カンチャン狂騒曲

日々の事をあれこれと、大山鳴動してネズミ1匹がコンセプト。趣味さまざまなどを際限なく・・。

番所の棚田と彼岸花

2018-09-20 11:00:42 | おでかけ
 駐車場脇の彼岸花の写真を写しながら、益城の彼岸花ロードを思い浮かべた。

 例年通りなら、ぼちぼち彼岸花祭のシーズンだからである。

 
 (益城の彼岸花ロード)

 まだ三分咲き程度で、彼岸の中日頃には見頃になるかも知れない。

 年取った男性が一人黙々と祭会場の設営をしていた。

 そんな話を相方にすると、いっそ新聞に掲載されていた山鹿の「番所の棚田」の彼岸花を見に行こうと言い出した。

 乗りやすい当方としては異論があろう筈も直ちに出発。

 
 (番所地区の棚田と彼岸花)

 今乗っている車の試運転を兼ねて6年前に訪れたことがあるのに脇道に入る入口は、大きな看板がなければ見逃すところだった。

 
 (日本の棚田百選)

 石垣で積み上げた、それこそ先人の血の滲む思いのこもった棚田群である。

 熊本と大分を分ける山地の渓谷にあって、番所が設けられていたことに地名は由来するらしい。

 
 (石が積み上げられた棚田)

 その石垣の畔に沿って彼岸花が植えられている。

 ただ、高齢化の波は否応なく押し寄せ、貴重な棚田も耕作されていないものが多数見受けられた。

 

 町からやって来るやって来る私も含めた人々は、田植えの時期や彼岸花の時期にやってきてカメラに収めるだけなのである。

 それでも静かな村もこの時期は人々で溢れ、村人も道路の清掃や見耕作地であっても、草刈りだけはして人々を迎える。

 貴重といわれるこうした田舎の風景は、限界集落になりつつある年寄り達によって細々と守られている。

 
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逞しい草花たち

2018-09-19 10:43:10 | 日常あれこれ
 幹と葉っぱだけが育ち過ぎて花はサッパリだったキバナコスモスが、ここにきて少し咲き始めた。

 例年、幹は細いがビッシリ茂って花も沢山付けていたが、風などに弱く沢山の支柱を立てていた。

 今年は背丈を抑えてわき芽を増やし、その分間引きして本数を減らして丈夫に育てることにした。

 ところが、幹周りが大きく葉っぱだけが茂って花が咲かない状態が続いていた。

 

 台風も何度か来たが、今年は直撃ではなかったのが幸いして、花の類はそれぞれ支柱もなく元気に立っている。

 キバナコスモスも随分と時期遅れで咲き始めた。

 ただ、若いときに芯止めした筈なのに、背丈の方は例年よりかえって大きくなってしまった。

 幹がデカイので安心して背も伸びたのだろう。

 そう言えば、子供の足を見て「この子は大きくなるぞ」などというが、あれと同じことなのだろう。

 取り敢えず、道路にはみ出した枝の部分だけはカットした。

 目を道路の向こうに向けると白いヒガンバナが咲いている。

 

 夏場は雑草が生い茂り、駐車場の管理者が除草剤を散布して、この夏はほぼ茶色の緑地帯だったのだが、秋になってヒガンバナが彼岸の時期を告げに顔を出したというわけだ。

 おまけに、夏場全滅したと思わせ、死んだふりをしていた露草までが復活し花を満開にしている。

 植物の逞しさは動物の比ではない。

 

 田んぼの稲穂も首を傾げ始めた。

 この時期になると、棚田の畔には一面の彼岸花が咲いて俄カメラマンが押しかける。

 今朝の朝刊にも、棚田百選に選ばれている山鹿の番匠地区の彼岸花が紹介されていた。

 私の友人にも、こうした自然の移ろいや季節の祭を追いかけたりして楽しんでいる人が何人か居る。

 独特の切り口で一瞬をとらえ、数々の賞をものにしたりする一種のハンターだ。

 小学生からの同級生が時々個展を開くので、夫婦で出かけたりもするが二人で褒めちぎり過ぎて、とうとう立派な山の風景写真をプレゼントされてしまった。

 写真も句も、一瞬を切り取るという表現法は共通していると常々感じている。

 ただ私には人に贈れるような句は一つもない。

 「作句帳自分の為の子守歌」

 
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隣の猫物語(3)

