Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

菜根譚 前集209項

2024-07-29 15:02:24 | Weblog

ワスレナグサの画像のようです
デルフィニウム(マリンブルー) Delphinium 壮大な心 幸運を振りまく人

風斜雨急処、要立得脚定。花濃柳艶処、要着得眼高。路危径険処、要回得頭早。

風斜めに雨急なる処は、脚を立て得て定めんことを要す。
花濃やかに柳艶なる処は、眼を着け得て高らんことを要す。
路危うく径険しき処は、頭を回らし得て早からんことを要す。
 

「人生の歩み方」
横なぐりの風が吹き、激しく雨が降っている様な時には、脚を大地にしっかり安定させて立つ必要がある。
花は色こまやかに、柳は艶やかな美しい場所では、眼を一段と高い所に据えて見る必要がある。
大通りや小道も危険な場所であったら、さっさと元の道の方に振り向き引き返す必要がある。

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◆江戸前鮨 1貫 約80~160円 意外と今と変らない? 江戸のグルメ値段事情

2024-07-25 13:10:54 | Weblog


江戸前鮨は屋台で

●高級品・砂糖の値段は4万円になることも
 江戸の食と云えば、「江戸前鮨」。
奈良時代から鮨はあったが、ネタと酢飯を一緒に握る「握り鮨」ができたのが江戸の後期。
江戸の近海で穫れた魚を握ったのが、「江戸前鮨」だ。

以前の鮨は高級料理だったが、この頃の鮨は屋台で食べる庶民的な食べ物。
値段も1貫4~8文(約80~160円)ほどで、現在の回転寿司感覚だった。

鮨と同じ様に江戸庶民の食べ物だったのが蕎麦だ。
落語の「時そば」にも出て来る二八蕎麦は16文(約320円)。
二八蕎麦はかけ蕎麦だが、天ぷら蕎麦になると32文(約640円)ほどになる。
これも、今とあまり変らない。

鮨、蕎麦は江戸のファストフードだが、もちろん高級なものもある。
「江戸っ子の初物食い」という言葉がある様に、江戸っ子は初物好き。中でも初鰹には目がなく、
1本2両1分(約18万円)ほどの値がついた。
また砂糖も高級品で、600㌘で銀4匁(約5600円)。高い時には30匁(約4万2000円)にもなった。
塩は1.8㌔で16文(約320円)ほどだったので、江戸時代に如何に砂糖が貴重だったか窺える。
      


                             おカネでわかる世界の事件史
                                なんて素敵な江戸ビンボー生活
                                      高いか安いか江戸グルメ

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◆八百屋お七がここで火あぶりに 鈴ヶ森刑場跡

2024-07-23 10:58:29 | Weblog

写真の説明はありません。
『古今名婦伝 八百屋お七』
鈴ヶ森で刑死した八百屋の娘・お七。火事で避難した際に寺小姓に恋をし、
再会を願うあまりに自分の家に放火。
当時、江戸では放火は大罪であった為、火刑に処された。


写真の説明はありません。
鈴ヶ森刑場跡
現在でも刑場跡は自由に見学ができ、井戸や火刑用の鉄柱、磔用の木柱を立てた台石などが残されている

 

磔や火あぶりなど残酷な刑で、多くの人を処刑。
さらし首にする為に、はねた首を洗った「首洗いの井戸」が当時のままに残されている。

★江戸での犯罪防止の為に残酷な処刑を公開
 慶安4(1651)年から明治4(1871)年まで存在した刑場。
鈴ヶ森の名称は、近くにある鈴森八幡宮(現・磐井神社)に由来している。
当時は目の前が海で、東海道沿いの、江戸の南側入り口に位置していた。
北の入り口である日光街道沿いに設けられた小塚原刑場、
西の入り口である甲州街道沿いに設けられた大和田刑場と共に江戸三大刑場とされた。
各街道の入り口に刑場を設けたのは、処刑の様子を公開し、犯罪を防止する為だったという。
ここには今も、はねた首を洗った「首洗いの井戸」、
磔や火あぶりの処刑に使用したといわれる台石が残っている。

その刑は残酷だった。
磔は、市中引き回しの後木枠に罪人を縛り付け、
2人の執行人が槍で脇から肩口にかけて交互に20~30回突き刺した。
火あぶりは放火犯に科せられる刑で、引き回しの後鉄柱に縛り付け、
足元に置いた茅に火を着けた。
死体は黒焦げのまま晒され、刑場の隅に投げ捨てられたという。

ここで最初に処刑されたのは、
慶安4(1651)年の慶安の変(由井正雪の乱)に加わった丸橋忠弥とされる。
反乱は密告によって失敗し、町奉行に追われ自刃したが、改めて磔刑にされたという。

処刑された中で最も有名なのは八百屋お七。
江戸の大火事を引き起こした罪で火あぶりの刑になった。

他にもここで10~20万人が処刑されたというが正確な記録は残っていない。
近くを流れる立会川にかかる浜川橋は、罪人が家族との別れを惜しみ涙したことから、
かつては「泪橋」と呼ばれていた。当時は冤罪も多かったという。
 
                 
                                 江戸・東京 魔界地図帖

 


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菜根譚 前集202項

2024-07-22 12:30:56 | Weblog


ハイビスカス・サマーブリーズ(サニーウィンド)

 

世人以心肯処為楽、却被楽心引在苦処。達士以心払処為楽、終為苦心換得楽来。

世人は、心の肯う処を以て楽しみと為し、却って楽心に引かれて苦処に在り。
達士は、心の払る処を以て楽しみと為し、終に苦心を楽しみに換え得て来たると為す。
 

「真実の楽しみ」
世俗の人間は、心に満足することを以て楽しみとしているが、
却って楽しみの心に引きずられて苦しい場所に追い込まれる。
道に達した立派な人は、世人が満足するものと反対なことを楽しみとしているから、
結局は苦しみの心を楽しみの心に交換してしまうことができる。

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菜根譚 前集201項

2024-07-21 13:53:06 | Weblog

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カサブランカ Lilium 'Casa Blanca'  雄大な愛 威厳 高貴

 

飲宴之楽多、不是個好人家。声華之習勝、不是個好士子。名位之念重、不是個好臣工。

飲宴の楽しみの多きは、是れ個の好人家にあらず。
声華の習いの勝れるは、是れ個の好士子にあらず。
名位の念の重きは、是れ個の好臣工にあらず。
 

「信用できないもの」
飲み食いごとの楽しみにばかり耽っているのは、それは一つの良い家柄とは言えない。
良い評判がいつも立っているのは、それは一人の良い人物ではない。
名誉や地位を求める気持ちがいつも重く圧し掛かっているのは、それは一人の良い臣下ではない。

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◆名作を生んだ童話作家 宮沢賢治が作品の中に書き残した天からの啓示

2024-07-20 13:11:44 | Weblog

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宮沢賢治

 

 
「銀河鉄道の夜」や「セロ弾きのゴーシュ」などの名作を世に送り出した、童話作家の宮沢賢治。
その作品が素晴らしいことはもちろんだが、一説には、彼の作品は単なるお話ではなく、
未来への予言だったと言われている。

例えば、「グスコーブドリの伝記」では、冷害で作物ができずに困ってしまうイーハトーヴの住人たちが登場する。
作中では、冷害をなくす為に、炭酸ガスを大量に放出することで気温を上げることに成功する。
この原理はまさに地球温暖化と同じで、賢治が生きていた時代には、
この様なことはまだ科学的に解明されていなかった。

「銀河鉄道の夜」も、未来を描いた最たる例といえる。
銀河鉄道に乗ったジョバンニとカムパネルラによる星々を巡る旅は、まさに宇宙旅行の世界である。
当時はまだ想像だにできなかった宇宙旅行であるが、今や人類は宇宙空間へと飛び出し、
他の惑星への移住すらも視野に入れるまでになった。

日本の農業が衰退すること、しかもそれが1950年代から
2000年までの間に起きることがハッキリと綴られているのが、「法印の孫娘」という詩である。
実際に食糧自給率が落ち始めるのは1950年代のことで、1965年までに80%が70%に低下。
更に2000年以降には40%にまで落ちて行く。
農業衰退の予言もさることながら、その時期までも明確に当てているのは驚くべき慧眼である。

また、「セロ弾きのゴーシュ」の主人公ゴーシュが演奏する音楽を聴いた野ネズミやウサギなどは、
みな病気が治ってしまう。
これは、音楽を聴くことで心身の健康を図る現代の音楽療法を予期したものといえる。

その他にも、多くの予言の存在が指摘されているが、賢治は常日頃から「自分は霊感が強い」と話しており、
よく幽霊や悪霊、若くして病で世を去った妹トシの霊とも会っていたという。

また、創作についても「作品は創るものではなく降って来るもの」と語っていた。
つまりそれは、天からの啓示だったのではないか。
啓示を受けた宮沢賢治は、後世の人の為に、その内容を作品として残したのかも知れない。
    
 
 
                        日本史ミステリー
                           とんでもない能力を持った「超人」にまつわる伝説

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◆手招きで領主を救った猫 豪徳寺

2024-07-20 12:51:40 | Weblog

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「豪徳寺の招福猫児」
招福殿の近くには、願いが成就したお礼として参拝者から数多くの招福猫児が奉納されている。
小判を持たず、右手を上げるのが豪徳寺の招き猫の特徴だ。


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「豪徳寺」
井伊家の菩提寺としても知られる豪徳寺。
建立当時は臨済宗に属していたが、天正12(1584)年に曹洞宗に転じた。


写真の説明はありません。
我が家の由緒正しき招福猫児

豪徳寺は招き猫発祥の地として知られる。
世田谷の新しい領主となった井伊直孝は怪しげな猫に雷雨から守られ、豪徳寺を井伊家の菩提所に定めた。
     
     - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -♡˖°

★井伊直孝を手招きで呼び止める「招福猫児」の縁起物が定着
 小田急小田原線の駅名にもなっている世田谷区の豪徳寺。
室町時代の文明12(1480)年、世田谷吉良氏5代の政忠が伯母の為に建立した弘徳院がその前身だ。
その後、天正18(1590)年に焼失。19世紀前半の地誌『新編武蔵風土記稿によれば、
江戸時代に近江彦根藩2代藩主・井伊直孝が修復した。
やがて直孝が没するとその院号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ、
万治2(1659)年に豪徳寺と改名したという。

豪徳寺といえば、何を置いても招き猫の発祥地として有名。
奉納所に大量の招き猫が並んでいるのがお馴染みの光景だ。
猫との因縁を作って後の繁栄をもたらしたのも、やはり直孝。
それには次のような逸話がある。

