★ラフマニノフ:晩祷(徹夜祷)
(演奏:ロバート・ショウ指揮 ロバート・ショウ・フェスティヴァル・シンガーズ)
1.セルゲイ・ラフマニノフ:晩祷 作品37
(1989年録音)
私の音楽殿堂シリーズ、今回は声楽曲をこのように演奏できるのはこの人しかいないというロバート・ショウを特集します。
15年余り前だと思いますが、私はまだまだショパンさえ一部のピアノ曲しか知らないようなころ、そう、ミケランジェリのドビュッシーを初めて聴いたころ、クラシックの裾野を一渡りしたいと言う思いから、その当時現役盤であったクラシックのCDが全て網羅されているという触れ込みのレコードガイドを購入しました。
そういったガイドを買ったのは、後にも先にもあのときだけなのですが・・・。
さてそのとき「著名な作品はどのディスクがよかんべ」ってなノリで、ディスクの解説欄にある“特選”“推薦”などの一発評をまず確認し、全てのディスクの評を細かく読み比べました。
おいおい有名曲に関しては、本命と対抗馬の2種類ずつ揃えようという壮大な計画に発展していくのですが・・・。
振り返ってみるとまだ手出ししていない曲、対抗馬どころか大穴まで手に入れた曲、競馬場丸ごと買い取っちゃったような曲(!)までいろいろありますねぇ~。
でも全ての出発点はあのガイドなんです。
比較的最近の転勤の引越しの際、どっかへ行っちゃって残念に思っているのですが・・・。
そしてこのとき、クラシックの主要な作曲家や楽曲の名前を覚え、ディスクの数でその作曲家や作品が音楽史上どれくらいの重みがあるのかというおおまかな感覚を無意識のうちにイメージすることとなりました。
その作業の顕著な成果は、初めてシューマンの代表作が“流浪の民”でないらしい(!)と感づいたことでしょうかねぇ。
我ながらホント目からウロコでした。
フツーの学校では“クライスレリアーナ”や“幻想曲”は習いませんもんね・・・。
それまではなにせ“流浪の民”と、“トロイメライ”しか知らなかった私なのでした。
逆に、ラフマニノフの最高傑作がはこの“ヴェスペレ”に違いないという認識もおぼろげに感じ取った(!)のもその作業中でありました。(^^)v
シューマンはいいとして、このラフマニノフの無伴奏混声合唱曲をどのように評価するか・・・。
私にとって未だに悩ましい問題であります。
ラフマニノフの最高傑作は“ピアノ協奏曲第2番”だと私は思い、一般的にはそう発言しても違和感をもたれるかたは少ないと思うのですが、これが自信を持って言い切れない。。。
まぁ、コンチェルトなら3番だとか、交響曲第2番じゃないかとか、もしかしたらコレルリ変奏曲だと言う人がいらっしゃるかもしれませんが、それは好みの問題だっちゅーのってことで捨て置きましょう。
でも私が“2番コンチェルト”と言い切れない理由は、この“晩祷さん”がカウンターパートとしているからなんです。
ご存じない方もいらっしゃるかと思いますのでちょっとだけ説明しますと、“晩祷”は 正しくは“徹夜祷”と訳すべきらしいのですが、ロシア正教の典礼曲であります。要するに徹夜でお祈りするときの音楽って訳でしょうね。
この作品は合唱曲15曲から成ります。
教会音楽といえばモツレクにせよベートーヴェンのミサ・ソレムニスにせよ管弦楽が賑々しく入っていますよね。
後世のラフマニノフが作曲しているのに「なんでオケ無しなんだろう?」とずっと思っていたのですが、東方正教会では典礼音楽を演奏するとき楽器使用が認められていないんですって・・・。
だから合唱のみになるのはお約束なんだそうです。
この演奏については先ほどのガイドで“特選”扱になっていたのはもちろんですが、コメントがまた奮っていたのです。
よく覚えていませんが、大意は“これを聴かずして何を聴く”“これ一枚あれば他はいらない”“若し耳にしていない人がいたら何を措いても聴いて欲しい”とかどっかの回しモンかというぐらい入れ込んでた訳ですね。
それがやたら意識に残っていたので、カタログには1枚しかなかったのに実際の世評よりもずっと重要な作品ではないかと勝手に思い込んでしまったって言うわけです。
このブログでもよく触れているとおり、情報リテラシーの定石に照らせば、ガイドブックのサンプルが1つしかなかった訳ですから、そこに含まれている情報にはある程度の偏りがあるということをもっと気をつけるべきでしたね。
“晩祷さん”のひとつの熱狂的な批評が、コンチェルトが10種以上のカタログを有するという事実を覆い隠すほどに自分の腑に落ちてしまった。この点は反省です。
しかし本当に私の“決めきれない”という判断は間違いなんでしょうかねぇ?
