南の国の会社社長の「遅ればせながら青春」

50を過ぎてからの青春時代があってもいい。香港から東京に移った南の国の会社社長が引き続き体験する青春の日々。

あの車の事故から一年がたって

2006-02-18 01:30:39 | シンガポール
あれ、前の車が停まっている!ブレーキ!止まれ!あ、
間に合わないかも。ぶつかっちゃう。あ~、もうだめ!
がしゃ~ん。...

シンガポールを東西に横断しているPIEというハイウェイの
ユーノスという出口付近で、追突事故を起こしてしまったのは
ちょうど一年くらい前のことでした。

日曜日の夕暮れ近く、家に帰る途中でした。前方で別の事故が
あり、そのために停車していた赤いニッサンサニーに、私の白
の三菱のワゴンが停まりきれず、衝突してしまったのでした。

シンガポールで免許を取ったのは1999年の7月。それまで日本
では免許を持っていませんでした。車の免許は一生とれないな
と諦めていたんですが、シンガポールで挑戦し、何とか免許を
とることができました。それからしばらくはペーパーだったの
ですが、一昨年の12月、それまでいた前任者が帰任してしまった
ので、私が車を運転しなければならないということになったの
です。

教習所で習ってから何年かのブランクがあり、しばらくぶりで
車を動かすのは恐怖でした。駐車場から公道に出るのもまた恐
怖でした。一般道からハイウェイに乗るのもまた恐怖でした。
そんな恐怖を何とか乗り越えながら、3ヶ月もすると、だいぶ
慣れてきて、調子に乗ってスピードを出すのが楽しくなってし
まったのでした。

当日はハイウェイを100キロくらいのスピードで走っていました。
車があまりいなかったので、スピードをあまり落とす事なく、
出口に向かうために、一番左の車線に寄りました。前方に車が
見えていましたが、当然動いているものと思っていました。
ハイウェイにまさか停まっている車があるということは考えも
しませんでした。

気付いたときにはすでに遅く、急ブレーキも間に合いませんで
した。すぐに思い切り急ブレーキを踏んでいれば、あるいは間に
あったかもしれません。しかし、最初は半信半疑だったので、
それほど強くブレーキは踏みませんでした。事態が緊急度を増す
に従って強く踏んでいったという感じです。

車にあまりなれていない上に、事故とは生まれて初めての経験で
す。とんでもないことをしてしまった。もう人生終わりだ!と
頭の中が真っ白になってしまいました。どういう対応をすれば
よいのか、それもこの異国で、と何が何だかわからなくなって
しまいました。

ハイウェイの出口付近は路肩がわりと広くとってあったので、
とりあえず、車を路肩に寄せました。相手の車も、しばし遅れ
て路肩によりました。路肩によって停車する場合はハザード
ランプをつけなければならなかったのですが、混乱している私
にはそんなことさえ考える余裕はなかったのです。

車を路肩に停車し、車の外に出ました。前の車から降りて来た
のは女性でした。小学生くらいの男の子が同乗していました。
車の左後部がかなりへこんでいましたが、怪我などはお互いに
まったくありませんでした。私のほうの車は、右前方の方向
指示ランプのあたりが壊れただけで、損傷はわずかでした。

おどおどしている私に、「あとは保険のほうで全部やってくれ
るので、あなたは全然心配しないでもいのよ」みたいなことを
言ってくくれました。そして、お互いの連絡先、保険番号など
を確認する感じでした。

その時気付いたのですが、前方でバイクと車の事故があったよ
うでした。バイクに乗っていたらしき女性が路肩で泣いていて、
警察やら、救急車やらが来ていました。

すぐそばに警察がいたのですが、私たちのようなマイナーな
事故のことは勝手に当事者同士で処理して、というような態度
でした。その女性は、携帯のカメラで、証拠写真を撮りだした
のですが、私もたまたまデジカメを持っていたので、相手の車
の破損状況とか、ナンバープレートとかを撮影しました。

翌日、車を事故センターに持っていき、そこで事故の報告書を
作成し、それが保険の会社に行くということでした。それから
ちょっとでシステムが変わり、自ら事故センターに行って報告書
を作るという必要がなくなり、修理会社が代行してくれること
になったみたいです。だから私はシンガポールの事故センター
に行った最後の人間の一人ということになります。

映画とかだったら、その女性とおつきあいが始まるという展開
もあるのでしょうが、現実はそういうことはありませんでした。
事故処理のために、何度かメールとファックスで、情報を交換
したりしました。その時に「大変申し訳ないことをした。お子
さんは大丈夫だったでしょうか」というようなことを書いたら、
「まったく大丈夫なので、あまり気にしないで、安心して下さ
い」という返事が来ました。いい人だったのでよかったです。

大事に至らなくてよかったと思います。社長として慣れない
会社の運転を始めたばかりの頃だったのですが、自動車運転で
もいろいろ経験させてもらって、勉強になりました。この年に
なってこんないろんなことを経験させてもらって、神様に感謝
ですね。

しかし、スピードの出し過ぎには注意しましょう。

シンガポールのバレンタインデー

2006-02-14 21:39:46 | シンガポール
今日は世界的にバレンタインデー。日本はバレンタインデーというと
女性から男性に思いを伝えることのできる日ということになっていて、
女性の皆さんは、義理チョコを誰にわたしたらいいのかで悩まれた人
も多いんではないでしょうか。この日、大変なのは女性で、男性は
チョコレートを心待ちにしていればよいというのですから
気楽なものです。

しかし、このチョコレートの風習は日本独自のものであり(他の国に
もどこかあるかもしれませんが)、世界の大半のバレンタインデーは
まったく違うのです。ということをわかっていただきたいのです。
日本にいるとこういう現実がよくわかりません。日本の常識は世界の
常識とは違うのです。

世界各地のことは正確にはわかりませんので、現在の居住地のシンガ
ポールのことに話をしぼりますが、上の写真は昨日の夜通りかかった
花屋の店先の様子です。スマップの「世界に一つだけの花」じゃない
けれど、いろんな花が花束になっていました。

これは翌日のバレンタインデー用の予約済みの花束です。それぞれに
予約した人の名前がついています。女性がこれを男性に贈るって?
いえ、違います。シンガポールでは、逆で、男性から女性に贈るの
です。とくに男性からときまっているわけではありませんが、大体は
男性が花束か、あるいは一輪のバラの花を女性に贈ります。

義理チョコならぬ、義理花というのはあまりありません。贈る相手は
愛している人だけです。日本のバレンタインデーは国民的社交的
イベントですが、シンガポールのは、恋人たちのための熱い一日です。

