goo blog サービス終了のお知らせ 

SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

グリンカ没後150周年特集

2007年01月21日 00時02分02秒 | 器楽・室内楽関連
★ショスタコーヴィチ:ヴィオラ・ソナタ
               (演奏:ユーリ・バシュメト(va)、ミハイル・ムンチャン(p))
1.グリンカ(ボリゾフスキー補筆):ヴィオラ・ソナタ ニ短調 
2.ロスラヴェツ:ヴィオラ・ソナタ
3.ショスタコーヴィチ:ヴィオラ・ソナタ ハ長調 作品147(遺作)
                  (1991年録音)

グリンカという作曲家が亡くなって今年150周年を迎えます。
この作曲家がどんな人かは正直全然知りません。しかしながらロシアの方だということだけで十分ではないでしょうか。

この記事は昨年のうちに企画していて、各音楽誌が周年記念記事を組んだとしてもそうそう早く出てきやしないだろうとタカをくくっていたのですが、まさかレコ芸にこんなに早く特集されて先を越されるとは思いませんでした。
この記事は2週間前には書き上げていて、手詰まりになったら使おうと寝かしておいたものだけに悔しいです。
鮮度の落ちる懸念が高くなったために、予定を変更してとっとと投稿しちゃおうかと・・・。
内容にはそれなりに、ほんとにそれなりにですが、思い入れはあるので、価値が下がったと思わないでくださいね。
そうしたら今日寝かした記事がまた時代遅れになったりして・・・。あー、悲しい!!

さてさて、私の持っているディスクでグリンカの作品が収録されているのは、多分この3枚以外にはないと思われます。
仮にあったとしてもオムニバスのディスクの中で、私が注目することすらできないような作品でしょうからここでは看過して差し支えないものと思われます。
そもそもここに挙げた盤すべてがオムニバス的な選曲になっているわけですから・・・。

しかしながら、没後150周年ということでこの企画をでっち上げられたことは意義があります。
なんとなればこのバシュメトのディスクを、ここで取り上げる絶好の口実となるからです。
まずもってこのディスクにおけるバシュメトとムンチャンのパフォーマンスに最大級の敬意を表したいと思います。

このディスクのどこをとっても表現上いわゆる弛緩したと認められるところはありません。
正直言ってタイトルナンバー(?)であるショスタコーヴィチはワケわからんところのある曲ですが、演奏者が非常な集中を持って何かを表現しているために聴こえない音、湧き出さない感情でも問題なく受け止めることが出来ます。
ロスラヴェツの作品ともども、これも私の中で寝かしてある曲のひとつであります。
もしも何らかのこの曲の良さが感じ取れるようになれば、私の音楽を聴く地平は飛躍的に広くなる、そんなことを思わされる作品ですし、そのために欠くべからざる演奏であるように感じます。
殊にロスラヴェツはピアノ曲集をかのアムランが手がけているなど、再評価の機運のある作曲家ですし、そうなった際にさらにこのディスクの価値は高まるものと思われます。

ここでの主役であるグリンカのヴィオラ・ソナタですが、これは一聴したときからもう虜になりました。素晴らしい曲ですが私はこのディスクで聴くまで知りませんでした。他にディスクがあるかどうかもわかりませんが、有名な曲なんでしょうか?

この曲はグリンカが作曲し始めたものの第2楽章を完成せずに亡くなった部分を、ボリゾフスキーという大ヴィオラ奏者が補筆完成させた作品とのことですが、チャイコフスキーのご先祖みたいな曲です。
とりわけ私がイメージ的に似ている点が顕著だと思うのは、チャイコの瞑想曲の第1曲“懐かしい土地の思い出”と呼ばれている作品42-1です。調性がニ短調と同一であることもあってかリズムの違いとかを超えて同様の雰囲気が醸し出されているように感じます。
特に弾き出しの音の質感などは、ヴァイオリンの個性や弾き方にもよるのでしょうが、本当によく似ているように思います。双方の楽器で対応可能な音域だからなのかもしれません。

この憂愁の旋律を、バシュメトとムンチャンは切々と歌い上げてくれます。
紹介を旨とするブログですが、ぜひ聴いてみていただいたらいいのではと申し上げていい曲・演奏だと思います。特にロシアものがお好きな方には、絶対とは言いませんがかなりの確率でアタリの曲だと思っていただけると思います。ただロスラヴェツとショスタコは、そのよさがわかるまでに時間がかかるかもしれません。
何かこのような曲を楽しむのにも聴きどころというよりコツがあって、ある日突然フッとなぜか聴こえなかった味わいが感得できるようになったりするものですので、よろしければぜひどうぞ。

★ムソルグスキー:展覧会の絵
                  (演奏:エフゲニー・キーシン)

1.J.S.バッハ/ブゾーニ編:トッカータ・アダージョとフーガハ長調 BWV564
2.グリンカ/バラキレフ編:ひばり
3.ムソルグスキー:展覧会の絵
                  (2001年録音)

