SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

バッハのゆりかご

2007年07月21日 00時14分34秒 | 器楽・室内楽関連
★アコーディオン・バッハ
                  (演奏:御喜 美江)
1.フランス組曲 第5番 ト長調 BWV.816
2.フランス組曲 第6番 ホ長調 BWV.817
3.フランス風序曲(パルティータ) ロ短調 BWV.831
4.アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳(1725)から
                  (1997年録音)

なんて自在な音楽、まるでゆりかごに揺られているようになんて心地よい音楽なんでしょうか!? (^^)/

今年の3月29日(私の誕生日)に紀尾井ホールでガラ・コンサートがありました。
お目当ては高橋多佳子さんだったのですが、当然他の気鋭のアーティストの演奏にも触れることができ少なからぬ感動をいただいたものです。
結婚以来家族のいない誕生日って初めてだったんですが、おかげさまでホントいい誕生日でした。

その中でもクラシカル・アコーディオン奏者の御喜美江さんのパフォーマンスには深い感銘を受けました。
演奏もさることながらその語りに真実味があること、朴訥とまではいかないけれど必要なことを落ち着いた口調でボソッと話される風情に浮ついたところのない信頼感みたいなものを感じました。

肝心の演奏も、スカルラッティのソナタ、このディスクにも収められているバッハのメヌエット(BWV.Anh.114)の他、ピアソラどころかジョン・ゾーンの現代音楽のフィールドに至るまで非常に多彩で、20分余でアコーディオン音楽の歴史をすべて紐解いたと思えるぐらいのプログラムを、ことごとく聴き手を唸らせる内容でこともなく(そのように思えた)演奏しきってくださいました。

もちろん御喜さんのことをこれまでまったく知らなかったわけではありません。
レコ芸でも賞賛されていたし、このディスクは高音質ディスクとしてステレオサウンド誌などでも特集されていましたから。
でも、こうして実演を聴いて驚くまで手に取ることはなかった・・・。

不覚でしたねぇ・・・このディスクは何とかかんとか手に入れることができましたが、スカルラッティのCDも発注すれど来ないと思ったら入手不可になっちゃうし・・・。(>_<)
なんでこれほどの人のこれほどの演奏が、すぐ手に入らなくなっちゃうんでしょうかねぇ?

これだけでも入手できてラッキーだと思うことにしようと、ターンテーブルに載せてみてさらにビックリ!!
ここで書き出しの感想にいたるわけです。(^^)v
ゆりかごでもいいんですけど、ホントはむしろ羊水に浮いている感覚と言いたいほど心地よく癒されるんですよね。


ライナーには御喜さん自身の手になる解説がありますが、それによると先のバッハのメヌエットが彼女が音楽の道で立っていこうと決意するにいたったきっかけの曲だそうです。
誰でも知っている簡素な曲ですが、このディスクの演奏が親密に、そしていかに多くを語りかけてきてくれるか言葉になりません。

ごくごく自然に加えられる装飾音のひとつひとつに、幼稚園の先生が幼児にやさしく何かを諭しているような光景が浮かぶかのようです。
もちろん子供たちは、みんなその先生が大好きで先生の話に目を輝かせ聞き入っている、そんなインティメートな空間。。。
このディスクにはそんな瞬間が一杯に詰まっています。

また、アコーディオンの音には芯がなくなかなかバッハの音楽を形作るのが困難だったため、断念まで考えた由が記されていました。
この音楽を聴くと何の気負いも衒いもないように聴こえますが、達人とはいえそこまで行くにはいろいろあったということなのでしょう。


ところで私はといえば、普段接しているピアノやハープシコードとはもちろん、ふいごで空気を送り込むといった構造が似てるようにも思えるオルガンともやはり違うこのアコーディオンという楽器を、御喜さんの演奏に触れて心の底から見直しました。

これまでにもアコーディオンのディスクを聴いたことがないわけではないのですが、ことごとく奇矯なことをしているようにしか思えなかったのです。
まぁ奇矯なことをしているディスクしか手に取らなかったのかもしれませんが・・・。(^^;)

そんなアコーディオン演奏の先入観も払拭し、今やこのバッハのディスクを精神的に明るくなりたい時、心を安らかにリラックスさせたい時、そして何より優しくなりたい時に手に取るようになりました。

みなさんはアコーディオンにピアソラの音楽や、遊園地の音楽、あと例えばマリオネットの踊りといったようなイメージを持っていらっしゃいませんか?
私は御喜さんの演奏に触れたことで、そんなイメージはそのままに、素晴らしいクラシック音楽を表現できる楽器としても認識できるようになったのです。
リード楽器で、奏者が空気を送り込むことで発音するという構造から、人の呼吸とか営みの全てが音に反映する繊細な楽器だというように・・・。

そして最良の奏者がこの楽器を扱ったとき、体中を使って心の機微を表現することができるんだということも・・・。
このディスクには音楽に対する喜び、驚き、悲しみといった基本的な感情が詰まっており、それを素直に聴き手の心にあるときはまっとうに届けてくれるし、またあるときにはそっとしのばせてくれるというような心の中での経験ができる稀有なディスクのひとつです。

そんなわけでかつてのスカルラッティのディスクも何とか探していきたいですし、近作ではグリーグの抒情小曲集を取り上げているようですから、動向をチェックしていかねばなりますまい。

彼女のブログも発見して読むようになりましたが、ホント目が離せない楽しみなアーティストですね。(^^;)

うるおいある加藤さん

2007年07月03日 00時00分00秒 | 器楽・室内楽関連
★J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとバルティータ
                  (演奏:加藤 知子)
《DISC1》
1.ソナタ 第1番 ト短調 BWV1001
2.パルティータ 第1番 ロ短調 BWV1002
3.ソナタ 第2番 イ短調 BWV1003
《DISC2》
4.パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004
5.ソナタ 第3番 ハ長調 BWV1005
6.パルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006
                  (1999年・2000年録音)

この記事を投稿しようと思ったきっかけは、第13回チャイコフスキー国際コンクールで神尾真由子さんがヴァイオリン部門で優勝したことです。
チャイコンというとまずは諏訪内晶子さんがウィナーとして思い浮かぶのでしょうが、そして私はもちろん諏訪内さんの演奏も好きですけど、それ以前に第2位入賞した実績をお持ちの加藤さんのほうが“潤いのある音色”で実感がわくのであります。

この際“うるおいある加藤さん”というのは、サッカーの中田選手とどうしたこうしたの“お嬢様フェイス”の加藤あいさんではありませんよ。

ここで演奏しているのは加藤知子さんであります。これくらいは大丈夫とは思いますが、念のため!
タイトルのオチはこれだけで終わりです。(^^;)


さてさて。
加藤知子さんのディスクは正直言ってこれしか持っていません。
私が勝手に嗜好が似ていると感じている、レコ芸の月評子でもいらっしゃる濱田滋郎先生がこのディスクを強く推していらっしゃったので、「それじゃ聴いてみよう」というノリで購入したものであります。

そして心してこのディスクと向かい合った結果は、「演奏家が知情意ともに成熟し、技術を振るう肉体的にもピークの時期を得て、この録音が成就できたであろうことを本当に幸運に思う」という結果になりました。
別に引用しているつもりではありませんが、これは確か濱田先生が仰っていたのと似通った感想であると思います。

演奏そのものは、典型的ともいえる現代ヴァイオリンを使ったモダンな演奏法なんだと思います。
しかしこの“音の粘り腰”は何と形容したらいいんでしょうか?
語感とすると執念とは違う、執着には似ている、粘りけがあるというとチョッと違うようにも思うが決してさらっとはしていない・・・。
ボウイングをためにためて、弓を弦から離している瞬間がわずかなブレスのときだけという感じで執拗に音が鳴り続けているような気がします。
それにより非常に重要な役割を担う切迫感を演出しているのですが、余裕のなさとはまた無縁の緊張感を現出しているのです。

説明が非常に難しいのですが、深い音楽性を感じさせつつも思いつめたような精神性、もはや後がないといわんばかりの演奏の窮屈さによってバッハの音楽のある種の威厳を表現しようというのではない。。。
そうとであればいえるのではないかと思います。

取り澄ましているようには聴こえないけれども、凛とした、それでいて潤い・ツヤのある音色を終始絶やすことなく繰り出すことによって、確かに格調高い音楽が創り上げられているのです。

もうひとつそこには“日本人女性ならではの母性”というようなエッセンスも加わっていると言っていいかもしれません。
この音色の伸び、しなやかな歌い口、見事に歌い分けられた声部のフレージングやバランスのどこをとっても我が国の感性を感じないわけにはいきません。

個別の曲を例に挙げてご紹介するに当たり、いつもシャコンヌばかりを採り上げるのもシャクなので別の曲にしますが、第3番ソナタのアダージョやフーガにしても、第3番パルティータの前奏曲、ルールにしてもテンポをゆったりと取ってたっぷりと歌い込まれていること、特に後者のルールでは音の持続にも最大限のニュアンスが込められ、消え際の美しさなど、個人的にはこの曲集の白眉ではないかと感じてさえいるほどです。
このテンポ感を支えているヴァイオリンの音色の美しさに魅せられてしまったら、たとえクレーメルがどんなに素晴らしい演奏を残していてもこの盤を忘れるわけにはいかなくなるでしょう。

まぁ我々としては、我が国にこれだけの演奏を成し得たヴァイオリニストがいるということと、この吸い付いてくるような音色を聴きたくなったとしたらこのディスクを選べばよいという2点だけ記憶に留めておけばよいのかもしれませんけどね。


いずれにしても、大変な難曲をブラヴォーに弾きこなした加藤知子さんに敬意を表します。(^^)v

ところで冬場の化粧品会社のポスターって漆黒をバックにしたものが多かったように思います。各社とも揃ってそんな色になっちゃうようですが、ギョーカイ内の季節感みたいなモンですかねぇ。。。
ところで、このディスクも図らずも格調高い黒を基調としたジャケットなんですよね。(^^;)

CMでポワロ似の執事然としたおじさんが、加藤あいさんのキメ細かいお化粧に思わず仰天していた“お嬢様フェイス”の宣伝がありましたよね。
そういえば、こちらもお化粧の世界においては“うるおいある加藤さん”でありました!


私はどっちも大好きです。生ツバごっくんですね。(^^)v

ハーゲンだっつ!

2007年06月10日 18時39分54秒 | 器楽・室内楽関連
★モーツァルト:弦楽四重奏曲第22番・23番
                  (演奏:ハーゲン弦楽四重奏団)
1.弦楽四重奏曲 第22番 変ロ長調 K.589 《プロシア王第2番》
2.弦楽四重奏曲 第23番 へ長調 K.590 《プロシア王第3番》
                  (1986年録音)

もちろんこの記事を書こうと思った理由は、知人からハーゲン・ダッツのアイスクリームをいただいたことによります。
久しぶりにタイトルからオヤジギャグでかましてみましたが、いかがだったでしょうか?
記事の内容に何ら関係ないことは言うまでもありません。(^^)/

ハーゲン弦楽四重奏団の演奏は、実はこれら初期のものしか聴いていません。
とはいえこの楽団は私にとっては大変に思い入れ深いクァルテットでして、室内楽、否、もっと厳格に言えば弦楽四重奏曲を初めてディスクで聴いたのはこのモーツァルトのプロシア王2曲でしたし、モーツァルトの曲のCDのディスクもこれが最初に入手したものではなかったでしょうか?