この花屋の店先に置いてあった花束は、今頃は、恋人たちの手元に
渡って、ロマンチッックな雰囲気をさらにもり立てているのでしょう。
日本のチョコレートは、それに比べて何か現実的であり、子供っぽい
感じですね。花束のほうがロマンチックの純度が高い気がします。

シンガポールのバレンタインデーで最も重要なのは、花を贈るという
ことよりも、実はバレンタインディナーというスペシャルな食事です。
シンガポールの大部分のレストランは、バレンタインデーのカップル
のために特別メニューを出します。装飾もちょっとロマンチックにし
て、世界は二人のためにという雰囲気に包まれます。高級レストラン
は予約でいっぱいになります。

このブログを書いているまさに今頃が、バレンタインディナーのピー
クタイムです。うちの下町娘は東京にいるので、本日の
バレンタインディナーは残念ながら食べられません。
もちろん私も一人でバレンタインディナーを食べるということはしま
せん。

そういえば、シンガポールに来てまだ間もなくだった頃、たまたま
バレンタインデーの日の夜にホテルのコーヒーショップに食事に行
きました。そしたら何とびっくり、テーブルはカップルが整然と並び
静かにディナーを食べていました。ピンク色の風船などの飾りつけが
施されていて、見るからにロマンチックな空間になっていました。
これは日本でいえば、クリスマスイブの雰囲気に似ているなと思った
ものでした。

そんな光景を傍目に見ながら、私はひとりさびしくペンネアラビ
アータを食べたのでした。

さて、私たちのバレンタインデーは、遠く離ればなれになっている
ので、チョコレートをもらうことも、花束を贈ることも、ディナー
をすることもできません。昨日は丁度満月でした。シンガポールの
空はクリアーに晴れ渡っていて、満月が夜空にくっきりと見えてい
ました。

東京の下町娘に聞いたら、曇っていたけど、ちょっと
月が見えたと言っていました。遠く離れていても、同じ月を見て
何かを共有します。ひょっとしたらそういうほうが花やチョコレート
よりもロマンチックなんじゃないのかな、なんて思ったりします。
とのろけてしまいましたが、バレンタインデーに免じてお許しを。

世界中の恋人たちがみんな幸せになれるように祈ります。

シンガポールのタイプーサム

2006-02-12 15:07:09 | シンガポール
昨日の土曜日(11日)、シンガポールのオーチャード通りを車で走っていたら、
かなり渋滞していました。どうしたんだろうなと思ったら、ヒンドゥー教の奇祭
タイプーサムが行われていて、お祭りの行列が道路を横切るために交通規制が
行われていたのでした。

インド人街のヒンドゥー寺院(スリ・スリニバサ・ベルマル寺院)から、ドビー
ゴートのあたりを通り、リバーバレー通りの近くのスリ・タンダユタバニ寺院まで
苦行者がカバディという重い飾り物を背負って練り歩きます。このカバディという
ものは、身体を覆い隠すような半球状のもので、主に胴部と肩などで重さを支えて
いるのですが、カバディから出ている何本もの針が身体を刺していて、カバディの
重さは、針で身体にも伝えられます。針と言ってもかなり太いもので、バーベキュー
の串か細い釘くらいの太さがあるので、身体に突き刺されるだけで、かなりの苦痛
です。

見るからに痛々しい格好なのですが、血もでないし、苦行者は痛みを超越している
かのように、ときにはカバディを大きく揺らしたり、ぐるぐると跳ね回ったりしま
す。苦行者の周りには、介添人を初め、何人ものサポーターが一緒に歩き、苦行者
を励ましたり、歌を歌ったりします。

カバディ以外にも、両頬を串で貫いたり、唇から舌を串で貫いたりしている苦行者
もいて、初めて見るとびっくりします。私はもう何度も見ているので、だんだん
慣れてきましたが、目の前で見ると、とても痛々しくて、なんでここまでするのか
なあと思ってしまいます。

タイプーサムは前夜から始まります。何年か前に、日本から出張で来たHF氏と夜中
にインド人街に見に行ったのですが、寺院の付近の異様な光景は忘れられません。
インド人街のヒンドゥー寺院のあたりは、前の晩からものすごい人だかりでした。
深夜になって、寺院から、頭の上に金色の壷を乗せたインド人たちが次々と出て
きます。これも特別な意味があるのでしょうが、よくわかりませんでした。

宗教行事というのは、部外者には異様な情景として映ります。ヒンドゥー教は新興
宗教のカルトではなく、おそらく数千年の昔から行われてきている行事なのでしょ
うが、夜中に見るその異様な光景は不思議なものでした。人々は黄色っぽい服を来
ていて、神妙な顔をして、黙々と歩いていきます。そして頭の上には金の壷。それ
を片手で支えている、その姿は、それだけでかなりシュールです。

時間がたつにつれて、その中に、舌やほほに串刺しをした苦行者が見受けられる
ようになります。いわゆるトリップ状態になったような感じの苦行者もいました。
翌日は、一日かけて、カバディを背負っての練り歩きとなります。インド人街から
リバーバレーロードの終点まで、距離にしたら2キロ程度なのですが、カバディを
背負っているのでかなり遅々とした速度になります。

苦行者は数日前から食事を絶っているので、それだけでもかなり危険な状態です。
本国インドでは、あまりに危険すぎるというので、禁止され、世界でこの祭りが
行われているのは、シンガポールとお隣のマレーシアのみということです。タイの
プーケットにも似たような苦行のお祭りがあります。

2、3年前に、インドで仏陀の初期の像を見たことがきっかけで、仏陀関係の本を
何冊か読んだことがあります。ヘルマンヘッセの『シッダールタ』とか、瀬戸内
寂聴の『釈迦』とかと同時に、手塚治虫の『ブッダ』を読みました。最後のものは
漫画なのですが、この中でブッダが修行中に、苦行者のグループに入っていた時の
話が出ていました。

苦行者たちは、死すれすれの厳しい苦行をします。そしてかなりの人がそのまま
死んでいってしまいます。ブッダも死の直前までの体験をしました。そしてある時
思うのです。はたして苦行で本当に人が救えるのか、と。苦行をして、自分が死ん
でしまったらおしまいだ、と。

タイプーサムの苦行者は、ブッダが生きていた時代の苦行者とあまり変わるところ
がありません。一つ間違えば死に至る危険な苦行です。自らを痛めつけて、悟りの
境地に一歩近づくのかもしれませんが、部外者の私たちには、そんな馬鹿なことは
やめなさいと言う権利はありません。その人たちの価値観であり、伝統なので、
それはそれで認めるしかないのでしょう。