充実した作品をコンスタントに世に送り出してくれているキーシンの作品ですが、私はこれがこれまでの彼のディスコグラフィーの中での最高傑作だと思っています。
それをグリンカの曲の紹介のためにここでご紹介するというのも、なんか本位じゃない気もしますが、天邪鬼の血も「いーぞいーぞ」と騒いでいるので喜んでご紹介したいと思います。

バッハのオルガン曲の編曲は、ピアノのほうが音の立ち上がりがずっと早いことによってきらびやかな効果が出ています。それをキーシンが弾くと正に神の光がそこにあったというような気分で、神々しさに溢れたものになるからフシギです。
闊達に惹かれる部分も、緩徐な部分も生き生きと生命力に溢れた演奏で、キーシンが凄いピアニストになったものだとつくづく感じ入ったものです。

展覧会の絵は前にも触れましたが、高橋多佳子さんのディスクが出るまでの私のスタンダードです。誤解のないようにと思いますが、多佳子さんのディスクが出たからといってこのディスクの音が一音たりとも変わっているわけではなく、私の感性が変わったわけでもありません。今でも、冷静な運びのうちにも演奏者の高揚感も展覧会場に誘われた聴き手のトキメキも最大限に期待できる素晴らしい演奏であることに変わりはありません。

キーワードのひとつめはテンポの良さだと思います。これはキーシンが突出して自然です。
また多佳子さんと共通している(私にとっての)美点は、ペダルによる音の作り方で残響を残すやりかたでシンフォニックに演出する場面が少ないこと。
私にはこうしたストレートな演奏の方がしっくりくるようです。
冒頭のプロムナードにおいてすら和音での推移になるところに至るやペダルで音を盛大に混ぜ合わせる演奏が多い中、たとえペダルを踏んで音色を作っても、あくまでも音色を作るためのペダルであって清潔に、無用に音を混ぜ合わせた響きを作らないことがこの曲の良さを素直に引き出せるような気がするのです。あくまでも私の考えですが・・・。

そもそも余りオモシロい曲だとおもっていなかったこの曲を、最後まで手に汗握るような感覚で聞きとおさせてくれたこと自体が凄いこと。
キーシンはやはり後世に名を残すべき逸材のピアニストだと感じ入った次第です。

そしてここでもご紹介が最後になりましたが、グリンカの“ひばり”。この曲もバラキレフにより編曲されています。

繊細な弱音の走句が憂愁の旋律を形作り、聴くものの心の襞に染み渡るこの曲も、『ロシア』を強くイメージさせる曲ですね。

バッハのハ長調の壮麗なエンディングと、展覧会の絵の単音のプロムナードを仲立ちする曲としては絶妙の選曲ではないでしょうか。
ベートーヴェンの月光ソナタ第2楽章をシューマンだかが“谷間の百合”と表現したのと同様に、異質の凄いパワーを持った楽曲の緩衝材としては親方が「よくこんな素材を見つけたなぁ」と感心してくれそうな“谷間のひばり”です。

演奏に関しては次の有森さんのそれと比較して語りたいと思いますが、有森さんの演奏が素直に楽曲の響きを浮き出させることを目指していると思われるのに対して、キーシンはテンポも曲が自然に流れるようやや速めに取って、クレッシェンドやアチェレランドといった揺らしをかけることによって曲の流れをダイナミックに、或いは劇的に表情付けして聴かせてくれます。
録音も、キーシンのほうが残響を巧みにかつ多めに取り入れているために響きの透明性は失われても、ホールで自然に聴く感覚にはこちらのほうが近いものがあります。

“ひばり”というタイトルでなければキーシンの演奏は雰囲気満点で、ロシア的ロマンティシズムが横溢している素晴らしい奏楽だということにためらいう理由はありません。
でも、この演奏だと“ひばり”というにはちょっとスケール大きすぎという感じもします。
タイトルに拘らなければ素晴らしくセンシティブにしてスケールにも事欠かない名曲・大名演です。

総括すればキーシンはやはりすごいと。演奏の雰囲気が作為的でなくどこまでも自然なのです。この自然さは誰にもまねできない、そういう類のものだと思うので本当にかけがえのない芸術家に成長したものだと感じさせられるのです。

★プロコフィエフ/ピアノ・ソナタ第3・6&8番
                  (演奏:有森 博)

1.グリンカ=バラキレフ:ひばり
2.プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第8番 変ロ長調 作品84
3.プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第3番 イ短調 作品28
4.プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第6番 イ長調 作品82
5.プロコフィエフ:悪魔的暗示 作品4-4
6.グルック=ケンプ:精霊の踊り
                  (2002年録音)

何か連日出てきていただいてしまいましたが、たまたまです。

このグリンカ“ひばり”は、響きの透明さがやはり印象的です。
ピアノ線からハンマーによって放たれた美しい無垢な音が、何の障害もなく隣り合わせの音符の音と交じり合い、または並列して耳に届けられる快感が味わえます。
最後の精霊の踊りもそうですが、静謐・清潔な絶品の演奏だと思います。
こうした印象形成にはどんな音で録るかという録音プランの方向性も大きく関与しているはずです。CDのディスクを作るということはやはりいろんなセクションの人の総合芸術なのだと。