ここでようやく真打登場なのですが、このロバート・ショウによる“晩祷”。
先のガイドの評にほだされて購入し、吸い込まれるどころか人声に飲み込まれるような錯覚を覚えるほどに感動しました。
今聴いても「これほどの芸術は他にそうはない!」と信じられます。
ことにこの演奏は「祈りの音楽」として聴いてもこれほど敬虔なものはないと思えますが、「コンサート・ピース」要するに演奏会用の演奏として聴いてもこれほど完成度の高い演奏はないと考えられるという、双方の要求を非常に高次元で満たした歌唱になっています。
それだけでなく非常に昇華されているというか、聴いていて癒されるのです。
ロシア正教のステンド・グラスのイコンの懐に抱かれて、心安らかに眠ってしまえるような充足感に満たされるのです。
インターネットのCDショップには輸入盤が主とはいえ、今や10種を越えるカタログが並んでいる曲(ガイドに1つしかなかったのがウソみたい!)なので人気曲の仲間入りをしているのかもしれませんが、この演奏に触れた私にとって最早対抗馬の演奏は必要ありません。
もしもショウよりもすばらしい演奏があったとしても、それはそれで構いません。
私にはショウ盤があれさえすれば、十分満たされるのですから・・・。
これまでもそうでしたし、きっとこれからもそうでしょう。
私にこのように思わせるディスクって、もしかしたらこれだけなのかもしれません。
おおらかで懐が深く、素朴かつ経験で慎み深く、スケールは大きめで潤いがあって美しい。そして人恋しいときには慰め癒されるうえに子守唄としても最適。
って、前半の曲は異様によく知っているのに、後半はどうも夢の中ばかりで聞いているような気もしないではない・・・。
★フォーレ・デュリフレ:レクイエム
(演奏:ロバート・ショウ指揮 アトランタ交響楽団&合唱団)
1.フォーレ:レクイエム 作品48
2.デュリフレ:レクイエム 作品9
(1985年・1986年録音)
おなじみフォーレとデュリフレによるレクイエムのカップリング盤であります。
演奏の特徴は変わるはずもないので重複して申し上げませんが、器楽が入ったとしても懐の深い大きな(おおらかな?)奏楽はさりげない風格さえ漂わせているようです。
フォーレのレクイエムは冒頭の沈潜の仕方が尋常ではないことが特に印象に残りますが、あとは先の特徴に加えて美しく麗しく淡々と進んでいきます。楽園にてまでどこをどう押し出すと言うこともなく、祈りを感じさせながらもやはり「声楽曲(音楽)」であることを忘れない演奏です。
デュリフレは、曲が途中で合唱に対して非常な押し出しを求めるところがあり、激情を表出すれば解決できる問題なのでしょうが、どうもアクセルを踏みながらブレーキをかけているという感じなのが惜しい。
私にはこれはディエス・イレなどを激しく書きすぎた楽曲の問題であるように思います。
そうでなければ、ロバート・ショウ向きの楽曲ではないと言うしかないでしょうね。
全般的には先のショウの特徴を備えた、いい演奏なんですけどね。
★プーランク:ミサ曲 ト長調・クリスマスのための4つのモテット ほか
(演奏:ロバート・ショウ指揮 ロバート・ショウ・フェスティヴァル・シンガーズ)
1.プーランク:ミサ曲 ト長調
2.プーランク:クリスマスのための4つのモテット
3.プーランク:悔悟の時のための4つのモテット
4.プーランク:アッシジの聖フランチェスコの4つの小さな祈り
(1989年録音)
この曲集も無伴奏です。
プーランクもフランス人、それも筋金入りのパリジャンでカトリック教徒であったようですね。
37歳のときに友人を事故で亡くしてショックを受けたことが元で、宗教曲の作曲に目覚めたらしいです。
ピアノ曲ではあのユニークと言うか、ユーモアがあるというより反骨精神があるというべき楽曲をも遺しているこのプーランクですが、ここに聴かれる4つの宗教曲は確かにウィットに富んだ音運びをすることもありますが、一瞬たりとも敬虔な祈りの音楽であることを忘れることはありません。
これもたいへん実効性の高い子守唄になっている・・・というのはナイショにしておいていただいて、ことある度に癒される奏楽です。
蛇足を承知で確認しておきますが、楽曲の素晴らしさと、それを余すところなく大きな空間のキャンバスに描き出すショウとその手兵の双方の功績であることは言うまでもありません。
私にとってロバート・ショウは合唱指揮の第一人者であり、敬虔な祈りと高度な芸術性を兼ね備えた癒しの音楽を創出してくれる、そんな芸術家なのです。
・・・だから最良の子守唄の指揮者だっていうのはナイショだってばぁ~~~!!