シンガポールという国は、このようなエキセントリックな宗教行事を容認していま
す。イスラムの行事もあれば、仏教の行事もあります。それぞれが、他者から見れ
ばへんてこりんな儀式ばかりなのですが、そういうのが共存できているというのが
面白いところです。

Love Letter

2006-02-01 22:20:32 | シンガポール
ここに並んでおりますのは、旧正月の時にのみ出回る定番のお菓子です。
真ん中の列に見えます筒状のもの、これをラブレターと称します。
筒状に手紙を巻いたような形ということなのでしょうか、薄いせんべい
をぐるりと筒状にして、中は空洞になっております。

これは食べるのが難しく、すぐに崩れ落ちてしまうので、なかなか奇麗
に食べることができません。食べる端からもろくも崩れさっていくその
はかなさ。大切に扱わないとすぐに壊れてしまうそのもろさ。このラブ
レターというお菓子を食べるときは、いつもそんなロマンチッックな
思いに浸ってしまいます。

その昔(というかつい最近までそうだったのですが)、携帯電話とか、
メールとかがなく、離れた二人が想いを伝え合うのは、もっぱら手紙で
した。文字で想いを伝えるために、人は表現に工夫をこらし、少しでも
想いが印象的に相手に伝わるようにしたのですね。

現代は、メールの時代になり、情報は瞬時に伝わるようになりました。
遠く離れていても、携帯で会話することができるようになりました。これ
は通信技術の進歩のおかでです。私たちは多くの便利さを得ました。
しかし、同時に失ったものも多かったのではないかという気もします。

平安時代の宮廷人たちは、短い言葉に切ない気持ちを乗せて送り届けよう
と努力しました。今よりもはるかにゆったりとした時間の感覚のなかで、
言葉のひとつひとつを丁寧に扱い、言葉に輝きを持たせようと苦労して
いました。

メールの時代になり、携帯の時代になると、ゆったりとした思考をして
いる余裕がなくなり、言葉を浪費していかなければならなくなりました。
即座の反応が評価され、言葉のひとつひとつは乱暴に扱われるようになっ
てしまったのです。

私たちは、今、ブログを通して、不特定多数に向かって言葉をやみくもに
まき散らしているわけです。昔の人の気持ちに立ち返って、言葉をもっと
丁寧に扱わなければいけないなあと、ラブレターのお菓子を眺めながら
思ったりする今日この頃でした。

以前、「With Love」というドラマがありました。メールがきっかでで出
合う二人というお話しですが、私の妻の下町娘はこのドラマに
かなりはまっていました。ちょっとおとぎ話のようなプラトニックな話
だったのですが、あのドラマでは、メールの文章が極端に短かったですね。

ほとんどワンフレーズのようなメッセージ。しかしその言葉が相手の心に
大事な想いとして届く。現実の世界では、そういうのは説明不足で要らぬ
誤解を生むというケースも多いのでしょう。相手の言葉をそこまで思いやる
という余裕もなくなって、私たちはずいぶんせっかちになってしまっている
のでしょう。

今、思い出したのですが、私は大学の時の卒業論文で、ジョナサンスィフト
を取り上げました。あの「ガリバー旅行記」の作書です。言い遅れましたが
私は英文科でした。卒論のタイトルは「スィフとの言葉感覚」というような
ものだったと思います。

卒論の審査の先生の一人に、「知的生活の方法」でブレークした渡部昇一
先生がいました。スィフトに間して書いたのですが、内容は、言語論でした。
丸谷才一さんの本やら、外山滋比古さんの本やら、古今東西の言語論を引用
したりして、渡部昇一先生には「参考文献の数だけは大したもんですね」と
変なところを褒められたりしたものでした。

その卒論の中でスィフトの何を書いたのはか忘れてしまいましたが、研ぎす
まされた言葉の組み合わせのようなものを語ったのではないかと記憶して
います。しかしそれにしては今の私の文章が未だそういう域に達していない
のは反省すべきことではあります。

旧正月の休みの最終日

2006-01-31 15:05:29 | シンガポール
こんなに長い休みはどうして過ごしたらよいのかと心配
していたくらいなのですが、気がついたらあっという間に
最終日を迎えていて、多少の焦りを感じております。
この休みの間には、いろいろ溜まっていた仕事も片付けな
いといけないと思いながらも全く手がつけられず、ブログ
もどんどん更新できるかと思ったらそういうこともなく、
だらだらと過ぎ行く時間をただ呆然と見送るばかりで、
まったく情けない結果となりました。

しかしながら、生産性はきわめて低かったのですが、のん
びりとできたという点においては、まあよかったと思って
おります。静寂の4日間でした。

昨日と今日は、近くのイーストコーストパークに行って
ジョギングをしてきました。と言っても、30年くらい走って
いなかったので、なかなか長いことは続きません。すぐに
息が苦しくなってしまうので、少しずつです。海岸のビーチ
沿いの道を走ったり、歩いたりするのは気持ちのよいもの
です。

上の写真は、本日のイーストコーストパークの風景ですが、
海沿いにテントがいくつも見えました。たぶんマレー系の人
たちなんでしょうが、彼らは旧正月はただの長い休みという
意味しかないので、この休みの間、この海辺でキャンプをして
いたのかもしれません。何か気持ち良さそうでした。

キャンプと言えば、以前、屋久島にロケで行ったとき、山の
中で何泊かキャンプしました。テントを張ってキャンプして
いたら、台風が来ていて、テントが吹き飛ばされそうになり
怖くて寝られませんでした。屋久島の山の中で転々とキャンプ
したのですが、時々雨が降っていて結構大変でした。台風の後
で川の水が増水していて、川を歩いて渡るときに膝くらいまで
水に浸かってしまうので、防水の靴とか履いていても全く意味
がありませんでした。昔の戦争の時は雨の時とかさぞかし大変
だったのだろうなあとその時思ったものでした。

話は戻りまして、シンガポール。イーストコーストはかなりの
人がぶらぶらと時間を過ごしていて、平和な空気が漂っていま
した。犬の散歩をしている人、ピクニックシートを敷いて日本
の花見のようにみんなで食事をしている家族、ギターを弾いて
いる男に合わせて歌を歌っているフィリピン系の男子グループ、
ローラーブレードをおそるおそる練習している中国系の中年の
オヤジさん、ただぶらぶら歩いているインド人の家族、海水浴
をしている子供を見ながら波打ち際に足元まで水に浸かりなが
ら立っている白人の夫婦、昼寝をしているマレー系のおばさん、
自転車を一生懸命こいでいる中国系の男の子...そこでは
みんながゆっくりと時間を過ごしていて、ひょっとしたら、
平和というのはこういう風景のことを言うのだろうかと思いま
した。