少し脱線しますが、だからこそ演奏家自身もプレイバック音をしっかりと聴いていないと自分の演奏ではないようなシロモノが巷に溢れかねない、ということになるのではないでしょうか。
マスターテープからのフィードバック音については、自分の演奏している音が正しく入っているかだけではなく、自然な雰囲気か、それとも自分の主張がより伝わりやすい雰囲気かということなどを、ちゃんと自分の耳で確かめる必要があるのだと思います。
そうでないと、自分の音を素材にしたエンジニアやトーンマイスターの作品になってしまいかねません。
もとより分業している以上、そうした要素は多かれ少なかれある訳なので、しっかり全員が最終的なフォーマットに落とし込まれたものに納得がいく状態かどうかを確かめて市販化しないといけないと思います。

話を元に戻して、このディスクも演奏と録音のベクトルが高次元で融合された本当に素晴らしいディスクだと思います。
たとえ私にとってプロコがちんぷんかんぷんで、わかる言語が最初と最後にしか出てこなかったとしても・・・。

これでグリンカの特集を終わります。当初の予定から1話完結なので立派な特集であると自負しております。(^^)v

グリーグ没後100周年特集(その2 弦楽四重奏曲編)

2007年01月14日 00時30分02秒 | 器楽・室内楽関連
★グリーグ・シベリウス:弦楽四重奏曲
                  (演奏:グァルネリ弦楽四重奏団)
1.グリーグ :弦楽四重奏曲 ト短調 作品27
2.シベリウス:弦楽四重奏曲 ニ短調 作品56 「親しき声」
                  (1989年録音)

なんとも今日はエコノミーな記事にしたいと思います。
まずはこうしてグリーグ没後100年特集をしている訳ですが、ツィメルマン1回だけで年末になってしまっては“特集”にならないので、少なくとももう一本は記事をこしらえなければということがいささかプレッシャーでした。
それがこうして払拭できた・・・、めでたいことです。これで立派な特集だぁ~。

もうひとつはグリーグのメモリアルだけでなく、もうひとつオマケの特集が組めること!
それは《シベリウス没後50周年特集》です!! ちゃらぁ~ん!!
なんと一枚で二度おいしいことよ!

で、実は会社の行き帰りディスクマンで聴いたのも含めて3回も聴いたのですが、何とコメントしていいのか言葉がありません。

まずはとにかく言えることを。
グァルネリ弦楽四重奏団はジャケットの風貌から察せられるように、ベテランのクァルテットであり練達のアンサンブルを聴かせてくれています。リラックスした中にも、渋み溢れる情感が滲み出ていて味わい深い演奏ではなかろうかと推察します。

そして、両曲ともジミ!!
なじみのピアノ曲ならいかようにもコメントできちゃうんだと思うのですが、こんな企画をぶったからターンテーブルに久しぶりに載ったという曲への感想なんて、そうそう書けるものではありません。
自分にレセプターがないのがよくわかりました。

敢えて言えば、グリーグのほうが出だしがちょいと派手であること。劇的とまでは行かないけれど、両曲を並べるならグリーグを先にしないと未熟なリスナーは寝ちゃうとおもったのかもしれません。

冗談は抜きにして、グリーグにはやはりツィメルマンのコンチェルトのところで触れたようにシューマネスクな感じを受けたのですが、感想が書けずに困って読んだ解説には、「円熟してグリーグ自身の語法を確立した後の作品でありドイツロマン派からの影響からは“完全に”脱している」などと書いてあって、自分の意見に自信を持てなくなってしまいました。

“語法”と言われれば、確かにリズムの扱いや和声には独自の・・・というか、ちょっと私には引っかかるクセがある曲ですね。

これはシューマンにも言えることですが、ちょっと私には鼻につくというか、浮いちゃうように聴こえるハーモニーが時たまある。リズムもそう・・・。敢えて不自然にしているように思えちゃう場面、これが結構頻繁にあるのです。
だから、グリーグとシューマンが似ていると思ってしまったのかもしれません。

そしてシベリウスですが、冒頭に第一ヴァイオリンとチェロが会話を交わすようなフレーズがあるので「親しき声」と呼ばれているようです。
これヴィオラとチェロだと思うような音色でしたね。私には・・・。
解説が間違ってるわけないでしょうから、「私が悪ぅござんした」に決まってますが・・・。

別に他意はないんでしょうが、かの有名なシベコン(ヴァイオリン協奏曲)も同様にニ短調で、この四重奏曲でもその冒頭で“さざ波”とまでは言わないけれど弦楽器の弱音のうえで、ヴァイオリンとチェロ2台がよってたかって能書きをたれているので「よく似ているな!」とは思いました。

