Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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◆旧日本軍のスパイ養成学校 陸軍中野学校

2017-09-06 05:06:25 | Weblog

*極秘の存在だった学校
 陸軍中野学校は1938(昭和13)年に創られた、日本で初めてのスパイ養成学校である。
だが、戦前、戦中は極秘の組織だった。
表門の看板には「陸軍省通信研究所」とだけ書かれていて、
すぐに隣にある陸軍憲兵学校の教官でさえそこで何が行われているか知らなかったという。
当時、ここで学んでいる生徒をスパイだと見抜ける者はいなかったし、軍人とさえ思わなかったに違いない。
彼らは普通の髪形をして背広を着ていたからである。
陸軍の一員ではあっても、あからさまに軍人だと分かる服装や素振りをしていてはスパイとして失格だ。
彼らには一般人に紛れても不自然ではない振る舞いが求められたのである。
そんな中野学校の内部では、生徒たちが情報収集の方法をはじめ、宣伝・秘密通信法・暗号解読・変装など、あらゆるスパイ技術を叩き込まれた。それと同時に、一般教養や専門知識にも力を入れていたのがこの学校の特徴だ。
単純な破壊から高度な政治工作まで、何でもこなせるスパイを目指した教育が秘密裏に行われていたのである。

*マッカーサー暗殺計画を立てる
 中野学校を卒業したスパイは、東南アジアでの秘密工作で大きな成果を上げている。
例えば、インドネシアでは放送と云う手段を用いた。
オランダ語とインドネシア語を使った放送でオランダ軍を心理的に揺さぶり、
インドネシア国民にはオランダに対する反抗心を芽生えさせたのだ。

或いは、ビルマ(ミャンマー)では、独立運動を背後から煽るプロパガンダを行っている。
そうして現地に混乱を引き起こし、日本軍の進軍を容易にしたのである。

更に、中野学校では捕虜になることは恥ではないと教えていた。
「捕虜になるくらいなら死を選べ」が常識だったこの時代としては驚くべき教えだが、
捕虜になったら偽の情報を流して敵を惑わせろと命じられていたのだ。

しかし、多くのスパイを輩出した中野学校も終戦と同時に閉校になった。
ただ、これはあくまでも表向きの歴史に過ぎない。
卒業生たちは身を潜め、もし占領軍が横暴な行いをすれば直ぐに実力行使に出ようと極秘に活動を続けていたのだ。
ほとんどの謀略は未遂に終わっているものの、その中には何とマッカーサー暗殺計画も含まれていた。
計画には少なくとも3つのグループが関わっていたとみられ、大量の武器を隠し持っていたグループもあったらしい。
また、卒業生の1人は身分を偽って、日本を占領していたGHQ(連合軍総司令部)内部に潜入していた。
後に本人は戦犯名簿を手に入れる為だったと言っているが、マッカーサーの動向を探っていた可能性も高いのである。

*今尚明かされない秘密
 今では中野学校の痕跡は何も残っておらず、僅かに東京警察病院に移転された「陸軍中野学校趾」の碑があるだけだ。
とは云え、自衛隊の情報組織が発足した当初から現在まで使われている『秘密戦概論』は、中野学校で使われていたテキストを元にしているという。もちろん時代に合わせた修正は施されているが、謀略の基本は受け継がれているのだ。

中野学校で学んだ学生は2131名で、このうち戦死者は289名、行方不明者は376名だ。
ただ、諜報活動を行う際は偽名や偽の戸籍を用いることが多く、そのまま別の人間として生きた者もいたのではないかと考えられている。中野学校のモットーは「黙して語らず」だ。戦後になっても卒業生の口は重く、なかなか真相は語れないのである。




画像・陸軍中野学校の教室の様子
   生徒は長髪を許されており、スーツ姿の者も多かった

        




                                               本当に恐ろしい地下組織
                                                       日本国内に存在していた組織

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