日本にいると、平和の風景というのはあまり意識したことが
ありませんでした。花見の時期は平和な雰囲気はするのですが、
酔っぱらいがいたり、喧嘩があったりで、完全な平和というの
とは違う気がしました。旧正月の間のイーストコーストの風景
は、平和そのもので、酔っぱらいは皆無で(マレー人などのイ
スラム教徒は酒をのみません)、またいろんな人種が混在して
いても、ギスギスしたところがなく、喧嘩をしている人を見か
けません。日本だと、同じ民族でありながら(同じ民族だから
こそ?)殺伐とした雰囲気になってしまっているように思えた
りするのでした。

イーストコーストで今日、こんな光景を見ました。中国系の
家族が自転車を楽しんでいるときに、小学生低学年くらいの
男の子が転んで足首あたりを怪我をしたようなのです。お父さ
んがその子を抱えてきて、ベンチに寝かしていました。それほ
ど大した怪我ではなかったのですが、足首が出血しているのか、
ハンカチを縛り付けていました。母親がベンチで男の子のそば
にいて心配そうな顔をしていました。男の子のお姉ちゃんが
遅れて自転車を引っ張ってやってきました。そこにたまたま
インド人の労働者風青年が自転車で通りかかりました。青年の
一人はビニール袋に氷を持っているようでした。どっかで使う
ものだったのでしょう。インド人の青年たちは、自転車を降り
て、ベンチの男の子のところにさっと駆けつけ、「怪我は氷で
冷やすのがいい」と言って、自分が持っていた氷のビニール袋
をまるごとその母親にあげたのです。母親は躊躇していたので
すが、インド人は、「遠慮することはない。これで冷やして」
と言い捨てて、また二人で自転車で去って行きました。

明らかに、その二人のインド人と中国人家族は知り合いでは
なく、たまたま通りすがりのようでした。その光景を見て、
インド人って何て親切なんだろう、人が困っているときには
なりふり構わず助けるという姿勢に感動しました。

インド人の親切さ、義侠心を見るのは、実はこれが最初ではあり
ません。今月インドに出張しているときに、車で移動している
時に、反対車線でバイクが事故にあったようでした。私たちの
車の前を走っていた車が急に止まり、路肩に車を寄せたかと思う
と、その青年運転手がいきなり車から走り出て、反対車線で事故
で倒れている男のもとに走りより、抱きかかえて向こうの歩道に
運んだのです。向こうの歩道からも、何人かの義侠心のある男
たちが協力して怪我人を助けようとしているのが見えました。
インド人の行動力ある親切心に感動しました。正義の味方という
のは、単に親切な心を持っているだけでなく、このインド人の
ような決断力と行動力を持っている人のことを言うのだなあと
その時思いました。

私たち日本人は、このような事態に遭遇しても、なかなか勇気
ある行動が取れないものです。見て見ぬ振りをするということも
多いです。シンガポールでは、人が困っているとすぐに行動に
移す人をたびたび目撃します。それはインド人だけでなく、
マレー系であったり、中国系であったりするのですが、老人に
電車の座席を譲るというのは日常茶飯事で目撃します。そういう
のを見ると、反省してしまいます。日本人は思いやりがある国民だ
というのが全く事実に反していると思ってしまいます。我々日本人
はアジアの人々の思いやりと行動力に学ぶところが大きいという
のを改めて感じる今日この頃でした。

同じ人種だからという理由ではなく、知り合いだからという理由
ではなく、困っている人がいて、自分が何かできるとわかったら
即座に行動に移すという態度こそ我々が見習わなくてはいけない
ことではないでしょうか。シンガポールにいると勉強になります。

恭喜発財!

2006-01-29 22:30:12 | シンガポール
旧正月です。ゴンシーファーツァイです。
日本の正月が終わったばかりなのに、また正月気分。
1月はなかなか仕事に集中できません。
昨日の午後から、休みのお店が多く、街は静かです。
今日の日曜日はまだ一歩も家を出ておりません。
いつの間にかもう夜なので、今日はこのまま出ないでしょう。
引きこもりになった気分です。

今日は図もお休みです。
火曜日まで休みなので、海外に出ている人たちもずいぶんい
ます。日本人も、どっかに行っている人が多いです。

NHKのニュースで中国の春節のニュースをやっていましたが、
この時期旧正月を祝っているのは中国だけでなく、シンガ
ポールを初め、香港、台湾、ベトナム、マレーシアもみな旧
正月の祝日です。

シンガポールでは、旧正月は、とくに大々的なお祭りがある
というわけではなくわりと静かにすぎていきます。中国系の
人たちにとっては親戚を訪問したりする重要な時期ですが、
それ以外の人種にとってはかなり暇な時期ということになり
ます。

私も日本とかに行くということも考えたのですが、下町娘
は仕事をしているし、飛行機もいい便ば取れないし、日本は
寒いし、また仕事もちょっとあるので、今年は帰らないこと
にしました。

これまで何度かシンガポールで旧正月を過ごしたことはあり
ますが、最近は不便でもなくなりました。最初にシンガポー
ルに来たころ、旧正月になってしまったことがありました。
当時はまだホテルに宿泊していたのですが、街には、24時間
営業のコンビ二もほとんどなく、デパートやレストランは
しまってしまい、街がゴーストタウンとなってしまったのに
はびっくりしました。ホテルのレストランも閉まっていたの
で困ってしまいました。

今では、セブンイレブンのお店があちこちにでき、スター
バックスや、デリフランスなどの喫茶店系のお店は旧正月も
営業しています。旧正月でも営業している店は年々増えて
いるように思えるのですが、本日は外出していないので
どの程度の状況かはよくわかりません。

窓から外を見ると、時々車が走っているのとか、MRT(地下鉄)
が走っているのとか(都心以外は地上を走っています)見え
るのですが、非常に静かで、世の中はどうしてしまったのだ
ろうかと思ってしまいます。NHKのニュースとか見ると、暗い
ニュースばかりが流れてくるので、いやになってしまいます。
家では新聞をとっていないので、今日の新聞は見ていないの
ですが、新聞で目につくのは暗いニュースばかり。新聞を読む
事で世の中の動きがよくわかるというよりかうんざりしてしま
うので、新聞は嫌いです。時々、仕事に関係する重要な記事が
出ていたりすることもあるのですが、新聞(というかマスコミ
全般)の思考は何か画一的でなるべく信用しないようにして
います。

ホリエモンを持ち上げておきながらの、今回の一斉ホリエモン
叩き、群衆の世論を煽動する感じで、これは大学のとき勉強
したシェイクスピアの「ジュリアスシーザー」における群衆
心理の単純さに関して思い出したりしました。

