goo blog サービス終了のお知らせ 

玄徳道

道を語るブログです。

先天坐道雑記6

2021-10-03 17:08:00 | 私的考察
私の毎日の毎朝は、神棚の榊と六甲山から賜った松の水替え、お玉の水、供えの米の交換から初まり、それから先天坐をします。

毎週日曜日には神棚清掃もします。

朝だから、便を催したら、そのまま、トイレに座り坐(ざ)すりますよ。

なんちゅうこと、するやと。

いやいや、先天坐とは、自然の坐。催したら、トイレに座り、坐し便道するのみです。

排便とは、動植物、人間に於いては、宇宙に欠かせない自然の働きでございます。

坐の働きも、身体の膿を出す働きがあるので、一石三鳥でございます。

身体の毒素を流し、心の滓を回光し、大便所の神との交流がございます。

トイレで坐するには、和式では無理ですが、洋式トイレならば、座る高さも丁度良いのです。

私が昔、岡山県に長期出張となった時、職人と相部屋でしたが、朝、はやく起きて、トイレで坐しておりましたね。

悪しからずでございます。

すみません。ごめんなさい。

先天坐とは自然なる胎児の姿勢を以って回光する、任運自然の天界の秘法です。

かつて老祖は、今からおよそ六万年前に、石門に於いて、先天炁の一炁の光により、普く衆生を救われました。

その時は、老祖の先天炁により、それを浴び、受けただけで、あらゆる生物は無条件で救われました。

ただ、太古の人は純粋無垢で知性が少なく、雑念が無く、魂の合化により、瞬時に救われましたが今の世人は、純粋な人が少なく、瞬時に、炁の繋がれる事が不可能であるので、その純粋さに戻れる様に、老祖は先天坐を降ろされたのです。

さて、道院の多くの訓文に、後天の三宝(精・気・神)先天の三宝(霊・炁・性)と書いてあります。先天の方は、人為が絡めないので、そんなものが、あるなああ、ぐらいの感覚で良いた考えます。

精とは何ぞや。文字にすれば、沢山あるが、簡単に言えば、生命の力です。
何故、見ることにより、精が損なわれるのでしょうか。

人は視る、そして、好みにより、判断し、心が動揺しますね。

人間は知らないが、神の器であります。

視る事は、神視であります

。本来は吾が観ているのでは無い、吾が、内鳴る神が視ているのです。

人間は見る事を当たり前だのクラッカーであるが、見えない存在には奇跡でございます。

見ることの、素晴らしさ。地獄に堕ちた人ならば、その有り難さが身に染みて知れるのですよ。

男子であれば、美女を見て興奮する。女子であれば美男子をみて騒ぐのであります。

人はいずれ骸骨となる。しかし、見る事に精力を尽くすのは、中世より広まり、精気が尽きるまで、欲望を味わい、目が潰れるまで、収まらない。

これを以って、精とは、見る事に因り、尽きるのであります。

見て尽きれば、天の命は施行する事は出来ないので、吾が魂は、大いに損なわれるのであります。

精を保とうと、すれば、その道は単純で、見て心を動かさず、騒がず、静かにする。坐する。動かざる事、山の如しでございます。


気とは何ぞや。簡単に述べれば、血であります。精は気の元であり、血が流れて、気も同様に、流れ、元気であれば、身体から溢れるが如く、人を大きくするのです。

気が損なわれるのは、鼻を嗅ぐにあると言われております。しかし、そこまでの被害は無いとも考えます。

此処で考えるのは、「我が糞は臭く無い。」です。

自分の欠点は気にならないが、他人の欠点はもの凄く気に触る、の意味です。

人は、自分のオナラや自分の排便時の糞は、臭くありません。

しかし、他人のオナラは死ぬほど臭く、排便後などは、共同トイレなどは、どうしようもありません。

気は息でもあり、臭い所で深呼吸も、全集中の呼吸もしにくいです。

何故なのでしょうか。

簡単な事です。

人は、皆、自己の欠点や悪癖などを知りつつ、隠し、それでも、自分は、優れていると、己を愛しております。決して悪い思考では、ありませんが。
されど、我が子の糞ならば、平然と出来るのに、知らん他人様ならば、世が滅びるくらい、臭く感じ、忌み嫌うのです。

これを以って、気が平均にならず、流れる気が消耗する事になると考えます。

くさい臭いを嗅ぎ、血が踊り、呼吸が暴れ、気が乱れるのです。

気を自己に溜め、回天しようとすれば、志を明らかにする事であります。

もし、貴方に生きる気力が、無いのは、目標を明らかにしていない為であります。

志とは、自己の小宇宙の爆発の行き先。自己の限界を越えて、辿り着く、目標。

志は気の師であります。ゆえに、人はその目標を掲げる以上、衰えないのであります。

さて、最後の三宝の神とは如何に。

神とは、精神、神経。そして、吾が内鳴る神でございます。

人体における神の働きは、動作です。

無為の動作、有為の動作。

消化排泄は無為なる神の働きです。

有為では、運動なる働きです。

様々な関節があり、多様な働きをする人体は、神の器でございます。

精が集まり、気が働き、神が凝ります。

神が凝り固くなり、全集中すれば、呼吸は、「地球と吾、宇宙の同化した呼吸となるのです。」即ち、胎息。先天の呼吸でございます。身体の全細胞、五十六億七千の小身体が呼吸するのでございます。

