南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

自分が小さな子供だった頃

2006-02-17 19:08:36 | 故郷
今から40数年昔の頃、母に連れられて、神社のお祭りに行った時
の写真です。小川の堤の道はまだ砂利道で、小石で遊んでいるみ
たいです。そのころ母はまだ20代の半ばで、豊橋市の杉山という
小さな村落にある農家から、田原の駅前通りにあるお菓子屋に
嫁いできたばかりでした。

そのお菓子屋(私の実家)は、いろんな種類の和菓子を作ってお
りました。饅頭や、柏餅、桜餅、ういろう、羊羹、落雁、煎餅、
パン、水飴、など数えきれないほどの種類のものを作っていまし
た。夏にはかき氷、冬には関東煮(おでん)、みたらしだんご、
などいろいろやっていましたが、今では駄菓子屋になってしまい
ました。

そのお菓子屋には、まだ祖母がいて、父親の弟もまだ同居してい
ましたので、家が窮屈だったのでしょうか、私を連れて、よく
実家の農家に帰っていました。その農家は、杉山という駅から
歩いて5分くらいのところにあるのですが、そこは私にとって
ワンダーランドでした。

牛や山羊がいる小屋のあるところから入っていくと、広場があり
ます。その広場を取り囲むように母屋や、離れの建物が並んでいます。
庭の片方はそのまま、みかんの木が生えている丘につながり、
小道を登っていくと、いろんな畑があって、一番上には苺の畑が
ありました。

鶏がいたり、うさぎがいたり、親戚の子供たちもいっぱいいて
それはそれは楽しい毎日でした。夏には、虫をとったり、畑仕事
を手伝ったり、牛車に乗って、誰かのお葬式の火葬場まで行った
記憶もあります。このへんは、まだサトウキビから砂糖を作って
いて、サトウキビ畑で、収穫を手伝ったこともありました。

戦争が終わってまだ10何年かしか経っていなかったので、戦争の
傷跡もあちこちに残っていました。その農家のみかんの木の生え
ているあたりには、まだ防空壕がありました。芋とかの貯蔵庫と
して使っていました。

母はよく歌を歌ってくれましたが、軍歌も歌ってくれました。
豊橋が空襲になったときの話とか、畑にいるときに、アメリカの
艦載機が突然撃ってきて木陰に逃げたというような話をいつも聞い
ていたので、自分も戦争を実体験したような気になったものでした。

母は、お菓子屋の仕事はやらずに、近くの工場に勤めていました。
炒りごまとか、昆布巻きを作る食品工場でした。何度か過労で入院
したこともあるのですが、定年になるまで働き続けました。

私が東京の大学に行くと言ったとき、とても寂しそうでした。田舎
にいてほしいと思っていたみたいです。大学を卒業して、教師の
資格をとり、田舎に帰る事になった時は、すごく喜んでいました。
しかし、単位のミスで大学を卒業できず、教師になって田舎に帰る
ことも不可能になりました。

そしてやがて、シンガポールに。母親との物理的な距離はどんどん
離れていきました。8年くらい前に、両親をシンガポールに遊びに
くるように呼んであげようとしたのですが、パスポートを取るのに
手間取り、そうこうしているうちに母は糖尿病になり、父は歩行が
困難になってきたので、シンガポールに来るという夢は消えてしまい
ました。

今、母親は、田舎の病院に入院しています。たびたび入退院を繰り
返していたのですが、だんだん病状は悪化しているようです。実家
にいる弟から、メールで知らされてくる情報で、早く病院にお見舞い
に行ってあげたいなと思うのですが、シンガポールと田舎の距離の
隔たりがとても大きいです。

「もしも何かあったら来てくれるかなあ」と母はそんな悲しいこと
をよくつぶやいていました。明日、東京にいる下町娘が私の代りに
日帰りでお見舞いに行ってもらうことになっています。

こちら留守にしてしまうと、仕事が滞ってしまい、会社がおかしく
なってしまうことも避けなければいけないし、母親のことも心配です。
何とか母親には元気になってほしいと思います。
こういうときって海外で仕事をしているのはちょっと大変です。


2 コメント

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何とまあ、可愛い子でせう。 (へいたらう)
2006-02-17 20:02:56
中国で発掘された壷には、「男の子なんだから、どこに行っても、がんばんなさい。月はアナタの所も私の所も同じように照らしてくれているのだから」とか何とか言う詩が彫ってあったそうです。



いつの時代も、母親とは遠きに居る我が子を思わぬときはないのでしょう。



ご健闘をお祈りします。
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へいたらうさん、お帰りなさい (南の国の会社社長)
2006-02-17 20:53:47
この写真の男の子は、親元を離れて、はるか遠い異国にまで行ってしまったのですね。このあたりは、武田鉄矢の「母に捧げるバラード」とか「思えば遠くに来たもんだ」という歌の内容ともちょっとかぶりますね。場所は違えど、母と子の関係は普遍的なものがあります。
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