ところで、本日、NHKの「週刊ブックレビュー」を見ていたら
詩集月刊ベストテンをやっていました。これは毎回いろんな
切り口でベストテンを発表しているコーナーです。この第五位
に「対詩 詩と生活」(小池昌代/四元康祐著)が入っていて
びっくりしました。四元康祐氏というのは、
詩人なのですが、実は私の大学の後輩なのです。
一緒にシェイクスピアの演劇で舞台に出た事もありました。
何年か前に偶然立ち寄った新宿紀伊国屋の詩のコーナーで、
彼の詩集「笑うバグ」を買って、その斬新なスタイルに衝撃
をうけたものでした。

彼は大学にいた頃から詩の才能を発揮していたのですが、
たしかうちの東京の会社で短期間のアルバイトしていた事が
あります。今でも覚えていますが、うちの会社の当時の常務と、
彼を正社員として採用しようと、赤坂の焼き鳥屋で説得した
ことがありますが、彼には断られてしまいましたが。

その後、彼には会っていなかったのですが、「笑うバグ」の
中に、アメリカで勉強して、海外で仕事をしているという
ような紹介が書いてありました。また別の最近作では、ドイツ
にいるというようなことが書いてありました。とても懐かしく、
一度会いたいなと思っているうちに、彼はいつの間にか有名
詩人になってしまっていたのです。
誰か彼の近況をご存知の方教えてください。

そういえば、私は学生時代に、詩に興味を持っていました。
白石かず子さんや、伊藤比呂美さんの朗読会に行ったことも
ありました。学生時代(英文科)には、TSエリオットの詩
などもかじっていました。宮沢賢治や高村光太郎のものも
好きでした。「叫ぶ詩人の会」が好きだったのもそういう流れ
です。

今日、「功名が辻」の「落城の抱擁」の会を見ました。
「千代は生きて一豊さまの妻になりとうございます」という
真に迫ったセリフ、いいですね。愛に生きる千代の存在感が
出てきていよいよドラマが本格的にスタートという感じです。
ところどころで感動してしまいました。六平太とかちょっと
縁の下の力持ち的で可愛そうなんですけど、存在感ありすぎ
ですね。竹中半兵衛は、新撰組の沖田総司のように血の出る
咳をしていたのですが、そんな若くして病弱では、信長様に
嫌われてしまいそうで心配です。
そういうのが狙いなんでしょうか?

下町娘は、「千代は、今日のことを今生の思い出に
生きてまいります」というセリフにぐっときたと言っており
ました。また千代と一豊が一緒になることを一生懸命に
手伝ってくれる秀吉に対しても、「けっこういい人じゃん」と
評価していました。千代の花嫁姿にもじ~んときていたよう
です。これからの展開が楽しみです。

雨は夜更け過ぎても雪へと変わるわけはないけれど

2005-12-23 19:50:47 | シンガポール
シンガポールは昨日も今日も小雨が
パラパラと降っています。雨の銀座
とか、雨の御堂筋とか、歌の歌詞に
なりますが、ここは雨のオーチャード。

写真を見ると、雪が溶けて路面が濡れて
いるように見えるかもしれませんが、常夏のシンガポールで
雪が降るわけはありません。一年を通して最高気温は30度前後、
建物の中はクールビズとか全く関係なく、冷房ががんがん効いて
いて、省エネとかはあまり意識していない感じがあります。

雨が降ると多少涼しい感じはするのですが、でもこの雨はいくら
待っても雪に変わることはありませんから、残念!
きっと君は来ない、一人きりのクリスマスイブ、
心深く秘めた思い、叶えられそうもない...」
山下達郎さんの名曲、「クリスマスイブ」ですが、この歌は
息が白くなるくらいの寒さの中で聴かないと実感がないですね。
おそらく気温と精神的な切なさとの相関関係ってあると思います。

さきほど、下町娘(= My Wife ) からメールが来て、
ハワイから結婚式の時のDVDが届いたみたいです。見たら、
感動して泣いてしまったと言っていました。世界でもトップクラス
のブライダルサービスのハワイは、ビデオとかの周辺サービスも
充実しています。(モデルは別にして)すごく奇麗に仕上がって
いたと言っておりました。早く見てみたいものです。

ハワイのビデオの会社のほうで、DVDに編集してくれました。
何日かかかると言われていましたが、日本に届いたのがクリスマス
の直前なんて、なんかドラマのシナリオみたいで、出来すぎてる
感じです。そこまで計算していたわけではないのですが、想定外の
クリスマスプレゼントになってしまいました。幸運が幸運を呼び
寄せていて、幸運が雪だるま式に大きくなっていっている感じです。

下町に住む私の新妻に、「とにかくまずご両親に感謝しないと
いけないよ」と伝えました。これは、何ヶ月か前に「なぜ、この
人たちは金持ちになったのか、億万長者が教える成功の秘訣」
トマス・J・スタンリー著、日本経済新聞社刊(サイトはここ
に出ていたことの受け売りなんですが、これもちょっと感動的な
お話しだったので、紹介したいと思います。

その本の中に、「全米最高のコーチが最初に教えること」という
見出しのセクションがあり、そこにフットボールでは全米きって
の名門のアラバマ大学フットボールチームのコーチ、ポール・
ブライアントの話が出ていました。ブライアント直接ではなく、
その教え子から著者が聞いた話です。

アラバマ大学のフットボールチームに入部できたということが、
すでにすごいことなんですが、大学のチームに新入生として入って
きた生徒たちの前で、ブライアントが一番最初に話した言葉という
のは、「みんなもう、家に電話してご両親に礼を言ったか?」
という意外な質問でした。

新入生たちは、このおっさん急に何を言い出すんだろうときょとん
としたそうです。フットボールとは何の関係もなさそうな質問です。
コーチは、しばらくして続けました。
「今の自分のレベルまで、誰の助けもなしに到達した人間なんて
いない。ご両親に電話してこい。ありがとうって言うんだぞ」
ブライアントがまず伝えたかったことは、抜群の素質に恵まれた
者でも、必ずしも名選手になるとはかぎらない。両親が彼らを
養い育て、犠牲を払ってくれたからこそ、彼らは今、アラバマ大学
チームでフットボールができるのだ、ということでした。

この言葉の先例を受けた新入生たちは、その言葉をその後も忘れず、
奇跡的な成果を収めたのだそうです。また、大学を卒業した後でも
その言葉が生きていて、ビジネスの世界でも成功した人が多いと
いうことでした。

この本は億万長者になるための本なのですが、誰の力も借りずに
自分の力だけで成功した人はいない。男でも、女でも、一人では
大したことはできない。スポーツであれ、ビジネスであれ財産作り
であれ、何をするにしても、他者の力を借りずに頂点を極める人は
いないということが書いてありました。コーチのブライアントは、
自分を助けてくれる人たちへの感謝の気持ちを忘れるなと教え
たかったのです。その気持ちなしには決して億万長者にはなれない
と著者は述べています。