(演奏:ロバート・ショウ指揮 ロバート・ショウ・フェスティヴァル・シンガーズ)
1.セルゲイ・ラフマニノフ:晩祷 作品37
(1989年録音)
私の音楽殿堂シリーズ、今回は声楽曲をこのように演奏できるのはこの人しかいないというロバート・ショウを特集します。
15年余り前だと思いますが、私はまだまだショパンさえ一部のピアノ曲しか知らないようなころ、そう、ミケランジェリのドビュッシーを初めて聴いたころ、クラシックの裾野を一渡りしたいと言う思いから、その当時現役盤であったクラシックのCDが全て網羅されているという触れ込みのレコードガイドを購入しました。
そういったガイドを買ったのは、後にも先にもあのときだけなのですが・・・。
さてそのとき「著名な作品はどのディスクがよかんべ」ってなノリで、ディスクの解説欄にある“特選”“推薦”などの一発評をまず確認し、全てのディスクの評を細かく読み比べました。
おいおい有名曲に関しては、本命と対抗馬の2種類ずつ揃えようという壮大な計画に発展していくのですが・・・。
振り返ってみるとまだ手出ししていない曲、対抗馬どころか大穴まで手に入れた曲、競馬場丸ごと買い取っちゃったような曲(!)までいろいろありますねぇ~。
でも全ての出発点はあのガイドなんです。
比較的最近の転勤の引越しの際、どっかへ行っちゃって残念に思っているのですが・・・。
そしてこのとき、クラシックの主要な作曲家や楽曲の名前を覚え、ディスクの数でその作曲家や作品が音楽史上どれくらいの重みがあるのかというおおまかな感覚を無意識のうちにイメージすることとなりました。
その作業の顕著な成果は、初めてシューマンの代表作が“流浪の民”でないらしい(!)と感づいたことでしょうかねぇ。
我ながらホント目からウロコでした。
フツーの学校では“クライスレリアーナ”や“幻想曲”は習いませんもんね・・・。
それまではなにせ“流浪の民”と、“トロイメライ”しか知らなかった私なのでした。
逆に、ラフマニノフの最高傑作がはこの“ヴェスペレ”に違いないという認識もおぼろげに感じ取った(!)のもその作業中でありました。(^^)v
シューマンはいいとして、このラフマニノフの無伴奏混声合唱曲をどのように評価するか・・・。
私にとって未だに悩ましい問題であります。
ラフマニノフの最高傑作は“ピアノ協奏曲第2番”だと私は思い、一般的にはそう発言しても違和感をもたれるかたは少ないと思うのですが、これが自信を持って言い切れない。。。
まぁ、コンチェルトなら3番だとか、交響曲第2番じゃないかとか、もしかしたらコレルリ変奏曲だと言う人がいらっしゃるかもしれませんが、それは好みの問題だっちゅーのってことで捨て置きましょう。
でも私が“2番コンチェルト”と言い切れない理由は、この“晩祷さん”がカウンターパートとしているからなんです。
ご存じない方もいらっしゃるかと思いますのでちょっとだけ説明しますと、“晩祷”は 正しくは“徹夜祷”と訳すべきらしいのですが、ロシア正教の典礼曲であります。要するに徹夜でお祈りするときの音楽って訳でしょうね。
この作品は合唱曲15曲から成ります。
教会音楽といえばモツレクにせよベートーヴェンのミサ・ソレムニスにせよ管弦楽が賑々しく入っていますよね。
後世のラフマニノフが作曲しているのに「なんでオケ無しなんだろう?」とずっと思っていたのですが、東方正教会では典礼音楽を演奏するとき楽器使用が認められていないんですって・・・。
だから合唱のみになるのはお約束なんだそうです。
この演奏については先ほどのガイドで“特選”扱になっていたのはもちろんですが、コメントがまた奮っていたのです。
よく覚えていませんが、大意は“これを聴かずして何を聴く”“これ一枚あれば他はいらない”“若し耳にしていない人がいたら何を措いても聴いて欲しい”とかどっかの回しモンかというぐらい入れ込んでた訳ですね。
それがやたら意識に残っていたので、カタログには1枚しかなかったのに実際の世評よりもずっと重要な作品ではないかと勝手に思い込んでしまったって言うわけです。
このブログでもよく触れているとおり、情報リテラシーの定石に照らせば、ガイドブックのサンプルが1つしかなかった訳ですから、そこに含まれている情報にはある程度の偏りがあるということをもっと気をつけるべきでしたね。
“晩祷さん”のひとつの熱狂的な批評が、コンチェルトが10種以上のカタログを有するという事実を覆い隠すほどに自分の腑に落ちてしまった。この点は反省です。
しかし本当に私の“決めきれない”という判断は間違いなんでしょうかねぇ?