シベリウスのほうがずっと内面的にまとまった曲(悪く言えば“さらに地味”)で、「深い演奏だなぁ~」などと聴き入っている間に終わったという感じです。
よく言えば「心地よいうちに聴き終えることができる」だし、ちょっとツッパった言い方をすると「聴いた後に何も残らない」という楽曲でありましょう。

今回聞き始めてからずっと私の心に引っかかっているこの感覚・・・。
どこかで味わったと思っていたのですが、ようやく思い出しました。
そう、リストの“ロ短調ソナタ”を野島稔さんの演奏で聴いたしょっぱなです。
やはり特別な何かがあって聴いた曲ではないので、なじみがないためにどうも自分の感覚に響いてこないという状態に間違いなさそうです。

でも今回まとめて何度か聴きましたので、しばらく(何ヶ月もしくは何年かもしれない・・・)私の頭の中で寝かしておけば、次回何かの機会に耳にしたときには、今聞き逃していたこれらの曲の美点を見出すことが出来るかもしれません。

それが判ったというご報告をして、この記事をお開きにしたいと思います。

いやぁ、二人も一遍に特集できちゃって何と効率的なんだろう!!
否、この記事もグリーグへのオマージュとは受け止めてもらえない懸念を払拭できないなぁ!

【緊急特集】マラン・マレ生誕350年記念特集

2006年12月31日 21時31分54秒 | 器楽・室内楽関連
★マラン・マレ:ヴィオール作品集
          (演奏:ミーネケ・ヴァン・デル・ヴェルデン(ヴィオラ・ダ・ガンバ))
曲目詳細の紹介は割愛します。
ヴィォールのための組曲、小品の間に、L.クープラン作曲によるハープシコードのソロが曲間のつなぎのように4曲ほど挿まれています。
                  (2000年録音)

みなさん今年2006年(!)は、マラン・マレ生誕350周年に当たる記念年です。
巷ではモーツァルト生誕250周年とかまびすしいですが、我がSJester制作本部では世情に流されることなく、マラン・マレの生誕350年記念特集を総力を挙げて敢行するものであります。

かかる重要な作曲家のメモリアル・イヤーがかくも忘れられた扱いを受けることは極めて不当であります。

「メディアにおかれても、リストの没後120年よりキリがいいじゃないですか?しっかり情報提供してくださいよ!」などと言いたいところですが、リストの記事を見たのはは“ショパン誌”だから「マラン・マレの特集なんて組めねぇよなぁ~」という事情は理解しております。

責任があるとしたら、私が目にした音楽関係の他誌だね。
書いてあったのに、私が気が付いていなかっただったならごめんなさいだけど。
ちなみに、今回気づいたのはレコ芸の2007年1月号の某所に書いてあるのを先ほど見たためです。

まぁ年初、年の瀬にこんなブログを自分が書いてるなんて考えてもいなかったからなぁ。
私のアンテナがきっと低かったんだな・・・。うん、うん。

なんてことを言っているヒマはない!!
とにかくすぐやらないと、もう50年ぐらい出来ないから・・・。ヘタすりゃこっちの命も危ない。
ここまで「あと猶予はどれほどあるんだ!?」的状況では、誰も350周年中にこの記事を見られないでしょうね。
ここまでくるとモーツァルトでさえ最早お呼びでなくて、音楽は今年あと紅白の残りと蛍の光を聴くだけだと思ってらっしゃる方ばかりかもしれません。

そういえば紅白ってもう何年見てないんだろう?
大晦日の晩にテレビ見ること自体ほとんどないし・・・なんて言っていると、投稿自体今年に間に合わなくなっちまうぅぅぅ!!!
そんときゃバックデートしますケド。


さてミーネケ・ヴァン・デル・ヴェルデンのヴィオラ・ダ・ガンバ、グレン・ウィルソンのハープシコードによるマラン・マレのヴィオール作品集です。

一言で言って本当に素晴らしい!!!(大絶賛)
ジャストの潤いの音色、伸びやかな表現は古楽器のそれの最良の特徴だし、古楽器に往々にしてある音色の不安定さがありません。したがって音色は軽いのに、極めてリラックスしてくつろげる。
演奏解釈も奇を衒わないオーソドックスなもの、でも退屈とは無縁。いつまでも聴いていたくなるような演奏です。

プログラムはマレのヴィオールの組曲や小品を随意に並べた中に、ハープシコードのソロ(クープラン作曲)が効果的に差し込まれているといった体裁。
伸びやかで張りのある旋律を多様に引き分けている他、例えば“セント・コロンブ氏のトンボー(墓)”の中間部など短く区切った音もひとつひとつ特徴を描き分け、印象的に弾かれていることも、わくわくしながら聴かせてもらえる要因のひとつでしょう。
もちろん、ハープシコードのグレン・ウィルソンの好演の貢献も見逃せません。

ただ、奏者以外にこのムード作りに最も貢献しているのはほかならぬ録音でありましょう。
中音域の潤いにはさきほど触れましたが、ときおりヴィオールがバスを奏でたときの音色などとても芳しく、その一音で雰囲気が出来上がってしまいます。
というのは、この点で次に紹介する平尾さんの盤とは録音のコンセプトが違うのではというぐらい耳に届く音の印象が違うのです。