ある年の夏、直孝は数人の郎党と共に鷹狩りに興じていた。
後の豪徳寺・弘徳院の門前を通りかかると。一匹の猫が一行に向かって手招きをしている。
若侍が妖怪変化と見て斬り捨てようとしたが、直孝は嗜めて招かれるまま門をくぐった。
すると間もなく俄かに空がかき曇り、辺りは激しい雷雨に見舞われたという。
直孝は猫の招きで危うく雷の直撃を逃れたとも伝えられる。

こうした縁で直孝は弘徳院を井伊家の菩提所として多くの田畑を寄進し、寺は復興した。
その立役者となった猫が死ぬと、住職は猫塚を作ると共に、招福殿に猫観音を祀った。
更に「招福猫児」と名づけた猫の人形を縁起物として広めた。

後の近江彦根藩15代藩主であり、桜田門外の変で暗殺された大老・井伊直弼は直孝の子孫。
その墓も直孝と同じく、豪徳寺にある。
    
     - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -♡˖°
 
                
                           江戸・東京 魔界地図帖

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◆呪術と祈祷の起源

2024-07-19 11:05:31 | Weblog

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護摩
雨乞いの霊験があるといわれているのが孔雀明王。
最澄や空海が雨乞いに抜群の利益があるとして修法されていた


写真の説明はありません。
千尋(ちひろ)の滝
鹿児島県屋久島にある「千尋の滝」。
滝は水神が住まう処として、古くから信仰の対象となり、滝そのものを御神体として崇める地域も少なくない。
水が落ちる光景から水神は龍や蛟(蛇)が化生という観念も生まれた


写真の説明はありません。
雨乞い
菅原道真は、旱魃時に断食をして7日間山頂で雨乞いの祈願を行ない、雨を招いたという


写真の説明はありません。
祝詞
祝詞も「言祝」の一種といえる。
祭儀の由来を述べ、神に対して祈願や感謝をするほか、参集した人々に向かって読み上げる形のものである


写真の説明はありません。一言主神社
一言主神は、雄略天皇が葛城山に遊行したとき現れ、
「吾は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神。
葛城城の一言主の大神なり」と言ったと記紀に記されている。言葉による呪を行なう神ともされる


写真の説明はありません。形代(かたしろ)
今も多くの神社で、紙製の形代に罪や穢れを移し祓い清める「大祓」が行われている


写真の説明はありません。
土偶
青森県の三内丸山遺跡から出土した土偶。
主に十字形で模様のないシンプルなものから、縄文などで装飾された複雑なものまで、
様々な種類が確認されている。
この土偶は乳房が表現されることから、女性をモデルにしたものであることが見て取れる

 

藁人形(画像はありません)
江戸時代になると人間の形に藁を束ねた藁人形を用い呪詛を行なう「丑の刻参り」が行われるようになる。
丑の刻参りは当初、祈願成就の為のものだったが、いつしか呪詛を行ない恨みを晴らす場となった
 
 
 
 
古代より人は自然から恵みを得る一方、自然災害に苦しんで来た。
人智の及ばぬ自然の脅威に日本人は畏れと敬意という相反する想いを抱き、
そこに超自然な存在があると考えるようになった。
そして、祈りを捧げることで自然の脅威を減らし、より大きな利益を得ようと願うようになっていく。
 

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★日本の地理的環境と文化から生まれた独自の宗教観
 四季がり豊かな自然が育まれる日本は、その一方で地震や台風といった自然災害も数多く発生する。
日本で最も頻繁に起こる自然災害は、何といっても水害であろう。
大陸棚外縁部にある弧状列島という日本の地理的環境は、多な温帯気候である。
梅雨に台風、秋の長雨など降雨の時期が何度も訪れる。
また平野部が少なく急峻な山岳から流れる川が多い為、大量の降雨があると河川はいとも簡単に氾濫を起こす。
更に食糧生産の主力でる稲作は大量の水を必要とする。
こうしたことから、日本人は治水に重きを置き、
雨乞いや止雨の呪術によって自然という名の神をもコントロールしようとしてきた。

日本で行われる雨乞いの方法は、山野で火を焚く、神仏に芸能を奉納して懇願する。
禁忌を犯す、神社に参篭する、類感呪術を行なうなどがある。
暴れ川として知られる福井県の九頭竜川流域では明治の中ほどまで、
これら全ての方法で雨乞い法が行なわれていた。
それを例として説明してみよう。

火を焚いて雨乞いをするのは世界的にも多くの文化圏で見られる祈願法である。
福井県武生市大虫町では、かつて8月15日の夜に松明行列を行なっていた。
水不足に困った村人たちが松明を手にして山頂に登り火を焚いて雨乞いをしたところ
雨が降ったという故事が残っている。

神仏に芸能を奉じる雨乞いは近畿地方を中心に見られる方法である。
九頭竜川流域では、越前市今立町柳に伝わる花笠踊りや大野市牛ヶ原の三社神社の雨乞い踊りが知られる。
花笠踊りは「今立郡神社誌」に「歌踊り共に異様にして他に例を見ざる古来の神事なり」と記されている。
雨乞いの祈祷の御礼として奉納される踊り。踊り手は15~30歳までの未婚の男子で、
柳区の掟として、よそ者には踊りを教えない。たとえ養子であっても歌や踊りは教えなかったという。
現在は福井県無形民俗文化財に指定されている。
三社神社の雨乞い踊りは、4人の棒振り役が神前に一拝して、太鼓の合図で始められる。
両端に紅白の紙を巻きつけた樫の棒を回して踊る動作は、水汲みや水車の回る形を表しているとされる。
こちらも福井県無形民俗文化財に指定されている。

