SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
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エフゲニー・ザラフィアンツ ピアノリサイタル

2013年05月08日 01時39分16秒 | ピアノ関連
★愛知県立芸術大学音楽学部 器楽専攻 ピアノコース特別講座 2013
  Evgeny Zarafiants Piano Recital

Program

Ludwig van Beethoven (1770-1827):
Sonate op.2-1 f-moll (1795) Allegro / Adagio / Menuetto:Allegretto / Prestissimo

Sonate op.10-3 D-dur (1796-98) Presto / Largo e mesto / Menuetto:allegro / Rondo:Allegro


Frederic Chopin (1810-1849):
8 Masurki: en la mineur op.17-4 / Si majeur op.56-1 / si♭ mineur op.24-4 /
sol mineur op.67-2 / Fa majeur op.68-3 / do# mineur op.63-3 /
Do majeur op.24-2 / do mineur op.56-3


Alexandre Scriabine (1872-1915):
Fantaisie en si mineur op.28 (1900)


*encore
Frederic Chopin (1810-1849):
Masurki:       en si mineur op.33-4               

                  (2013年5月6日(月祝) *特別開講日 18:30開演 愛知県立芸術大学奏楽堂にて)

エフゲニー・ザラフィアンツのピアノ・リサイタルを心から堪能してきました。
愛知県立芸術大学の講義の一環らしいのですが、一般の希望者にも広く門戸を開いてくださったうえ、なんと『タダ(ミもフタもない言い方ですが)』で上記充実のプログラムを聴けちゃいました。
ラッキーまるもうけと、関係者各位に感謝するほかありません。
当日は比較的大きな会場ではあるものの、空席も目立ち、もったいないと思うとともに、その内容の素晴らしさに「こういうピアニストこそもっと聴かれるべきなのに」と残念な思いもありました。いずれ余計なお世話でありましょうが・・・。


この公演が、ピアニストのアウトリーチ活動拡大版的なご厚意によるものか、録音会場候補のテストだったのか、勝負リサイタルの実戦ゲネプロだったのか、招聘元・支援者・大学側の熱烈なアプローチにほだされたものなのか・・・
リサイタルに行くまではさまざまな理由を挙げてみて、なるほどどれもありそうなことだなどと思いを巡らしていました。

まぁ、潔い音だけによる言い訳無用の圧倒的なパフォーマンスの洗礼を浴びた今はよけいなお世話はどこへやら、ただただ頭を垂れて充足感の余韻をかみしめるほかありません。


個人的には、リサイタルにおいては演奏者は音だけで勝負すべきだと今でも思います。
楽曲や演奏家の想いを手掛かりに、そのときどきの演奏を安心して聴きたい、あるいはよりわかりやすく聴きたいというオーディエンスのニーズがあることは理解できます。
また、それを聴き手の甘えだとも思っていません。

でも、言葉というものはその性質上「物事を規定・限定」してしまいます。
このように分別に強烈に働きかけ、相手を理性的に仕切る効果があるという点において決定的にオトと違うのです。
コンサート会場で鳴り響く音の価値を測る物差し、感動のものさしは分別ではありえない・・・私はそう思うのです。

作曲家や作品を知識として知りたいのであれば、事前にプログラムを読めばわかります。演奏の合間などに耳で聞く必要はありません。
ただ、音楽家が自ら演奏にあたって「そこがポイント」と考えているとの情報は自らの口で表現しないと伝わらない・・・とは言えるかもしれません。

とはいえ、私の考えでは、演奏者がうっかりそれを口にしてしまったが最後、聴き手の中でその楽曲が「そこ」と「そこ以外」のところに分かれてしまい注意のありかたが異なってしまう・・・
ひどい場合には、「そこ」はピアニストが語った通りの感想しか持ってはいけないと思いながら聴く(よく言えばピアニストを信じて頼っちゃう、悪く言えば目(耳)をくらまされちゃう)こともあるかもしれないし、「そこ以外」のところは、実は虚心に聴いていたとしたらとても魅力的に思えたかもしれないのに聞き流すことにつながってしまうかもしれないのではないでしょうか。
してみると、MCは親切かもしれないし、おせっかいかもしれないし、聴き手の芸術鑑賞にとって罪作りかもしれない・・・これらはいずれも真なりと言えると思うのです。

