★ベートーヴェン:かんらん山上のキリスト
(演奏:ケント・ナガノ指揮 ベルリン・ドイツ交響楽団、ベルリン放送合唱団)
1.オラトリオ 《かんらん山上のキリスト》 作品85
(2002年録音)
バッハ⇒ハイドンと来たので、本日はベートーヴェンをば・・・。(^^)/
音楽史上でベートーヴェンといえば古典派に属するということになっていると思うのですが、この演奏を聴いたところやはり古典派だと初めて感得いたしました。(^^;)
翻ってベートーヴェンに心酔していたシューベルトはといえば、ロマン派に分類されるのが普通ではないでしょうか?
生まれ年はともかくとして、ベートーヴェン逝去の翌年にシューベルトは後を追うかのように亡くなったとよく言われている通り、それぞれの晩年は否応なく時期的に一致してしまっています。
でも、ベートーヴェンはあくまでもロマン派の萌芽を見せた古典派の作曲家であり、シューベルトは古典派の形式感をとどめながらもロマン派の作曲家と分類されているのが普通ではないでしょうか。
ベートーヴェンの人口に膾炙した曲、たとえば名前付きの英雄・運命・田園・合唱なんて曲に関して言えば、これはもう古典派もロマン派もクソもない唯一無二の“ベートーヴェン派”ですよねぇ。
たとえ下地が古典派で、ファンデーションにロマン派の香りをにじませたとしても、仕上げにこれだけベートーヴェン工房作の厚塗りコーティングを施してしまっては、まるっきり“お里が知れぬ”状態になってしまいます。(^^;)
これがストリング・クワルテットになると、最初はこれぞ古典派って感じでかっちりやっていながら最晩年の大傑作群の作品になると7楽章になってみたり、大フーガを入れちゃおうと目論んだり、ホントに「これでも古典派?」という感じになります。
最終楽章にコーラスを入れた合唱交響曲にしても同じようなものかもしれません。
つまり古典派の伝統をぶっ壊し始めたのも、やはりこのグレーの髪の毛もじゃもじゃのおじさんであり、どこかの国の前宰相と同じパターンといえばそうかもしれません。
かと思うと、月光ソナタの第1楽章あたりはことによるとロマン派的といえばロマン派的だし、弾きようによってはこのソナタ全部がロマン派であるような気もしないでもない。
それにやや先立つ第12番だかのソナタでは(英雄交響曲もそうだけど)楽章中に葬送行進曲を入れちゃったりして、これなんかはショパンの先駆(変ロ短調ソナタですネ!)なのかもしれない・・・。
このような現象的なことばかり見ていたので、作品2のピアノソナタや先の弦楽四重奏曲集を見れば出自が古典派であることは明らかであるはずですが、それがどこかで改宗しているのではないかと思わせられるような感があったのです。
でも精神は最期までやはり古典派だったんだろうなぁということが、このようなわりかし無名の曲を聴いたことでなんとなく感じられた・・・そういうことです。
なぜか?
それはロマンティックと感じさせる要素があったとしても最期まで形式感が崩れないから・・・。(^^;)
たとえばシューベルトの未完成交響曲でも、憂愁の美旋律があったとしても形式感は遺された2つの小節では崩れを見せていません。
でも、この方は地獄のふちまでよく行っているのはご承知の通りですが、大半は確かに形式感を崩さずに帰ってくるんです。変ロ長調ソナタ(D.960)の第2楽章だって結構アブナイところまで踏み込んでいるけど、絶妙な箇所で転調することによって転落を回避している・・・。
でもでも、その前のイ長調ソナタ(D.959)では第2楽章でロマン派の火口に落っこっちゃってるんですよね。
形式感の維持を置き去りにして激情の波に身を任せてしまう、すなわち形式と感情の表現の優先順位を逆さにしちゃった前科がある・・・点で、これはベートーヴェンより進んでいるというかベートーヴェンの見ていた地平にはなかったことであるような気がします。
ベートーヴェンは確かに古典派というかそれまでの流儀を壊してきましたが、それは精神を表現するのに“心より出でて心に届かんことを”願ってのことであった、要するに伝えるべき相手に伝えるための“則(ノリ)”は必ずわきまえていたはずです。
たとえ、合唱交響曲の第4楽章にしても・・・です。
ですがシューベルトは自分の感情のほとばしりを押さえ切れなかった、聞く人のことをある意味度外視して作曲する部分、自分を表現することを優先する部分があることでロマン派の要素が濃いというように思います。