さて、人体の神を損なうのは、聞く事。そして、外の声です。

人間の快楽で凄まじいのは、オベッカでございます。

人から尊敬される喜び。人から誉めてもらえる愉悦。人を見下す、興奮。人から慕われる快楽。

それらは、言葉となって、耳に入り、心がそれに囚われる。

人の心がそれに囚われたら、神は去るしかないのです。

人の心が、私欲や嗜好で一杯ならば、悪魔がそこを占領するのですね。

悪魔は、人の弱い所に囁きます。

かつての歴史を振り返れば、権力者に取り入る言葉により、多くの聖人や賢者は殺されたのです。

三国志の諸葛孔明は、劉備玄徳の子、劉禅に述べます。

「国が滅びる所は、君主が賢人を遠ざけ、小人(オベッカ大王。金のなる木に取り入る輩。)に、親しんだ所以であり、国が興隆する所は、小人を遠ざけ、賢人に親しんだ所以であると。」

賢者や聖人の言葉を聴き、反映すれば、世は栄える。

小人や愚人の言葉を聴き、反映して、国を滅ぼすのである。

故に、聞く事により、人を殺す者あり。人を不幸にする者もあり。そして、神は散り、帰り、失うのであります。


まあ、人は映画や、テレビ、ユウチュウブを見るのが好きであります。

人は匂いを楽しむ文化人であります。

音楽を聞き楽しむも人であります。

出口日出麿は、「良く見て、良く聞き、良く嗅いで、良く悟る」なんて感じで述べており、全て善き方向で、見て 聴き、嗅げば、精・気・神の三宝は集まり、すべからく先天に還りますよね。

しかし、ただ生きているだけの人間は、見て、精を失い。嗅いで、気が損なわれ。聞いて神を散らす。

そして、悲しみの海、輪廻へと還り、生まれ変わるですね。


やれやれだ。


私は今世で必ず、輪廻から脱却する。それが、吾が志しでございます。

悲しみの海が嫌とかでは無いです。

老祖の恩に報じる為であります。全ての悪意を喰らい尽くす為に。

私は無能で、幼い時は発達障害で、小学一年生の時は、テストがオール0点。テストの意味がわからんかった。身体は弱く、心は大悪魔。最悪でした。

もし、深見青山(道名、正瑃)さんの著書に会うより、先にオウム真理教を知ったならば、(仙台に住んでいた学生時代、よく、家にオウム真理教のチラシが入っていました。)その業火の渦に巻き込まれてしまい、富士の教団で、頭に電線を巻き、イカレテいたかもしれません。

私の救いは、済仏さん。遠き縁を忘れる事無く、私を導いてくれました。

救いと言えば、吾が師、老祖。

そして、正式な聖号が「青玄宮一玄真宗三元始記太乙先天老祖」略して、至聖先天老祖の炁が私を救ってくれました。

さて、老祖に甘えるわけでは、ありませんが、見て、聞き、嗅ぎ、楽しんでも、度を越えねば、過ぎねば、良いじゃねえべか。

見て、静かに見れば。

嗅ぐ、良い匂い、臭い匂いありき。そして、平かな心で接すれば良い。

聞く、良い言葉を聴く。悪い言葉を聴き流す。


さてさて、白衣観音蓮台聖が言うには、「老祖とは、先天の炁であり、いわゆる炁胞でございます。人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法るのであります。自然とは、先天の炁でございます。天の日月星辰は、老祖がこれを分布配列したのであり、これが大いなる先天炁の世界でございます。老祖は、そこにおられるのです。万物は皆、その先天の炁がこれを孕み、育てたものであります。
故に道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じます。
吾が師(老祖)が化するものとは、万劫を経ても滅びる事はないのです。数千万紀(一紀は十二年)を経てもその化育の跡を留めないことは、ないのです。生物においても、これを知る事が出来ます。人の霊性はもし、虚に返ることが出来れば、喩え大災劫に会っても、少しも損なわれることはないのでございます。

まあ、老祖の道は難しく易しくは無い。天界最高の学府と述べるだけはあるさあ。

されど、アホで馬鹿で、間抜けな、私は坐を一筋にしている。

頭が悪い私が、最近、太乙北極真経の日訳文を読んでいます。

(元々は漢文)難しい漢字をを辞書を引きながら読みますが、気持ちよく、蕩然となり、意味が何と無く、理解出来るような感じの清涼な感覚を得られます。

神社に参るような同等な感覚を得られます。

当然に太乙北極真経を演じた演経録を参考にしますが。

老祖が伝えられた、真経は、人為による不明と誤りを防ぐ為に、意味を訳し、発表することは、禁じられております。

ゆえに、真経の意味を述べることは出来ませんが演じることは出来ます。

北極真経の参考書的な感じが、演経録でございます。

しかし、演経録は、多くの経典や聖人の教えで例えている為に、分かり易いようでまた、難しい感じも致します。

昔、正備(現、東京総院会長)さんから、頂いた、英訳北極真経を日本文に訳したものは、ストレートで比較的、演経録よりもわかりやすいと考えます。

道院と縁が有れば、東京総院にお問い合わせ下さいませ。

もし、英語が堪能であれば、英訳真経を読んでみるのも一興であるかも知れませんね。


日々の坐を 新たな気持ちで 為しながら 愚かな我を 省みる日々。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする