!


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われに憤怒 あれども涼し紺朝顔

2024-08-25 18:30:56 | 日記

8月23日(金)晴れ。

毎年、群青の会の大熊雄次さんから朝顔の鉢植えを送って頂く。朝、玄関に新聞を取りに行く時に、今日はどのくらい咲いているのか。と楽しみにしている。今年は、暑すぎるのか、置いている場所が良くないのか、例年ほど花を咲かさない。野村先生の獄中句集『銀河蒼茫』の中に「8月15日、一句」と題して「われに憤怒 あれども涼し紺朝顔」というものがある。終戦の日に先生に去来した「憤怒」とはどんなものだったのだろうか。紺色の朝顔を見るたびに、先生のその句のことが浮かぶ。

朝顔には、忘れられない思い出がある。盟友でもあり、同志でもあった折本満さんのこと。彼が、今から8年前の9月20日にすい臓癌で亡くなられた。64歳だった。折本さんが、すい臓がんを患って入院手術した折に幾度か彼を見舞い、退院した時は、友人らと「激励会」を行い、何とか元気な体に戻ってほしいと願ったが、薬石の効なく、亡くなられた。奥さんから、「余命二三ヶ月」ということを聞いた時は、ショックだった。最後に大熊雄次氏と一緒に、自宅に彼を見舞ったのは、亡くなられる一月ほど前の8月4日のこと。すっかり痩せてしまい、一回りも小さくなった姿を見て、不覚にも落涙してしまった。

折本さんの寝ているベッドから見えるベランダに、大熊氏が送った朝顔の鉢植えが置いてあった。奥さんが、折本が、毎朝目を覚ますと、「ああ今日は沢山咲いている。昨日は、一つだけだ」と、いつも楽しみに見ています。と話をした時に、彼の手を握って、声を上げて泣きたかった。このお見舞いから一月余りが過ぎた9月の20日の正午過ぎに、折本さんの奥さんより電話が入り、午前中に折本さんが家族に見守られながら、眠るように息を引き取ったと、連絡を頂いた。折本さんは、亡くなられた日の朝も朝顔を見たのだろうか・・・。来月は彼のご命日。今朝も、紺朝顔を見て、折本さんを想った。


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尊攘義軍79年祭。

2024-08-23 14:31:58 | 日記

8月22日(木)午前中一瞬の雨、のちに晴れ。

晩夏の季語に「溽暑(じょくしょ)」という言葉があるのを「産経抄」で知った。土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)」からの略語で、湿気が多くムシ暑いという意味。勉強になった。

今日は、東京芝・愛宕神社境内「殉皇十二烈士女之碑」前にて、尊攘義軍十二烈士女七十九年祭が執り行われた。保土谷駅にて志村馨君と待ち合わせて新橋へ。大熊雄次氏と合流。後に、札幌の雪田顕正君、盟友のO氏も参加。

慰霊祭を主催する「尊攘義軍顕彰会」は、先輩の犬塚博英議長が務め、顧問に山口申先生が名を連ねており、弊社の機関誌『燃えよ祖国』にて健筆を振るっている國の子評論の横山孝平さんが、お手伝いをしている。

昭和27年に建立された尊攘義軍「弔魂碑」にはこう記される。
『弔魂碑』
昭和二十年八月廟議降伏に決するや蹶起して内府木戸邸を襲ふ 
転じて愛宕山に籠り所在の同志と呼応 
天日を既墜に回さむとする者即ち尊攘義軍十烈士 
しかれども遂に二十二日午後六時相擁して聖寿万歳ととももに手榴弾を擲ち一瞬にして玉砕す 
時 俄に黒風暴雨満山を蔽ふ
二十七日払暁同じき所に坐して二夫人従容後を逐ふ
忠霊芳魂永遠に此処に眠る 遺烈万古尽くる時なからむ

天なるや秋のこだまかとこしえに愛宕のやまの雄たけびのこゑ

昭和二十年八月十五日早暁、日本を敗戦降伏という未曾有の事態に陥れようとする元凶として、木戸内大臣を斃すべく立ち上がった尊攘義軍十烈士は、しかし事成らず次の手立てのために芝・愛宕山に立て籠もった。取り巻く官憲との攻防が熾烈を極めるなか、義軍の志士たちは天下の情勢を冷静に見極め「承詔必謹」の大義に殉じることを決めることとなる。義軍のその決意は「陛下の詔に反した罪の責任をとる」玉砕であった。しかし官憲は、解散を強く要求するなか、二十二日夕刻、義軍に対し発砲を開始する。そのとき、義軍陣地から数発の爆音が轟いた。烈士らは、相抱きあいながら、手榴弾を炸裂させ最期の時を迎えたのである。自決された、飯島與志雄大人命の辞世「一脈の正気留めて日の本の誇りとともに吾は砕けつ」「神州の不屈をしめす此の正気継ぐ人あらば思ひ残さじ」また、二十七日早暁には、義軍の二夫人が自刃場所を清めたあと拳銃自決をし夫君の義挙に殉じた。

こういう慰霊祭に参加するのは、亡くなられた方たちの慰霊も当然だが、私自身の「腸(ハラワタ)の腐り止め」のためでもある。終了後、日頃からお世話になっている方に両国で直会にご招待される。お世話になりました。


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お前、ホントに秋刀魚なの。

2024-08-23 13:58:13 | 日記

8月21日('水)晴れ。

そういえば、スーパーに行ったら「秋刀魚」が並んでいた。二匹で580円。安いのか高いのか良く分からなかったが、一瞬、サヨリかと思うぐらいの小ぶりの物だったが、まあ初物だからと自分に言い聞かせて買った。普通ならこの時期「暑さ寒さも彼岸まで」と、魚屋に秋刀魚が並ぶ頃には暑さも一段落するのだが、文字通りの「残暑厳しき」日が続いている。

そう、その秋刀魚の話。人生古希を過ぎるまで生きてきて、数えたことはないが随分と秋刀魚を食べてきた。しかし、こんなにパサパサで不味い秋刀魚は記憶にない。「お前、ほんとに秋刀魚なの」と嫌味が思わず口から出た。まだイワシの「目刺し」の方がずーっとましだった。以下は、一年前の私のブログ。

「あはれ秋風よ 情(こころ)あらば伝えてよ――男ありて 今日の夕餉(ゆうげ)に ひとりさんまを食ひて思いにふける と」。有名な佐藤春夫の「秋刀魚の歌」である。佐藤がこの詩を書いた当時も、今から10年ほど前も秋刀魚は庶民の味方、安かった。一人暮らしの中年男が、秋刀魚を食しながら思いにふける・・・。これがマグロの中トロであったりカニやイクラであったなら、情景が違ってくるのだろう。しかし、昨今では、秋刀魚を食しても悲壮感などない、出始めの頃には一匹、千円近くもすると、とても買おうとは思わない。

冗談ではなく、群青の会の大熊雄次さんの行きつけの上野の「もん」という居酒屋のマスターのみきちゃん(男です)が、「上野の吉池の魚屋では、一匹5千8百円の定価が付いていました」と、スマホで撮った証拠の写真を見せてくれた。翌日、みきちゃんが吉池に行って「売れましたか」と聞いたら「売れませんでした」。当然だろうなぁー。初鰹をすべて買い占めて近所に配り、残った一匹を食した紀伊国屋文左衛門が生きていたら、その吉池の秋刀魚を買って吉原で食べてもらいたいものだ。


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