こちらは“音色はある程度克明に録ることを心がけながらも、聞いた際の雰囲気重視”、平尾さんの録音は“努めて明瞭に音を拾いあげた、音の密度(情報量)の高いはっきりクリアな収録”を目指しているのではないかと思います。
もちろんどちらが正しいとかいう問題ではありません。
かねてこのブログで話題にしていることが、ここでも感じられたということです。

★マラン・マレの横顔Ⅱ
                  (演奏:平尾 雅子(ヴィオラ・ダ・ガンバ))

1.組曲ト短調 (第3巻.1711)
2.組曲ニ長調 (第4巻.1717)
3.ジャリヴァリ(第3巻.1711)
4.組曲ホ短調 (第2巻.1701)
                  (1997年録音)

近年我が国の古楽器の演奏の水準は目を見張るものがありますねぇ。

私は古楽オーケストラの演奏は、特に弦楽合奏は、えてして音色が毛羽立ったようになるところにちょっとひっかかるときがありますが、音色が不安定でわずかな弾き方の差でニュアンスが変わることを承知したうえで、それをきちんとコントロールできる演奏家によるものであるなら、ソロ、アンサンブルともに逆に魅力を感じます。
繊細な音色の変化によって立ち上る雰囲気が一変してしまう、そんな妙味を楽しみに聴くことができるのです。

ここで聴く平尾雅子さんの演奏は居住まいを正してはいるものの、気負ってはいない演奏。
曲自体の要因もあるのでしょうが、ヴェルデンの演奏と比べると低音がふんだんに盛り込まれて下半身が安定した曲が目立つように思います。

そして先ほど述べた音色なのですが、本当に古楽器かと思わされるほどに、これが極めて安定しています。
シャリヴァリにおける闊達な音色に含まれる古楽器特有の金属的な音が、こんなにも同質の音色を揃えられるというのも、非常な訓練の賜物だと思います。
伸びやかに弾いたときの音色は、金属的な音も含めて極めて精妙にコントロールされています。艶消しの音色になったり、ふっとボウイングの力を弱めて計算の上で金属的な音色を溶け込ませたり、それが曲にふさわしくとても自然にできているあたり、センスがいいとしか言いようはないですね。
演奏家がいかにこの楽器と一体になっているか、楽器固有の特性もありましょうから、それをどれほど手の内に入れているかということを強く感じさせずにはおきません。

雰囲気も上々で、個々の楽器の音はそれぞれ伸びやかに収録されていながら、ぎゅっとアンサンブルは締まっていて、密度間も高いです。
本当にヴィオラ・ダ・ガンバの音が美しく収録されています。
非常に微妙なところではあるのですが、録音に関してもう少し低音の音をルーズにしたらもう少し気楽に聴けるかなとも思いました。

今年このシリーズもⅣ(未聴)まで来ましたが、Ⅲまでの中ではこのⅡが最も多彩なプログラムに思われ好きです。
平尾さんは質の高いディスクを満を持して発表される方。。。
今後もぜひご活躍いただきたいアーティストですね。

★マラン・マレ;音階その他の器楽曲集(1723年出版)
                  (演奏:寺神戸 亮(バロック・ヴァイオリン))

1.パリのサント・ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘
2.音階 (小オペラ形式による)
3.ソナタ《ラ・マレジェンヌ》 (マレ風のソナタ)
                  (1998年録音)

ここで寺神戸さんが弾いているヴァイオリンの音がいいですね。
えてして古楽器のヴァイオリンというと、刺激的な金属音という感じの音色のものが少なくありませんが、そういう音を選択しておられるときもあるのでそういう音が出ない楽器ではないにもかかわらず潤いのある音色を多用し、曲が中低音域で奏でられることが多いこともあって、私にとってとても落ち着いて聴きやすいディスクです。

曲調も概ねリズムもよく立っている明るい感じのものであるため、充実した演奏ながら深刻ワールドに引きずり込まれるようなことも余りありません。

美しい音色・アンサンブルに耳をそばだてながら、おぉもうすぐ年越しじゃぁぁぁ!
大晦日も押しせまって、このような名演に心躍らされるとは幸せなこってす。


おかげさまでなんとか2時間あまりを残して仕上がりましたねぇ・・・。
これなら平均アクセス数からすると15人ぐらいの方は、マレ生誕350周年を私とオンタイムで共有できることになりますな。
などと言っている間にも、どんどん共有できる時間がなくなってしまいますね。
さっさと投稿しなくては!!