2018-09-18 10:52:11 | 日常あれこれ
 隣の猫が車の下に居たらしく、ドアを開ける音に驚いて飛び出てきた。

 「驚かすな」と言ったら、「脅かすな」という顔をしてこちらを見詰めていた。

 

 裏側の網戸を開けて、脱出している件は隣家に伝えたので、窓はこの頃閉まったままである。

 最近は我が家向きの窓辺には、1階・2階のどちらにも猫の佇む姿もまったく見なくなった。

 多分反対側の窓の何処かが開いていたのだろう。

 「猫は凄いね、偶然のチャンスを見逃さないね」などと感心していたのだが、どうもその頻度が高くなっている。

 蚊もくるし、そんなにしょっちゅう窓を開けっ放しに出来る季節ではない。

 
 

 以前は、不意に我が家を覗き込んだりして、ビックリさせられたりしなものだが、この頃はただ庭を通過するだけになった。

 隣にはあと3匹の猫が居るはずだが、彼等はまったく姿を見せない。

 窓ぎわに姿を見せることもない。

 隣の娘さんが連れて来たとおぼしき新入りの猫だけが自由に闊歩しているという風である。

 玄関のドアは閉まっているが、店先のドアはお客が来れば開くわけで、店と住居を隔てるドアの状況によっては店の部分に猫が入り込むことは可能なのだろう。

 どうして他の猫は入り込まないのかが謎として残るが・・。

 鈴のついた首輪をみると、我が家に以前居たシロ君を思い出す。

 

 彼は首輪をはめるのを極端に嫌っていた。

 ところが、散歩は紐付きの首輪をしないと表に出られないので渋々付けさせるようになり、やがて首輪の鈴の音をきくと走って来るようになった。

 一日一度、家の周りをほぼ4周するのが日課で、部屋に入ると首輪を外すという動作の繰り返しだった。

 隣の猫は、庭を通るときチラ見もしなくなり、多少ガッカリもしている私達なのだが・・。

 彼はそんな我等を尻目に、勝手に縄張りと決めた範囲を巡回しているのだろう。

 
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サバンナの匂いも知らずキリンの子

2018-09-17 10:43:50 | 日常あれこれ
 江津湖の付近を歩くといろいろなものに出会う。

 例年増えすぎて駆除に困る外来水生植物が、どうしたわけが今年は少ないと以前書いたことがあった。

 蚊も少ないし、きっと猛暑のせいだろうなどと書いた覚えがある。

 つい先日遊歩道を歩いていたら、ちゃっかり増え続けていた。

 
 (ウオーターレタス)

 小型のシラサギが餌を求めて、水草の上を歩いているのが見えた。

 つまり気温が下がって水草の生育環境が戻ったので増え始めたということなのだろう。

 除草の船とのイタチごっこが始まる予感がしてきた。

 
 (湧き水の出口の岩)

 岩に穴をくり抜いて、天辺から湧き水がチョロチョロと流れ落ちるように作られた小さな池がある。

 小さな池にはカワニナが棲息していて、そのうちの数匹がこの水の流れに沿って、岩を登ろうと取り付いていた。

 どこにもチャレンジ精神をもった生き物はいるもので、どこから来たのかと首を傾げる場所で魚を見たりすることもある。

 蛍の幼虫の餌になってしまうカワニナも、やがて岩の上から蛍並みに飛び立つ種族が出るかも知れない。

 
 (水辺動物園のキリンの子)