そして、今は壊れて手放してしまいましたが先代スピーカーのソナス・ファベール社製の“コンチェルト・グランドピアノ”を導入して真っ先にかけたのもこのモーツァルトでした。
ソナスのスピーカーはやはり弦の音がたまらないんだろうと思ってチョイスしたんですが、ホントに嵌りましたねぇ~。
(^^)v
あのときの麗しい弦の絡み合いの綾は、今でもハッキリと覚えています。

この演奏の特徴は、ピッタリと合奏されていて水も漏らさないぐらいの精度に聴こえるにもかかわらず、よくある緊張感を伴った窮屈さがないということです。
語弊を怖れずに言えば、最良の意味でルーズなところがある・・・。
したがって、初々しく伸び伸びしたコケティッシュな演奏となっています。

モーツァルトはロココのギャラントな作曲家と評されたこともあったやに聞いておりますが、この演奏を聴くとそのような方にさえ満足されるような文字通り楽しい奏楽が展開されています。

ハーゲン四重奏団も後年になると、より成熟した表現を手に入れるのと引き換えにこうした美点(かどうかは判断によるんでしょうね)が後退していったように思います。
もちろんそれぞれの奏者の表現の幅は大きくなって行ったんでしょうけど、どうしても厳しい音響を追求していくようになってしまったんじゃないでしょうか?

ハイドン・セットやバルトーク、ベートーヴェンの演奏の一端を耳にした時にそう思ったものです。


★ハイドン:弦楽四重奏曲第67番《ひばり》、第74番《騎士》、第1番
                  (演奏:ハーゲン弦楽四重奏団)

1.弦楽四重奏曲 第67番 二長調 作品64-5 Hob.Ⅲ:63 《ひばり》
2.弦楽四重奏曲 第1番 変ロ長調 作品1-1 Hob.Ⅲ:1
3.弦楽四重奏曲 第74番 ト短調 作品74-3 Hob.Ⅲ:74 《騎士》
                  (1988年録音)

これも最良のハイドン演奏だと思います。
当然のことながら当時の彼等に最も相応しい選曲がなされているからなのでしょう。

よくある立派な隙のないハイドン演奏って、ホントにすごく“ごリッパ”なんですけれど「だからどうした?」と言いたくなってしまいます。
もうちょっと私のほうが立派になったら判るのかもしれませんが、それを期待できるものかどうかアヤシイ・・・。(^^;)

インティメートで精妙に合っているにもかかわらず、力が抜けて素朴におおらかに歌っている・・・それでいてご立派でない・・・この演奏が、もっともこの曲の等身大のよさを表しているように思います。

この曲のこの演奏にある要素を愛でるとするならば、別に古楽器であったりする必要はなく、弦楽器の擦れ音が麗しく響く性格のスピーカーとそれを生かすアンプで聴くだけで、無常のシアワセな時間が楽しめること請け合いです。(^^)/


★ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲《アメリカ》・コダーイ:弦楽四重奏曲第2番他
                  (演奏:ハーゲン弦楽四重奏団)

1.ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲 第12番 ヘ長調 作品96《アメリカ》
2.コダーイ:弦楽四重奏曲 第2番 作品10
3.ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲《糸杉》B152(抜粋)
                  (1986年録音)

くどいようですが、この時代のハーゲン弦楽四重奏団の演奏には素朴なおおらかさと溢れる歌があってとても聴きやすいんです。。。
新世界の音楽に触れたドヴォルザークによる、ややひなびた感じのこの曲にとっても、この時期のこのアンサンブルの演奏を得たことはとても幸せだったのではないでしょうか。

技術的・芸術的にこれを凌ぐ演奏ってきっとあると思うんですが、私が手にとって聴きたいと思うものはやっぱりこれでしょうね。(^^)/
ピアノ音楽を中心に聴いている私が、たまに他のジャンルを聴くという程度で考えるならば、これ一枚あればドヴォルザークの「アメリカ」は「間に合ってます!」と言っちゃっていいって思います。

収録された他の曲が有名なものかどうかはわかりませんが、この時期のこのクワルテットが手がけててくれたことにひとかたならぬ意義がある選曲になっていると思いますね。

天気のいい昼下がりにかけっぱなしにしておくと雰囲気がでる曲たちかもしれません。(^^;)

たまに、ふと聴いてみたくなる楽曲・演奏であります。

無個性という個性

2007年06月07日 00時17分01秒 | 器楽・室内楽関連
★M.ハイドン:弦楽五重奏曲集
                  (演奏:ラルキブデッリ)
1.弦楽五重奏曲変ロ長調 P.105
2.弦楽五重奏曲ハ長調 P.108
3.弦楽五重奏曲ト長調 P.109
                  (1993年録音)

ヴォルフ・エリクソンによるプロデュースのヴィヴァルテ・シリーズって、どうしちゃったんだろう。。。
ビルスマを中心とした古楽器演奏、特にラルキブデッリのディスクを楽しく聴いてきたのに最近新しいディスクがとんと出ていないように思います。

途中、エリクソンは横山幸雄さんのリストの超絶技巧練習曲集のプロデュースもしていたりしましたが、やはり軸足はヴィヴァルテだったですもんね。
新譜は気長に待ちたいと思います・・・といって、出るのかな!?

さて、当ディスクのオビには「モーツァルトの先駆をなす知られざる傑作」という文字が並び、ライナーノーツにはモーツァルトと親交があり作風にも影響を与えているだの、シューベルトがその墓の前で故人を偲び涙しただの、いかにもこの作曲家が凄い人だぞという逸話が紹介されています。

そして、兄ヨゼフ・ハイドンが一目おいていたというのですから、この弟のミヒャエル・ハイドンは只者ではないのは確かでしょう。

現にヨゼフより早くに作品が世に認められ、夥しい作品を残し、人気もあったようです。
作品を聴くと、とても晴朗な形式に則って、まさにお約束どおりの音楽が期待通りに展開していきます。「だったらつまらない曲なのか?」というと決してそんなことはない・・・。
むしろ、これだけ法を越えずに麗しくも愛らしい音楽が書ける人って、兄ハイドンが言うようにこの時代にあってはよりよい音楽家だったのかもしれないとさえ思えます。

1曲目の変ロ長調はセレナーデあるいはディヴェルティメントの様式に則り、後2曲はそれこそ兄ハイドンが確立したのであろう4楽章形式を踏襲して見事にそれぞれの性格を描き分けています。

しかし、ここまでの楽曲をこしらえられる作曲家が、どうして現在では知る人ぞ知るという存在になってしまっているんでしょうかねぇ?
私なんか、モーツァルトと親交があったことしか知らなかったです。(^^;)

例えばバッハの時代のテレマンとか、フランスのブラヴェとかは現代で考えられているより遥かに当時は大物の音楽家だったんじゃないでしょうか?
そういう人たちに限って、非常に円かでソツのない聴いて心地よい音楽を作っていやしないでしょうか?

ただ、ことこのミヒャエル・ハイドンの曲に関して言えば、時代に埋もれてしまったことが理不尽だとは思うのですが、ある意味当然かもしれないし、あまり残念とは思えないという気がしたのも事実です。
なんとなれば、この曲は賞賛されるべきよくできた曲である反面、別にミヒャエル・ハイドン作曲でなくてもよさそうな気がしたからであります。

要するに余りによくできていて、引っかかるところがないために一般の聴き手には印象に残らない、空気のような存在になっちゃうんじゃないかと思われるということです。
逆に作曲科の先生とかに言わせると、こんな作曲技法の粋を尽くしてなお聴き易い名曲を看過することはできないということになるのかもしれませんが・・・。
残念ながら、一般聴衆はそんなに作曲事情について詳しく知ろうと思っていないんですよね。
「あ~、いい曲を聴いた」で済んでしまったのではないかと思うのです。

翻って兄ハイドン。
この方も構成力には定評があるとは言うものの、各種楽曲の形式を確立するのに試行錯誤してらっしゃるし、びっくり交響曲などに見られるような楽譜を逸脱したエピソードや曲中の度を越したユーモア、疾風怒涛時代など結構楽曲的には揺れていらっしゃる・・・。

モーツァルトには独特のモーツァルト節があるし、ジュピターの最終楽章のように思いもかけない方向に音楽をぶん投げて引力でもあるかのようにもとの流れに戻すという意外なインスピレーションに基づく特徴を備えてらっしゃる。

バッハしかり、ベートーヴェンしかり、ショパンしかり、後世に名を遺した大作曲家は例外なく自分の音楽とはなんぞやというのが、その子供たちである楽曲から見出すことが出来るような気がします。
その作品を聴くということは、その作曲家を聞くことであるといってよいと思えるのです。

それでは弟M.ハイドンはというと、全ての演奏が限りなく美しく「かくあるべし」というラインから外れないために、これが個性だという点が見出しにくいといわざるを得ません。

「無個性という個性」
楽曲には文句のつけようがないんですが、M.ハイドンを聞いたぞというレスポンスにはなりにくいんじゃないかなぁ~~。

てなわけで、ラルキブデッリの面々による非常にきびきびした流麗な演奏、また、形式に則って作曲されていることを十分にわきまえて、それをはっきり意識した演奏となっていることからも楽曲のよさは見事に引き出されているといっていいでしょう。
本当に楽しい時間を約束してくれる一枚です。(^^)/

そうでありながらもこのあくまでも中庸を行き、敢えて冒険することを控えたような作風の楽曲が誰の作品であるか知りたいか?・・・といえば、そんなことは気にしないでよいと思えてしまうのが現実のこの一枚でありました。


詠み人知らずといわれる和歌の名作もいっぱいあります。
これはそんな曲集ということでよいのではないでしょうか?(^^)v



※出張のため先日付投稿しています。

人生の終わりなんて・・・

2007年06月05日 00時00分00秒 | 器楽・室内楽関連
★バッハ:フーガの技法
                  (演奏:フレットワーク)
1.バッハ:フーガの技法 BWV 1080
                  (2001年録音)

私には詳しいことは判りませんが、「フーガの技法」って変奏曲だと思っていいんですよねぇ~?(^^;)
だって、明らかに共通の主題と思える旋律があってそれを元にありとあらゆるフーガが展開しているように思えるんですもの・・・。

作曲家はこの楽譜に楽器の指定をしていなかったという・・・というわけで、いろんな方がいろんな楽器、編成で聴かせてくれているのはご高承の通りです。
私はピアノ演奏であればニコラーエワ女史によるハイペリオンへの録音を、そしてこのフレットワークによる弦楽六重奏を愛聴しています。
まぁレオンハルトなどは、誰が何といってもクラヴィーアのための楽曲だと主張したりしておりますが、いい演奏ならどっちでもいいと思っています。
何といっても私はシロートなんだから、いいと思ったもの、好きな演奏であればOKであります。

さてさて、このアンサンブルは極めて自然な音の流れの中でいい意味で軽く、味わい深く聞かせてくれるので好ましいのです。(^^)/
でも、これだけ同質の音を6人が揃えるということは容易なこっちゃないとは思います。その意味ではとても難易度の高い演奏であるとも言えるんでしょう。
まずは、演奏者への賛辞を述べておかなくてはなりますまい。

ここで冒頭の変奏曲云々の話に戻りますが、どうも私はおおよその変奏曲なるものに対して、極めて“こしらえもの臭さ”を感じてしまうのです。
まあ、考えてみれば最高度の知性の産物である変奏曲でありますから、究極のこしらえものであるわけで、それに文句をつける私がどうかしているんだろうことは承知の物言いですが、やはりわざとらしい。

ゴルドベルクしかり、ベートーヴェンのディアベッリ変奏曲しかり・・・。
シューマンの交響的変奏曲なんか特にそうですが、終曲がガンガンに華々しいというのはどうも腑に落ちない。展覧会の絵じゃないんですから・・・。
ゴルドベルクにしたって冒頭主題が回帰しちゃうなんてイミシンであり、シェンカーさんだかなんだかいろんな方がいろんな見解を表明しておられるようですが、どうにも自然でないと思えるのです。

