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Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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シモネッタ・ヴェスプッチ 名画『ヴィーナスの誕生』のモデルとなった絶世の美女 (1453~1476)

2017-09-22 16:26:23 | Weblog

15世紀のイタリア・フィレンツェに「麗しのシモネッタ」と詠われた絶世の美女がいた。
彼女は商人マルコ・ヴェスプッチの夫人であり、メディチ家の貴公子ジュリアーノの「永遠の恋人とも呼ばれた女性である。
彼女の死に際しては市民が挙って涙したと云われ、彼女がモデルだと云う有名な絵画もある程だ。

「フィレンツェでの結婚」
美の女神と云う言葉が相応しいシモネッタは、輝く金髪と情熱的な瞳、スラリとしてたおやかな肢体が例え様もない程美しく、男女関係なく、出会った人を皆甘美な気持ちにさせる女性だった。画家ボッティチェリもその魅力に夢中になった一人で、名画『ヴィーナスの誕生』や『春』は、生前の彼女を思い浮かべながら描いたのではないかとも言われている。フィレンツェの人々を惹き付けて止まなかったシモネッタは、北イタリアのジェノバ共和国の出身で、父は貿易商人ガスパル・カッタネオ、母のヴィオランテはジェノバ一の美人と言われていた。船も幾つか持ち、手広く商売をしていたカッタネオ家だったが、シモネッタが六歳の時に父が権力闘争に敗れ、一家はジェノバ南部のピオンビーノ領に移住している。ここを支配するアッピアーニ家の妻は、ヴィオランテと前夫の娘だったと云う関係から身を寄せたのだろう。そこで育ったシモネッタは、十年後、結婚することになった。
相手はフィレンツェの裕福な商人マルコ・ヴェスプッチである。
彼はどこと言って取り得のない上に、虚栄心だけが強い凡庸な男だったが、家同士の政略結婚に彼女が異を唱えられるはずもなかった。そして、彼女はフィレンツェへと向かうが、そこで出会ったのが貴公子・ジュリアーノ・デ・メディチだった。

「二十三歳の若さで散る・・・・・」
シモネッタの恋人と噂されたジュリアーノは、フィレンツェを支配するメディチ家の出で、兄にロレンツォ豪華王がいる。
ジュリアーノは母譲りの優美さと凛々しさを備えた美丈夫で、シモネッタと同じ年の、人気の貴公子だった。ロレンツォとジュリアーノの兄弟はフィレンツェに来たシモネッタに恋をするが、中でもジュリアーノは熱烈に彼女に惹かれていた。
実際にシモネッタが彼の恋人だったかどうかは定かではないが、少なくともフィレンツェの市民の間では二人は噂の恋人であり、詩人ポリツィアーノも二人の愛を綴った詩を残している。
そんな二人の愛が頂点を極めたのは、1475年のジョスタだった。ジョスタとは、馬に乗り、槍で相手を突き落とすと云うゲームで、最初から勝敗が決まっている一種の祝典行事である。この時は、ジュリアーノに花を持たせることになっており、勝利した彼に優勝の兜を渡す「戦いの女神」に指名されたのが、シモネッタだった。
宝石を散りばめた豪華絢爛な衣装を纏ったジュリアーノが、馬に乗って現われる。そして、女神と云う言葉が相応しいシモネッタ。二人の輝くばかりの美しさに群集も大いに沸き、酔い痴れたという。ところが、寒波で体を壊したシモネッタは翌日から寝込んでしまい、翌年、結核の為に二十三歳の若さでその生涯を終えた。
その葬儀にはフィレンツェ市民も参列し、嘆き悲しんだが、彼女は死してもその美しさを称えられた。ジュリアーノの兄ロレンツォが彼女を評し、「生前これ以上ないと思われた美しさが、更にそれを超えた」と書き残して哀悼した。
死の翌日、シモネッタはヴェスプッチ家の霊廟オンニッサンティ教会に葬られ、安らかな眠りに就いたが、彼女のあとを追うかの様に、恋人ジュリアーノはその僅か二年後に暗殺され、非業の死を遂げてしまうのだった。

             

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画像 ボッティチェリ作「シモネッタ・ヴェスプッチ」

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