禁忌を犯す雨乞いは、水神の座する湖沼に出向き、故意に怒らせて雨を降らせようとする祈祷法。
鯖江市の神明社では境内の十ノ池を掃除してから、池の中にある牛石の鼻輪に綱をかけて
「雨降らせ、降らさねば湯の花にもどすぞ」と唱えながら牛引きをして雨乞いをしたという。

また永平寺町上浄法寺では神社で相撲を奉納する。祭神の女神が相撲が嫌いな為だと伝えられている。
 

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◆雨雲や雷を真似ることで雨を呼ぶ類感呪術
 類感呪術とは、霊験あらたかな神水を振りまいて雨を模倣して雨を乞う方法である。
未開社会の神話・呪術・信仰に関する研究の泰斗であるイギリスの人類学者J・フレイザーは、
ある物に似た形状の物の身代わりとして、呪術や祈祷を行なうことを、
「感応類似の魔法」(類感呪術)と分類している。

雨乞いの為、水を撒き、火を焚いて煙を出し、鉦や太鼓を叩いて音を出す。
これは降雨と雨雲と雷を真似ることで実際に雨をふらせようとする類似魔法なのだ。
七面堂の天井に大きな龍が描いてあり、龍神と縁がある夜叉ヶ池汲んできた水を振りかけ、
お題目を唱える雨乞いを行なったそうだ。

神社への参籠は、水神として崇められている龍神への雨乞いがある。
福井市の武周ヶ池は龍神が棲むという伝説があり、雨乞いの池として親しまれてきた。
この他、京都の貴船神社や奈良の丹生川上神社、神奈川の大山阿夫利神社など
雨乞いに霊験があるとされる神社仏閣は数多くある。
反対に晴れ乞いの霊験があるとされるのは奈良の生蓮寺。

てるてる坊主のお寺としても知られている。
生蓮寺は真言宗の寺院であるが、真言宗も雨乞い祈祷により朝廷から篤い信頼を得たことで知られる。
開祖・空海は嵯峨天皇や淳和天皇の勅により何度も雨乞い祈祷を行なっている。
雨乞いの方法は火炉を据えた護摩行。燃え盛る炎の中に護摩水や香を投入しながら、
真言を唱え、印契を結び、仏の験力を顕在させ降雨を願うのである。
 

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★人が発する言葉には強い呪力があるとする言霊信仰
 「始めに言葉ありき」とは、新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章に記される有名な一節だ。
言葉は神であり、世界の根源として神が存在するという意である。

言葉に霊的な力があると信じる考え方は洋の東西を問わず、普遍的に信じられていた。
日本でも古来言葉の呪力が信じられていた。人を誉めたり、反対に罵ったり不幸な言葉を発すれば、
それが一種の呪言となって実現すると信じられていた。
これを言霊信仰という。

万葉集には、「神代より言ひ伝てけらく虚見つ倭の国は皇神(すめがみ)の
いつくしき国言霊の幸はふ国と語り継ぎ言ひ継がひけり」と山上憶良が詠んだ歌が残っている。
「幸はふ」とは霊魂が威力を発揮すること。日本は言霊で覆われている世界だったとも言い換えられる。

現代の日本人にも言霊信仰は強く根付いている。
例えば4や9を「死」や「苦」とゴロを合わせて避けたり、
結婚式で「切れる、別れる、壊れる、破れる、割れる」などの言葉を使わないなどである。
こうしたネガティブなイメージを持つ言葉を発することは、一種の呪詛と捉えられている。

理性的に考えれば、こうした言葉を発したことが現実化しても、そこには明確な因果関係はない。
しかし、何らかの因果が結ばれたと、日本人は感じてしまうのだ。

反対に言葉で祝福をしたり、
慶びごとを言うことを「言祝(ことほぎ)」(寿ぐ・ことほぐ)という。
日常的に耳にする代表的な言葉が「万歳」や「弥栄(いやさか)」である。

相手を罵倒したり卑下する言葉も広義の呪詛であると言える。
ここでも日本人独特のメンタリティを見ることができる。
日本語はいわゆる罵倒語が外国語と比べて少ないといわれる。
例えば欧米で罵倒語とされるものは近親相姦や不正性交、
獣姦といった性的禁忌を示す言葉や相手を獣に擬えるものである。
日本語で同様の罵倒語としては「こん畜生」や「売女」
「たわけ」(たわけには、近親相姦という意味もある)ぐらいしかない。
逆に日本では「汚い」「臭い」「バイキン」といった言葉が相手を罵倒し卑下する時に用いられるが、
外国人はこれが罵倒語とはなかなか理解できないといわれる。

これは民俗学でいう「穢(けがれ)」の思想が大いに関連していると考えられる。
穢とは排泄物などの汚物はもちろん、死や出産など、生死のバランスが崩れることや、
病や生理、犯罪などの非日常的なものも含まれる。
その穢れた物に触れたり、食べたり、似ているとか見聞きしただけでも穢は伝染すると信じられてきた。
穢を除去するには、先ずその原因を断って清浄にすることが必要となる。
清浄化するには、幣(ぬさ)と呼ばれる棒の先に麻や木綿、
紙で作った垂で物を払うように動かす「祓(はらえ)」と
水で垢を落とすようにする「禊(みそぎ)」の2つの方法がある。
祓も禊も呪術的な行ないであり、今でも一般的に行われている。
神社仏閣の拝殿に詣でる際に手水で手と口を漱ぐのも禊の簡略版といえる。