 下江津湖の北側には、動物園が隣接している。

 動物園の外からでも見える動物はけっこういる。

 象やキリンなどもよく見える。

 最近は国際的にも自然動物の保護が叫ばれていて、商業的な捕獲や取引は禁じられているものが多い。

 したがって、各動物園は自前で繁殖をすすめているが、交配にあたってはそれぞれの動物園が融通しあって、近親交配を避けるための工夫がなされている。

 このキリンの子も、この動物園で生まれたものである。

 この夏、この動物園では金糸猴(キンシコウ)という珍しい猿と、カバなどが死んでいる。

 記録的猛暑と、震災後の工事に伴う獣舎移動や工事音など数々のストレスが原因なのでは等といわれている。

 本来はサバンナや、密林などおよを動物園とは似ても似付かぬ環境が棲息域だった動物たちである。

 水草を歩くシラサギや、岩に登るカワニナのように自分の意思で振る舞えない。

 動物園は楽しくも哀しい場所なのだ。

 「サバンナの匂いも知らずキリンの子」

 確か6月の句会の、課題「匂う」で私が投句したもので、このキリンの子を詠んだものだ。

 
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健軍神社を訪ねて

2018-09-16 15:57:22 | おでかけ
 車の左のサイドミラーの不具合をディーラーに申告しておいたのだが、部品が入荷したとかで今日交換する手筈にしていた。

 約束の時間にキッチリ入庫して、作業時間は1時間と少しくらいは掛かるという話で、近くの健軍神社を訪ねることにした。

 時間つぶしに神社参詣とは神様に失礼な話ではあるが、世の中って意外とこうした時間の使い方は多そう。

 
 (電車通りに建てられた鳥居)

 鳥居の前を走る市電の停留所名は「八丁馬場」、その名の通り1キロ以上の馬場があって、加藤清正が健軍神社の参道として寄進している。

 鳥居は電車通りが出来たためにその交差点入口に建てられたもので、本当の参道は100mほど入った辺りから始まっていたらしい。

 それでも、1Km以上はゆうにあって、さすが清正と感心する。

 
 (健軍神社の表参道)

 とにかく直線で長い。

 1Km以上にわたって直線で、現在では途中に信号機のある交差点が3箇所あってそれらを突っ切る。

 
 (健軍神社楼門)

 最後の信号機の交差点の直ぐ先が、神社の楼門。

 立派な楼門が見えるようにと、その前の鳥居は意識的に極端に低く建てられていて、かなりユーモラス。

 
 (拝殿)

 正月や七五三その他諸々、神社に人がどっと押し寄せる時期を除けば至って静かな雰囲気。

 実は、かなり以前に若い後輩の結婚の仲人をしたことがあって、本人が結婚式場の祭壇ではなく本物の神社で結婚式はしたいというので、この神社で挙式し披露宴会場へ移動するということをやった。

 さほど驚きもしなかったのは、私も結婚式は地元の菊池神社で執り行った経験者だったから・・。

 あの時の二人は、子供も授かり今はあちこち転勤を繰り返しながら時々年賀状で居場所を教えてくれる。

 
 (境内)

 境内には車が次々と交代で乗り入れられ、安全祈願などを受けていた。

 小さな子供のお宮参りなども見られ、小さな家族単位とか一族郎党大挙してとか、何組かが順番待ちとか長閑な風景だった。

 
 
 (参道脇の句碑と記念碑)

 帰りに、参道脇の交差点の角に木立に仕切られた一角に石碑が建っていたので覗いてみた。

 自然石を使った句碑には、「早春の雲は流るる形せり」ゆう二、とあり、昭和40年代に建てられている。

 その左隣には「西南の役 熊本隊出陣の所」とある。

 西郷隆盛が薩摩で挙兵し、熊本城を包囲し救援に駆けつける官軍を田原坂で迎え撃つという西南役に際して、その薩摩軍に呼応して熊本でも「熊本隊」が結成され1400名が立ち上がっている。

 田原坂の戦闘に敗れた西郷軍は、この健軍神社周辺から託麻三山と呼ばれる比較的なだらかな高地を第二戦陣地として抵抗するも、抗しきれず段々と押されながら九州山地沿いを彷徨うこととなる。

 熊本城や田原坂の攻防は2月から3月の春の時期に戦っており、句碑はその雲の形に運命を詠み込んだものかもしれない。

 などと、勝手に想像しながら歩いていたら6500歩ほどになり、時間も丁度良かったのでディーラーまで戻ると、未だだと言ってテーブルでコーヒー一杯をゆっくり飲む時間待たされた。

