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西太后 (1835~1908年) 清(現・中国) 策謀の果てに権力の座を獲得した女暴君

2017-07-28 11:36:38 | Weblog


清の第9代皇帝・咸豊帝(文宗)の后にして、「中国3大悪女」の一人にも数えられる西太后。咸豊帝の没後、約50年に渡って清朝に君臨し続けた、独裁的な権力者である。

元々は中流家庭の出で、本名は「欄児」と云う。后選定制度で選ばれて後宮に上がったのだが、若い頃から権力への執着心が強く、1856年に男児を生んで、皇后に次ぐ地位にまで伸し上がる。そして、正室の慈安皇太后が「東太后」と称されていたのに対して「西太后」と呼ばれる様になったのだ。皇太子の出産後、西太后の野望は更に顕著となる。読み書きができる上に男勝りな性格から、咸豊帝を差し置いて、どんどん政治に口を出す様になって行く。そして1861年、咸豊帝が崩御すると、西太后は5歳の息子を同治帝として即位させ、幼い帝を操って政治の実験を握る「垂簾政治」を始めたのだ。咸豊帝は生前に西太后が権力を牛耳ることを案じ「幼帝の補佐として8人の大臣が必要である」との遺命を残したが、彼女は咸豊帝の弟・恭親王と手を組み、従来の大臣たちを処刑、或いは自害させた。その上、その恭親王に対しても更に謀を企て、後に追放に追いやっている。

18歳の若さで同治帝が崩御すると、今度は実の妹の子どもを、わずか3歳で光緒帝として即位させる。恐ろしいことに、西太后は光緒帝が成長して行くにつれて立場が覆されるのを恐れ、幼少の頃からまともな食事も与えず、わざと虚弱に育てたと伝えられているのだ。同時に、邪魔な東太后には毒を盛り、亡き者にしてしまう。そして、光緒帝の后には自分の姪を迎えさせ、帝が成人した後も実権を握り続けたのである。

西太后の権力への執着は死ぬまで続いた。1899年、秘密結社「義和団」による列国の侵略に対する排外運動、所謂「義和団事件」が起こると、西太后はこれを支持するが、諸外国の連合軍が北京に迫ると、光緒帝を連れて西安へ逃げ延びた。だが、その後も贅を尽くし、67歳の誕生日には、約15億円もの税金を費やした祝賀会を催したと云う。本来、人間にとってどうにもならない死期までも、彼女には不思議なタイミングで訪れている。光緒帝が崩御した翌日に、西太后も没しているのだ。だが、これも暗い噂はある。己の死期が近づいていることを悟った西太后が、自分が先に死ぬことで光緒帝に政権が移ることを疎み、帝に毒を盛って殺害したのではないか、と云うことだ。

光緒帝が亡くなるのを見届けた西太后は、当時まだ2歳だった光緒帝の甥・溥儀を宣統帝として擁立するも、その翌日、陰謀に塗れた74年の人生の幕を閉じたのである。

西太后亡き後、およそ300年続いた清朝は、1911年に起きた民主主義革命「辛亥革命」によって滅び、翌1912年には中国初の共和制政体、中華民国が成立する。
ところで、冒頭で西太后が「中流家庭の出」としたが、正確に言うと、彼女は満州民族の氏族の一つ、葉赫那拉氏の出身である。実は、葉赫那拉氏とは清朝の開祖ヌルハチの時代に反乱を起こし、皆殺しされた部族なのだ。自身が清朝を滅亡に招いた結末に、何らかの因果を感じずにはいられない。

(画像・西太后、光緒帝)

         

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ギボウシ Hosta 落ち着き 沈静

もう直ぐ8月になろうかってとこなのに、庭の紫陽花や額紫陽花、隅田の花火がまだ盛りです。
ほかの花木や草花もそうだけれど、今年はマズマズ庭が上手く行きました。
それは、昨年の晩秋に、新しい春を夢見て、面倒かも知れない作業など一生懸命としておいたことが秘訣。
また、それは自然との共同作業みたいなところがあるけれど、想いと根気を楽しみとしたのは、
遣った者しか分からない喜びとなるんですね。ヽ(^‐^)/〃

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