ここでようやく真打登場なのですが、このロバート・ショウによる“晩祷”。
先のガイドの評にほだされて購入し、吸い込まれるどころか人声に飲み込まれるような錯覚を覚えるほどに感動しました。
今聴いても「これほどの芸術は他にそうはない!」と信じられます。
ことにこの演奏は「祈りの音楽」として聴いてもこれほど敬虔なものはないと思えますが、「コンサート・ピース」要するに演奏会用の演奏として聴いてもこれほど完成度の高い演奏はないと考えられるという、双方の要求を非常に高次元で満たした歌唱になっています。
それだけでなく非常に昇華されているというか、聴いていて癒されるのです。
ロシア正教のステンド・グラスのイコンの懐に抱かれて、心安らかに眠ってしまえるような充足感に満たされるのです。
インターネットのCDショップには輸入盤が主とはいえ、今や10種を越えるカタログが並んでいる曲(ガイドに1つしかなかったのがウソみたい!)なので人気曲の仲間入りをしているのかもしれませんが、この演奏に触れた私にとって最早対抗馬の演奏は必要ありません。
もしもショウよりもすばらしい演奏があったとしても、それはそれで構いません。
私にはショウ盤があれさえすれば、十分満たされるのですから・・・。
これまでもそうでしたし、きっとこれからもそうでしょう。
私にこのように思わせるディスクって、もしかしたらこれだけなのかもしれません。
おおらかで懐が深く、素朴かつ経験で慎み深く、スケールは大きめで潤いがあって美しい。そして人恋しいときには慰め癒されるうえに子守唄としても最適。
って、前半の曲は異様によく知っているのに、後半はどうも夢の中ばかりで聞いているような気もしないではない・・・。
★フォーレ・デュリフレ:レクイエム
(演奏:ロバート・ショウ指揮 アトランタ交響楽団&合唱団)
1.フォーレ:レクイエム 作品48
2.デュリフレ:レクイエム 作品9
(1985年・1986年録音)
おなじみフォーレとデュリフレによるレクイエムのカップリング盤であります。
演奏の特徴は変わるはずもないので重複して申し上げませんが、器楽が入ったとしても懐の深い大きな(おおらかな?)奏楽はさりげない風格さえ漂わせているようです。
フォーレのレクイエムは冒頭の沈潜の仕方が尋常ではないことが特に印象に残りますが、あとは先の特徴に加えて美しく麗しく淡々と進んでいきます。楽園にてまでどこをどう押し出すと言うこともなく、祈りを感じさせながらもやはり「声楽曲(音楽)」であることを忘れない演奏です。
デュリフレは、曲が途中で合唱に対して非常な押し出しを求めるところがあり、激情を表出すれば解決できる問題なのでしょうが、どうもアクセルを踏みながらブレーキをかけているという感じなのが惜しい。
私にはこれはディエス・イレなどを激しく書きすぎた楽曲の問題であるように思います。
そうでなければ、ロバート・ショウ向きの楽曲ではないと言うしかないでしょうね。
全般的には先のショウの特徴を備えた、いい演奏なんですけどね。
★プーランク:ミサ曲 ト長調・クリスマスのための4つのモテット ほか
(演奏:ロバート・ショウ指揮 ロバート・ショウ・フェスティヴァル・シンガーズ)
1.プーランク:ミサ曲 ト長調
2.プーランク:クリスマスのための4つのモテット
3.プーランク:悔悟の時のための4つのモテット
4.プーランク:アッシジの聖フランチェスコの4つの小さな祈り
(1989年録音)
この曲集も無伴奏です。
プーランクもフランス人、それも筋金入りのパリジャンでカトリック教徒であったようですね。
37歳のときに友人を事故で亡くしてショックを受けたことが元で、宗教曲の作曲に目覚めたらしいです。
ピアノ曲ではあのユニークと言うか、ユーモアがあるというより反骨精神があるというべき楽曲をも遺しているこのプーランクですが、ここに聴かれる4つの宗教曲は確かにウィットに富んだ音運びをすることもありますが、一瞬たりとも敬虔な祈りの音楽であることを忘れることはありません。
これもたいへん実効性の高い子守唄になっている・・・というのはナイショにしておいていただいて、ことある度に癒される奏楽です。
蛇足を承知で確認しておきますが、楽曲の素晴らしさと、それを余すところなく大きな空間のキャンバスに描き出すショウとその手兵の双方の功績であることは言うまでもありません。
私にとってロバート・ショウは合唱指揮の第一人者であり、敬虔な祈りと高度な芸術性を兼ね備えた癒しの音楽を創出してくれる、そんな芸術家なのです。
・・・だから最良の子守唄の指揮者だっていうのはナイショだってばぁ~~~!!
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