それではみなさま、良いお年を!!
今年お付き合いいただいたこと、心から感謝いたします!!! (^^)/

リスト没後120年特集 (その24 コンソレーション編補遺)

2006年12月26日 00時00分01秒 | 器楽・室内楽関連
★浪漫派 ~ロマン派のオルガン曲~
                  (演奏:松居 直美)
1.メンデルスゾーン:オルガン・ソナタ第4番 変ロ長調 作品65
2.ブラームス:一輪のばらは咲きて (コラール前奏曲 作品122-8)
3.ブラームス:我が心の切なる願い (コラール前奏曲 作品122-10)
4.レーガー:幻想曲とフーガ ニ短調 作品135b
5.リスト:アダージョ 変ニ長調
6.リスト:コラール「アド・ノス、アド サルタレム ウンダム」による幻想曲とフーガ
                  (1990年録音)

コンソレーションの続きとして、このディスクとこれまで紹介が漏れた2枚をご紹介します。

このオルガン作品集の第5曲のアダージョの原曲こそ、“6つのコンソレーション”の第4番にほかなりません。ライナーによれば、この編曲はリスト自身によるものということ。

さすがにこういった曲調のものなら、オルガンにするとまた静謐で敬虔な味わいがしますねぇ。
旅行案内なんかで教会を紹介するならこの曲をBGMにっていう感じがしないでもありませんが・・・。
まぁ楽器にせよ曲にせよなじみのないうちは、とにかく雰囲気に慣れることですよね!

次のコラールによる幻想曲とフーガは30分余の大作で、リストの器楽曲で「ロ短調ソナタ以外にもこんなのがあったんだ」と思わされた曲です。
リストにとって画期的な曲らしいのですが、やはりなじみがないので30分鍵盤を縦横に指が駆け巡って、高音でピロピロしてるところがあるなぁとおもったら重低音が“がー”と鳴ってみたりという事実しか掴めず、そのよさがわかるまでには時間がかかりそうです。
といって、15年以上前に手に入れたディスクなんですが・・・。
今回ホントに久しぶりに聴きました。こんな特集でも組まなきゃ、次いつ聴いたんでしょうねぇ?
ブラームス、レーガーはそれなりに興味深く聴けたので、そういう意味では音楽的感受性というか許容性が大きくなっっているかもしれません。
コレを聴いてそれを確認できたのは、有意義なことでした。
カオを洗って出直します、って感じです。

これはそもそも録音を聴くために買ったもので、ダイナミックレンジの広いオルガンを世界で始めて“20ビット録音”したという触れ込みで発売されたものでした。
今じゃねぇ。。。
フォーマットもそれ以上のものができちゃってるし、これからもっと録音よりも演奏のほうが魅力的に思えるようになっていくんでしょうね。
ちゃんとつきあえばの話ですが・・・。

★孤高のピアニスト アワダジン・プラット デビュー!
                  (演奏:アワダジン・プラット)

1.リスト:葬送曲 (「詩的で宗教的な調べ」より 第7曲)
2.フランク:プレリュード、コラールとフーガ
3.ブラームス:バラード集 作品10
4.J.S.バッハ/ブゾーニ編:シャコンヌ (BMW.1004より)
                  (1993年録音)

CDを初めて聴いたときにどう思ったかは結構はっきり覚えているものでして、この特集を通じて好印象をもったにせよ、いまいちと思ったにせよちゃんと印象が形成されていることに驚いています。
そして、コレを聞いてからもう10年以上経っていることになお驚いています。
時の流れの速さにもですが、最近認知症ではないかと思えるぐらいモノが覚わらなかったり、わすれちゃったりということが続いているのにこの記憶の粘り強さときたら!
“博士の愛した数式”で博士の記憶が80分しかもたないという設定でしたが、今の私ときたら、ついホンの今コレをしようと思ったことをコロッと忘れちゃったりする・・・。
「ボクの記憶は80秒しかもたない!」いや8秒かもしれません。。。

また要らないことを書きました。
「中年さらに老いやすく、学ますます成り難し」と思っただけです。
最近“楽”は鳴ってるのでまぁ良しとしなくては。

このCDは輸入盤の評を見て気にしていたのですが、探す前に国内盤がリリースされたので手に入れたものです。なにしろ当時はインターネットが我が家になかったもので・・・。
この私が、こんなブログに縷々ブラインドタッチの練習をすることになろうとは・・・とまた話がそれました。

肝心の演奏ですが、若々しく思い切った音遣いと、しっとり潤っていながらも清潔な叙情の表現など聴くべきところは多いディスクです。
リストの葬送曲にしても、冒頭の重厚かつ荘重な鐘の音がフラッシュバックのように詰まって収斂していくところなどスリリングにつんのめった感じなのですが、その後のメロディーではひじょうにゆとりのある表現をしていて、その対比がとても自然。大したモンです。

他もロマン派の1軍の実力ある補欠みたいな曲が並んでいて、いかにも「通のかたもどうぞ」というプロモーションかと思いましたが、それはいらぬ詮索。
一聴してピアニストの最も好きな曲たちだろうということは想像つきました。

