★ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ全曲
(演奏:チョン・キョン=ファ(vn)、ペーター・フランクル(p))
1.ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調 作品78 《雨の歌》
2.ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調 作品100
3.ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 作品108
(1991年録音)
ちょっとヤなことがあって凹んでるときに聴いたんですが、思わず引きこまれてしまいました。
ここには最良の意味での『求道者』の姿を感じました。
あと浮かんできた絵としては、例の弥勒菩薩の半跏思惟像というかアルカイック・スマイルというかそういった形而上学的なもの、精神的なものが形を成した仏像なんですよね。
昔は像の名前を覚えたり、他との違いを知識として覚えはするものの、ただ単に仏像としか見えず、表情にも気を配ることなく・・・というか読めずにいました。
すべてがわかったなどとはとても言えないとしても、自分が成長して、否、単に気づかされるような経験をした、または時間を得たことによってその表情があることは判るようになりました。
そしてその表情は、自分のそのときの心境によっても変わる鏡のような存在であることも・・・。
話は変わりますが、このブログを始めて新譜を買う枚数が激減しています。
新譜を聞いた連鎖で、以前のディスクを発掘したりすることが多くなっているから・・・新しいものばかりに飛びついている暇がなくなりました。(^^)/
このことは以前、何らかのレッテルを自分が貼ってしまい、トンとご無沙汰になっているCDたちにも実は・・・それまでの定番となっているものを凌いだり、そのときに聴こえなかったディスカヴァーすべき何者かが潜んでいることを気づかせてくれるとてもありがたい機会でもありました。
手に余るディスクの棚を前に「こんなにあるけど、どうしたらいいんだろう?」と思っていましたが、友達の候補がこんなにたくさんいるんだと思えるようになって、前にも増して愛おしいコレクションになりました。
再度聞いても、わかんないのもありますけどね・・・ここに紹介しないだけで。。。
話を戻して、チョン・キョンファの非常にストイックでありながら美しいアプローチにはとにかく舌を巻くばかりであります。
さすがあの評論家のU先生が手放しで礼賛していたヴァイオリニストであると、今更ながら気づきました。それ以前は、やたら気の強いねーちゃん奏者だと思っていたのですが、『精神性』などと言われても驚かなくなった私のほうが変わったんでしょうね。(^^;)
伴奏のピアニストもよく聴くとかなり好き放題、もちろん伴奏者としての法を越えないというか、そういう意味では慎ましく好き放題弾いているんですが、なぜか目立ちすぎない・・・。チョン・キョンファの音の表情の方に耳が行きます。このへんは大したモンです。
そうであればこそ、最高の伴奏者なのかもしれませんが!?
タイトルの雨が連日降ったら・・・というのは、この第1番の演奏の第3楽章、通常の演奏だとカウンターで入る連打の音が雨の雫を連想されるだけであるのが普通なんでしょうが、伴奏の全ての音が余韻と伴った短く節分された音で雨音に聴こえるためにつけたものです。
まさに離れ業・・・。
それにつけても、3曲共にチョンのヴァイオリンの音の呼吸の深さ、そして自然さに圧倒されました。
何かを悟ってつかんだ者のみがもつ凄みともいえる気配をいたるところから感じます。
「こんな風に弾けるなんてウラヤマシイ・・・」
どの曲も、また第3番は特にですが、全曲を通して一聴声高に楽器を鳴らしたりしていないにもかかわらず、剣の達人の隙のない構えのようにそこにある・・・という感じがあります。
それに向かって真剣に対峙し、至福の時を過ごすことができるのは薬師丸ひろ子ばりに快感であります。
この演奏にかける言葉は一言・・・ブラヴォ~~~!!
★ブラームス:ピアノ協奏曲第2番/「雨の歌」
(演奏:エマニュエル・アックス(p)、ヨーヨー・マ(vc)
ベルナルト・ハイティンク指揮ボストン交響楽団)
1.ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品83
2.ソナタ二長調 作品78「雨の歌」(ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調作品78のチェロ用編曲)
(1997年・1998年録音)
さて、こちらは誰が主役か実はよくわからないという盤なのですが、多分アックスということになるのでしょうか・・・出ずっぱりだから!?
そして私が、現在ブラームスの第2番のピアノ協奏曲の演奏で最もしっくり来る演奏でもあります。
先ごろご紹介したとおり、フレイレとシャイーの盤が出てそれも楽しんだんですけどね・・・。
この演奏の冒頭主題が提示されて、ピアノが合せますがその後ひとしきり続くフレーズが実はカデンツァなんじゃないかと気づいたのは、アックスの演奏が初めてなんです。
この演奏にはソリストが必要なんでしょうか?