日本人の清潔好きは世界的にも有名だ。
入浴を好み、帰宅をすれば手洗やうがいを行なうなど、衛生に高い意識を持つが、
これは無意識に穢を恐れ、それを避ける為に禊を行なうことが習慣化しているからではないだろうか。

また他人の悪口を言うことを幼い頃から禁じたりするのも、言霊を信じているからかも知れない。
 

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◆原始時代から行われていた人形と土器の呪術
 呪術や祈祷の歴史は、縄文時代まで遡れるとされる。
全国にある縄文文化の遺構では数多の土偶が出土されているが、
それらは何らかの呪術や祈祷に用いられたのではないかと推測されている。
土偶の多くは女性を象っている。出産をする女性は、古代においては豊穣のシンボルでもあった。
作物を生産する土地を母なる神として崇めることは、世界共通の原始的な宗教形態だ。

また土偶の一部は、破損した形で発掘されている。
これは大地の土から土偶を造り、それに祈りを捧げて霊気を吹き込んだ後に破戒して、
土に還すことで土壌を豊かにして生産性を上げようとしたのではないかと推測される。

未開文化では動物や人を神への生贄に捧げ、五穀豊穣や鎮護国家を祈祷することは珍しくなかった。
そして人の形を模したアイテムを生きてる人の身代わりとして用いる類感呪術も、世界各国に存在している。
土や紙、草木を人のに形に形勢して、それを呪術や祈祷に用いることは、平安期には一般的に行われていたという。
その多くは呪詛に用いられた。呪詛する相手の名前を書いたり、髪などを入れた人型を傷つけることで、
人型を通じて呪詛する相手が感応すると考えられていたのだ。
平安時代は、あまりにも呪詛が流行った為、時の朝廷から禁止の勅が出たほどである。

こうした呪詛の効果を科学的に証明するのは難しい。
それでも現在も尚、「丑の刻参り」の藁人形が神社などで見つかるのは、
人に似た物体が、人間の持つ原始的な何かに訴えかけているからではないだろうか。
 

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                                  呪術と祈祷の日本史
 

 

 


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菜根譚 前集199項

2024-07-19 10:55:23 | Weblog

千日紅の画像のようです
千日紅(Globe amaranth) Gomphrena globosa 色あせぬ愛 不朽

倹美徳也。過則為慳吝、為鄙嗇、反傷雅道。譲懿行也。過則為足恭、為曲謹、多出機心。

倹は美徳なり。
過ぐれば則ち慳吝と為り、鄙嗇と為りて、反りて雅道を傷る。
譲は懿行なり。
過ぐれば則ち足恭と為り、曲謹と為りて、多く機心に出ず。
 

「倹約も譲も度をこさず」
倹約は美徳である。
だがしかし、度を過ごすとケチになり、卑しくなって、
その結果逆に正しい道を損なうことになってしまう。
謙譲は善い行為である。
だがしかし、度を過ごすと馬鹿丁寧になり、堅苦しくなって、
その結果多くの場合、何か魂胆があると見なされることになる。

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菜根譚 前集197項

2024-07-17 12:50:57 | Weblog


ハイビスカス 🌺

日既暮、而猶烟霞絢爛。歳将晩、而更橙橘芳馨。故末路晩年、君子更宜精神百倍。

日既に暮れて、而も猶お烟霞絢爛たり。
歳将に晩れんとして、而も更に橙橘芳馨たり。
故に末路晩年には、君子は更に宜しく精神百倍すべし。
 

「晩年の心がけ」
太陽が沈んでしまっても、それでも尚夕映えは美しく輝いている。
また、一年が今や暮れようとしているのに、橙や蜜柑などの柑橘類は一段と芳しい香りを放っている。
だから、人生の晩年に当たって、君子たる者は更に精神を百倍にも奮い立たせて立派に生きるようにすべきである。


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◆日本神話に見る 呪術の起源

2024-07-16 13:36:33 | Weblog

写真の説明はありません。
天瓊を以て滄海を探るの図
伊弉冉尊と伊弉諾尊が天の浮橋に立ち、地上に天之瓊矛を突き刺し国を産んだ。

伏見稲荷大社、テキストの画像のようです
伊弉諾神宮 天照大神に後を託し、伊弉諾尊は淡海の多賀に寓居したとされる。
その場所が兵庫県淡路市多賀に建つ「伊弉諾神宮」だという説がある
伏見稲荷大社、テキストの画像のようです
多賀大社 古事記によれば、伊弉諾尊がお隠れになったのは淡海の多賀とある為、
     淡海=近江とされ、淡海の多賀は滋賀県の近江の多賀大社のことだという説もある。
写真の説明はありません。
黄泉比良坂 伊弉諾尊と伊弉冉尊が千引石を挟んでお互いを呪詛したとされる黄泉比良坂が、
      島根県松江市揖屋にある「神蹟黄泉比良坂伊賦夜伝説地」だとされている。

伏見稲荷大社、テキストの画像のようです
富士山本宮浅間大社
木花咲耶姫を主祭神とし、相殿に夫となった瓊瓊杵尊と、その父神の大山祇神を祀る浅間神社の総本社。
奥宮は富士山山頂に建てられており、富士山は富士山本宮浅間大社の御神体として崇められていた。