その点“フーガの技法”ではコントラプンクトゥスとか訳わからん名前が書かれていますが、要するに変奏曲のひとつと考えればよいのだとすれば、それぞれがそれぞれに味わい深い絡み合いを見せ、それぞれのストーリーを生み出しているように思われます。あたかも人生に於けるイベントをなぞって見るかのように・・・。
エポックメイキングなトピックがあっても、所詮は1日いちにちの積み重ねの中で行われる日常生活の綾みたいなもの。バッハの連ねるそれぞれの声部は、その絶え間ない日々をなぞりがらその中で得た感興を見事に織り込んで進んでいくようです。

その意味で、ニコラーエワ女史やこのフレットワークの演奏のように高い精度で音が練られた演奏に出逢うことができたなら、ずっと聴いていてもどこまでも興味深くその人のアルバムをめくっていくことができます。

そしてこの演奏でなにより印象的なのは曲の終わり・・・といって、この曲場合、曲の最後じゃないんですよね。
バッハの絶筆であるこの曲は、バッハが記した楽譜の通り演奏された場合には中声部の単音旋律を最後に「ふっ」と消えてしまいます。
作曲者はその後までこしらえようとしたんでしょうが、バッハの人生がそこで消えちゃったからです。


これを聴くたびに、「人生の終わりなんてこんなもんだろうな・・・」という想いを強くします。


仏教で言う諸行無常のように物事に完成形というものはなく、何事も日々移り変わっていくだけであるということに通じる思いです。

バッハが死ぬのも移り変わりの一環だし、それは私自身にとっても同じこと。
だれにも「やり残した」と言わねばならないことはきっとあるんでしょうが、それを無念だと嘆くことは詮無いことなんでしょうね。
バッハに関しては現にこうしてフーガの技法が完成されていなくとも、そこに味わいを感じる人もいるんですから・・・。
余談ながら、私はモツレクも一度ラクリモーザの途中までを万感こめて演奏したものを聴いてみたいと思っています。

人生には当然に始まりもあればり終わりもあるわけですが、それはかねて承知の道程を経て到達する大団円などでは決してないんだと思うのです。

ある日、何故かこの世に生を受けていて、いろんなご縁でいろんな経験をして大きくなって、何故か出会った人と結婚して、子供もなして、いろんな要素に翻弄されながらも致命的な病気や事故を免れれば老齢を迎え、そして気づいたら終末を迎えるというのが、どんなにエライ人にもかったるい人にも共通なこと・・・。

変奏曲を人生になぞらえるのは妥当ではないかもしれませんが、逆に言えば人生にも準えることができるこの「フーガの技法」という曲は特異でもあり、そう考えることで更に味わい深くもなる曲なのではないでしょうか。

フレットワークの演奏は、時折アコーディオンやオルガンを思わせるような音なども駆使しながら、人生の節々で夢見、背伸びするといった哀愁を素朴なアンサンブルのうちに見事に現出させてくれています。



今日ピアニストの羽田健太郎さんの訃報に接しました。

さだまさしさんのグレープ解散後間もない時期のアルバムなどで羽田さんの演奏に初めて触れて、さださんの賛辞とともに「素晴らしいピアニストなんだろうな」とずっと思っておりました。
近年は「題名のない音楽会」の進行などでも、そのオールラウンドなピアニズムを承知していただけに早い逝去は残念でなりません。

思えば高橋多佳子さんとのコンサートが病気のために延期になったことがありました。
あの時がこの楽曲で言えば最終章で単旋律になった瞬間だったのかもしれません。
その後、また他の声部が戻ってきて合奏の力が増すかと思う刹那、虚空に消えるようなフレーズを残して音は沈黙する・・・まさにそんな感があります。


心からのご冥福をお祈りいたします。

はっきり・くっきり

2007年06月03日 00時00分00秒 | 器楽・室内楽関連
★J.S.バッハ:フランス組曲(全6曲)
                  (演奏:クリストフ・ルセ)
1.組曲第4番 変ホ長調 BWV815
2.組曲第2番 ハ短調 BWV813
3.組曲第6番 ホ長調 BWV817
4.組曲第5番 ト長調 BWV816
5.組曲第1番 ニ短調 BWV812
6.組曲第3番 ロ長調 BWV814
                  (2004年録音)

バロックのチェンバロ音楽を聴くに当たって、典雅で華やいだ気分をはっきり・くっきり聴きたいのならこれに勝る演奏はありません。

あまりにも鮮やかな音に使用楽器はレプリカかと思ったんですが、リュッケルスのオリジナルのチェンバロなんですね。
とってもステキな音色なんです。

先日ジェームズ・三木さんが対談で「音楽は異性をくどくようなもの」という趣旨のことをもう少しストレートな表現で仰ってましたが、確かにこの演奏を聴くと色気があるというわけではないですが、「こおろぎが何故鳴くのか ?」に通じる感覚を覚えます。
要するに聴き手を酔わせてくれるんです。

それは「思わず魅かれちゃう~」という感じでしょうか。
これならどれだけ聴いていても飽きませんね。
音を出さない作業であれば、何をやっている時にかけていてもジャマにならないというか、こころに一服の清涼感を与えてくれるというか・・・。

かくもたいへんに味わい深い一セット(2枚組)です。(^^)/

バッハ無伴奏チェロ組曲2編

2007年05月31日 00時02分19秒 | 器楽・室内楽関連
★J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲
                  (演奏:スティーヴン・イッサーリス)
1.無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調
2.無伴奏チェロ組曲 第2番 ニ短調
3.無伴奏チェロ組曲 第3番 ハ長調
4.無伴奏チェロ組曲 第4番 変ホ長調
5.無伴奏チェロ組曲 第5番 ハ短調
6.無伴奏チェロ組曲 第6番 二長調
7.カタルーニャ民謡(サリー・ビーミッシュ編曲):鳥の歌
8.無伴奏チェロ組曲 第1番~プレリュード(アンナ・マグダレーナの筆写譜による)
9.無伴奏チェロ組曲第1番~プレリュード(ヨハン・ペーター・ケルナーの筆写譜による)
10.無伴奏チェロ組曲第1番~プレリュード(ヨハン・クリストフ・ヴェストファル・コレクションの筆写譜による)
                  (2005年、2006年録音)

ガット弦を使用いていることで名高いこのチェリストにとって、当然この曲集は思い入れの深いものであるに相違ありません。
まぁ、およそチェリストであれば誰にとっても思い入れ深い曲集なんでしょうけど。。。

でもマジで久しぶりに非常に聴き応えのあるチェロ演奏であったように思います。
全体的にはとてもインティメートな雰囲気の中に、健康的で温かみのある素朴な音楽が奏でられる聴きやすい曲集でした。
ここには「音楽の父による聖典をありがたがって聴け」とか、「畏れ多くも畏(かしこ)くも・・・」という態度は微塵も見て取れません。
逆に「オレ様の解釈を聴け」とか、「こんな風にも弾けちゃうんだぜ」的な見せつけぶりもありません。

あくまでも純粋に、聴き手とともにこの曲を共有したい・・・聴いてほしいというより「私と共に味わいませんか?」という態度で音楽をつむぎだしているように感じられるのです。
これは非常に謙虚な態度に思えるようでいて、聴き手に対しては非常に説得力を持つものであります。

第2番のニ短調などはいろんな舞曲の性格を前面に出すことで、足を振り上げステップを踏んでいるシーンが曲間から脳裏に浮かんでくるようですし、第3番ではベートーヴェンの運命の終楽章にも似た高揚感がストレートに伝わってきます。ここではCDの聴き手も音楽を盛りあげる旗手のひとりなのです。

そして第6番。
冒頭の楽章の高音域でのフレージングの何と神々しく美しいこと!
静謐なサラバンドや、有名なガヴォットでの躍動感などチェロ一本とは思えない多彩な表現を見せ付けてくれています。
控えめではありますが、ここでだけは「こんなこともできちゃうんだぞ」ということが証明できていることに聴き手は気づかされるはずです。決して押し付けがましくないですが・・・。
とくに音をしっかりと張り上げることをも辞さず、組曲集の終曲としてふさわしい重みがあるように仕上げられております。

とにかく、わかりやすく親しみやすいセットが現われたことは喜びたいですね。
ちょっとバッハでもというときには、まっ先に手が伸びることになるでしょう。


このディスクにはその余白に“鳥の歌”“第1番のプレリュード”のいろんな版を併録してありそれも興味深いです。
イッサーリスが弾いている気分がそれぞれに違うのはよくわかるのですが、楽譜のどこが違っているのかは・・・全然わかりませんでした。(^^)/


★J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲
                  (演奏:ピーター・ウィスペルウェイ)

1.無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV1007
2.無伴奏チェロ組曲 第2番 ニ短調 BWV1008
3.無伴奏チェロ組曲 第3番 ハ長調 BWV1009
4.無伴奏チェロ組曲 第4番 変ホ長調 BWV1010
5.無伴奏チェロ組曲 第5番 ハ短調 BWV1011
6.無伴奏チェロ組曲 第6番 二長調 BWV1012
                  (1998年録音)

イッサーリスがおおらかで素直、ときとして実直真摯な演奏だとすれば、ウィスペルウェイのそれはおおらかで陰影に富み、大胆なようでいてはにかんだところも散見されるという感じでしょうか。
ウィスペルイのほうが、音色と音そのものの身振りでイッサーリス以上に語ることができているように思います。

ときとして曲者っぽい工夫も見られますが、あくまでもさりげない雰囲気の中で語りかけてくる演奏なので私にはイヤミに感じられません。

これもこの演奏を語るときには外せない、上り調子のアーティストの生気と霊感あふれるディスクなんでしょうね。

あえて素直に舞曲を聴くという態度でなく、目を閉じチェロの響に安んじて身を任せるのであればこちらをチョイスしたほうが癒されるかもしれません。
あくまでも私の好みですが・・・。

さらに特筆大書すべきこととして録音の良さがあげられるのではないでしょうか?
中低音の張り出し、響き感の雰囲気がバッチリ収録されています。
ただしこの音はエソテリックX-50wだと出るんですが、他のマルチプレーヤー2台だと若干軽めになる憾みがあります。

チャネル・クラシックスの新譜って余り見かけなくなってしまったようにも思うんですが、私の思い過ごしでしょうか。
ポッジャーやこのウィスペルウェイ以外にも、目覚しいアーティストがいたように思いますし、レーベルのポリシーには大変共感するものがあったので実力あるアーティストとコラボレートして、価値あるディスクを数多く世に出してもらいたいものです。

いずれにしてもこの2枚、2人のアーティストとしてのあり方の違いが如実に現われた例として非常に興味深く聴き比べることができました。
充足した時間が楽しめましたね。(^^)v

それでも雨は降る・・・★

2007年05月25日 00時00分00秒 | 器楽・室内楽関連
★ブラームス:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ全曲
                  (演奏:ジェラール・ブーレ(vn)、イタマール・ゴラン(p))
1.ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調 作品78 《雨の歌》
2.ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調 作品100
3.ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 作品108
                  (2003年録音)

凝りもせずブラームスのヴァイオリン・ソナタ特集であります。
フランスのヴァイオリニスト、ジェラール・ブーレはあのドビュッシーのヴァイオリン・ソナタを作曲者と初演したというガストン・ブーレを父に持つ斯界でのサラブレッドのひとり・・・。

ここでもとにかくあるべきところに音がある、それも第1番冒頭辺りなどことのほか丁寧に音が置かれていくというか、紡ぎだされていくさまにさりげない頑固さを感じ取ってしまったりする私です。
伴奏者も味わいのある、かといって決して自己主張が強いわけでない奏楽でさすがいろんな著名なかたの伴奏を務める腕利きなんだなと感じ入りました。

この演奏を聴いて思ったのは、先ごろたまたま手に取った玄侑宗久さんの「釈迦に説法」という本の冒頭の随筆。渋柿の話であります。
煩悩を渋に喩えた話だったのですが、経験、研鑽、その他演奏家として、またそれ以前にひとりの人間としてこのブーレ氏が育んだ、あるいは通り過ぎてきたことども全てが、若き日の「煩悩」「野心」などのともすれば一人よがりになりがちな邪な要素(渋)を、すべからくポジティブな“甘み”というか“明るさ”を内包したヴァイオリン・サウンドに昇華させたかのような演奏です。

渋があったればこそ、現在の成熟した姿もあるんだと・・・。

未熟な聴き手が聴くと、単に一本調子な音楽で飽きちゃいそうという懸念もありますが、ひとたびこの独特な張り詰めた音の世界に魅入られてしまうと、件の甘みのせいで結構入り浸ってしまいそうなムードもあるかもしれないな、なんて思ってしまいました。
いえ、申し上げている通りとっても健全な奏楽ですよ。(^^)/


けれども、ジャケットには一考の余地ありと思います。
ただ奏楽にも確かにこのような雰囲気があると思わないでもない・・・ところがびみょ~ではあります。


★ブラームス:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ(全3曲)+スケルツォ
                  (演奏:マリナ・シシュ(vn)、ヴァハン・マルディロシアン(p))

1.ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調 作品78 《雨の歌》
2.ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調 作品100
3.ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 作品108
4.「F.A.E.ソナタ」のためのスケルツォ WoO2
                  (2003年録音)

これまでご紹介したうちでは、断然若い男女によるコンビの演奏です。
これもフランスの奏者ですけど、このジャケットの写真も・・・もうちょっと何とかならなかったんでしょうかねぇ。。。
ケバいというのを通しこして、ちょっとコワイ世界に行っちゃってるようにも見えかねないです。それもモノクロ・・・。

演奏以前に、この辺のセンスが私と違う、と思いながら聞き始めたもんだから、余計に演奏者にとっては始末に終えない聞き手になってしまったようであります。

要するに今まで何種も聞いたこの曲の演奏としては、ヴァイオリン・ピアノ共に楽器を1番響かせている演奏だと思うのですが、1番響いてこない演奏でもある・・・残念ながら。

それでも初めて聴いたときには、その楽器の鳴り・・・というより引き出されている音量からなかなかの好盤だなどとも思ったのですが、今回聞きなおしてみて、それもチョン・キョンファの後に聴いてしまったのでは、やや可哀想だったといわざるを得ませんね。
・・・ちーん・・・。

確かに二人とも腕は立ちます。瑞々しく細やかと評されている音も、ニュアンスというか間を持たせようと工夫しているなどワザを使ってるなぁと思わせられるところも、少なからずあるのです。
でも、これってブラームスですから~・・・技が目立っちゃうのはマズいんです。(--;)

「こんなに弾けるんだぞ」と胸を張られても、「ハイ、ハイ」と受け流すことしか出来ません。
それに2人ともハッキリとモノを言いすぎる・・・。
若いとも幼いとも違うんですが、要するに2人ともまだまだ「やんちゃ」過ぎるんです。
感想として言ってることは、恥ずかしいくらい“おじんくさい”んですけどね。。。

こんなことを思いました。
なによりも演奏者の2人が後年心身ともに成長を遂げ有名無名を問わず大成した後に、このディスクのリプレイを聴いたらとっても「寝覚めの悪い夢」を見たような気がするんじゃないだろうか?
なんて・・・プロデューサーは若き才能の発掘成果を強調したかったんでしょうか?
この手の奏者に技を発揮させてあげるんだったら、もっと違う曲があったでしょうにとも思えるんですが・・・。

これも『渋』が表に出ているだけであって、将来の甘みの素をたくさん聴かせていただいたといえるのかもしれませんが・・・。
あるいは将来これを聴きなおして、「若いっていいなぁ~」なんて感想を持つかもしれませんね。
私自身の『渋』が甘みに変わっていることを楽しみにしたい一枚・・・ともいえなくもないかもしれません。


《閑話休題》
なにげに「寝覚めの悪い夢」と書いて、先日、ある面白くないことが起こった日に、私が見たこのような夢を思い出してしまいました。詩の形式にしてみました。



長時間の戦闘に疲れを隠せないウルトラマンのカラータイマーが点滅を始めた。

科学特捜隊キャップは戦況にいたたまれず・・・
   「ウルトラマン! 必殺のスペシウム光線だ」
       絶叫があたりをつんざく!

と、高速で飛びまわる怪獣の動きが一瞬止まった
   ・・・刹那に吸い込まれるように放った渾身の必殺光線!!!


その瞬間、怪獣はあざ笑うかのようにスッと空間に消えた。。。

目標を失った光線は・・・科学特捜隊の本部建物を直撃!!!


そこには自らの光線の威力に呆然とするウルトラマン、
               そしてキャップの姿が残っていた。。。





たまに笑えないギャグのような夢を具体的に見ることがあります。
起きてるときの私のギャグは冷凍光線級でありますが・・・。

次の夢を見るために、火の用心をして寝ることにしましょう。
おやすみなさい。

雨が連日降ったらば・・・★

2007年05月24日 00時00分26秒 | 器楽・室内楽関連
★ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ全曲
                  (演奏:チョン・キョン=ファ(vn)、ペーター・フランクル(p))
1.ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調 作品78 《雨の歌》
2.ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調 作品100
3.ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 作品108
                  (1991年録音)

ちょっとヤなことがあって凹んでるときに聴いたんですが、思わず引きこまれてしまいました。

ここには最良の意味での『求道者』の姿を感じました。
あと浮かんできた絵としては、例の弥勒菩薩の半跏思惟像というかアルカイック・スマイルというかそういった形而上学的なもの、精神的なものが形を成した仏像なんですよね。

昔は像の名前を覚えたり、他との違いを知識として覚えはするものの、ただ単に仏像としか見えず、表情にも気を配ることなく・・・というか読めずにいました。
すべてがわかったなどとはとても言えないとしても、自分が成長して、否、単に気づかされるような経験をした、または時間を得たことによってその表情があることは判るようになりました。

そしてその表情は、自分のそのときの心境によっても変わる鏡のような存在であることも・・・。


話は変わりますが、このブログを始めて新譜を買う枚数が激減しています。
新譜を聞いた連鎖で、以前のディスクを発掘したりすることが多くなっているから・・・新しいものばかりに飛びついている暇がなくなりました。(^^)/

このことは以前、何らかのレッテルを自分が貼ってしまい、トンとご無沙汰になっているCDたちにも実は・・・それまでの定番となっているものを凌いだり、そのときに聴こえなかったディスカヴァーすべき何者かが潜んでいることを気づかせてくれるとてもありがたい機会でもありました。

手に余るディスクの棚を前に「こんなにあるけど、どうしたらいいんだろう?」と思っていましたが、友達の候補がこんなにたくさんいるんだと思えるようになって、前にも増して愛おしいコレクションになりました。

再度聞いても、わかんないのもありますけどね・・・ここに紹介しないだけで。。。


話を戻して、チョン・キョンファの非常にストイックでありながら美しいアプローチにはとにかく舌を巻くばかりであります。
さすがあの評論家のU先生が手放しで礼賛していたヴァイオリニストであると、今更ながら気づきました。それ以前は、やたら気の強いねーちゃん奏者だと思っていたのですが、『精神性』などと言われても驚かなくなった私のほうが変わったんでしょうね。(^^;)

伴奏のピアニストもよく聴くとかなり好き放題、もちろん伴奏者としての法を越えないというか、そういう意味では慎ましく好き放題弾いているんですが、なぜか目立ちすぎない・・・。チョン・キョンファの音の表情の方に耳が行きます。このへんは大したモンです。
そうであればこそ、最高の伴奏者なのかもしれませんが!?

タイトルの雨が連日降ったら・・・というのは、この第1番の演奏の第3楽章、通常の演奏だとカウンターで入る連打の音が雨の雫を連想されるだけであるのが普通なんでしょうが、伴奏の全ての音が余韻と伴った短く節分された音で雨音に聴こえるためにつけたものです。
まさに離れ業・・・。

それにつけても、3曲共にチョンのヴァイオリンの音の呼吸の深さ、そして自然さに圧倒されました。
何かを悟ってつかんだ者のみがもつ凄みともいえる気配をいたるところから感じます。

「こんな風に弾けるなんてウラヤマシイ・・・」

どの曲も、また第3番は特にですが、全曲を通して一聴声高に楽器を鳴らしたりしていないにもかかわらず、剣の達人の隙のない構えのようにそこにある・・・という感じがあります。
それに向かって真剣に対峙し、至福の時を過ごすことができるのは薬師丸ひろ子ばりに快感であります。

この演奏にかける言葉は一言・・・ブラヴォ~~~!!


★ブラームス:ピアノ協奏曲第2番/「雨の歌」
                  (演奏:エマニュエル・アックス(p)、ヨーヨー・マ(vc)
                       ベルナルト・ハイティンク指揮ボストン交響楽団)

1.ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品83
2.ソナタ二長調 作品78「雨の歌」(ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調作品78のチェロ用編曲)
                  (1997年・1998年録音)

さて、こちらは誰が主役か実はよくわからないという盤なのですが、多分アックスということになるのでしょうか・・・出ずっぱりだから!?

そして私が、現在ブラームスの第2番のピアノ協奏曲の演奏で最もしっくり来る演奏でもあります。
先ごろご紹介したとおり、フレイレとシャイーの盤が出てそれも楽しんだんですけどね・・・。
この演奏の冒頭主題が提示されて、ピアノが合せますがその後ひとしきり続くフレーズが実はカデンツァなんじゃないかと気づいたのは、アックスの演奏が初めてなんです。

この演奏にはソリストが必要なんでしょうか?
コンチェルトなんでピアノ演奏する人は間違いなくソリストなんでしょうけど、アックスのピアノって最良の意味で『浮かない』んですよね。
この曲はピアノが華やかに前面に展開する・・・というのが必ずしも望ましい解釈ではないピアノ協奏曲なんじゃないと思うんです。

伴奏も含めてガッと全体をわしづかみにするような一体感と、コク・キレ・深みという麦芽飲料の必須条件にも似たものが出来上がりに要請される音楽ではないかと思います。

その意味で室内楽の経験が豊富で、周りの音を聴いて演奏することに長けたアックス、その左手により強烈なバスの音の存在感や分厚さを演出できるアックスと、温かい音といわれることの多いボストン響とも親密な間柄であり、サラブレッドと言われながらもそれなりの苦労を経て年輪を重ねて深みを醸し出せる指揮者ハイティンクが組んだこのディスクが、いぶし銀のようなたたき上げの演奏を見事に組み上げていたとしてもいささかも不思議はござんせんですよね。(^^)/

全ての楽章に納得できるんですが、他の演奏と比して感じるのは第4楽章。
どこまで軽快・軽妙にというのは解釈上の大きな問題ではないかと思いますが、この演奏にあっては十分軽快さを感じさせながら『浮かない』という点に特徴を感じ、まさにその点が私が好ましいと感じるところなのであります。


さてさて「雨の歌」ですが、ここではヴァイオリンではなくヨーヨー・マのチェロと組んでの演奏・・・。
全く別の曲のように感じられます。(^^)/
聴かせどころも違うんじゃないかな!?
でも、ヨーヨー・マってうまいですねぇ。彼のチェロの“音色”というか“音触”につくづくそう思わされました。

キーが下がっていることもあり、もしも雨に喩えるなら「田植えが済んだ後の梅雨」って感じでしょうか・・・どんな雨でもいいんですが南からの高気圧に運ばれた「温水(ぬくみず)」が降っているというイメージですね。