 今日は藤崎宮の秋季例大祭、「どうかい!どうかい!」の掛け声に誘われて毎年出かけていたが、今年は車の整備にかこつけて失礼した。

 あの激しい祭にはそれ相応の構えがいる。

 今年は温和しく健軍神社参拝でご勘弁願うことにする。

 「中秋の雲は疲れた形せり」なのだ。

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伊王島をぐるぐると

2018-09-15 11:38:20 | 旅行記
 長崎港の入口には大型のクルーズ船も通行可能な大きな橋がある。

 軍艦島へ向かう小さなクルーズ船は、次に伊王島へ渡る橋の下をくぐって航行する。

 前日、船で下をくぐった大橋を当日は車で島に渡った。

 

 ウイークデーでもあったし、車の通りも少なくしかも曇りがちだったので快適なドライブになった。

 

 橋を渡りきる辺りには、教会も見える小さな港があって、橋が架けられる前は船で島に渡っていたのだ。

 この橋から海水浴場やリゾートホテルのある地域までは比較的走りやすい道路なのだが、それ以外の島内の道路は極めて狭い。

 
 (海水浴場)

 とても綺麗で整備された海水浴場だが、オフシーズンは静かなもの。

 この海水浴場から左手に登る小さな道を走って灯台の方へ向かう。

 
 (伊王島六角灯台)

 開国後の日本で、最初に設置された灯台の一つである。

 六角形の石の台座の上に作られていたものは、今では台座だけが残っていて、現在の灯台は形はそのままに再建されたもの。

 近くには砲台の跡も残っている。

 この後、伊王島を訪れた主たる目的の「俊寛の墓」を探して島内をぐるぐる回ることになってしまった。

 標識は立っているのだが、自転車か歩行者用で車では見逃しそうになる。

 やっと見つけても進入路を誤るとまったく違う方向に走ってしまうし、道路補修などで迂回をさせられると、もう方向感覚さえ麻痺してしまう。

 通常だと左に海、右に山などと目標にするのだが、島の頂上付近で海が常に見えている状態から迷うのだ。

 それでも離合の車がいないことを祈りつつ、狭い路地に車を進ませ、やっと公園らしき場所に辿り着いた。

 
 (俊寛僧都の墓)
 
 (北原白秋の歌碑)

 趣味で習っている「謡曲」の「俊寛」の説明には、平家打倒を企てた他の2名と共に鹿児島の喜界ヶ島に流されて云々とあった。

 ネットで調べると鹿児島の離島にも墓があって祀られている。

 ただ、長崎県の伊王島にも俊寛の墓が存在し、その他にも2~3箇所あると記述されていた。

 「能」や「歌舞伎」などでは喜界ヶ島という設定にしているので、いつのまにか鹿児島に墓も出来たのかも知れない。

 後から作られた物語に合わせて、事実がはっきりしなくなってしまうことは日本の歴史にはしばしばある。

 北原白秋も俊寛の墓が伊王島にあると聞いて、わざわざ島を訪れ墓に詣でている。

 その後戦前に発表した詩集の中に、長歌一首と反歌を詠んでいる。

 歌碑は、俊寛の墓の直ぐ横に建立されている。

 「いにしえの流され人もかくありてすえいきどおり海をにらみき」

 許された2名を見送り、俊寛は失意のままに島で果てるのだが、何処も政治犯には厳しいようだ。

 かくて、俊寛には悪いが墓詣でのあと、自由に出入り可能な立派な橋をわたって帰路についた。

 勿論その翌日、謡曲の練習の休み時間に、仲間に写真付きの自慢話をしたことは言うまでもない。

 
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長崎港周辺の世界産業遺産

2018-09-14 11:39:11 | 旅行記
 明治日本の産業遺産は各所に散らばっていて、軍艦島もその一つである。

 しかも軍艦島の中でも、産業遺構として登録されているのは、明治時代に建造された施設等に限られている。

 説明を受けなければ島全体を世界遺産と勘違いする。

 この長崎港付近だけでも数カ所の世界遺産がある。

 

 大型のクルーズ船が停泊していたが、この左手にある高台には「グラバー邸」があって世界遺産になっている。

 