テキストのイラストのようです
木花咲耶姫
夫婦の契りを結んですぐに妊娠した為、瓊瓊杵尊に不倫を疑われた。
我が身の潔白を証明する為、燃え盛る産屋の中で出産するという気が強い面も持ち合わせていた。
木花咲耶姫は良妻賢母の代表でもあり、その神徳は安産や子育てとされている。(早稲田大学図書館蔵)

伏見稲荷大社の画像のようです
八咫烏神社 奈良県宇陀市に建てられた古社。
      祭神は建角身命で磐余彦尊一行の道案内をした八咫烏の化身と伝えられている。

写真の説明はありません。
女狭穂塚 宮崎県の西都原古墳群には木花咲耶姫の墓とされる女狭穂塚が残されている。

サイロ、草、霧の画像のようです
天香久山 畝傍山、耳成山と共に大和三山の一つに数えられ、三山の中で唯一「天」という尊称が付けられている。

テキストの画像のようです
神武天皇 八咫烏に導かれて大和を目指す神日本磐余彦尊一行。その行く手には、苦難の道が待ち受けていた。

呪術や祈祷、呪詛を最初に行なったのは誰か?
その答えを求めて日本の歴史を辿って行くと、神話の世界に辿り着く
   
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★伊弉諾尊と伊弉冉尊が国産み、神産みを行なう
 遥か昔、混沌とした世界が次第に固まり天と地が生まれた。
そして、「造化三神」と呼ばれる神が誕生。
更に、神代七代と呼ばれる神々が誕生し、その最後に伊弉諾尊と伊弉冉尊が産まれた。
やがて、二神は夫婦の契りを交して国産みを行ない、日本列島となる島々を産んだ。
続いて神生みを行ない、大事忍男神など自然に纏わる神を順調に産んでいく。だが、突然二神を不幸が襲う。
順調に神々を産んでいた伊弉冉尊だったが、産まれてきた神が火を司る神・軻遇突智(かぐつち)だった為、
伊弉冉尊はホト(女性器)に火傷を負い、臥せってしまった。
その後も、病状は回復せず、やがてお隠れになってしまった。
愛する妻の死を嘆き悲しんだ伊弉諾尊の悲しみは癒えない。
遂に、死後の世界である黄泉国に出向いて妻を連れ戻す決意を固めた。
伊弉諾尊は苦難に満ちた旅の果て、やっとの思いで黄泉国へ辿り着く。
そして、「愛しい我が妻よ、二人で造った国は、まだ完成していない。どうか一緒に帰ってくれないか」
この声を聞いた伊弉冉尊は、姿を見せないで、
「私は既に黄泉戸喫(よもつへぐい・黄泉国の食事)を食べてしまった為この国の住人になってしまい、
もう帰ることはできません。ですが、せっかく迎えに来て下さったので、黄泉神に相談してみます。
その間、決して私の姿を見ないで下さい」そう言って伊弉冉尊は、黄泉国の奥へと入って行く。

だが、それっきり待てど暮らせど音沙汰が無い。
心配になった伊弉諾尊は、伊弉冉尊との約束を破り、火を灯して奥へと探しに入った。

奥には伊弉冉尊がいたが、明かりに照らされた伊弉冉尊は体中腐り果て、蛆がたかり、
更に体中に蠢く八柱の雷神がまとわりついているではないか。
そのあまりにも変わり果てた姿に驚いた伊弉諾尊は慌ててその場を逃げ出した。
伊弉諾尊に姿を見られた伊弉冉尊は、
「私との約束を破って、私の姿を見たのね。もう許すことはできない」
そう言うと、伊弉冉尊に仕えている黄泉醜女と一緒に追いかけて来た。捕まれば、伊弉諾尊の命も危ない。
伊弉諾尊は、山葡萄の蔓の髪飾りを外して投げ捨てると、
蔓はみるみる成長して甘くて美味しそうな山葡萄を実らせた。
すると、伊弉諾尊を追いかけて来ていた醜女たちは、甘くて美味しそうな香りに引き寄せられたのか、
その実に群がり貪り喰らう。
その隙に伊弉諾尊は醜女たちと距離を稼ぐが、山葡萄を食べ尽くした醜女たちは再び迫って来る。

伊弉諾尊は、髪に刺した竹の櫛を抜き、その歯を折って投げ捨てた。
歯が落ちたところからたくさんの筍が生え、再び醜女たちは、その筍に群がり引き抜きながら食べ始めた。
伊弉諾尊は醜女との距離を引き離すが、今度は伊弉冉尊の体に纏わりついていた八柱の雷神たちが、
1500の軍勢を引き連れ迫って来る。
伊弉諾尊は腰に下げた十拳剣を抜くと、走りながら後手で刀を振った。
雷神たちは十拳剣を恐れ、それ以上は近づけない。

やがて伊弉諾尊は、黄泉国の出口のある黄泉比良坂の下まで辿り着くと、そこには実をつけた桃の木が生えていた。
桃の実には悪い物を退ける呪力が秘められている。伊弉諾尊は、その桃の実をもぐと追い迫る雷神めがけて投げつけた。
すると、桃の呪力により、雷神たちは逃げ去ったが、そこへ伊弉冉尊が追いついて来てしまう。

