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呂后 夫 劉邦の死後に悪女へと豹変した前漢の独裁者 (生年不詳~前180)

2017-08-24 05:00:44 | Weblog

呂后は漢を打ち立てた高祖の皇后である。
彼女は夫と共に漢の創立に尽くしたが、夫の死後に辣腕ぶりを発揮し、次々と残虐な一面を見せた。
幼い皇帝の下では執政として国を専横し、権勢を振るった女傑として、その名を歴史に留めた。

「最大のライバルの出現」
彼女は名を呂雉といい、父は沛県の名士だった。
父は常々娘を貴人の下へ輿入れさせると言っていたが、亭長と云う職の下級役人の劉邦と云う男を見込み、強引に娘を嫁がせた。
しかし、嫁いだ呂雉はその貧しさにガッカリした。彼は経済力もなく、無類に過ごし、しかもすでに妻と子がいたのだ。
彼女は、その妻と一緒に畑に出て鍬を振るうと云う日々が始まった。

だが、父の目は正しかった。3年後、劉邦は蜂起して秦を倒し、漢の皇帝に上り詰めて高祖となったのだ。
彼女も晴れて皇后の座に就いて呂后となり、息子も皇太子となった。
彼女はこの頃から策謀家としての一面を見せ始める。
息子の為には後顧の憂いを無くすことが必要と考えた彼女は、漢の創立に貢献した家臣たちを次々と排除し、最大の功労者である韓信をも、謀反を企んでいるとして一族諸共殺させた。

そんな彼女の前に、最大のライバルが立ちはだかる。
高祖の寵愛を一身に集めていた戚姫である。
戚姫は自分の子、如意を皇太子にするよう皇帝を口説いた。
皇帝も寵姫の子を就けることに満更でもなく、如意を皇太子にするよう重臣に諮った。
呂后は歯ぎしりした。糟糠の妻やその子どもが見捨てられると云う話は少なくないからだ。

ただ、呂后は指を咥えて黙っている女ではなかった。
彼女は表立って反対はせずに重臣たちに根回しをしたのだ。
そして、重臣たちに嫡子を廃して庶子を立てることを反対された劉邦は、如意を皇太子にすることを諦めた。
だが、この時に味わった屈辱は、呂后にとって生涯忘れることができないものとなった。

「権力争いに奔走」
劉邦が死に、息子が恵帝として即位すると、呂后は権力を一気に振り翳し始めた。
そして、今までの恨みを晴らすかの様な残忍な性格が頭をもたげる。
先ず血祭りにあげたのは、戚姫だった。
手始めに、彼女を牢獄に押し込めて髪を切り、首かせを嵌め、趙王となっていた如意を呼び寄せて殺そうとした。
ところが、ここで意外なことが起こる。
心優しい恵帝が弟の如意を守ろうと、片時も彼の側から離れないのだ。
だが、呂后は結局、隙を突いて如意を毒殺した。
そして、呂后は復讐の総仕上げに取り掛かる。
ただ戚姫を殺すだけでは飽き足らず、死ぬ以上の苦しみを与えたのである。
先ずは彼女に息子の死を告げた。
彼女が悲しむと、声が出なくなる薬を飲ませてから手足を切り落とし、両目を抉り取り、その後、四肢を失った彼女を豚小屋を兼ねた厠に閉じ込めて「人豚」と呼ばせた。
翌日、呂后は恵帝に排泄物にまみれた戚姫の凄惨な姿を見せた。
呂后としては、一歩間違えれば自分たちがこの様な運命になっていたと言いたかったのかも知れない。
だが、気の優しい恵帝はショックのあまりに寝込んでしまったという。

呂后は、着々と権力の強化を謀る。
息子の皇后には呂后の娘の子を迎えた。つまり、叔父と姪の結婚と云うことになる。
しかし、この皇后は子ができなかった為、呂后は他の夫人が出産したと知るや、その子を皇后の子と装い、生母たちを殺した。
彼女はこうして6人の子を得たのだった。

恵帝はそんな母の所業に耐え切れなかったのか、酒色に溺れ、二十代の若さで亡くなる。
その後を恵帝の子が継ぐと、呂后は幼い皇帝の執政として権力を振るう。
そして、一族の呂氏を重用し、危険人物になりそうな者や反対者は徹底的に弾圧した。

彼女は、「乗ずる隙を与えてはならない」と言い残して死んだ様だが、
彼女の死後、クーデターに寄って呂氏一族は排斥されてしまった。

            

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