一人の力ではなく、夫婦で力を合わせて成功した代表としては一豊と
その妻千代があります。千代が背後で支えてくれたから一豊君は
最終的に成功者になれるのですが、一豊君だって戦場でのがんばりは
尋常ではないです。常に死を賭けて戦っているのです。実際何度も
死にそうになります。一人の力ではなく、夫婦二人の運を最大限に
寄せ集めて、成功したのですね。

昨日、山内一豊の資料を読んでいたら、一豊君と千代ちゃんの年齢差
が一回り(もちろん千代ちゃんのほうが若い)とわかりました。
実は、私と下町娘 (= My Wife)の年齢差も約一回りです。
私はひつじ年で、彼女はさる年なのですが、5月15日から7月1日
までの間はちょうど12才の差になります。歳が一回り以上離れている
のですが、一豊君と千代ちゃんという自慢できる前例がありました!
なんかちょっとした偶然ですが、こんな類似もうれしくなります。

千代ちゃんは、12も年下なのに、全然歳の差を感じませんね。実は
私たちも、年齢差を意識してはいません。私が、昔の芸能人の話を
したり、東京オリンピックや、大阪万博の話をすると、ついてこれ
ないですが、普通の会話で、年齢差を意識することは
ありません。

さっき、会社のスタッフに、結婚式の時の写真を見せたのですが
(人物がアップになっているものは避けました)、ワイフはすごい
若いのではないか、なぜなら肌がすべすべしていそうだから、と
いう指摘がありました。写真では小さいので、そんなところまで
見えるはずはないと思うのですが、自分よりは少なくともとても
若いです。

自分は、いつの間にか50才となっていました。織田信長はすでに
「人間50年~」とうたいながら本能寺で最後を遂げています。
織田信長と比較してもしょうがないですが、自分がこれまでに
何を成し遂げてきたのだろうかと考えると、ちょっと焦りも
あります。日本人の平均年齢は現在43才、あと30年くらいたつと
平均年齢が50才を越えるという予測なので(根拠はこちら)、
50といってもきわめて普通の年齢ではあるのですが、何とか
幸せな人生にしたいものです。

では、みなさまメリークリスマス!

ラッフルズホテルにていろんなことを考える

2005-12-21 21:59:18 | シンガポール
シンガポールのラッフルズホテルの
今年の飾り付けは、可憐でエレガント
です。シンガポールのオーチャードは
ちょっとディズニーランドっぽいですが、
ここは格調高く、シックな雰囲気ですね。

ラッフルズホテルは、シンガポールスリング
有名なのですが、この発祥地と言われるロングバーはいつも観光客で
ごったがえしています。この写真の正面の玄関を入らずに左側に行って
まがったところにバー&ビリヤードルームというのがあり、そこは夜は
観光客も少なく、大人のムードです。おすすめです。

ラッフルズホテルは、その昔、英国の作家、サマセット・モーム
宿泊していたホテルとして知られています。サマセット・モームは、
実はマティーニが好きだったのですが、それにちなんで
このバー&ビリヤードルームには、膨大な種類のマティーニがメニュー
に出ています。

007というのもあれば、ウィンストン・チャーチルというのもあり、
解説を見ているだけでも楽しくなってしまいます。マティーニは
ハードボイルドの雰囲気ですね。

サマセット・モームと言えば、『月と6ペンス』が有名ですが、この間
NHKの名作平積み大作戦(サイトはこちら)で取り上げられてました。
この本はシンガポールに来てから読んだのですが、画家のゴーギャンの
人生からヒントを得たストーリーです。NHKでは、「一念発起」の話として
取り上げられていました。それまで平凡な暮らしをしていた男が、急に
すべてをすてて絵を描き始めます。パリから南フランスへ、そして最後は
タヒチで死ぬのですが、すべてを犠牲にして絵に生き甲斐を見いだし、
それを死ぬまで追求する話しです。

テレビでは、「いろんな人に迷惑をかけるので、それはよくない」という
指摘も出ていましたが、まあ壮絶なる人生です。こんな話を書いた作家が
このホテルに住んでいたのかと思うと、感慨もひとしおです。

近いところでは、村上龍も「ラッフルズホテル」という小説を書き、映画
も監督したんですよね。といって別に感慨深くはなりませんが。

このホテルは、第二次世界大戦中は、「昭南旅館」と称していました。
シンガポールは日本に占領されていて、昭南市と呼ばれていたのです。
日本の軍人さんたちが、このあたりを闊歩していたのですね。

先月、シンガポールを訪れた下町娘(=My Wife)がこの
ラッフルズホテルの飾り付けを見て、とても気に入っていました。車で
動きながらだったので、そのときの写真はぶれぶれになっていました。

ラッフルズホテルは、うちの会社にも近く、ビジネス街の中にあるのですが、
このホテルの中に一歩入ると、全く違う時間が流れている気がします。
スローライフというか、ゆったりとした贅沢な時間がそこにあるような
そんな気がします。仕事をしているとつい忘れがちになりますが、
そういう気持ちも大切にしていきたいと思います。

雪の降らないシンガポールでホワイトクリスマスを思う

2005-12-20 20:55:14 | シンガポール
こちらの写真は、シンガポールの
オーチャード通りにあるショッピング
センター(Centrepoint)です。
南国なのにデコレーションはホワイト
クリスマス。ここだけでなく、
オーチャード通りは、延々と光の
パレードという感じで、かなりの気合いが入っています。

ホノルルでも、クリスマスのイルミネーションは見かけましたが、
シンガポールの気合いの入れ方のほうが断然すごいです。日本だと
電気代節約のためにここまで派手にできませんが、こちらはすごいです。

クリスマスの中心テーマは、南国でもやはり雪。シンガポールの人は
雪を見た事のない人が多いですが、だからこそ雪への憧れはすごいです。
旅行先として、北海道の人気は高いです。日本じゃなくて、北海道です。

こちらでは、ローカルのテレビで「ジャパンアワー」というのをやって
いて、日本のグルメ番組を字幕付きで放映しているのですが、北海道の
旅先での料理や、温泉宿の紹介などが出たりするので、私でも知らない
場所をシンガポールの人たちは知っていたりするのです。ちなみに私は
まだ北海道には行った事はありません。(仙台と山形のラインから北
には行ったことがありません)

