玄徳道

道を語るブログです。

清心道

2013-03-03 15:38:22 | 坐道
心を清めるということは、心の欲望を少なくすることです。これには先天坐が最適です。

無欲と簡単に言いますが、これを実現する事を多くの人は不可能と考えるでしょう。また、坐により気質を変化させ、自己を救い、人を救い先天に返るについても理解することは難しいようです。ただ清心については、多くの人が理解されています。

心は長年にわたり、悩み考え、妄想妄念により、かき乱されてきました。長い間、放置してきたものを坐により、心を清めようとしてもなかなか難しいようです。また、長年にわたり欲望の火を燃やし続けたのに鎮火し、いきなり寡欲にはなりません。そこで必要な事は修練です。清心には必ず心を練らねばなりません。寡欲にも心を練らねばなりません。そしてこれらが最初の難関なのです。そして坐とは早急に結果、功候が収められるものではありません。

道を得、成就を希望するならば、堅、誠、恒が必要となります。堅実な意志、誠の心、恒久な継続の力です。

心を練るのには坐が最適であります。はじめて坐る者は気を平にし、心も静かになることはできません。ゆえに、心気が平静を得られるまでには相当日数はかかります。ここでその平静を感じられるまで、続けることができたら、快適を得ることが出来ます。この不思議で、自然に気持ちの良い感覚はどこから来るのでしょうか、自然に発露する内なる神から来るのです。

初坐の場合は必ず雑念や妄念があります。ここで雑念を無くそうと急いではいけません。雑念を忌み嫌い、打ち消そうとすればするほどに、その雑念は増えてきます。逆に心が安定しなくなるのです。心は全てオープンにすべきです。そして方便として、「収視返聴」の工夫があります。

収視返聴とは、外を視る目をもって、我が内を観ます。外を聞く耳をもって、我が内を聴くのです。心の目で、自分自神を観るのです。心の耳で、自分自神の運行を聴くのです。
坐功が堅くそなわれば、雑念は自然と消滅します。ここに至り、寡欲を知ります。寡欲とは不動心であります。そして、無欲とは完全に天理が流通し、人欲が全く無くなることなのです。

「清心に至る自然の坐とは、全ての現象に執着することなく、功を急ぐことなく、効果を求めることなく、強制することなく、吾が自然の心に順(した)がって、平静を以って主と為すのである。全ての現象にとらわれることがなければ、心は自ずと平静となり、願いを求めることがなければ、無心となるのである。坐は天地を運(めぐ)り、万物を包含し、吾は知らず識らずして、大自然の法則に順がうのである。そして万物を育成するはたらきは、みなこの中に包含されるのである。」

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
難しいですね。 (咲くや)
2013-03-03 23:02:53
チャレンジしてみましたが、雑念が多すぎの私です。
気長に続けてみます。
ありがとうございました。
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咲くやちゃん。 (真人臥Z)
2013-03-04 18:32:32
自分が出来る所からはじめれば善いと考えます。

信仰、坐は強制ではありません。何事も維神のままに。そして、素直な心で良心神を感じるままに。
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