なんにしろプラットの特徴はメロディーの運びがしなやかで、ばねのように強靭であること。
殊に弱音でレガートに弾くときの音色には他の誰にもない魅力があります。
例えばブラームスの1曲目、2曲目なんて思わず引きずり込まれちゃいそうになりますねぇ。こりゃ他のピアニストが使う“レガートに弾く”というテクニックと少し違うテクニックじゃないかと思えるぐらい・・・。
そして“ばねのように”ですから、粘り強くても音離れはよくべとつかない。この音にはまいりました。したがってディスク全曲を聞き終えた後には、静かで爽やかな充足感に浸ることが出来ます。なかなかの佳演盤でした。

謳い文句に“90年代のグレン・グールド”とありますが、演奏に触れると事実そんな感じがします。
グールドの方が音色が多彩でさっぱりしてますが・・・。
もちろん、多彩だからいいってモンじゃありません。
実際にはプラットがグールドと同じようにイスを極端に低くして弾くことと、容姿がジャケット写真のように一般のクラシック音楽家とは一線を画していることによるものであると思います。もちろん先に書いたフレージングの妙もひとつの要素だと思うのですが。

元のタイトルも“LONG WAY FROM NORMAL”ですから、プロモーションはあくまでも独特な奇異性をウリにしたものだし、演奏家本人もどのような理由があるにせよそれを了解して世に問うたと思うのですが・・・。
はっきり言えば失敗ですね!

この音楽は確かに他にないものということでは独特ですが、その音楽性が健やかで豊かなこと、ましてそれが演奏家のフィーリングとぴったり幸福にマッチしているという点ではきわめて正統的なものであると思います。
容姿はどうであれ、典型的なクラシックの作法に則ってプロモーションした方があとあと変な色物扱いされずにすむからいいんじゃないかと思うのですが。
事実そんなイメージでこのディスクの本質を聞きもらしていたのではないかと思ってる人が、“ここ”にいます。もったいない!

この後、ベートーヴェンの後期のピアノソナタのディスク(未聴)などを出してからどうしておられることやら・・・。
久しぶりに引っ張り出して、虚心坦懐に聴いたうえでの感想でした。
最初から虚心坦懐に聴かせてもらえていたら・・って、そういう風に聴かなかったのは私のせいなんですけどね。
アーティストにとってもプロモーターにとっても、私にとってもこの10年余りは不幸だったかなと。
私にとっては大した話じゃないけれど。
むしろ10年越しに、また一枚のディスクを“お気に入り盤”に追加することが出来てよかったかもしれない。

こういう記憶にかぎって8秒以上もつのはなぜだろう?

★リスト:超絶技巧練習曲 S.139
                  (演奏:ホルヘ・ボレット)

1.超絶技巧練習曲 (全曲)
                  (1985年録音)

この特集の最初のころ、「横山幸雄さんの超絶技巧練習曲集以外は、全曲通して楽しく聴けない」的な発言をしましたが、撤回します。(^^)/

演奏は音色もマナーもまさにボレット、いつもどおり、期待通りなので説明を割愛します。

このほか、クラウディオ・アラウによる全曲もあります。
ボレットと比較すると使用しているピアノの性格のせいもありはるかに濃厚・重厚ですが、これにも有無を言わせぬ魅力があることを発見しました。

曲個々にはやはり練習曲という以上の価値を見出しにくいものもあるので、説明を省略します。
ただ、夕べの調べ(第11曲)はやはり名曲です。

こうやってまとめて聴くことでいろんなことを気づくことができたことは、非常に有意義であったと個人的には思っています。
が、みなさんとって何かのお役立ちにはなりましたでしょうか? 
なってなくても許してネ。 (^^)v

リスト没後120年特集 (その14 忘れられたロマンス)

2006年12月13日 00時35分51秒 | 器楽・室内楽関連
★リスト:晩年の作品集
             (演奏:ジョス・ファン・インマゼール(hp)、セルゲイ・イストミン(vc))
1.夜 Sz.699(1866) 
2.墓場の子守歌(エレジー第1番) Sz.195a(1874) 
3.子守歌 Sz.198(1881) 
4.エレジー第2番 Sz.131(1877) 
5.灰色の雲 Sz.199(1881)
6.忘れられたロマンス Sz.132(1880) 
7.リヒャルト・ヴァーグナーの墓に Sz.202(1883) 
8.尼僧院の僧房(ノンネンヴェルトの僧房) Sz.382(1883) 
9.執拗なチャールダーシュ Sz.225-2(1884) 
10.別れ Sz.251(1885) 
11.悲しみのゴンドラ Sz.134(1885) 
12.凶星!(不運) Sz.208(1886)
                  (2004年録音)

今回はチェロ入りの曲が混じってます。
時代楽器を使った演奏で、インマゼールは19世紀末の2台のエラールのピアノを使い分けているそうです。イストミンは18世紀末のチェロということらしい。。。
とにかくこの微細なニュアンスときたらもう。。。現代楽器では表現できない(その代わり現代楽器のほうがずっと安定した音色が出ると思うけど)世界が目の前に現れてぞくぞくします。
古楽器ってあまり得意じゃないけど、この演奏には引きずり込まれてしまいました。
演奏というより「余韻」に、です。

また“灰色の雲”がとんでもなく不穏な曲であることもこの演奏を聴くと明らかになります。弾いている楽器の音色からして不安定なんだから、それはそれはゾクッとしたものになります。それを計算して作曲したリストも、期待通りに再現したインマゼールもグッジョブです。
現代ピアノで演奏するとどうも頭が勝ってしまったような演奏が多い(それを目指して演奏しているからだと思いますが)ように思われますが、リストが表現しようとしたのは、何も“未来音楽の嚆矢”という理屈を体現したというだけではなく、聞いた実感としてなんとも言えないすわりの悪い不安感を惹起させる、なおかつ耳に不自然でない音楽だったのではないでしょうか。この感覚は発見です。インマゼールあっぱれ!

