Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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◆最初に滅んだ戦国七雄 「韓の滅亡」

2018-03-25 04:28:45 | Weblog

*秦に領土を奪われ続けた
 『史記』によると、昭候(韓の君主。紀元前358~333年)の時代に、韓は西の領域を秦に侵略されていた。次の代の宣恵王の時には都の近くまで秦の侵入を許し、次の襄王の時には西方の大都市・宣陽を陥落させられる。そして桓恵王の時には、上党郡や諸都市の多くを秦に奪われる。この時は、ほとんど都のみを辛うじて維持しているような状態だったと言う。
そして、桓恵王の次の代である、韓の最後の王である韓安の時代。紀元前233年に韓の王族である韓非が、李斯の策により秦で殺害されると云う一件があった。韓非の父である王の韓安は、使者として派遣した韓非が「韓を滅ぼせば、残りの他国の連合を招く危機がある。寧ろ秦と韓が組んで趙を攻める方が得策だ」と秦を説得することを期待していた。息子である韓非に望みを託していたのだ。しかし無残にも韓非は自殺を強いられる。同じく荀子の門下で秦の高官であった李斯が嫉妬し、謀略を企てたのだ。
李斯が嫉妬したのは、韓非の著作である『韓非子』を読んだ始皇帝が激賞した為である。韓非の死を受けて、韓安は秦に南陽の領土を差し出して生き残りを図る。紀元前231年、内史騰(内史とは首都近辺の長官のこと)がこの地を治める仮の太守となっているが、この騰が韓を滅ぼす秦の将軍となるのだ。紀元前230年、秦の内史騰は10万の軍で韓を攻め、韓安を捕虜とする。領土はことごとく秦に奪われ、韓は滅びてしまった。

◆周王朝の名族も最後は力なく..... 韓のルーツと末路
 紀元前230年に秦の将軍・内史騰が10万の兵を率いて韓を攻める。韓の首都である新鄭を攻め落として、韓安を捕らえる。内史騰は人気マンガ『キングダム』にも登場しているが、史実ではその名が伝わるだけで、詳しい経歴などは不明である。韓を滅ぼすと云う大きな功績を上げているにも関わらず、記述がほとんどないと云う謎多き武将である。

 韓安が捕らえられ、韓は潁川郡として秦の統治下に入り、国としての韓は滅亡する。捕虜となった韓の最後の王である韓安自身はその時点では生きながらえたものの、紀元前226年に韓の都であった新鄭で韓の元貴族による反乱が起き、それが鎮圧された際に処刑されている。

 『項羽と劉邦』でお馴染みの劉邦の配下の張良。張良の祖父も父も韓の王の宰相を務めていた。生国を滅ぼされた恨みから、張良は始皇帝暗殺の計画を立てる。屈強な男に鉄槌を投げさせ始皇帝を狙うが失敗、張良は逃亡。後に張良は、紀元前206~202年の楚漢戦争の際、韓の旧王族の韓王成、韓王信を擁立している。

 晋に仕えていた公族が、韓原(現在の陝西省韓城県)に封ぜられ、韓武子を名乗る。これが韓のルーツであると言う。韓氏は晋の6つの有力な家柄の一つとなり、紀元前453年には趙氏、魏氏と晋を三分。紀元前403年には、趙、魏と共に韓は周王から諸侯として認められて、完全な独立国となった。

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◆秦を悩ませた強国の一角 「趙の滅亡」

*中枢の腐敗により滅びる
 戦国の七国の中ではトップの座を秦と争い、ライバルと云えた趙。武霊王(在位紀元前325~299年)が「胡服騎射」と呼ばれる軍事改革を行って騎馬軍団を創設する。この改革により目覚ましい戦果を上げ、趙は台頭して行った。だが、末期には趙の中枢はすっかりと腐敗していた。王である遷(幽繆王)の周りにはイエスマンばかりが揃い、秦のスパイまでもが入り込んでいた。特に酷いのが奸臣・郭開である。趙を出奔した名将・廉頗が帰参を願い出たが、かねてから廉頗を嫌っていた郭開は使者を買収して会談の間に3度も失禁したと云う嘘の報告をさせ、帰参の話を破談にするなど、とにかく趙の為にならないことばかりした。秦が邯鄲を包囲した時、秦を2度も撃退した名将・李牧が趙の守将となり、秦軍の包囲に耐えていたが、秦が郭開を買収して、李牧が反乱を企んでいると遷に讒言させると、遷はすっかり信じて李牧を殺してしまう。そして、紀元前228年、秦の将軍・王翦は趙の都の邯鄲を攻め滅ぼす。李牧の死から僅か3か月後のことだった。趙王遷は捕虜となり、房陵に流される。王子の嘉は代と云う地(現在の河北省蔚県南西部)に逃れ、代王を名乗るものの、紀元前222年に滅ぼされて、趙の王の血統は途絶えるのだった。実は、こうして滅びた趙と始皇帝とは、因縁浅からぬ関係にあった。始皇帝の母は邯鄲の舞姫であり、始皇帝自身も邯鄲で生まれているのだ。邯鄲を手に入れた際には、始皇帝自身が幼い頃を過ごしたこの地に乗り込み、母の家と敵対関係にあった者をすべて捕らえて殺したと言う。

◆守護神・李牧を自らの手で葬り..... 趙のルーツと末路
 紀元前236年に魏の鄴を攻め落とすと、今度は趙に向かって進軍した王翦。紀元前229年には趙の北方の守りの要である井陘も攻略する。こうした王翦の働きによって、既にほぼ秦と趙の戦いの趨勢は決まっていたと言える。紀元前228年に王翦は羌瘣と共に趙を攻めてことごとく領土を奪い、東陽で趙王遷を捕らえて、趙を滅亡に追いやるのだった。

 趙の名将・李牧は囮を使った作戦で騎馬民族・匈奴の10万余りの大軍を撃破して名をあげた。紀元前243年には燕の2城を落とし、紀元前233年と232年には侵攻して来た秦軍を撃退するなど、華々しい戦績を誇っていた。しかし、最後には、秦の策略で趙王が「李牧が謀反を企てている」と吹き込まれ、殺されてしまった。

 武霊王の「胡服騎射」とは、趙が度々戦いを繰り広げていた相手である北方の遊牧民族の戦法を取り入れると云うものである。馬に乗るのに適した遊牧民族の服装で、騎乗して弓を射るから、「胡服騎射」なのである。馬が引く戦車での古くからの戦法が時代遅れとなっていて、機動力のある騎馬部隊こそ力を発揮したのだ。

 どこまでが事実か疑わしい面はあるが『史記』によると、趙と秦の王室は同じ祖先から分かれたものだと言う。殷に仕えた蜚廉と云う人物がいて、この長子の血統である悪来が秦に繋がって行き、次子の李勝の血統は趙に繋がって行ったと言うのだ。周に仕えた趙氏は、その後、晋に仕え、晋の力が衰えると、趙国を打ち立てることとなる。

画像 戦国七雄の図

      


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