昔、空き地に雑草が生えていてそこに夏の雨が降る・・・そぼふる雨にそれらの草の葉に水玉が乗っているという雰囲気を思いつきました。
でも、そんな草むらに虫取りなんかで入っていくと、葉のオモテに産毛をもった草に触れた半袖半ズボンの素肌が“草負け”しちゃうんですよね~。
カユくなってきちゃったんです・・・。(^^;)

ですから、この演奏を聴く時は雨を連想するのはやめようかと・・・。



※出張のため先日付投稿します。

雨が降ったので・・・★

2007年05月23日 00時00分03秒 | 器楽・室内楽関連
★ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ全曲
                  (演奏:ヴィクトリア・ムローヴァ(vn)、ピョートル・アンデルシェフスキ(p))
1.ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調 作品78 《雨の歌》
2.ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調 作品100
3.ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 作品108
                  (1995年録音)

朝から雨が降っていましたので、ふと思いつきでこのディスクを聴きながら会社に出社しました。
これが気分と雰囲気に見事にハマって楽しかったので、特集してみたいと思います。

ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番は、その第3楽章に歌曲「雨の歌」の旋律の引用があるから「雨の歌」と呼ばれているのですが、その愛称がなければ今日私が手に取ることはなかったのです。
3曲ともイイ曲なのですが、やっぱり第1番が私は最も好きですね。

先般バッハを特集したヴィクトリア・ムローヴァがここではブラームスを弾いています。白人の彼女の白い頬に、それとわかる紅が差したかのようなヴァイオリンの音色・・・。自立した女性って感じの音ですね。
乾いていそうで実は十分に湿った・・・良くも悪くも潤ってはいませんが・・・絶妙の響が、柔らかで若々しい抒情を伝えてきます。

かたやこのディスクが出たときは「誰じゃいな?」と思ったピアニスト、アンデルシェフスキ。
今やポーランドの若手(中堅?)ピアニストとして十分なキャリアを残していますが、さすがに一筋縄ではいかないピアノを展開しています。
音やフレーズの音色の引き出しが豊かな人だと改めて思いました。
アンサンブルにしてはずいぶんと思い切った弾き方もするんだな・・・と。

このころであれば、ムローヴァといえばチャイコンの優勝者でメジャー・レーベルでヒット作連発といった状態でしたから、アンデルシェフスキにとってはずいぶん格上の人だったでしょうに、全く媚びるところも従順にするところも感じさせず、自然体を貫いていると思わせるところはさすがであると言えましょう。
ムローヴァもそんな彼を期待していたと思いますしね。

したがって青年が主役の映画にありそうなお互いがお互いを主張して、やや突っ張っているという、アメリカン・グラフィティやらフット・ルースのノリの男女の図柄がイメージされる演奏です。

いやぁ~、若いっていいですね・・・という感じが、今日の雨にピッタリでした。

3日後に見直したら、この辺の感覚は自分でもよくわからないんじゃないかと思う文章の表現ですけど・・・気にしない。
(^^)/


★ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ全曲
                  (演奏:オーギュスタン・デュメイ(vn)、マリア・ジョアオ・ピリス(p))

1.ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調 作品78 《雨の歌》
2.ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調 作品100
3.ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 作品108
                  (1991年録音)

もはやこちらは練れたオトナであります。どうしようもなく“おとな”。
一面ではさすが大人であると感じさせる演奏です。

温かな語らい、毅然とした振る舞い(特に第3番)、成熟した解釈、信頼のパートナーシップ(この方々はプラーベートでもパートナーだったと思います)に裏打ちされた揺ぎ無い演奏は、第1番の冒頭など面映いところや、各ソナタの中間楽章などに適当な緊張感を漲らせるところもありますけど、あらゆる面でムローヴァ盤より一回りずつスケールがデカイぞということを感じさせるものであります。

とはいえ音楽として、または商品としてどちらが魅力的かという話ではありません。
やはり歳を重ねた大人は相応に尊敬せねばならないということを痛切に感じた聴き比べとなりました。

普遍的な一枚を採るなら断然デュメイ(美しく張り詰めた音が好きです)盤、今日の雨のようにちょっとグズっているときにはムローヴァ盤がいいかもしれませんね。



※出張のため先日付投稿します。

ムローヴァのバッハ

2007年05月11日 00時00分07秒 | 器楽・室内楽関連
★J.S.バッハ:ヴァイオリン・ソナタ第1,2,6番
                  (演奏:ヴィクトリア・ムローヴァ(vn)、ブルーノ・カニーノ(p))
1.J.S.バッハ:ヴァイオリン・ソナタ第1番 ロ短調 BWV1014
2.J.S.バッハ:ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調 BWV1015
3.J.S.バッハ:ヴァイオリン・ソナタ第6番 ト長調 BWV1019
4.C.Ph.E.バッハ:ヴァイオリン・ソナタ ハ短調 Wq78
                  (1992年録音)

久しぶりに心地よい緊張感を味わえるヴァイオリンを聴きたいと思いまして、こんなディスクを選択してみました。
このところ、その日に聴いたディスクをレポートするような体裁になっていますので、今日の気分に合わせたチョイスは正解だったかなと思っておりますです。

クラシックにのめりこみ始めたころに入手したディスクでして、それまで知らなかった曲に出会うその時々が新鮮だった頃を思い出しますね。
ワクワクしながら封を切って、良いも悪いもわからないけど出てくる音に虚心に耳を傾けて浮き立つような心の高揚を感じていた頃・・・でありました。
確かに耳は肥えたかもしれませんが、今よりあの頃の方が新しいディスクを聴く時ときめいていたなぁなどと懐かしく思っております。

このディスクを最初に聴いた時、ロ短調のソナタ1番の第1楽章の雰囲気が、どうしても加藤剛さんがやっていた大岡越前のテーマとシンクロしてしまって困ったモンですが、今日も同じように大岡越前のエコーが私の頭の中だけで鳴り響いておりました。

このディスクははっきり言って名盤だと思います。
ムローヴァは後年、少なくとも1995年には自分が今まで弾いてきたバッハの演奏の仕方は誤りであったと言っていますが、これは誤りの時代なのか、修正された後なのかは私にはわかりません。
しかし、この多分に憂いを含んだヴァイオリンの音色、ストイックかつスレンダーな節回し・・・とりわけマイナーな旋律でかぼそくモノローグのように語られる場面などクラッときてしまいます。
「これが誤りなら、誤ったままのほうが良かったんじゃないか!?」
と言ってしまっては、ムローヴァさんに失礼ですかね?

またピアノのカニーノが特筆大書されるべきで、現代ピアノを使いながらどんな場合にもヴァイオリンをうまく立てるようにある時には密やかに、またある時には彩を添えるといった八面六臂の活躍をしています。
現代音楽の演奏にも精通している大家が弾いている、納得の伴奏です。


★J.S.バッハ:ヴァイオリン協奏曲第1番、第2番他
                  (演奏:ヴィクトリア・ムローヴァ(vn)、ムローヴァ・アンサンブル、フランソワ・ルルー(ob))

1.ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 BWV1041
2.ヴァイオリン協奏曲第2番 ホ長調 BWV1042
3.ヴァイオリン協奏曲 ト短調 (BWV1056)
4.オーボエとヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 (BWV1060)
                  (1995年録音)

このディスクあたりが、ムローヴァがフィリップスに在籍していた時のうちでも最も輝いていた頃の録音ではなかったでしょうか?

気の合った仲間による生気にあふれ、なおかつ親密な演奏が展開されているディスクであります。
ムローヴァはソリストですが、そんなに前面に出てくることはありません。
あくまでもアンサンブルの中で、それぞれに自分の居場所でリラックスして演奏を楽しんでいる様子が伺えて、聴いている方もとても落ち着いて耳を傾けることが出来ます。

オーボエのルルーも好演していますが、やはり白眉はコンチェルトの1・2番ということになりましょうか。

私は第2番のほうが好きなので一言しますと、こんなに据わりのいいこの曲の演奏は聴いたことがありません。
売りが強い演奏だと聴いている方も引いちゃいますけど、この演奏には田舎のやさしい陽だまりのような、純粋に音楽仲間とアンサンブルしていることの楽しさだけが伝わってくるような、そんな感じがするのです。

チャイコン優勝時に「彼女は笑うことも出来たんだ」とクリティックが書いたほど、成功のためには気の緩み、心の緩み、口元の緩みすら許されないというプレッシャーから心が閉じていたかもしれないムローヴァ。
もちろん実力は世界最高級の折り紙つきである大ソリストである彼女は、実は普通の人として、いろんな仲間とのコミュニケーションをとることに飢えていたのかもしれないとさえ思える親密な語り合いの聴かれる盤でした。

すっと背筋が伸びるような清新な演奏には、もとよりバッハの曲の素晴らしさがあってのこと・・・ということは言うまでもありません。(^^)v

追悼:ロストロポーヴィチ

2007年04月30日 00時00分00秒 | 器楽・室内楽関連
★チャイコフスキー:ピアノ協奏曲
                  (演奏:ヴラディミール・フェルツマン(p)
                        ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮 ナショナル交響楽団)
1.チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
2.リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調
                  (1980年代録音)

先日、北斗の拳のラオウの葬儀があったばかりですが、またひとつの大きな『巨星墜つ!』ですね。
親友だったと伝えられるエリツィン元大統領に続いて、ロストロポーヴィチの訃報が出ていましたのでささやかに追悼記事を投稿して心からの『弔意』を表したいと思います。

なおこの記事全編を通してお名前の表記を“ロストロポーヴィチ”とさせていただいています。

いや実はなんだか胸騒ぎがしてたんですよ。
というのは、昨日までの出張に行く時、フェルツマンのピアノが聴きたいと思って冒頭のCDをディスクマンに入れて出かけようとしたら、ゴミ収集車の爆発事故があったでしょ。
そして、電車の中で聴いていた時に指揮者のパーソネルを見て、「そういえばロストロポーヴィチって体を壊してたみたいだけどどうしてるのかなぁ~?」なんて思いがふと頭をよぎったんですよね。

高橋多佳子さんのラフマニノフ/ムソルグスキーのディスクが出たあたりから俄然ロシアの音楽を聴く機会が増え、ブログ上でのお仲間にもロシア音楽大好きというかたが多いので、ロシアの動静に敏感になってるのかなぁ~。

といいつつ、ご紹介するディスクではこのチャイコフスキーのオケ伴奏以外にはロシア音楽はないんですけど・・・主役がもともとロシアのかたということで。

傑出したチェリストというだけでなく、指揮者としても多くのディスクを遺された“マエストロ”ロストロポーヴィチ。
「ベルリンの壁」の時のいち早い行動などを持ち出すまでもなく、たいへんな人格者としても親しまれていた方だと思います。あらゆる点でカザルスの後継者だったんじゃないかなぁ~。
そういえば、24時間テレビだったか世界平和かなんかをテーマとしての全世界中継という企画で、進行役だった小澤征爾さんの「スラ~ヴァ、スラァヴァ~!(マエストロの愛称ネ!)」という呼びかけに応じて、画面全体に“ヌオっ”と出てきた(イメージ沸きます?)ことがやたら印象に残っています。
こうやって書いてると、いろいろ思い出すなぁ~。(^^)/

で、ロストロポーヴィチのオーケストラ演奏は堅実でやや華やかなのが特徴だと私には思えます。
一時、一生懸命彼のシチェドリン演奏なんかも聴いたけど、やっぱよーわからんかったなぁ~・・・。

このチャイコフスキーのディスクは、突き抜けたライヴでの熱狂を求めない私にとって、アルゲリッチのいくつかあるこの曲の定番演奏よりもキレ・冴えの両面で満足できる演奏であります。

フェルツマン凄し!