 帆船が停泊している向こう側には、三菱造船所のドックが並んでいるが、幾つかは現有で稼働している世界遺産がある。

 

 明治時代に山を切り崩して凹地を作った、日本で一番古いドックがあるが、まだ使われている。

 海上自衛隊の艦船が補修のためドック入りしていた。

 この手前には明治に作られた鋼製のクレーンがあるが、これも単品で世界遺産となっていて、しかも現用である。

 

 この第2ドックは世界遺産ではないが、実装7万トンの戦艦「武蔵」が建造されたドックである。

 秘密裏に建造されたが、進水の時は大波が発生し対岸では津波のような波が1.5m近く押し寄せ、床上浸水する家屋もあったという。

 

 港の出入り口にあたる、北側の岩の上にはマリア像が立っている。

 出て行く船は、航行の安全を祈り、入港する船はやさしく迎えられたということなのだろう。

 長崎港周辺だけでも相当の数の産業遺産があるが、この他にも福岡・熊本など、炭坑やその積み出し港などの沢山の施設が世界遺産に登録されている。

 港の外には「伊王島」という最近は橋を渡って行けるようになった島もあり僧都「俊寛」の墓があると聞いて急遽訪ねることにしたが、それはまた明日にする。

 
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軍艦島に上陸(2)

2018-09-13 16:04:44 | おでかけ
 上陸に際しては両手が使える状態て、船や柵などに掴まりながら揺れの中を上陸した。

 分厚いコンクリートの堤防を越えると、目の前には廃墟が展開する。

 

 人為的に壊したのではなく、ほぼ自然の猛威のが建造物の経年変化を早めたものである。

 
 (説明第2ポイント)

 廃墟となってしまった建造物の前で、ガイドによる説明を聞く。

 説明ポイントは3箇所設定してあって、それ以外の地域は危険のため立ち入り禁止になっている。

 この端島の炭坑は1974年に閉山になっているので、以降44年が経過していることになるが、人が住まなくなった建物などが如何に傷むのが早いかが実感できる。

 
 (プール跡)
 
 25mプールで海水が使用されていたらしい。真水は貴重なのだというのが理由だと思う。
 ちなみに建物の屋上に作られていた幼稚園のプールは真水が使用されていたという話だった。

 
 (鉄筋コンクリートの高層アパート)

 窓は殆ど破れ周りのコンクリートもかなり剥奪している。

 閉山か決まってから退去するまで3ヶ月程しかかかっていない。

 取り敢えず必要な物以外ほぼ全ての家財道具等は残置されたままである。

 カメラを構えながら覗いたレンズの先に、最上階の部屋に木が育っているのが見えた。

 鳥などが運んだ種が芽を出し、成長しているのだ。

 当時、端島に無いものが3つあったという。

 一つ:火葬場 二つ:お墓 三つ:みどり。

 人が亡くなると、高島と端島の間にある島に運んで火葬をしていたという。

 緑については、植樹などもしてみたがいっこうに根付かなかったという話。

 
 (元の端島の岸壁)

 端島は出炭の増加に伴う設備の拡充や、人口の増加に伴う建物の増加などに対応するため数度にわたって埋め立てが繰り替えされている。

 埋め立てによる面積の増加は、最終的には元の大きさの3倍ほどに達している。

 島の東側の岩肌が剥き出しの場所が元の岸壁の位置で、今では島のあらゆる所(廃墟になってしまった生活空間まで)草や木が生い茂りつつある。

 風が運び、鳥が運んだ草木の種が島の廃墟の中に芽を出し茂り初めているのである。

 最盛期にコンクリートで覆われた人工島とも云うべき端島は、植樹しても成功しなかった緑が、人か立ち去って44年して緑が根付き始めるという皮肉な現象が展開している。

 元の住民でこの島を「軍艦島」と呼ぶ人はいない。

 ここは産まれ育った場所、かつて生活した場所の「端島」なのである。

 日本の近代化の先駆けとしてエネルギーの中核を産出し、石油にとって変わられて廃墟と成り、今まさに産業遺産として残されようとしている。

 だがしかし、ここの遺産はこのままの状態で保存することは難しい。

 数年後に訪れた時は、確実に今より崩壊が進み、劣化した姿になっている筈である。

 
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軍艦島に上陸(長崎ミニ旅行)