伊弉諾尊は急いで千人がかりでないと持ち上げられない千引岩で坂の出口を塞いだ。
すると千引岩の向こうから、
「愛しいあなたが、こんなことをするのなら、私はあなたの国の人々を一日に1000人殺してやるわ」
と言い、これに対し伊弉諾尊も、
「我が愛しい妻よ、お前がそんなことを言うのなら、私は一日に1500の産屋を建てさせ子供を産ませよう」
と言い返した。

この二神のやり取りが、日本初の呪詛であり、呪詛返しだとされている。

日本では、言葉には霊が宿っているとされる言霊信仰があり、
相手に対して呪いを込めた言葉を発するだけで、呪詛を行なったことになるからだ。
言葉による呪詛は現代でも行われ、敵対する相手に対して、「死ね」と罵る行為も言葉による呪詛である。
     
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★木花咲耶姫の父神から呪詛された天孫・瓊瓊杵尊
 伊弉諾尊の娘である天照大神の孫・瓊瓊杵尊は葦原中国を平定する途中、笠沙の岬で美しい乙女と出会った。
この乙女が大山祇神の娘の木花咲耶姫だった。
瓊瓊杵尊は木花咲耶姫を一目見るなり恋に落ち、すぐさま求婚する。この申し出に大山祇神は大喜びだ。
大山祇神は木花咲耶姫と瓊瓊杵尊との結婚を祝福し、多くの結納品を用意し、
更に木花咲耶姫の姉・磐長姫も瓊瓊杵尊に嫁がせる為、瓊瓊杵尊のもとへと送った。
だが、瓊瓊杵尊は磐長姫の容姿が気に入らず、磐長姫だけを大山祇神のもとへ送り返してしまったのだ。

これを知った大山祇神は、
「妹に添えて姉の磐長姫を嫁がせたのは、天孫の長寿と健康を願ってのことでした。
磐長姫には天孫の命が岩のように永遠に揺るぎないようにとの願いが込められていました。
ですが磐長姫を嫁にせず、木花咲耶姫だけを嫁にしたということは、天孫の寿命も木の花が散るように儚いものとなるでしょう」

その為、今に至る代々の天皇の寿命は、天孫の子孫でありながら人間並みに短くなってしまう。
大山祇神の無念から出たこの言葉が、天孫とその子孫へと続く呪詛の言葉となってしまったのだ。

このように何気なく呟いた言葉が呪詛になる場合もある。相手を罵らなくても、言葉による呪詛は発動してしまう。
     
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★呪術を用いて危険を回避し大和を平定後、天皇に即位
 更に、日本書紀にはこのような記述もある。
神日本磐余彦尊の一行は、どうにか菟田の高倉山に登り周囲を見渡すことができた。
そこから国見丘に敵対する八十梟帥が軍団を従え陣を張っているのが見えた。
このままでは、神日本磐余彦尊が大和へ入るのは難しい。

その夜、悩んだ神日本磐余彦尊の夢枕に天つ神が現れ、
「天香具山の社の中の土を集め、天平瓦を80枚、更に厳瓮(大きな壺)も作り、
天つ神と国つ神など総ての天神地祗を敬って祗り呪詛を行えば、敵は平伏するだろう」

神日本磐余彦尊はさっそく、仲間を地元の農民と変貌させ、天香具山の土を取りに行かせた。
当然のように神日本磐余彦尊を警戒する八十梟帥の兵士が道の警備行なっていたが、
農民に扮した姿を見つけても見咎めることはなかった。
そのまま山に入り、天香具山の社の土を取り無事に戻って来た。

早速、神日本磐余彦尊はの丹生川上で天平瓦と厳瓮を作らせ、
天神地祗に祈り八十梟帥を調伏させた。
この後日談は割愛するが、神日本磐余彦尊は大和を治め、
初代神武天皇として即位する。

神日本磐余彦尊は天つ神の託宣を受けて、八十梟帥を調伏する方法を学んだ。
このように、初代神武天皇誕生には呪術の力が用いられている。
呪術の力がなければ、大和は平定されず天皇家の時代は訪れなかったかも知れない。
     
   ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼

                          呪術と祈祷の日本史

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◆苦肉の策 『三国志演義』

2024-07-14 13:04:30 | Weblog

写真の説明はありません。
三国志 虚と実:偽りの投降は真実で、「苦肉の策」は創作。

現在では、苦し紛れに考え出した手段を言うが、元々は自分の身を苦しめてまでも敵を欺く謀を言う。
赤壁の戦いで、曹操の大軍と対した呉の将軍、周瑜は、武将の黄蓋の焼き討ちの献策を受け入れた。
黄蓋は偽りの投降の手紙を送ったが、曹操が疑う素振りを見せたので、ひと芝居うち、
周瑜と衆目の前で激論し、血まみれになるまで打ち据えられることによって曹操を信用させた。

投降の日、黄蓋は船に枯れ草を積み、油を沁み込ませると幔幕で覆い、曹操軍に近づくと火を放った。
身動きできぬほど船が密集していた曹操軍に燃えた船が突っ込み、曹操は敗走した。
                       




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菜根譚 前集194項

2024-07-14 12:52:54 | Weblog


自宅の紫陽花

山之高峻処無木。而谿谷廻環、則草木叢生。
水之湍急処無魚。而渕潭停蓄、則魚鼈聚集。
此高絶之行、褊急之衷、君子重有戒焉。

山の高峻なる処には木無し。而れども谿谷廻環すれば、則ち草木叢生す。
水の湍急なる処には魚無し。而れども渕潭停蓄すれば、則ち魚鼈聚集す。
此の高絶の行、褊急の衷は、君子は重ねて戒むる有り。
 