この人は主役じゃないのでちょろっと書き留めるだけにしますが、フィルアップのリストのロ短調ソナタの演奏もテクニックのキレ・冴えをこのうえなく感じさせるものでありながらせせこましさとは無縁であり、最高級に好きな演奏のひとつです。
なお11月30日の記事に書いたものと音源は同じです。

本日の主役ロストロ翁の伴奏もサイコーで、私はこのように涼しげに弾かれたこのコンチェルトを楽しみたいことが多いですね。
とはいえ、ここで行われている演奏技術については恐ろしく精細な技術的積み上げが裏付けにあると思いますけど・・・それは、アルゲリッチも同じか。

ちなみに、熱狂の渦のアルゲリッチなら後のアバド盤より、コンドラシン盤のほうが好きです。


★ショパン:チェロ・ソナタ 他
                  (演奏:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(vc)、マルタ・アルゲリッチ(p))

1.ショパン:チェロ・ソナタ ト短調 作品65
2.ショパン:序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 作品3
3.シューマン:アダージョとアレグロ 変イ長調 作品70
                  (1980年録音)

なぜかアルゲリッチのことを書き出しちゃったので、共演盤を出せばアルゲリッチについて書いたって「文句はあるめぇ」というわけで・・・。

しかし、彼女は知られている通り非常に繊細なかたのようなのでロストロポーヴィチが亡くなったということで、ショックを受けてないか心配ですね。
クロムランク夫妻のときも衝撃を受けてたようですし、ましてやご自身もガンの手術とかを経験して、そのときにも非常にナーヴァスになっておられたということを聞いているので余計にそんな気がします。

ここでの共演はアルゲリッチのしなやかで奔放な伴奏に乗っかって伸び伸び弾かれており「おじさん、ご機嫌。」っていう感じでしょうか。
それにつけても伴奏のアルゲリッチの弾き出す音には凄くパッションがあるうえ、振りまかれる音の芳香は雰囲気抜群です。

第1楽章なんか特に、ロストロ翁がキモチよ~くチェロを鳴らしているのに乗って、この上なく繊細にピアノ・ソロが繰り広げられているという感さえあります。ここだけだと、チェロ伴奏つきのピアノ・ソナタと言ってもいいかもしれないなんて私は思いますがいかがでしょうか?
第2楽章以下はチェロ・ソナタだと言っていいと思いながらも、伴奏ピアノの前打音の装飾処理などアルゲリッチが魔法みたいなタッチで弾くもんだから、やっぱピアノが目立つ・・・。
曲の問題か、奏者の問題かはびみょ~なところだと思います。

ただこう考えてくると、ショパンのパリでの最後の公衆の面前でのリサイタルでこの曲がフランショームとの演奏された際に、第1楽章が省かれた理由が判るような気がしないでもありません。
音楽的な内容でチェロを食っちゃうから・・・いや、やはり単に“長いから”というショパンの体力的な問題だったんだろうか?

どうしても、この曲ではピアノのパッセージの方に注意が行ってしまう私なのでありました。

続いてのポロネーズはチェロ、ピアノ両方が主役です。
どちらの楽器もそれぞれの特徴を最大限に生かして、表現上「出来ることを全て盛り込みました」という感じ。若きショパンがいろいろ試している、という要素も確かにありますが自分の才気を誇示しようとしている戦略的な楽曲と捉えられなくもありません。
この名手だからこそ、ここまで曲芸を見るような思いで楽しく聞かせてくれるのですが、数多の演奏家がこの曲をやろうとしたらどうなるか・・・。
チョイと心配ですな。(^^)/

演奏効果は華々しくてとってもいいですけど、総合的に見るとやっぱちょっと“やりすぎ”なんじゃないかなぁ~。「ほどほどにしとけ」といいたくなりました。

そしてシューマンも、まさしくこの温度感はシューマンらしい曲で名演。
ここでも、音量の出ていないところでも激しいパッションのほとばしりを感じさせるアルゲリッチのピアノと、ロストロポーヴィチならではの強靭なチェロの音色であればこそ実現できる世界が現出されています。

全体的に華々しい曲ばかりのプログラムであるにもかかわらず、食傷気味にならないなんて不思議という感じのディスクでありました。


★ブラームス:チェロ・ソナタ第1・2番
                  (演奏:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(vc)、ルドルフ・ゼルキン(p))

1.チェロ・ソナタ 第1番 ホ短調 作品38
2.チェロ・ソナタ 第2番 ヘ長調 作品99
                  (1982年録音)

この記事を書くに当たって、上のアルゲリッチとの共演盤の前に聴きなおしたのですが、比べてみるとごっついピアノですね。矍鑠とした演奏という感じがします。

ブラームスの室内楽ってヘンな演奏に当たるとグヂグヂして「何言ってんじゃい!」と思うことがあるのですが、これはそんなこととは一切無縁。
いつぞや、どこぞやの某首相のように“言語明瞭・意味●明瞭”ですね。

両者とも素のままで演奏されているようでいて、いっさいジメジメしないし見通しよく演奏されているのですが・・・第1番の第1楽章などでは間違いなく慟哭というか泣いている。今、我々がロストロポーヴィチを惜しんでいるように、心の奥底での嗚咽が聞き取れるのではなく感じ取れるような演奏です。
反対に、第2番の第1楽章はこの上なく晴朗であります。曲がそうだからといってしまえばそれまでですが、これだけ“霧が晴れた中、淡々と進んでいく演奏”の中でそれができるというのは、ピアニストも含め、凄いことだと思います。

言い方はおかしいのですが、ベテランのアナウンサーがいいニュース、悲しいニュース、怒れるニュースを同じように淡々と読んでいるのに、こちらにはそのような思いが明瞭に思い起こされるという感じに近いのでしょうか。
最近特に痛感するのですが、事実・指示・手順などは言葉だけでは伝わりにくいでしょうが、「想い」だけは隠しようもなく伝わりますからね。
ロストロポーヴィチ、ゼルキン共に言葉以上に「音楽」で想いを感覚的に伝えることが出来るのでしょう。否、音楽だからこそ伝えられるものがあるのかもしれませんね。

先ほど伏字にした訳は、某首相とロストロ翁とでは入る漢字が違うからであります。


★J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲(全曲)
                  (演奏:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ)

1.無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV.1007
2.無伴奏チェロ組曲 第4番 変ホ長調 BWV.1010
3.無伴奏チェロ組曲 第5番 ハ短調 BWV.1011
4.無伴奏チェロ組曲 第2番 二短調 BWV.1008
5.無伴奏チェロ組曲 第3番 ハ長調 BWV.1009
6.無伴奏チェロ組曲 第6番 二長調 BWV.1012
                  (1992年録音)

この演奏については、最早コメントすることはありません。

いろんな評価がある中で、私と同年輩でありながら既に2回もこの全集を録音しているウィスペルウェイなどが「あと5年早く録音されたものが聴きたかった」ような発言をしているようですが、まったく価値観のズレた議論だと思います。

ロストロポーヴィチは、自身のチェリストとしての全存在を賭けてこのモニュメンタルな楽曲を録音するに当たり、まずもって万難を排するために自主制作という手段を選択しています。
そして、楽曲解釈や技術的な鍛錬はもちろんのこととして、おそらく自分の命よりもはるかに永く残る記録を遺すための準備、例えばロケーションの選択にも“自分自身”があらゆる手段を講じていろんなところへ足を運び、結局小さな教会が気に入って録音する・・・といった途方もない手順を全て自分の責任でこなしているのです。
このような過程を経て作り上げられたディスクでありながら、肝心の出来ばえについても製作者本人をして「できるだけのことをした。後はどのように判断されようとも悔いはない」と言わしめています。

こんな経緯を知ってみると、演奏技術というごく一面から見ればウィスペルウェイの言質を是とすることが仮にあったとしても、全体的に見ればロストロポーヴィチがいかなるチェリストだったかということを語るうえでこれに勝るディスクはないと言っていいと信じています。

そんな、ロストロ翁に敬意と感謝を捧げながら、連休前半は静かにこのディスクを聴いてみようかな。

マエストロ、お疲れ様でした。心からご冥福をお祈りします。

合掌



※急用のため先日付投稿しています。

フランク : 前奏曲、フーガと変奏曲

2007年04月27日 00時00分08秒 | 器楽・室内楽関連
★セザール・フランク:ピアノ五重奏曲とピアノ作品集
                  (演奏:アリス・アデール(p)、アンサンブル・アデール)
1.前奏曲、フーガと変奏曲 作品18 (ピアノ編曲版)
2.前奏曲、コラールとフーガ
3.ピアノ五重奏曲 ヘ短調
                  (2002年録音)

前記事でフランクのヴァイオリン・ソナタのディスクを取り上げながら、また3本の指に入るぐらい好きと言いながら、その内容にはほとんど触れませんでしたねぇ。
てなわけで、罪滅ぼしにフランクの特集をしようと思いたちました。

要するに『前奏曲、フーガと変奏曲 作品18』という絶品の名曲をご紹介しようという趣向であります。(^^)v
お気をつけ願いたいのは、『前奏曲、コラールとフーガ』ではありませんということです。もちろん、これも泣く子も黙る名曲であると思うのですが、そこはそれ、久しぶりに天邪鬼を発揮してですねぇ・・・。

これは、フランクがまだ比較的若い頃に書かれた曲で、元来はオルガン曲であります。
プレリュードの旋律はごくごく簡素なメロディーですが、実に痛切に哀切の情を漂わせるものであります。
この部分を聴いて「おっ」と思わない方は、多分私とは音楽的感性が合わないなと思えるぐらい印象的なメロディーなのです。もちろん、オルガンとピアノではその聴こえ方もやや違うんですけどね。
そして中間部はフーガとなっていますが、むしろ和音の壮麗さを感じさせる部分であって、その後単旋律のフーガらしい経過句を経て最後のパートの変奏曲へ流れていく構成になっています。
その変奏曲のテーマには冒頭の旋律が回帰します。変奏曲となっていますが装飾が若干違うぐらいで、私の耳にはあまり派手に変奏されているという感じはしませんのですが・・・。作った人が「変奏だ!」というからには変奏曲なのでしょう。

ともあれそんなこの曲に惚れ込んだいろんな人がピアノ用に編曲したものをご紹介したい、とこういうことであります。
(あるいは ―私は知りませんが― 他の楽器用に編曲したものももしかしたらあるのかもしれませんが・・・。)

まずは、編曲者とピアノは不詳ですがアりス・アデールが弾いたディスクであります。
この演奏の最大の特徴は、音色そのものの佇まいであります。
このアデールという人は、現代音楽でも広くその菜を知られている存在のようです。私は、このフランクの他はブラームスとドビュッシーしか知りませんが、いずれもその音色そのものに注意を促されます。

書の世界でいうなら、字や書全体から受ける感覚・イメージというものよりも、一点一画の線・点の美しさが傑出しているといった風情なのです。
それも楷書のように平凡な型にはまったものではなく、とはいえ一画一画が個性の刻印を押されているようなものなので、『隷書』とでもいったらいいんでしょうか。

冒頭のメロディー・ラインやその和声の左手のニュアンスなど、木製の木目濃やかな触感といった音といった感じがします。
それは、クリアに音が放たれているのにもかかわらず、その音触に仏像のアルカイックスマイルをイメージしてしまうような響き・・・。
もちろん、そのような音の積み上げられた空間が密度の低いはずがなく、無垢でありながら濃密な感じのするアコースティックな音世界が繰り広げられていきます。

そしてフーガにおいては、そのくっきりした音色そのものを轟かせるように世界を描いていきます。ベートーヴェン的に構築的という感じではないのですが、楽曲の構成はとても堅固です。そしてそれが曲調に非常にマッチしているために、素晴らしい解釈の演奏だといってよいと思います。

