かつて、真の悟り、実相世界、涅槃を体現した釈尊は19歳の時に、生きとし生きるもの全ての苦しみを救済すべく、釈迦族の王子の地位を捨て、富貴を捨て、家族を捨て、ありとあらゆるものを捨て、苦行生活に救済の道を求めました。生きるとは、死ぬとは、病とは、老いるとは、彼の心を悩ませた結果の行動です。富もあり、地位もあり、愛すべき人もあり、普通の人間であればとても、捨てられません。釈尊はおそらく直観的に実相世界が何たるかを感じ、現実世界である相対世界(陰陽即ち吉凶、善悪に囚われている世界)に真実の世界がない事を覚り、虚空の中に仏道を求め、普通の人では為し得ない、大いなる放棄を行ったのでしょう。
出口王仁三郎、尋仁聖師も述べておられます。「信仰の為ならば、地位も財産も親兄弟も知己も朋友も一切捨てる覚悟がなくては駄目である。信仰を味わって家庭を円満にしようとか、人格を向上させようとかいうような功利心や自己愛の精神では、どうして大宇宙に開放された真の生ける信仰を得ることができようか。自分は世の終わりまで悪魔だ、地獄行きだ、一生涯世間の人間に歓ばれない。こうした悲痛な絶望的な決心がなくては、この洪大無辺にして、ありがたく尊い大宇宙の真理、真の神様に触れることができようか。」この言葉は真実です。至言であります。
真神に至る道に世俗的な幸福を求めることは断じてありません。少しでも享楽を望み、幸福を望むのであれば、たとえ、長年の修養により丹を練り、丹を成就し自己の中の宇宙を完成させたとしても、欲望の業火ににより丹を破り自らが焼いてしまうのです。
釈尊には釈尊の宇宙が有り、尋仁聖師には王仁三郎の宇宙が有り、人それぞれの役割があり、それぞれが歩みの中で覚悟、覚神を顕わしたのです。ゆえに例え、今ここで家族を、国を、愛する人を捨てたからと言って、悟りが啓ける事は絶対に在りません。そして釈尊が中道をとなえたのは、自己の全てを捨てた苦行生活の修行では悟りを得られないことを悟った結果です。出口聖師も自己愛の精神を否定し、自己犠牲の精神を述べられていますが、彼ほど、人を愛する篤情の持主はなかなかいません。
要は大放棄の覚悟あるのみです。
「真の救世をこころざす者の共通の思いは、人類の罪業一切を一身に担いあがなおうとする悲壮な覚悟である。己の繁栄や権勢、名望を望む心を捨て去り、自己は塵、ゴミのように踏みにじられ卑しめられようとも、自らが望んで背負い、人類の罪業、刧数の弭化、消刧を図ろうとする。」
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上記三カ所押して下さればありがたいです。
神様は好きだけど同じくらい家族や友人も好き。
偏りたくないと思いつつ偏っている私だけど世界平和は祈っています。
時々、大丈夫か、自分
「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という。発してみな節に中る、是を和という。中は天下の大本なり、和は天下の達道なり。中和を致して天地位し、万物を生かす。」
咲くやさんが自己の宇宙を感じ、素直に生きれば、全てが節に中ると思います。
コメントありがとうございます。
自分の宇宙を感じつつ、他の宇宙も尊重するということかしら?
私は平和で穏やかで柔らかな宇宙を感じているの。
いっせいに芽吹くのを待っている感じ。
自分で有り続けられることに感謝です。
ありがとうございました。