これが私のすべてをぶつけた演奏だ・・・
演奏家のそんな気概から放たれた音の塊を体全体を耳にして受け止めて、聴き手が感じ取ったものの総体が、コンサートでの収穫とするならば、MCは体全体を耳にすることの妨げにこそなれ、あまり助けにはならないのではないというのが私の意見。
それがお客の入りにかかわらず、一切手抜きなしという態度が体感されたザラフィアンツの演奏を聴いてますます強く感じられるようになった・・・そんな気がします。


さて、ザラフィアンツの既発CDは、1990年代のナクソスのスクリャービンのほか、ALMのものにいたってはデビュー盤以降2~3枚の例外を除いてほとんどすべてを聴きました。
就中、2枚目にリリースされたショパンのバラード全曲およびこの日も演奏されたスクリャービンの幻想曲を収めた1枚は、レコ芸で紹介され何気なく手に入れたものではありましたがたいへんな邂逅であり、はじめて耳にして以来「超」がつくお気に入り盤となりました。

ただ、その他のディスクについては、それほど感動しなかったと正直に言わねばなりません。
プログラムの工夫(バッハとラフマニノフの混在やハイドンとメンデルスゾーンという取り合わせなど)に意表を突かれたり、ディスクごとにとてつもなくストイックになにものかを徹底しつくした痕跡を認めはしながらも、それがなんだかピンと来ないため、「だからどうした・・・」と思うほかなかったのです。


しかし、実際の演奏を目の当たりにした今、ザラフィアンツというピアニストが真の芸術家であることを疑いません。
「心より出た音楽を聴き手の心に伝えうるベートーヴェンの息子」であり、自らのベートーヴェン演奏、ショパン演奏の流派を打ち立てたホロヴィッツ・アラウ・ミケランジェリなどの巨匠と並び称されるべき存在と、心底思っています。


なぜに「現物」と、「商品化されたCDのオト」から抱く印象にこれほどのギャップが発生するのか?
またも余計なお世話でいらぬ考えを巡らせてみますと・・・

ひとつには、弾き手のスタンスの問題がありましょう。
このピアニスト、とにかく肌理が細かいのです。
いかなる妥協も許さない態度で解釈され演奏されている・・・この徹底しつくされた表現が必然的に、先にも述べた他とはまったくちがう独自の流派であれば奇矯にも聴こえる瞬間があるのは仕方ないこと。
同じ空気を吸いながら、実際の演奏を聴くかぎりは全くもって異形と感じなくとも、「他との聴き比べ」という客観性をそこに求めると聴き手によっては達者な演奏と思いつつも「聴きなれない」表現が随所にみられる奏楽となっているのは事実でありましょう。

また、ひとつには再生芸術の限界という問題があると思います。
演奏会場では、絶妙な音色のグラデーション、倍音の霧、その他演奏と一体となってしまえるような蠱惑的な表現で、時がたつのも忘れてしまうような響が実際現出されているのにもかかわらず、それを高品位であるとはいえCDやSACDのパッケージに押し込む限界があるということ。
そして、それを自宅の機材で再生するときに、大切な何かが毀損されて伝わらないということがある・・・。
実際、ザラフィアンツのベートーヴェンのソナタのCDを自宅で聴いた際に、演奏会場で味わった醍醐味はやはり想像力をたくましくしても再生音からは補いきれなかった感が強くしました。
しかし・・・本物の演奏を聴いたことで、これまでピアニストがこうしたい(実際の演奏ではこのように鳴っていたんだろうな)と思い描いたことにずいぶん思いをいたせるようになりました。
ピアニストは録音マイクの前でも同じ態度で演奏していたものが、商品となって手許に来ると、弾き手にとって肝心なものはよしんば収められていても聴き取りにくくなっている、優先順位が下がってしまっているように思われることが2つめの理由です。

3つ目の理由はプロモーションの在り方・・・ではないでしょうか?
新譜発売時のプロモーションあるいは書評など直接演奏とかかわりのないメディアが、他との差別化を図らんがために演奏の真価とは別に、いくばくかの誇張やある種のイロモノ的な表現をためらわないがために、聴き手の目(耳)が曇って変な先入観を持ってしまってはいないのか?
ビジネスとしては、少なからずそれが奏功している面も否定できないかもしれません。でも、実演は生真面目で全うきわまりありません。
間違っても奇矯な演奏であったり、バランス感覚を失した演奏ではない・・・と思います。