もちろん、この特質は『プレリュード、コラールとフーガ』にも最適であり、同曲のもっともコクのある演奏だと私は思っております。

ピアノ五重奏曲も同様の美質は感じるのですが、もう少しその良さを理解しないとコメントのしようがありません。もうすこし、聴きこんでみたいと思っております。


★セザール・フランクと一緒のクリスマス
                  (演奏:イェルク・デームス)

1.プレリュード、フーガと変奏曲 (1899年製エラール・コンサート・グランド使用)
2.プレリュード、コラールとフーガ (1880年製エラール・コンサート・グランド使用)
3.18のスピリチュアルナ前奏曲集 (1913年製シートメイヤー・サロン・グランド使用)
4.プレリュード、アリアと終曲 (1913年製スタインウェイC使用)
                  (1993年、2004年録音)

このディスクのタイトル訳は私がしました。フランス語翻訳サイトで調べた直訳であります。
まぁ、ジャケットのデザインを見れば整合しているように見えるので勘弁してください。
ちなみに、ウムラウトとか無しで表記すると原題は“NOEL AVEC CESAR FRANCK”であります。(^^)v

さらに副題があって、これは英語表記なので訳のみ書きますが“イェルク・デームズ、3つの歴史的ピアノを弾く”となっています。
よく見るとピアノは確かに3つのメーカーのものではあるけど、曲ごとに全て弾き分けているので4台のピアノを使用しているんですよねぇ・・・。
この辺、やはり謎です・・・。
ジャケットの解説はデームス自らが筆をとっていて(フランス語と英語なのでよくわからん)、何よりピアノの写真が貴重だと思えました。もちろん、CDですから聞いただけではわかりませんが、冒頭の『プレリュード、フーガと変奏曲』で使用されているエラールは金色の装飾が施された白いピアノであります。
年季の入った白いピアノで演奏されていると思うだけでも、味わいがいや増すのは単なる思い込みだとわかっていても趣深いものがあります。

そしてその白いエラールで弾かれている『プレリュード、フーガと変奏曲』はこれも絶品なのであります。
この編曲はデームスその人の手になるもの。この版は我が国でも出版されているようで、アルゲリッチ肝煎りの我が国のピアニスト広瀬悦子さんのデビューCDにも収められていましたね。
彼女の演奏を聴いた時の印象では、稀有壮大に弾かれていたようにおもいます。あと、密度がそこについてきたら彼女も大ピアニストになれるんでしょうね。「先が楽しみじゃわい」と思ったものです。(^^)v

そして、肝心のデームス本人の演奏は時代楽器であることもあってか古色蒼然としています。
今の楽器と比べると少し音色がパサついているというか不安定なのですが、適度な響をペダルで、そして録音のマイクセッティングで加えて、旨みまろみを感じさせる音色にしています。

この演奏ですと、プレリュードはあくまでも前奏曲であるということがわかるような気がします。
何が違うというわけではないのですが、きわめて小規模・コンパクトにまとめられて中間部の和音に突入するように思えるのです。それも、きちんとプレリュードの最後で一拍おいておもむろに「ここから本編ですよ」といった風情で・・・。

広瀬さんのようなスケールの大きさは感じさせませんが、切迫した充足感とでもいうものが伝わってきます。また、緊張するわけではないのですが、どこにも弛緩するところがないという、名演によくあるパラドキシカルな背反する事柄の両立が聴き取れるように思います。

ピアノを代えて弾かれている『プレリュード、コラールとフーガ』も大変な名演だと思います。

『プレリュード、アリアと終曲』はずっと前に録音されていたものをこの中にフィルアップで付け加え、フランクのピアノの大曲を網羅する企画にしたのだと思いますが、スタインウェイで弾いているとはいえシートメイヤーのピアノとほぼ同時代の楽器ですからねぇ・・・4つの歴史的ピアノを弾くでもよかったんじゃないかと・・・。


★フランク:前奏曲、コラールとフーガ 他
                  (演奏:ポール・クロスリー)

1.前奏曲、フーガと変奏曲 作品18 (編曲:ハロルド・バウアー)
2.前奏曲、コラールとフーガ (1884)
3.ゆるやかな踊り (1885)
4.前奏曲、アリアと終曲 (1886-1887)
5.コラール第3番 (1890)(編曲:ポール・クロスリー)
                  (1993年録音)

私がこの曲に触れて感銘を受けた盤です。このバウアー版が最も有名なトランスクリプションであるようですね。

この演奏の感想は、よく言えば慎ましく思慮深い演奏。それなりに憂いと奥行きを伴っていて、当初聴いたときのイメージからは味わい深い演奏だと思っていたのですが・・・。
今あらためて聴いてみると“ネクラ”に聴こえる・・・。うーん、どうしちゃったんだろう。

何はともあれハロルド・バウアー版はこの演奏しかないので、編曲のせいなのかもしれません、とかいいながら、『前奏曲、コラールとフーガ』などの有名どころの演奏についても同じ感想を持ってしまったものだから、版のせいではないのでしょうな。

本当に心が疲れてしまったときに聴いたんだとしたら、そっと心の内に沁みてきて温かなキモチを呼び覚ましてくれるかもしれない、マッチ売りの少女的演奏ではないか・・・と言っておきましょうか。。。


★フランク:グレート・オルガン・ワークス (2枚組)
                  (演奏:マリー=クレール・アラン)

1.英雄的作品
2.カンタービレ
3.幻想曲イ長調
4.交響的大曲 嬰へ短調 作品17
5.パストラール ホ長調 作品19
6.幻想曲 ハ長調 作品16
7.前奏曲、フーガと変奏曲 作品18
8.コラール 第1番 ホ長調
9.コラール 第2番 ロ短調
10.コラール 第3番 イ短調
11.祈り 作品20
12.終曲(フィナーレ) 変ロ短調
                  (1995年録音 サン・エティエンヌ教会のカヴァイエ=コル・オルガンによる演奏)

これを聴くと、この曲がオルガンのための曲だとわかります。
しかしフーガ部分の冒頭のオルガンの持続音の効果たるや絶大ですなぁ~。スペィシーって感じまでする・・・。
マジで宇宙と交信しようとしてたんじゃないかと思わせるほど、空間感・世界観に違いがあります。
こんな技はピアノじゃゼッタイできんけんね。

要するにピアノに編曲するということは、オルガン曲としての適性を切り捨てて、旋律などを生かしてピアニスティックな曲として再構築するということなのかもしれませんね。

マリー=クレール・アランという人は、この楽器の世界での女王的存在であると認識しておりますが、化け物的機械楽器だと思えるオルガンを知り尽くした方のようですね。
ストップやレジスターの選び方なども普遍的で当を得たものだと感じました。


というわけで、あれやこれやとご紹介してきましたが、フランクのこの名曲がさらに人口に膾炙するものになったなら、世の中捨てたモンじゃないと思えるようになるかもしれません。
なんとなれば、この曲は人としての心のありようやうつろいを表現した名曲であるから・・・私はそう信じています。



※出張のため、先日付投稿しています。

神話

2007年04月26日 00時00分00秒 | 器楽・室内楽関連
★フランク:ヴァイオリン・ソナタ 他
                  (演奏:カヤ・ダンチョフスカ(vn)、クリスティアン・ツィメルマン(p))
1.フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調
2.シマノフスキ:神話 作品30
3.シマノフスキ(コチャンスキ編):ロクサーナの歌 ~歌劇《ロージェ王》から 
4.シマノフスキ(コチャンスキ編):クルビエ地方の歌 ~ポーランド民謡の旋律による
                  (1980年7月録音)

先般、没後70周年の作曲家特集で採り上げたシマノフスキの“神話”が課題曲です。
何故ここで紹介しようと思ったかというと、この土日に留守宅に帰ったときに長男と次男が「クイズです。」といって寄ってきていうことには、「大神ゼウスの・・・・・」とか「冥府の番犬の名前は?」とか訊いてくるではありませんか。
てっきり、ポケモンのナントカというような出題しかないと思っていた私は、ギリシャ神話などを出典とするこれらの質問に「わからない」と答えて、説明させてみたところ、日本語はアヤシイながらも、ちゃんと内容は正しく覚えているわが子に感激してしまったのであります。
毎晩、寝る前に「星座のはなし」という本を読んでるんだそうです。エライぞ!!

先ほどの子供の質問には、実はマジで答えられない質問もあったんですけどね。(^^)v


それにしても、ペルセウスの件で、大神ゼウスが牢に閉じ込められたダナエの許に黄金の雨となって訪れペルセウスを身ごもらせた話を淡々とされた時には、ちょっとビビりましたねぇ。
まさか、クリムトの例の絵を子供に見せて説明するわけにも行かないので・・・。
子供も、「大神ゼウスってエロいんだよね!」と無邪気に言っておりますが、何をどこまで分かっているのかコワいですね。
てなわけで、とっととメデューサの首を取った話に進ませましたけどね。
子供の教育上、神話に出てくる神様にはもっと品行方正にしてもらいたいモンです・・・なぁんてね。

私もこのテの神話は小さい頃からよく本で読んでいたのですが、どんな意味かがわかったときは・・・・・・ナイショです。おおよそ親の目を盗んで11PMを見るようになってからかな。(^^)v


さてさて、この“神話”という曲はここで演奏しているツィメルマンが“仮面”“メトープ”と並んでシマノフスキの美しい3曲と言っていたうちの1曲であります。
3曲のうちでは、この曲のみヴァイオリンとピアノにより演奏される曲。
当然ながら神秘的な魅力をたたえた曲であります。なんてったって神話なんだから・・・。

この曲は、アルトゥーサの泉、ナルシス、ドリアデスとパンの3曲からなり、なんといっても第1曲アルトゥーサの泉は小品集などで採り上げられることも多いヴァイオリンの名曲として名高いものだと思います。
で、長岡で見つけたナルシス(水仙)の花です。
        

帰省時、桜は既に終わってしまっていましたが、いろんな種類のナルシスの花がそこらじゅうで美しく咲き誇っていました。

ダンチョフスカというヴァイオリニストはこのディスクでしか知りませんが、幻想的で冷ややかな音色を持った奏者ですね。この類稀な伸びやかさを雄弁なヴァイオリンというかどうかはわからないのですが、醸し出す雰囲気は抜群だと思います。

そしてツィメルマン、1975年のショパン・コンクールで優勝した5年後ですから、現在の鮮烈なタッチとはちょっと違います。
1990年ごろは凄くスタイリッシュなタッチだと思っていましたが、今や“かまいたち”が起きそうなぐらい切れてますもんねぇ。
そんな過渡期の演奏ですが、すでに雰囲気を湛えるには充分すぎるほどの表現力を身につけており、ダンチョフスカと相性バッチリではないかと思います。

併録されているというか、むしろメイン楽曲であるフランクのヴァイオリン・ソナタも、今のツィメルマンなら迸り出てくるであろうあらゆる意味に於ける“凄み”はなくとも、若々しい表情に溢れた佳演であることに間違いありません。
数あるこの曲の演奏の中でも、指折りの名演奏・・・そうでなければ、私にとっての3本の指に入るお気に入りの演奏であります。
あとの2本はいずれまたご紹介しましょう。(^^)/


★シマノフスキ/エネスコ/バルトーク:ヴァイオリン作品集
                  (演奏:イダ・ヘンデル(vn)、ヴラディーミル・アシュケナージ(p))

1.シマノフスキ:神話 作品30
2.エネスコ:ヴァイオリン・ソナタ 第3番 イ短調 作品25 《ルーマニアの民族様式で》
3.バルトーク:ラプソディ 第1番
4.バルトーク(セーケイ編):ルーマニア民族舞曲
                  (1996年録音)

去年の11月19日にアップした記事に、このディスクは既に紹介してあるので詳しくは触れませんが、ダンチョフスカ/ツィメルマン盤と比べるとずっと地に足が付いた演奏になっています。

ヘンデル女史の独特な粘りのある音色(ダンチョフスカも粘りがあるけどちょっと違う)やトリル、アシュケナージの穏健なピアノ・・・すべてがこの世で起こっている出来事であると感じられるように弾かれているのが、上記アルバムとの相違点であると思います。

この辺のニュアンスは聴いてもらわなきゃわかりません、と言ってしまっては書く価値がないのかもしれませんが、まぁ毎度のことながら、お気に入りのディスクをご紹介させていただいたということで・・・。(^^)/


ところで全然関係ありませんが、さだまさしさんに“神話”という歌があります。
アコギ一本、4capoの3フィンガー奏法で歌の伴奏は通されるのですが、何といってもさださんといえばヴァイオリンのソリストを目指していたかた・・・。
“アルトゥーサの泉”なんてのは、実はオチャノコで弾けちゃったるするんではなかろうか?