コンチェルトなんでピアノ演奏する人は間違いなくソリストなんでしょうけど、アックスのピアノって最良の意味で『浮かない』んですよね。
この曲はピアノが華やかに前面に展開する・・・というのが必ずしも望ましい解釈ではないピアノ協奏曲なんじゃないと思うんです。
伴奏も含めてガッと全体をわしづかみにするような一体感と、コク・キレ・深みという麦芽飲料の必須条件にも似たものが出来上がりに要請される音楽ではないかと思います。
その意味で室内楽の経験が豊富で、周りの音を聴いて演奏することに長けたアックス、その左手により強烈なバスの音の存在感や分厚さを演出できるアックスと、温かい音といわれることの多いボストン響とも親密な間柄であり、サラブレッドと言われながらもそれなりの苦労を経て年輪を重ねて深みを醸し出せる指揮者ハイティンクが組んだこのディスクが、いぶし銀のようなたたき上げの演奏を見事に組み上げていたとしてもいささかも不思議はござんせんですよね。(^^)/
全ての楽章に納得できるんですが、他の演奏と比して感じるのは第4楽章。
どこまで軽快・軽妙にというのは解釈上の大きな問題ではないかと思いますが、この演奏にあっては十分軽快さを感じさせながら『浮かない』という点に特徴を感じ、まさにその点が私が好ましいと感じるところなのであります。
さてさて「雨の歌」ですが、ここではヴァイオリンではなくヨーヨー・マのチェロと組んでの演奏・・・。
全く別の曲のように感じられます。(^^)/
聴かせどころも違うんじゃないかな!?
でも、ヨーヨー・マってうまいですねぇ。彼のチェロの“音色”というか“音触”につくづくそう思わされました。
キーが下がっていることもあり、もしも雨に喩えるなら「田植えが済んだ後の梅雨」って感じでしょうか・・・どんな雨でもいいんですが南からの高気圧に運ばれた「温水(ぬくみず)」が降っているというイメージですね。
昔、空き地に雑草が生えていてそこに夏の雨が降る・・・そぼふる雨にそれらの草の葉に水玉が乗っているという雰囲気を思いつきました。
でも、そんな草むらに虫取りなんかで入っていくと、葉のオモテに産毛をもった草に触れた半袖半ズボンの素肌が“草負け”しちゃうんですよね~。
カユくなってきちゃったんです・・・。(^^;)
ですから、この演奏を聴く時は雨を連想するのはやめようかと・・・。
※出張のため先日付投稿します。
(演奏:チョン・キョン=ファ(vn)、ペーター・フランクル(p))
1.ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調 作品78 《雨の歌》
2.ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調 作品100
3.ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 作品108
(1991年録音)
ちょっとヤなことがあって凹んでるときに聴いたんですが、思わず引きこまれてしまいました。
ここには最良の意味での『求道者』の姿を感じました。
あと浮かんできた絵としては、例の弥勒菩薩の半跏思惟像というかアルカイック・スマイルというかそういった形而上学的なもの、精神的なものが形を成した仏像なんですよね。
昔は像の名前を覚えたり、他との違いを知識として覚えはするものの、ただ単に仏像としか見えず、表情にも気を配ることなく・・・というか読めずにいました。
すべてがわかったなどとはとても言えないとしても、自分が成長して、否、単に気づかされるような経験をした、または時間を得たことによってその表情があることは判るようになりました。
そしてその表情は、自分のそのときの心境によっても変わる鏡のような存在であることも・・・。
話は変わりますが、このブログを始めて新譜を買う枚数が激減しています。
新譜を聞いた連鎖で、以前のディスクを発掘したりすることが多くなっているから・・・新しいものばかりに飛びついている暇がなくなりました。(^^)/
このことは以前、何らかのレッテルを自分が貼ってしまい、トンとご無沙汰になっているCDたちにも実は・・・それまでの定番となっているものを凌いだり、そのときに聴こえなかったディスカヴァーすべき何者かが潜んでいることを気づかせてくれるとてもありがたい機会でもありました。
手に余るディスクの棚を前に「こんなにあるけど、どうしたらいいんだろう?」と思っていましたが、友達の候補がこんなにたくさんいるんだと思えるようになって、前にも増して愛おしいコレクションになりました。
再度聞いても、わかんないのもありますけどね・・・ここに紹介しないだけで。。。
話を戻して、チョン・キョンファの非常にストイックでありながら美しいアプローチにはとにかく舌を巻くばかりであります。
さすがあの評論家のU先生が手放しで礼賛していたヴァイオリニストであると、今更ながら気づきました。それ以前は、やたら気の強いねーちゃん奏者だと思っていたのですが、『精神性』などと言われても驚かなくなった私のほうが変わったんでしょうね。(^^;)
伴奏のピアニストもよく聴くとかなり好き放題、もちろん伴奏者としての法を越えないというか、そういう意味では慎ましく好き放題弾いているんですが、なぜか目立ちすぎない・・・。チョン・キョンファの音の表情の方に耳が行きます。このへんは大したモンです。
そうであればこそ、最高の伴奏者なのかもしれませんが!?