ここからは、記録のためにそれぞれの演奏について感じたことを簡単にメモします。

ベートーヴェン・・・
ハイドンの影響下にあったことを思わせる曲ですが、濃密かつ麗しい浪漫的な演奏でした。
もとよりザラフィアンツには、このうえない美音に飾られた周到なハイドン演奏があったことを思えば、ベートーヴェンともなればこのような表現となることは十分想定されたのですが、ディスクに収められた情報、それを我が家の再生装置で再現した情報とはモノが違う完成度の高さに感じ入りました。

どこもかしこもとことん音と休符が塗り込められているのに、まったく息苦しくない。
瞬発力も余裕も十分、キメ細かさの徹底の為せる業です。


シューマンのフモレスケに代わって置かれたショパンのマズルカ8曲・・・
マズルカを並べることによって、シューマンの連作と似た雰囲気が感じられました。
リズムの共通点という以外には、曲想もさまざま、曲内でも三部形式でメロディーや雰囲気が変わるので、聴き手にとっては面白い効果だなという感じがしました。

無論ミケランジェリのDGのディスクのプログラムをヒントにしているのでしょうが、共通する曲も少なくなく、その違いに思いを致すことも楽しい営みでした。

演奏も出色。
何に対してかわかりませんが、ここでの音たちは泣いていました。それも体をうち震わせて泣いている・・・
そんな情景の中に不意に惹きこまれてしまうほどの力をもった演奏、マズルカは疑いなく叙事詩でした。
よくショパンはマズルカ(やポロネーズ)においてポーランドの舞踊音楽の芸術性を飛躍的に高めた、などと評されていますが、極限まで芸術的にするとこうなるのかな・・・とまで思わせられました。


スクリャービンの幻想曲・・・
思えばこの曲に感激したのがザラフィアンツとの出会い。
ディスクでは繰り返し聞くことを考慮して、中庸の演奏となっていたのでしょう。
それでも私を魅了するのに十分だったのですが、ここでは録音上のリミッターも何の制限もなく全開のスクリャービンを聴くことができました。
鳥肌立ちまくり・・・
いわゆる三昧に入った演奏であり、私自身も曲と同化してすごい勢いで時空間を超えていた・・・こうやって書くと大げさかもしれませんが、そのような感覚だったとしておきます。
少なくとも、掃除機に吸いこまれたごみが長い管をすごい勢いでなすすべなく引き回された感じ・・・と書くよりは、詩的でしょうからね。

比較するものがない・・・
それに同化していると、それすら感じられないという一体感。芸術体験の醍醐味はここにこそあるのだと、強く感じさせる体験でした。


アンコールのショパンのマズルカ・・・
これもミケランジェリが録音した曲ですが、時代の流れとともにオリンピックの記録は進化すると感じさせるところがありました。
ミケランジェリのDGのディスクは私にとって神のような存在なので、その上に立つ演奏はありえないと思うのです。
しかし、一部の観点からすれば、明らかにザラフィアンツの方が徹底している。。。


帰宅して以降・・・
いくつものザラフィアンツのCDをもう一度聴いています。
理解が進んだような気がします。

ラフマニノフの一部の楽曲やリストの最新CDなど、今もってピンとこない気がするものもありますが、あの日、聴衆に向かって体感させてくれた人柄を含めた音からすれば、私が気付かないだけでもっと深い思いが塗り込められているに相違ない。。。
そう思って、何度も繰り返し聞いてみたいと思います。
善意の人の声には、わかるまで耳を傾ける必要がある・・・んじゃないかな?


最後にあらためて、かくも素晴らしい企画を家族で楽しませてもらったお礼を、愛知県立芸術大学および関係各位およびザラフィアンツ氏に申し上げます。

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1 コメント

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はじめまして、初コメントです! (めぐみ)
2013-06-14 05:57:56
はじめまして!めぐみっていいます、他人のブログにいきなりコメントするの始めてで緊張していまっす( ̄ー+ ̄)。ちょくちょく見にきてるのでまたコメントしにきますね(*・・*)ポッ
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