玄徳道

道を語るブログです。

死道。

2022-05-13 17:55:00 | 考察
人は、生物は死ぬ。

そして、自ら、自己の種を滅ぼす生物も存在する。それらを行う事を自断と呼ぶ。

人類にもその傾向が確かにあるようです。

扨て。

武士道とは、信念に死ぬ事とを見つけたり。

信念に死ねば人はどうなるか。輪廻に帰るのみ。

人の思いとは、信念とは、縛りでもある。

ある宗教を信仰し、教団の中でも地位を獲得し、自らの立ち位置を天国としながらも、癌で死んだり、また事故で亡くなり、死後、行き先は地獄であったと云う伝えを聞いたことがあります。

まあ、死後の世界なんて、自分が死んで初めて判るお話ですが。

今、自殺なる言葉がある。自死した存在はどうなるのか。永遠の自死を繰り返すのみ。無限地獄の如く、永遠のループ。

私の父は、私が幼稚園の最中、蒸発し、撫育を放棄し、借金を作り、行方不明となったが、今から十五年前に、自殺者となって見つかった。

東京の大井町のビルから、飛び降り、足から着地し、内臓と背骨、足腰は崩壊して、死んだ。

その苦痛と苦悩は、魂に刻まれ、永遠の自死の世界に彷徨い、霊と肉体は塵となり、その霊魂の一部は私に宿り、子の私にその苦痛を覚れる。

自死した存在を救うのは、難しい。

神ですら、自死した者は救い難し。

神は、無限絶対、永遠の存在でありながら、人の意思を尊重される。

私がいつも、早く死にたいと思考するのも、吾が父を救わんとする為に、父の因縁と咎を受け入れた由縁でもある。

因果の精算をしながら、坐して道慈の道を歩み真人を欲に囚われず目指さねばならない。

真の人とは金井南龍師によれば、人は、神からの分け御霊を与えられており、その本質的、自己の深奥なる身魂の親神の本質を悟り、行動実践し、自らが神の働きを為す存在は、ミコト持ちと言われる存在となるらしい。

これは、笹目仙人が曰く、大和言葉で、いずのめの身魂となり、神仙道での玄胎と同様にして、死後輪廻の世界に掴まえられない。囚われない存在となる。

死んで神や仙と聖となる、稀なお話でございます。

ある宗教では神の為に死んだり、殉職すれば、神の身元に行けるとされるが、それはまやかし。

阿弥陀仏を信仰し、南無阿弥陀仏をただ、唱えれば多少は感合があっても、救われるなんて、ことは三千世界は存在しない。

救いとは自己に於ける根源への回帰であり、自分自身のみが真に自己を救えるのであると考えます。


人が死んだ瞬間、その人の想念により、人の霊と魂は悲しみの輪廻に囚われる。

人が天に昇るのは、自らの結果であり、人が地獄に堕ちるのも、自らの結果あるのみ。輪廻に彷徨うもまた、その人の結果であり、魂が破砕され、虫となるも、自らの結果でございます。

天地災害で亡くなられた人はどうなるのであろうか。人の生き様は消えて、輪廻に還るのみだあると考えます。

戦果で亡くなられた一体、どうなるのであろうか。人の魂と肉体は、常に繋がっており、肉体が飛散し破砕した身魂、戦争で亡くなった人は、その霊を保持できず、魂は根源に還り、霊は飛散し虫と化すと聞いたことがありますが、真実であろうかと思考致します。

故に、人の存在意義として、戦争はしてはならない。兵劫なる核兵器や科学兵器で人間を殺戮し、滅ぼしてならないと、思考致します。そして、その兵劫が積もり積もれば、人類を滅ぼす、因業の種死となります。


さてさて。
何故、私の親父は、自殺したのであろうか。

借金があったから、心が弱かったから、神なる存在を知る機会が無かったから、優し過ぎたから、思いやりが無かったから、自己を愛し、痛みをそれ以上受けたくなかったから、そして、人に嘘をついたから。

信念に死ぬ事とを見つける。そこに生きる意義がある。それは、宗教であるかも知れない。仕事であるかも知れない。家族であるかもしれない。恋愛であるかも知れない。善事であるかも知れない、悪事であるかも知れない。