タイトルの雨が連日降ったら・・・というのは、この第1番の演奏の第3楽章、通常の演奏だとカウンターで入る連打の音が雨の雫を連想されるだけであるのが普通なんでしょうが、伴奏の全ての音が余韻と伴った短く節分された音で雨音に聴こえるためにつけたものです。
まさに離れ業・・・。
それにつけても、3曲共にチョンのヴァイオリンの音の呼吸の深さ、そして自然さに圧倒されました。
何かを悟ってつかんだ者のみがもつ凄みともいえる気配をいたるところから感じます。
「こんな風に弾けるなんてウラヤマシイ・・・」
どの曲も、また第3番は特にですが、全曲を通して一聴声高に楽器を鳴らしたりしていないにもかかわらず、剣の達人の隙のない構えのようにそこにある・・・という感じがあります。
それに向かって真剣に対峙し、至福の時を過ごすことができるのは薬師丸ひろ子ばりに快感であります。
この演奏にかける言葉は一言・・・ブラヴォ~~~!!
★ブラームス:ピアノ協奏曲第2番/「雨の歌」
(演奏:エマニュエル・アックス(p)、ヨーヨー・マ(vc)
ベルナルト・ハイティンク指揮ボストン交響楽団)
1.ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品83
2.ソナタ二長調 作品78「雨の歌」(ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調作品78のチェロ用編曲)
(1997年・1998年録音)
さて、こちらは誰が主役か実はよくわからないという盤なのですが、多分アックスということになるのでしょうか・・・出ずっぱりだから!?
そして私が、現在ブラームスの第2番のピアノ協奏曲の演奏で最もしっくり来る演奏でもあります。
先ごろご紹介したとおり、フレイレとシャイーの盤が出てそれも楽しんだんですけどね・・・。
この演奏の冒頭主題が提示されて、ピアノが合せますがその後ひとしきり続くフレーズが実はカデンツァなんじゃないかと気づいたのは、アックスの演奏が初めてなんです。
この演奏にはソリストが必要なんでしょうか?
コンチェルトなんでピアノ演奏する人は間違いなくソリストなんでしょうけど、アックスのピアノって最良の意味で『浮かない』んですよね。
この曲はピアノが華やかに前面に展開する・・・というのが必ずしも望ましい解釈ではないピアノ協奏曲なんじゃないと思うんです。
伴奏も含めてガッと全体をわしづかみにするような一体感と、コク・キレ・深みという麦芽飲料の必須条件にも似たものが出来上がりに要請される音楽ではないかと思います。
その意味で室内楽の経験が豊富で、周りの音を聴いて演奏することに長けたアックス、その左手により強烈なバスの音の存在感や分厚さを演出できるアックスと、温かい音といわれることの多いボストン響とも親密な間柄であり、サラブレッドと言われながらもそれなりの苦労を経て年輪を重ねて深みを醸し出せる指揮者ハイティンクが組んだこのディスクが、いぶし銀のようなたたき上げの演奏を見事に組み上げていたとしてもいささかも不思議はござんせんですよね。(^^)/
全ての楽章に納得できるんですが、他の演奏と比して感じるのは第4楽章。
どこまで軽快・軽妙にというのは解釈上の大きな問題ではないかと思いますが、この演奏にあっては十分軽快さを感じさせながら『浮かない』という点に特徴を感じ、まさにその点が私が好ましいと感じるところなのであります。
さてさて「雨の歌」ですが、ここではヴァイオリンではなくヨーヨー・マのチェロと組んでの演奏・・・。
全く別の曲のように感じられます。(^^)/
聴かせどころも違うんじゃないかな!?
でも、ヨーヨー・マってうまいですねぇ。彼のチェロの“音色”というか“音触”につくづくそう思わされました。
キーが下がっていることもあり、もしも雨に喩えるなら「田植えが済んだ後の梅雨」って感じでしょうか・・・どんな雨でもいいんですが南からの高気圧に運ばれた「温水(ぬくみず)」が降っているというイメージですね。
昔、空き地に雑草が生えていてそこに夏の雨が降る・・・そぼふる雨にそれらの草の葉に水玉が乗っているという雰囲気を思いつきました。
でも、そんな草むらに虫取りなんかで入っていくと、葉のオモテに産毛をもった草に触れた半袖半ズボンの素肌が“草負け”しちゃうんですよね~。
カユくなってきちゃったんです・・・。(^^;)
ですから、この演奏を聴く時は雨を連想するのはやめようかと・・・。
※出張のため先日付投稿します。
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