この曲が収められているアルバムのタイトルが“印象派”であるということは、さださんはきっとシマノフスキを印象派の作曲家だと捉えていたに相違ない!!

というのは、私の穿った見方でしょうかねぇ? (^^)/


※出張のため先日付で投稿しています。

【緊急投稿】CDで押える期待の若手ヴァイオリニスト

2007年03月10日 00時00分01秒 | 器楽・室内楽関連
★無伴奏ヴァイオリンでたどる5世紀の旅
                  (演奏:ステファニー=マリー・デギャン)
1.ビーバー:「ロザリオのソナタ集」~パッサカーリャ ト短調
2.J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004
3.パガニーニ:24の奇想曲op.1~ 第5番、第15番、第24番
4.イザイ:六つのソナタop.27~ソナタ第3番ニ短調「バラード」
5.イザイ:六つのソナタop.27~ソナタ第6番ホ長調
6.タンギー:ソナタ・ブレーヴェ(短いソナタ)~リリーク(叙情的に)
7.タンギー:ソナタ・ブレーヴェ(短いソナタ)~エトランジュ(風変わりに)
8.タンギー:ソナタ・ブレーヴェ(短いソナタ)~ヴェルティジニュ(めまいがするほど)
                  (2002年録音)

ヴァイオリニストは数多くいても、私が実演を聴いて楽しむのであれば、先ごろもコンサートに行ってカンゲキの演奏を聴かせてくれた礒さんがいれば充分なのですが、そうはいってもいろんな人の演奏を聴いてみたいとも思っているわけではあります。

とうぜんその舞台はまずはディスクということになるわけなのですが、若手ヴァイオリニストでCDを聴いて「こっ、これは・・・!?」と思った3人をご紹介しましょう。

これは某所で私のことをあろうことか“エロ・セオリスト”なぞと呼んでいただいているのを発見してしまったために、緊急投稿するものです。
しかしまあ、ジャケ写第2段を投稿してホッとしたところで、いつも楽しみにしているみなさんのブログをチェックしに行ったら、いきなり“エ●・セオリスト”ですもんねぇ・・・。
これまたアップする記事を、事前に読まれたようなタイミングで発言されているものですから驚いた・・・。
書きかけで寝かしてある記事まで、見られてるんじゃないかと若干心配になったりしてますがね!  ←突然名古屋弁が出る。

それにしても、どうせ言うなら最近の記事を見てくださってるならば“エビ(ちゃん)・セオリスト”とかねぇ。
他にも言い回しがあるんじゃないでしょうかねぇ!?

いくらなんでも“エロ”じゃ、仮に事実だとしても「そうですね!(^^)v」なんて簡単に首を縦に振れないじゃないですか!
“エロス・セオリスト”であればまだしも・・・ねぇ。
プラトン哲学で求め続ける対象が真実(エロス)ですからねえ、これであれば正に私に相応しい・・・。
セオリストってのも理論家のことですよね。空論に終始する人って意味じゃないですよね!?

などと、“自分の正当化”しか考えていないようなことをグダグダ言っても始まらないので、そろそろヴァイオリニストの紹介行きましょう・・・。
ご紹介のディスクの共通項としては、すべてのCDに“バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番”が収められていること。
みんな余程自信があるのねぇ~・・・ってな感じですな。

まずは、イントラーダ・レーベルから無伴奏の曲ばかりを引っさげて彗星のように現われたこの方から・・・って、いきなりこういう美形の手になるディスクを紹介すると、また“エロ”と勘違いする人が出てきやしないかと心配になりますが、あくまでも演奏本位でチョイスしてるんですからねっ、と・・・。

  えっ、疑ってないですって!?

    そりゃ~、エロすんまへん・・・。  ← お約束ですな!(^^)v


プログラムをご覧いただけばお分かり(タイトルを見るともっとよく分かるが・・・)のとおり、ビーバー~タンギーに至るまで“無伴奏ヴァイオリン”の名曲を奏したディスクであります。
最初のビーバーの鄙びた素朴な音色・節回しから、時代が下るにつれてだんだん音色が明るさを帯び艶っぽくなっていくように聴こえます。それを曲に相応しく弾き分けることができる彼女の才能が素晴らしいということが、まず言えようかと思います。
もちろん、その前提として無伴奏の名曲をこのように配した企画・選曲こそが特筆に価するのだとも思いますけれど・・・。

全ての曲が相応しく弾かれているというのは先に述べたとおりですが、このうちでもっとも素晴らしいと思ったのは、古色に溢れたビーバーですね。

今後の動静にも注目したいヴァイオリニストです。

★魂のシャコンヌ
                  (演奏:ジョセフ・リン)


1.イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第6番 ホ長調 (M.キロガに)
2.J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 BWV1003
3.イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 (G.エネスコに)
4.J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004
5.チャン・イ・チェン:「凝視」 ~地震犠牲者への追悼~ 《これのみライヴ録音》
                  (2005年録音)

ジャケットを見た瞬間、「ど根性ガエルの梅三郎(ウメさん)ってヴァイオリン弾けたんだ・・・」と思うぐらいに下顎を突き出して演奏されているジョセフ・リンに笑ってしまいました。
でも顔立ち全体としては、ゴリライモのほうが似てるかな!?

しかしこの演奏がなかなか・・・。
とにかくどこまでもおおらかで明るくてカロリーが高い・・・。
はるかモンゴルの草原を思わせるような奏楽・・・って行ったことないけどそんなイメージがあります。

魂のと謳ってあるのは誇張でもなんでもなく、カロリーが高いだけでなく燃焼度も高い演奏であります。

ご覧になって分かるとおり、冒頭のデギャン嬢のディスクと相当プログラムが重なっておりますが、本当に好対照の演奏といえると思います。
ホントにイザイの3番なんて、同じ曲とは思えないぐらい印象がちがう・・・。
デギャン嬢はどちらかというと艶消しサッパリ型(決してパサパサだとか過不足があるということではありません。念のため)であるのに対して、リン氏はコラーゲンたっぷりでぷっくリップ型という感じです。

シャコンヌひとつとっても、曲が描くキャンバスは時間の差(1分ぐらいリン氏が長い)以上に大きく取っているように感じられますし・・・。少なくとも外面的に感じられる燃焼度は、リンの演奏のほうが高いといってよいような気がします。
ただし、内省的にどこまで落としこまれているかというと相対的にはデギャン嬢のほうが声高にモノを言っていない分、却って深いような気もしないではない・・・難しいところです。
両方聴くことで、どっちの特徴もよく映えてより楽しいと思わされますですよ。

そうそう、特筆すべきは最後のライヴ録音です。
これのみピアノ伴奏付きなんですが、ウメさんにこんなセンシティブな感性があったのかと唸ってしまうような感じ切った演奏。ノッて弾けたときのライヴならではの表現の繊細さに心打たれます。これはオススメだと思います。

なお、録音の会場である魚沼市小出郷文化会館は、先ほど帰ってきた長岡の私の留守宅から約40分のところです。何も関係有りませんが。。。

★J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ
                  (演奏:ヒラリー・ハーン)

1.パルティータ第3番 ホ長調 BWV1006
2.パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004
3.ソナタ第3番 ハ長調 BWV1005
                  (1997年)

なんだかんだ言いながら、結局ハーンをここで出してしまう私なのでした。(^^)/

でも写真は小さくてニンニクは必要なさそうだし、このジャケならいかにも“エロ・セオリスト”ではなくエロスの探求者らしいでしょ!!
それにプログラムはこれまた無伴奏の曲ばかりで・・・これはハーンのデビュー作でしたよね。正に衝撃のデビューだと思ったものですが、もう10年にもなるんだ・・・。
いつも思うけど、トシ取るはずだよね。。。ふぅ・・・。

そこでこの演奏ですが「蠱惑的な音色をヴァイオリンから出しなさい、それも生気に溢れた質感で!」という課題を出してみたら、ハーン嬢が終始その音色で弾いちゃったという感じです。
「パルティータ第3番の冒頭がそうです」というだけなら、結構いろんなところでそのような演奏には出会えるような気がするのですが、全曲通して生気を失わないとなると・・・私はレイチェル・ポッジャーの演奏しか知りません。

実はポッジャーの演奏のほうが好きなのですが、現代の楽器である分ハーンの音色の方が濃やかな艶が乗っているところなんかもあって、テンポもじっくり取っているので指折れる美点はむしと多いのかもしれません。
でも、どっちか聴くならポッジャーだなぁ~。
いつも言うとおり優劣では決してなく、たまたま私の耳がポッジャー系の傾向の音を求めている、ということに過ぎませんのでお間違いなきよう・・・。

これらの他にもいっぱいバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータは持っていますが、どれもこれも独特の美質を備えていて、この曲を前にした演奏家はやっぱり“気合はいってんだなぁ~!”というのが感想・・・。
この曲集の全集盤で私が好きなディスクをあげれば、ジェラール・プーレ、ルミニッツァ・ペトレ、ギドン・クレーメル(新盤)、シギスヴァルト・クイケン、我が国のヴァイオリニストでは加藤知子さん、前橋汀子さんなんかの録音でしょうか・・・。やっぱりメジャーなのばっかりですね。
ほかにもあるけど、またこれらのディスクは別の機会にご紹介することにいたします。(^^)v

上の2人でシャコンヌの演奏を比較したのでついでに書いておきますが、ハーン譲のシャコンヌは18分余とリン氏よりも3分も長い・・・。

美しいかどうかはちょっと分からないけれど、張りのある思わせぶりな(アンニュイとはちょっと違うんですが、うまく言えません)音色で終始多彩なワザを使えるところを見せてくれています。
8分の曲だったら大絶賛しますけど、18分この音で巧みに工夫をし続けてくれたとしても、それはそれで凄いこととはいえ、チョッと冗長に感じてしまいました。
残念ながら“こんなおじさんを許して状態”ですなぁ~。

あくまでも私の個人的な意見としては巧まずしてもっと内から湧き出すとか、にじみ出るものが、特にこのように人口に膾炙している“シャコンヌ”という曲であればこそ欲しいんですよね。
もちろん「この音色・弾き方がたまらない」と仰るかたも大勢いらっしゃるだろうとは思いますけど・・・。


こんなに書き連ねてしまったために、この記事を書いた意図がわかんなくなってきちゃいましたが、要するにこれからは私のことを形容するときは、どうか“エロスの探求者―エロス・セオリスト”というようにしてつかーさい!
・・・ってことです。ゆめゆめ“ス”を節約しないよ~に!! (^^)v


エロすんまへんが、また事情により先日付投稿させていただきやす!