「孤高、狭量を離れる」
山が高く険しいところには木は生えない。
であるけれども、巡り流れている谷川があると、草木は群がり生えて来る。
また、水が激しく流れているところには魚は住みつかない。
であるけれども、水が滞り溜まっている谷川の淵があると、魚や鼈などが群がり集まって来る。
この様に、殊更に孤高な行ないや、器量が狭く性急な心を持っていると、
人を寄せつけないことになるので、君子たる者、よくよく戒めなければならない。

 


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◆鍋島の化け猫騒動の基になった史実とは?

2024-07-13 14:44:02 | Weblog

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鍋島家の化け猫伝説は嘉永年間に歌舞伎『花嵯峨猫魔稗史』として上演されたが、
佐賀藩の抗議により公演中止となった。

江戸時代、大ヒットした芝居に、佐賀三十五万石の領主、鍋島家を舞台にした化け猫騒動の話がある。
そのあらすじは、鍋島の家臣、龍造寺又一郎が領主の鍋島丹後守光茂と碁を打った。
形成不利になった時、光茂は、又一郎が便所に立った隙に石を置き替えたが、
そんなことに誤魔化される又一郎ではなかった。

言い争いになり、ムキになった光茂は、又一郎の首を刎ねてしまい、死体を井戸に隠した。
又一郎の母は、夜になっても帰って来ない息子を心配したが、
何の手掛かりもない。すると、又一郎が可愛がっていた猫が、又一郎の首をくわえて帰って来る。

すべての事情を察した母親は、その猫に鍋島家への無念の想いをぶつけた後、小刀で喉を突いて自害してしまう。
すると、猫は流れる血をなめているうちに、体が牛の様に大きくなり、又一郎の首をくわえたまま、
姿を消したという。

その直後から、光茂のもとでは、奇怪な出来事が相次いだ。
光茂が夜桜見物を楽しんでいると、牛ほどもある猫の妖怪に襲われたり、
側室のお豊が、池に飛び込んで魚を食べると云う奇行を繰り返す様になった。
やがて、お豊は化け猫の正体を現し、暴れ始める。
そこで、家臣の小森半左衛門が、決死の覚悟で立ち向かって仕留めると、光茂の病気は全快。
不気味な出来事もピタリと止んだという。
それから、光茂は、又一郎の霊を慰め、龍造寺一家に対して目をかける様になったーーーというものである。
     
     。*⑅୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧⑅*。

このストーリーには、基になった史実がある。
元々佐賀の領主だった龍造寺一族は、親戚の鍋島直茂に一旦実権を預け、龍造寺家の跡取り、
高房が十五歳になれば、実権を返してもらう約束になっていた。
ところが、高房が十五歳になっても政権は戻されない。
このままでは実権は返って来ないと焦った高房が、江戸桜田の屋敷で鍋島直茂の子、勝茂に斬りかかったが、失敗。
割腹自殺をする。

鍋島の化け猫騒動は、このお家騒動をベースに創作されたものである。
      
     。*⑅୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧⑅*。
 
           
                  呪い あなたの知らない不気味な世界 悪魔と心霊の大疑問③

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◆突然歩けなくなった時、それは...... 餓鬼が憑く

2024-07-12 12:09:55 | Weblog

写真の説明はありません。
餓鬼は多く腹の膨れた姿で描かれる 『暁斎百図』  国立国会図書館蔵

柳沢淇園(1703~1758)が伊勢から伊賀へ山越えする時、一人の男と出会った。
その者が慌ただしく言うには、「私は大坂の者だが、どうやら道中で餓鬼に憑かれたようです。
飢えて一歩も進めず大変難渋しております。
何でもいい、食べ物をお持ちでしたらお恵み下さい」という。
柳沢は変なことを言うと思ったが、旅の途中で食物の蓄えもないので、
持ち合わせた刻み昆布を、「これで良かったら」と与えると、その男は喜んで直ぐに食べ始めた。

「餓鬼が憑くとは、いったいどういうことじゃ」と問うと、
「眼には見えませんが、この辺りに限らず、あっちこっちで乞食などが餓死した怨念が残っていて、
餓鬼となって通行の人に憑りつくのです。これに憑かれると猛烈な飢餓に襲われて、
体力がなくなり歩くこともできなくなります。私は度々経験しました」
とのこと。聞けばその人は薬売りで諸国を旅行する者であった。

世の中にこういう事象があるようだ。
後に播州国分寺(兵庫県)の僧侶に訊いたところ、
その僧も若い頃、伊予の国(愛媛県)でやはり餓鬼に憑かれたことがあったそうで、
これを防ぐ為、諸国行脚のおりには、食事の時に飯を少しづつ取っておいて、
紙などに包んで袂に入れておき、餓鬼に憑かれた時の用心をするのだ、という。
変なことがあるものである。
          
                      『雲萍雑誌(うんぴょうざっし』 巻三
     

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喜田貞吉(1871~1939)の『憑物』に拠ると、上の山路で飢餓状態になることを「ダリに逢う」といい、
明治二十七、八年頃までは、その為に食物を用意して旅行したという。
     

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                       江戸時代 怪奇事件ファイル

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