自己の生き様を貫ければ、それが、病死でも、寿命でも、死んで地獄に堕ちても本望であろうと考えます。

されど、生きる意義を見出せなく、自らが死を選ぶ。

ああ、人間って大変な生き物であります。

死にたいと、思えば、全てを放棄してして、怠惰に生きる。

借金や人間関係、くそくらえ。なんて思えれば、死を放棄出来るのでしょうが。

しかし、人が病気となり、病いにおける苦痛苦悩により、死を賜りたいとされる思考もございます。

ああ、悲しき世界。しかし、人の世は常に進歩している。

人の文明には、文明による被害もありますが、幸福が確かにあります。苦悩や苦痛を和らげる働きがあります。

されど、人にはいつまでも減らない、苦痛も苦悩があります。

主神は人の幸せに関与しない。人の望みを叶える存在ではありません。

が、我が子が受ける苦痛や苦悩を、取り除く働きをされます。

ああ、ただ、素直に、赤子の如く、神に縋るのみ。

神って何なのか。全ての産み親である。


神は願いを叶えない。されど、吾が子の苦痛や苦悩を決して放置されない。

天は自らを救って欲しいと考える者を必ず救わんとされる。

そして、人身には、どんな悪人でも、私のような魔人にも、神が宿っておられます。

自己の内成る神は、主神と初めて通じて、鳴り響きます。

死を臨む者よ。多くの神人が、死を愛する所以は、親元に帰れるからで御座います。

故に自殺したことがある聖人は皆無。自己の御親神に永遠に会えないから。

死ぬつもりならば、死んだつもりで、全てを放棄し、新たに生まれ変われば、良し。

人の世とは、幸福と不幸とは一瞬の心の持ちようあるのみ。





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秘奥道

2022-05-06 19:31:00 | 考察
物事には必ず道理があり、事に終始があり、人には、天命がある。

一子相伝の神法が有ると云う。神界や神仙界を見聞した者は、その伝聞を信じる。

多くの伝統芸術に奥義があり、その伝授を大切にし、その口伝をまた、大切にされておられます。

それも、善きかな。人は大切な意志を大事にする。

私はひるがえる。

今、日本刀の室町以前の秘術が廃れている。伝統文化が伝わっていない。ゆえに、古刀の再来は、現代では不可能なり。

科学も万能では無く、現代の世に古来の古刀は再現できないらしい。

云わば人を良く斬れる刀は、滅んだ。


ふうむ。やるむ。あるむ。

それは、時代の逆目なり、人の生活の安寧が失くなって滅びる文化なり。

かつて、上古の時代に失われた、鎮魂法帰神法がある。

これを復興したのが、日本霊学の中興の祖とされる、本田親徳翁師である。

その伝統は、長澤雄楯翁、出口王仁師、稲葉大美津翁、友清歓真氏に伝えられ、佐藤卿彦氏、渡辺勝義先生からは、令和の世に残らず。一部の人に伝承もされたが、多くはその奥義を尽くす道が廃れてしまっています。

かつて、長澤雄楯翁の門弟は1万人と云われた。

それが何故廃れたのであろうか。

多くの人は自己保身のための霊能力、超能力、審神力を得ようとして、道を誤ったからで、御座います。

大本教初期、鎮魂帰神術を学び、御魂の進歩なく悲命で倒れた人は、人よりも優れた霊能力を欲したからであります。

大本で鎮魂帰神法を学び、真の神に通じたのは、湯浅仁斎翁、高見元男師(出口日出麿師)北村隆光翁、井上留五郎翁の如き、一部の人で、その他の多く方は、神に通じる事が出来ませんでした。

多くの人は欲望ある禍津神、思凝霊(低級霊)に通じ、本霊が乱れ、気が荒れ、心は、称賛されたい、不思議な力を欲したい欲望に囚われてしまいました。

故に、神人合一の神法と目論んだ鎮魂法と帰神術を出口聖師は、伝授を断念したので御座います。

神に誠を捧げ、人に慈愛を与える人でなければ、神の法は通らず、また、導かれず。

そして、神の法とは、人の心を乱すものではありません。

本来の神の法とは、人の心と病を治す仁術なり。

それは、信仰の道も然り。

大本初発、大本神諭を盲信した人は、神の意を理解せず、その文字のみを盲信したが故に不幸になった。

日月神示に関わった多くの人も、欲に走り興奮し、それを商売とし、神の真心よりも、その預言に囚われ、文字だけを神の意として誤った為に至恩郷に関わった、多少の人は非命に倒れたので御座います。

秘伝や秘儀なるものが、今のネット世界では、金銭のやり取りさえすれば、簡単にめぐりあえます。

しかし、釈尊に秘法があったのか。イエス キリストに秘伝があったのであろうか。

否。

神と人への慈悲と慈愛があったのみ。

役小角と弘法大師空海や出口王仁三郎聖師には、夙根(前世に於ける修行)により、神法を備えておられたが、その基づく心は弥勒の心であり、世界平和、地上天国、ミロクの世、世界の調和安寧を求めておられた。

秘奥とは、自己保身無き、無償の愛と真心なり、と思考致します。


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