雪と言えば、何年か前に東京の銀座のホテルの部屋に出張で泊まって
いたのですが、私の妻になる彼女に電話をしたのです。12月の8日の
夜のことでした。そうしたら、電話で話しているうちに雪が降り出した
のです。彼女の住んでいる下町のほうでも同時に雪が降り出しました。
別々に離れているのに、雪という気象現象を共通体験できることに
お互いに感動したのです。それはとてもロマンチックな経験でした。
この間のハワイでの結婚式の日取りは、じつはその12月8日の
メモリアルデーということで決めました。また偶然、その日は「大安」
でもありました。

今日、仕事関係で、ランチタイムの会合があり、クリスマスの
プレゼント交換会がありました。と、ここでハプニング。くじで
引いたら、何と自分のプレゼントがあたってしまいました。事前に
わかれば、誰かと変えることもできたのですが、自分の持参した
プレゼントの番号を忘れてしまっていたため、受け取ったときに
ハッと思ったのですが、皆さんが見ていたので、そこは何気なく
ごまかしたのでした。こういう状況をアドリブで乗り切るのは私は
非常に苦手です。

もしも豊臣秀吉だったら、面白いギャグで会場を笑いの渦に巻き
込んだのでしょう。信長だったら「で、あるな」と絶句した後、
「人間50年~」の舞でケムにまいたかもしれません。山内一豊だった
らどうしたでしょうか?「自分が持って来たプレゼントを結局自分で
持って帰ったと千代に知られたら、何て言われるかな、どうしよう」
と一瞬不安になりながら、私のように誰にも知られず、嬉しそう
な顔をして持ち帰ったのでありましょう。

その私のプレゼントは、ハワイで買ってきたコナコーヒーでした。
粉のコーヒーではありませんぞ。ハワイ島のコナという場所でとれる
おいしいコーヒーなのです。会社のデザイナーの女性にギフトラッ
ピングしてもらったのですが、結局それが私のもとに。そのコナ
コーヒーは、私のもとに帰る運命にあったのですね、と納得。
おいしいコーヒーを思う存分飲むことにしましょう。

今週の金曜日も会社でプレゼント交換会をするので、何か別のものを
見繕っておかなければなりません。こういうの結構大変なんですよね。
あまりありきたりのものではいけないしなあ。ああ、めんどくさい。

ではまた。



シンガポールには季節がないと言うけれど

2005-12-19 22:34:12 | シンガポール
シンガポールには日本のような四季はありません。
赤道のすぐそばなので、一年を通して、季節は夏
なので、文字通り「常夏」です。

ピンク色の花の咲いている木を見つけました。
この木は8年以上もの年月にわたって何度となく見かけて
いましたが、こんなふうに花が咲いているのを見かけたのは
初めてのことです。ピンクの花を近くで見ると、ブーゲンビリア
の花と同じような感じでした。ひ、ひょっとして、ブーゲンビリアが
こんなに巨木化することもあるのでしょうか?いろいろネットで
調べてみたのですが、よくわかりません。誰か知っている人、教えて。

ピンク色は、この間ハワイで結婚式をしたばかりの私の妻の大好きな
色です。ちなみに私の好きな色は、黄色、オレンジ、黄緑です。
ハワイ滞在中私の新妻の洗脳教育(?)を受けていたので、ピンクを
見ると、彼女のことを思い出すというパブロフの犬的条件反射をして
しまうようになっていたので、この花を見たときもそうでした。

でも、何かこのピンクの花は花の着き方が変だなあ。かき氷で
抹茶メロンを万遍なくかけた上にイチゴミルクがかけてあるような、
あるは山盛りのご飯の上に桜でんぶを振りまいたような、そんな
妙な姿であります。可憐な花をつけているくせに、下はしっかりとした
木なのです。見れば見るほど謎が深まってしまうので、この木に関して
の追求はこれくらいにしたいと思います。

そういえば、彼女のお友達が、「遠距離恋愛」に関してのブログを見て
感動して泣いてしまったという話を聞きました。そんな泣けるほどの
ものなのかなあと自分で見てみたのですが、よくわかりませんでした。
あとで確認したら、私の妻が感じている遠距離の淋しさと全く同じ淋しさ
を私が感じているということに感動したらしいのですね。いずれにしても
遠距離はちょっと切ないものです。

私は「功名が辻」を読み出したのは、ハワイ旅行の帰りの飛行機の中の
ことですが、山内一豊とその妻千代の遠距離的夫婦関係に非常に興味を
引かれました。連日戦に明け暮れる一豊君は、何ヶ月も、あるいは何年も
愛する千代さんのところに帰れないのですが、彼はかたくなに愛を守るの
ですね。すぐに浮気してしまうどすけべの木下とうきちろう君とは大違い
です。一豊君は、千代さんに無意識のうちにコントロールされてしまって
いたのかもしれませんが、いずれにしても、距離を超えて、年月を越えて
彼らの夫婦関係は見事に継続したというべきでしょうか。とても勉強にな
ります。私の妻も来年のNHK大河ドラマを楽しみにしています。

今年の「義経」は終ってしまいましたが、最後はちょっと哀し過ぎました。
義経とはそういう人物なのでしょうが、最後は滅びてしまう。そこに
美しさがあるといえばあるのですが、なんか可愛そうでした。
負けるとわかっているのに意地だけで戦って死んでしまう。そういうのは
何となくおかしいなあと思いました。また弁慶を含めて次々と死んでゆく
家来たちの描き方が、何か死ぬ事を賛美しているようで、これは戦時中の
特攻隊の生き様と何が違うだろうかと考えてしまいました。

義経はリーダーとしては、もうちょっと明るい陽気な人間であったら
よかったかなと思いました。実際の義経がそういう人間だったのですから
これはどうしようもないのですが、もっとギャグを言ったり、愛嬌のある
部分があれば、兄頼朝にも可愛いがられ、そんなに不幸な最後にはならな
かったんじゃないかと思います。

とりあえず、来年は、「功名が辻」でよい一年にしましょう。

シンガポールの日曜の朝は健康的な感じ

2005-12-18 20:39:01 | シンガポール
日曜日の朝、シンガポールのイーストコースト
パーク(海岸沿いの公園)まで出かけました。
私が住んでいるところから車で数分で行けて
しまいますので、休みのときはよく行きます。
朝早くはなかなか行けないのですが、今日は
早く起きられたので、8時半頃出かけました。

先週、ホノルルマラソンレースデーウォークに参加し、
マラソンの人たちがゴールするのを見て感動し、自分も
走れるようになれたらいいなあと思ったのでした。
10キロのウォークは歩けたのですが、歩いているうちに
ひょっとしたら走れるかもという錯覚を感じてたのです。