ベートーヴェンはこの“かんらん山上のキリスト”においても、何かを聴き手に伝えるための作曲技法に専念しているように思えました。
オイラの主張であっても自分がそれをコントロールして、適切な方法で聴衆に届けるのです。
決して、自分のどうしようもない思いを聴き手の存在を無視して音に乗っけて、あとは聞いたヤツが好きに判断しろ・・・などと、若手のいきがったロックシンガーみたいなことは言ったりしていないと思います。
あくまでも“私の心より出た音楽を心にお届けしたい”といういじましいスタンスなんです。
そんなベートーヴェンの音楽を、ケント・ナガノの棒は鮮やかにくまどっていきます。
ドミンゴをはじめとする歌唱陣も、けっこう技を使っているんだろうなぁと思わせる歌いっぷりで、耳を引き付けられる箇所も多いです。
ベートーヴェンの曲ですから、そこはそれ、後の合唱交響曲にも通じるような音の使い方というか間を感じさせるばかりか、ベートーヴェン工房の薄味のコーティングを聴き取り苦笑いしちゃうところもありますが、それを剥ぎ取ったらきっと無垢な古典派の哲学に則ったベースが底光りしているに相違ありません。
そんなことまで感じさせるこの演奏は、SACDフォーマットで録音されており、音の気配感に抜群の優れたところを見せるとともに、収録された音そのものも声・オケともにほどよい湿度感を持った高密度の聴きやすい音ですから、そんなところもセールスポイントのひとつではないでしょうか。
事実、私が最初に手にした理由はステレオ・サウンド誌の録音評だったわけですから・・・。(^^;)
※出張のため先日付投稿します。
(演奏:ケント・ナガノ指揮 ベルリン・ドイツ交響楽団、ベルリン放送合唱団)
1.オラトリオ 《かんらん山上のキリスト》 作品85
(2002年録音)
バッハ⇒ハイドンと来たので、本日はベートーヴェンをば・・・。(^^)/
音楽史上でベートーヴェンといえば古典派に属するということになっていると思うのですが、この演奏を聴いたところやはり古典派だと初めて感得いたしました。(^^;)
翻ってベートーヴェンに心酔していたシューベルトはといえば、ロマン派に分類されるのが普通ではないでしょうか?
生まれ年はともかくとして、ベートーヴェン逝去の翌年にシューベルトは後を追うかのように亡くなったとよく言われている通り、それぞれの晩年は否応なく時期的に一致してしまっています。
でも、ベートーヴェンはあくまでもロマン派の萌芽を見せた古典派の作曲家であり、シューベルトは古典派の形式感をとどめながらもロマン派の作曲家と分類されているのが普通ではないでしょうか。
ベートーヴェンの人口に膾炙した曲、たとえば名前付きの英雄・運命・田園・合唱なんて曲に関して言えば、これはもう古典派もロマン派もクソもない唯一無二の“ベートーヴェン派”ですよねぇ。
たとえ下地が古典派で、ファンデーションにロマン派の香りをにじませたとしても、仕上げにこれだけベートーヴェン工房作の厚塗りコーティングを施してしまっては、まるっきり“お里が知れぬ”状態になってしまいます。(^^;)
これがストリング・クワルテットになると、最初はこれぞ古典派って感じでかっちりやっていながら最晩年の大傑作群の作品になると7楽章になってみたり、大フーガを入れちゃおうと目論んだり、ホントに「これでも古典派?」という感じになります。
最終楽章にコーラスを入れた合唱交響曲にしても同じようなものかもしれません。
つまり古典派の伝統をぶっ壊し始めたのも、やはりこのグレーの髪の毛もじゃもじゃのおじさんであり、どこかの国の前宰相と同じパターンといえばそうかもしれません。
かと思うと、月光ソナタの第1楽章あたりはことによるとロマン派的といえばロマン派的だし、弾きようによってはこのソナタ全部がロマン派であるような気もしないでもない。
それにやや先立つ第12番だかのソナタでは(英雄交響曲もそうだけど)楽章中に葬送行進曲を入れちゃったりして、これなんかはショパンの先駆(変ロ短調ソナタですネ!)なのかもしれない・・・。
このような現象的なことばかり見ていたので、作品2のピアノソナタや先の弦楽四重奏曲集を見れば出自が古典派であることは明らかであるはずですが、それがどこかで改宗しているのではないかと思わせられるような感があったのです。
でも精神は最期までやはり古典派だったんだろうなぁということが、このようなわりかし無名の曲を聴いたことでなんとなく感じられた・・・そういうことです。
なぜか?
