南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

お盆の里帰り

2007-08-15 23:49:47 | 故郷
東京から新幹線のこだまに乗って、豊橋まで来ました。
この上の写真は、豊橋駅前のホテルの部屋からの景色です。
私の郷里は愛知県の田原市なので、最寄りの駅が豊橋と
いうころになります。

豊橋に着く前に東海道線の景色を見ていたのですが、
これまでに何度東海道沿線の景色を見てきたことでしょう。
大学で東京に出てきてから、年に5往復くらいはしている
ので、これまでに200回以上、東海道沿線の風景を見た
ことになります。

そういえば、小学生の頃、なぜか東海道53次を暗唱でき
るようになっていました。小学校の時の地図帳に東海道
53次の宿場が描いてあり、それを記憶したのです。「江戸、
品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、
小田原、箱根、三島、沼津...」という風に、最後の「京」
までの全部で53の地名。それを意味もなく暗記するという
ことで、それを自分の知的資産(?)にしていました。

東海道53次の宿場の「吉田」が今の豊橋です。ここは三河
の国。かの徳川家康も、織田信長も、みんなこのへんを
通っていきました。武田軍が、織田信長の鉄砲隊にやられ
た長篠の戦いの戦場は、豊橋からずっと山のほうの場所で
した。そういえば、今の大河ドラマの山本勘助もこの豊橋
の近くで生まれています。松平健さんとかもこの近くですね。

豊橋に着く前に、掛川を通ってきたのですが、掛川といえ
ば、去年の大河の山内一豊の領地だったところです。それ
まで近江長浜城の城主だったのですが、掛川5万一千石の
城主を命ぜられます。このときに妻の千代さんはどういう
気持だったのだろうかとふと思いました。馴染みのある
近江に比べれば、掛川は見知らぬど田舎。そんなところに
行くと言われた千代さんは複雑な気持だったのだろうなと
思います。さらに掛川から、さらに当時の僻地である土佐
への異動に関しては、さらに複雑な気持だったのでしょうね。
いくら出世のためとはいえ、どんどん未知の土地に移され
ていくのはとっても寂しい気持だったのでしょうね。

この町も戦争の時には空襲で一面の焼け野原になりました。
豊橋の隣町の豊川市には、海軍の軍需工場があったので、
そこも大空襲がありました。母親の実家は今は豊橋市に
なっていますが、田原市の近くの農家でした。空襲の時に
はそらが真っ赤に見えて、豊橋のほうから空襲で焼けださた
人たちが走ってきたとよく言っていました。今は、平和な
風景ですが、過去にはいろんなことがあったのですね。

たまに田舎に帰ってくると、今まで忘れていたことを思い
出したりします。時間の流れがぜんぜん違うので、今までの
生き方を反省させられたりもします。なんか精神的なバランス
を取り戻せるというようなそんな感じです。