2018-09-12 19:11:27 | 旅行記
 長崎に1泊のミニ旅行に行った。

 47都道府県全部を訪れるという目標を立て、関東地方の5都府県を残しほぼ達成している。

 関東地方に関しては、宿泊日数の関係でもう少し後になりそうなので、今年は九州地方で行きそびれていた島に1~2泊くらいの日数で何カ所かミニ旅行に行くことに決めて、実行中である。

 端島(軍艦島)は野母崎の方から海上遙かに望んだことがあって、いつか行ってみたいと思っていた島である。

 今回は、テレビの番組に、軍艦島を世界遺産にと取り組んで来られた人が出演されていて、「明治日本の産業革命遺産」として、世界文化遺産に登録されるまでの苦労話などをされていたが、その「軍艦島を世界遺産にする会」の会員または理事長がガイドとして詳しく説明してくれるという「軍艦島上陸ツアー」に参加した。

 

 出発は「常磐2号桟橋」という小さな桟橋で、クルーズ船も他の幾つかあるクルーズ船より小さい。

 集合予定の時間には相方と私とを含め10名前後しかいなかったのだが、出港の時間間際にどんどん集まって来てあっと言う間に満席になってしまった。

 

 ここに映っているのは半分に満たない人で、殆どはエアコンの効いた船室にいるが、どうしても風景が見たかったので上部の席に陣取った。

 薄曇りで極端な夏日でもなかったので、比較的すごしやすい一日だった。

 
 (端島:軍艦島を西側から・・)

 軍艦に見えるポイントはこの方向からが一番らしい。

 台風などの高波などを防ぐため防波堤が高く、建物もアパート等も軒を連ねているが、反対側は波が比較的穏やかで堤防も低く、波止場や貯炭場・積み出し施設など炭坑関係が主体なので東側はイマイチなのだとか。

 私的には昔の軍艦はいざ知らず、今の自衛隊の護衛艦などだったらシルエット的にはむしろ東側からの方が似ているような気もしたが・・・。

 
 (アパートや商業施設)

 最盛期には、南北480m東西160mの小さい岩だらけの島に、建物が建ち並び5300人からの人々が住んでいたということであった。

 映画館・デパート・パチンコ・小中学校・その他厚生施設なども充実し、人口密度は日本一という話。

 私も子供の頃、たまたま見た写真のアサヒグラフで、島の生活を伝える写真記事をみてその生活が近代的で日本離れしている事に驚いたことを覚えている。

 海側のアパートもガラス窓のある場所は部屋ではなくて、暴風雨・高波から少しでも被害を軽減するためすべて廊下になっていて、その内側に玄関ドアをつけてあるという。

 
 (船着き場)

 船着き場が整備されていて、少し足元が揺れる状況のなか上陸した。

 両手を使える状態にして、船内移動や上陸動作をして欲しいということで、カメラ等の操作は出来なかった。

 波が荒い時などは以前の島民は小型船に乗り移り、クレーン状のものに縄ばしごが付けられたものを必死で掴んで上陸したらしい。

 それでも、そこが自分の住まいだという意識がとても強かったという。

 上陸後の事は、また明日以降に・・・。

 
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駐車場の怪しい光は今夜はお休みらしい

2018-09-11 00:05:49 | 日常あれこれ
 駐車場の不思議な光を確かめようと、10時の消灯を待ったが駐車場は真っ暗のまま。

 車もいつものように、いつもの状態で、いつもの場所にある。

 12時まで粘ったが変化無し。

 

 う~ん、どういうこっちゃ。

 連日と云うわけではなくて、私が見るときたまたまの偶然が重なったということか?

 

 判らないが、そういうことだろう。

 とにかくハッキリしたことが、一つだけある。

 向こう側のLEDの外灯は今日も点いているが、まったくウインドウなどに反射はしていない。

 よって、あの灯りは、反射では無く車の中での出来事であることは間違いなさそうである。

 

 明日(いやもう今日か)は、長崎行きだから寝ることにする。

 あ~あ。

 
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