それはロマンティックと感じさせる要素があったとしても最期まで形式感が崩れないから・・・。(^^;)
たとえばシューベルトの未完成交響曲でも、憂愁の美旋律があったとしても形式感は遺された2つの小節では崩れを見せていません。
でも、この方は地獄のふちまでよく行っているのはご承知の通りですが、大半は確かに形式感を崩さずに帰ってくるんです。変ロ長調ソナタ(D.960)の第2楽章だって結構アブナイところまで踏み込んでいるけど、絶妙な箇所で転調することによって転落を回避している・・・。
でもでも、その前のイ長調ソナタ(D.959)では第2楽章でロマン派の火口に落っこっちゃってるんですよね。
形式感の維持を置き去りにして激情の波に身を任せてしまう、すなわち形式と感情の表現の優先順位を逆さにしちゃった前科がある・・・点で、これはベートーヴェンより進んでいるというかベートーヴェンの見ていた地平にはなかったことであるような気がします。
ベートーヴェンは確かに古典派というかそれまでの流儀を壊してきましたが、それは精神を表現するのに“心より出でて心に届かんことを”願ってのことであった、要するに伝えるべき相手に伝えるための“則(ノリ)”は必ずわきまえていたはずです。
たとえ、合唱交響曲の第4楽章にしても・・・です。
ですがシューベルトは自分の感情のほとばしりを押さえ切れなかった、聞く人のことをある意味度外視して作曲する部分、自分を表現することを優先する部分があることでロマン派の要素が濃いというように思います。
ベートーヴェンはこの“かんらん山上のキリスト”においても、何かを聴き手に伝えるための作曲技法に専念しているように思えました。
オイラの主張であっても自分がそれをコントロールして、適切な方法で聴衆に届けるのです。
決して、自分のどうしようもない思いを聴き手の存在を無視して音に乗っけて、あとは聞いたヤツが好きに判断しろ・・・などと、若手のいきがったロックシンガーみたいなことは言ったりしていないと思います。
あくまでも“私の心より出た音楽を心にお届けしたい”といういじましいスタンスなんです。
そんなベートーヴェンの音楽を、ケント・ナガノの棒は鮮やかにくまどっていきます。
ドミンゴをはじめとする歌唱陣も、けっこう技を使っているんだろうなぁと思わせる歌いっぷりで、耳を引き付けられる箇所も多いです。
ベートーヴェンの曲ですから、そこはそれ、後の合唱交響曲にも通じるような音の使い方というか間を感じさせるばかりか、ベートーヴェン工房の薄味のコーティングを聴き取り苦笑いしちゃうところもありますが、それを剥ぎ取ったらきっと無垢な古典派の哲学に則ったベースが底光りしているに相違ありません。
そんなことまで感じさせるこの演奏は、SACDフォーマットで録音されており、音の気配感に抜群の優れたところを見せるとともに、収録された音そのものも声・オケともにほどよい湿度感を持った高密度の聴きやすい音ですから、そんなところもセールスポイントのひとつではないでしょうか。
事実、私が最初に手にした理由はステレオ・サウンド誌の録音評だったわけですから・・・。(^^;)
※出張のため先日付投稿します。
ベートーヴェンとシューベルトは同時期に活躍し、没後は1年違い。共通するところは交響曲が9番まで。(これは他の大作曲家も9番は最後の交響曲だそう)
でも、ベートーヴェンとシューベルトはどのようなジャンルでもシューベルトの方が長調が多くて、軽やかな雰囲気に仕上がっているような気がします。
ロマン派でも違いがはっきりしているから、そこを聴くことによって発見があるかも知れませんね。
長調で軽い曲が、気楽に聞き流せるかというと必ずしもそうではないところがまた深いところですよね。(^^)/
というのは私はロマン派あまり聴かないし、ベートーベンも聴かないから…という薄弱な理由。
それから前から思っていたのですが、ベートーベンって読み方はこれでいいのですか?
ベートホーフェンと読めるのですが…。
また、ベートーヴェンをあまり聴かないと仰るキモチもわかるようなきがします。
確かに権威主義的って感じの曲もありますモンね。。。
ベートーヴェンのせいじゃないかもしれませんけどね。
また、名前の読み方は何語読みをするかという問題もあるでしょうし、わが国でも書いてある通りに読めないことが多いですから・・・。
そういえば、画家のゴッホは“フィンセント・ファン”と名前を呼んだ場合には“コッホ”が正しいそうですね。
日本語の活字にすると細菌学者みたいになっちゃいますね。(^^;)
撃墜王リヒトホーフェンも、「リヒトーベン」ではないでしょうから。
↓
http://page.freett.com/dateiwao/bethoven.htm
ところでショパンの幻想即興曲がルービンシュタインの発掘した楽譜が決定稿だと言われていても、それまでにフォンタナが改変した出版稿作品66が巷に出回って未だに“幻想即興曲”と言えばその曲を差すことが多いようです。
高橋多佳子さんにおかれても、人口に膾炙した出版稿を弾かないのには勇気がいると仰っています。たとえその演奏に、出版府にない装飾を織り交ぜられても・・・。
したがいまして、私も人口に膾炙したベートーヴェンという表記をやめるのには勇気がいるので、このままベートーヴェンと表記していきたいと考えております。(^^;)
たまにベートーベンとかサボった表記をするかもしれませんが・・・。
多佳子さんはこの際なんにも関係ありませんが、一応、他人のせいにしておきます。
クラウディオ アラウであれば、ベートーヴェンにはもっとこだわりを持たねばならないと、思わなくもありませんが・・・。