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◆藤原道長の息子として栄華を極めた平等院鳳凰堂を、あの人物の龍の化身が守っている!

2019-04-24 04:30:47 | Weblog

宇治川の流れを引き込んだ池に姿を写す平等院鳳凰堂の建つ場所は、もともと平安初期の貴族で左大臣を務めた源融の別荘だったが、時代を経て藤原道長の所有となり、それから長男の頼通に譲られた。 頼通は永承7(1052)年にここを寺にして平等院と号すると、翌年には鳳凰堂を建てた。
折しも、浄土思想が流行しており、貴族たちは死後の安寧を願って寺院を建てていた。
鳳凰堂とは、本堂である阿弥陀堂の通称で、堂内には阿弥陀如来の座像が安置され、「観無量寿経」に記された極楽浄土の世界を表現している。晩年の頼通は平等院を出家隠棲の場とした為、「宇治殿」と呼ばれた。 余程の執心があったのか、平等院鳳凰堂には、死後、龍となった頼通が、毎夜現れて宝物を守っているという言い伝えがある、龍神として宇治川に棲み、丑の刻(午前1時から3時頃)になると姿を現して見回りをするのだという。
だが、何故頼通はそれほど宝物に固執したのだろう。
頼通は、権力の頂点にあった道長の長男として生まれたが、驕り高ぶることなく温厚な性格で容姿も優れていた。誰からも好かれて家庭も円満、父から譲られた関白の座に就いて50年余年もその地位に在って、補佐役にも恵まれ、承保元(1074)年、83歳の天寿を全うした。
死後に姿を現す者といえば、恨みを残しつつ非業の死を遂げ、怨霊や亡霊となって敵に復讐したり、人々を恐れさせるというイメージが強い。それなのに、誰もが羨む人生を送った頼通が、夜ごと現れる理由は何なのだろうか。
頼通の時代の平等院には、法華堂、多宝堂のほか、現在よりも多くの堂宇が建ち並んでいた。
鳳凰堂の南西には、経典や仏具、そして宝物を納める経堂があったと考えられ、頼通が姿を現すのは経堂だと謂う。それもこの経堂、ただの倉庫ではない。収蔵される経典や仏具は寺の根幹をなすもので、「一切経」を供養する三月三日の法要の日以外は、厳重に錠がおろされていた。
また宝物は、摂関家である藤原氏が集めた繁栄の象徴なのである。 王朝文化のパトロンでもあった頼通は、もしも経堂の収蔵品が散逸することがあったら、それは世の乱れと藤原氏の衰退を意味すると考えたのだろう。臨終が近づいて、息子の師実に「何か気にかかることは」と尋ねられた際、平等院の御堂と、後冷泉帝の皇后となっていた自分の娘だと答えたと謂う。 また経堂には、「この世にはないはずのもの」まで納められていたと謂う。大江山から都に下りては悪事を働いた酒呑童子、大陸から遣って来て美女に化けては貴人を誑かした九尾の狐など、いずれも退治されたそれらの怪物の遺骸が平等院の経堂に収蔵されたと伝えられているのだ。
無論これらは、物語の中だけに登場する妖怪変化なのだが、その様な不安や恐怖の象徴も、経堂に封じ込められていたのだ。 つまり龍神になった頼通は、人々の恐怖の対象だったわけではなく、加護のある龍神として敬われていた。
だがこの経堂をはじめ平等院の多くの建物は、南北朝の戦乱で、中身もろとも焼失してしまった。


極楽浄土の情景を模して藤原頼通が築いた平等院鳳凰堂


藤原頼通木像


                    日本史ミステリー
                       歴史の転換点で起こった「奇跡」の伝説

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