冒頭、じっくり演奏される“夜”の和声で雰囲気が下準備された後、適宜チェロ曲がの間にピアノ独奏曲が挿まれるという“展覧会の絵”のような構成であり、これもアイデア賞もの。最後の“凶星!”でふっと途切れるように終わる。。。
うーん、いいプログラムだなぁ~。
寒々とした中に、ほんのりと人肌のぬくもりをという気分の時には最高かもしれません。

★《エレジー》
                  (演奏:キム・カシュカシャン(va)、ロバート・レヴィン(hp))

1.ブリテン:ラクリメ 作品48
2.ヴォーン・ウィリアムス:ロマンス
3.カーター:エレジー
4.グラズノフ:エレジー 作品44
5.リスト:忘れられたロマンス
6.コダーイ:アダージョ
7.ヴュータン:エレジー 作品30
                  (1985年録音)
ヴィオラの第一人者であるキム・カシュカシャンの佳作アルバムです。
全曲の曲名を敢えて書いたのも、その全体の出来が素晴らしいからにほかなりません。
タイトルどおりそれぞれの作曲家によるしんみりした曲が並べられていますが、よくもまあこんないい曲ばっかり探し当てたものだと感心してしまいました。昼下がりの公園のベンチで穏やかな日差しを浴びて、何をみやるともなく物思いしているようなアンニュイな気分がいっぱいです。
もう少しさみしい雰囲気かもしれませんが。。。
“なくした恋の傷あとでものぞいてるのかしら?”っていう感じかなぁ~。

ECMレーベルの初期の名録音ですよね。
レーベル・プロデューサーのアイヒャーが狙っていた効果がわかります。
このころって、ウィンダム・ヒルとかはやってたころですよね。そういえば、“環境音楽”っていう言葉、どこいっちゃったんだろう?
ジャズにせよクラシックにせよ、変に新しい味付けを施そうとしなかったこのレーベルのほうが、奇を衒っていない分だけ息が長かったということなでしょうか?
いずれにしてもウィンダム・ヒルはアッカーマンを失ったのが痛かった。。。

かたやECMは今やピアニストではシフ、ヴァイオリニストではクレーメルをも抱える一大勢力。
卓抜な企画と優秀な録音、なによりアーチストを含む制作者全員の丁寧な作品作りが今の隆盛を築いたに相違ありません。

この作品は、その礎を固める中心的な石のひとつでありました。

★忘れられたロマンス
             (演奏:スティーブン・イッサーリス(vc)、スティーヴン・ハフ(pf))

1.リスト:忘れられたロマンス S132
2.グリーグ:チェロ・ソナタ イ短調 作品36
3.リスト:エレジー 第1番 S130
4.リスト:エレジー 第2番 S131
5.A.ルビンシテイン:チェロ・ソナタ 第1番 ニ長調 作品18
6.リスト:尼僧院の僧坊 S382
7.リスト:悲しみのゴンドラ S134
                  (1994年録音)
こいつも切ない。。。
イッサーリスは時代楽器ではありませんが、ガット弦を使用していることで有名ですよね。
だからいきなり大迫力にはなりませんが、さっき時代楽器を聴いちゃったから。。。
朗々と言っていいかわかりませんが、スケールは随分と大きくなりました。でも、音が安定した分、さっきと違ってもっとひんやりした感触は伝わってきます。音色はあったかいんですけどねぇ。

A.ルビンシテインのソナタだけが唯一明るい光彩を放っていますが、後は概ね孤独な心情を吐露したような作品。
そんな中、“尼僧院の僧坊”はなぜか水辺をイメージします。特に、ピアノの音がきらきら輝くさまは照り返してくる光という感じでしょうか。
ハフのそれは暮れかかった磯の岩場で、少し離れたところにいる人がもう黒いシルエットにしか見えないぐらいにとっぷりしてきた最後の残照の照り返しっていう感じかなぁ。
先ほどのインマゼールは、もう少し早い時間の川の瀬に照り返した光っていう感じ。

でも、どの録音を通してもリスト晩年の寂しさみたいなものがありますが、チェロ(カシュカシャンはヴィオラ)で演奏されることでものすごく救われている。
チェロの持つ人肌の温かさ。。。
リストでなくとも、恋しくなるときがありますよね。