アディダスのランニングシューズのAdizero LTを履いて
イーストコーストパークをちょっと走ってみたのです。
朝早くは走っている人がいっぱいいました。
何百メートルか走って、苦しくなり、リタイヤ
しばらくウォーキングして、またちょっと走ったりした
のですが、42.195キロはまだまだ遥か不可能の領域です。

日曜の朝のイーストコーストパークは、走っている人も多い
ですが、写真のような太極拳のグループもいっぱいいます。
ゆっくりと身体を動かすそのアクションは、運動のようでも
あり、踊りのようでもあります。各グループでいろんな流派
があるみたいで、扇子をパッシャッと広げたりするタイプも
あれば、中国風に剣(のような金属棒)を持って舞っている
ような人もいました。大体が同じユニフォームを来て、先生
の指導のもとに音楽に会わせて同じ動きをしています。

これをやっているのは、中華系の人ばかりで、それもどちら
かというとおばさんグループが目につきます。シンガポール
は中華系が7割以上だし、最近は中国本土から来ている人も
多いので、こういう中国風の運動が増えているのかもしれま
せん。

写真は撮れなかったのですが、年配のカップルが海に向かって
両腕をすっと伸ばし、手のひらで東側の海の大気を押している
ような光景を見たときは感動しました。女性のほうは赤いTシャツ
を着ていて、黒の長いトレーパンを履いていました。男性のほうは
白っぽい上下だったと思います。二人して海岸に向かって、
ゆっくりした動きをしていて、それはまさに凛とした姿で、
ああかっこいいなあと思ってしまいました。

歳をとっても健康的でいられるのは素晴らしいことです。
私は今年で50を越えてしまいましたが、ローラーブレードをしに
時々、このイーストコーストパークに来ています。10数年前
アメリカ出張の時にローラーブレードを買い、公園で練習をして
いました。日本でも東京の駒沢公園とかで、仲間と滑ったりした
こともありました。ローラーブレードだと、10キロくらい走れる
のですが、ランニングだと全然だめですね。

長距離は子供の頃から苦手でした。中学の頃、短距離はかなり
速く、運動会ではクラス対抗のリレーの第一走者でした。また
跳躍力はあったので、80メートルハードルの選手にもなって
おりました。中学に入ったばかりの時、体力測定があり、垂直跳び
がかなりいい数値だったのに体育の教師が目につけ、その先生は
バレーボール部の顧問でもあったので、バレー部にしきりに勧誘
されました。しかし、バレーには行きませんでした。というか
運動系は行かず、郷土クラブという部活で、遺跡発掘と称しての
土方作業でもっぱら体力の増強を図っていました。

高校の1年の時、体育の授業で、110Mのハイハードルをやり、
全員のタイムレースをやったのですが、学年で3位だかになった
のは自分でもびっくりしました。上位は陸上部の人が占めていた
のですが、全然関係ない自分が結構いい記録を出してしまったの
です。しかしながらそれでも運動系には進みませんでした。

テニスとかにも縁がなく、社会人になってからもゴルフをすると
いうことはありませんでした。しかしながら、何となく身体を
動かすことは興味があり、30を過ぎてからスキューバダイビングの
ライセンスを取りました。ローラーブレードをやり始めたのも
35を過ぎてからだと思います。大学時代、演劇をやっていた時、
トレーニングのためにランニンングと柔軟体操はよくやって
いました。社会人になってから、ランニングをすることはなく
なってしまったのですが、今回走った(走ろうとした)のは
20数年ぶりのことであります。

11月に私の妻(=下町娘)がシンガポールに来たとき、イースト
コーストコーストパークでウォーキングをしたのですが、走るの
でなくウォーキングだけでもかなりの運動量になるのだとわかり
ました。身体を動かせるということは幸せなことです。
さらに一人ではなく、二人で運動できるようになるということは
これはさらに幸せなことであります。

イーストコーストパークに来たとき本を読んだりもするのですが、
今回、「功名が辻」の二巻目を持ってきたのに読めませんでした。
もう一つ持ってきた香山リカさんの『いまどきの「常識」』という
岩波新書の本を読みだしたら時間がなくなってしまいました。

前書きのところを読んでいて、香山リカさんが、自分の発言に
対して、連日批判の封書を受け取るというお話が出ていました。
日本には、いろんな「常識」がはびこっているんだなあと思うと
同時に、こういうのがいやだから自分は日本を抜け出して、今
海外にいるのかなあと納得したりもするのでした。

ではまた。

ハワイでの結婚式を5日後に控えて

2005-12-03 10:58:40 | シンガポール
ハワイでの結婚式があと5日に迫りました。
昨夜も東京の彼女と電話でお話ししたんだけど、
「なんかまだ実感がないね」ということでした。
毎日がお互いに忙しいので、結婚のことばかり
考えていられるわけではないし、結婚式の場所が
ハワイという二人にとって現実味の薄い国なので、
何か小説の中の出来事のような、おとぎ話のような、
そんな感じです。

こちらは南の国で仕事をしています。ここにアップしたのは街角の
クリスマスツリーです。南の国のクリスマスは、雪は降らないし、
気温は高いので、日本の感覚からするとかなりへんな感じですが、
イルミネーションはロマンチックです。ハワイもきっと今頃は
クリスマスまっさかりだと思います。

今回、結婚ということで、いろいろ準備をして
きたのですが、いわゆる結納のようなものはしませんでした。
またエンゲージリングのようなものも買いませんでした。
ウェディングリングは買いましたが、よく芸能人が婚約会見
インタビューで見せるようなダイヤモンドのついたリングは
買いませんでした。買ってあげたほうがいいのかなとも思った
のですが、彼女のほうは「日常そういうのは絶対つけないし、
もったいないのでいらない」と非常にありがたいオピニオンを
持っていてくれました。物よりも精神的なものに価値を見いだす
彼女は、例えば小生がメールで送るポエムに宝石よりも高価な
価値を見いだしてくれました。この年でポエムなんて、ちょっと
恥ずかしくて公表できませんが、これはかなりロマンチック?

そういえば、小生は大学では、英文学を専攻しておりました。
彼女も実は短大で英文科でした。小生はシェイクスピアの演劇も
何度か上演したことがあり、舞台に出たことがあります。
英語でやったことも、日本語でやったこともありますが、
シェイクスピアの美しい言葉の使い方は勉強になりました。

何年か前に「恋に落ちたシェイクスピア」という映画がア
カデミー賞を取りましたが、あのときほど学生時代に
シェイクスピアやっといてよかったと思ったことはありません
でした。あの映画のなかで出てくるシーンの一つ一つが、
どの作品のパロディであるかとかが大体理解でき、
学生時代に舞台で経験したセリフが次々と出てくるので、
懐かしくて涙が止まらないほどでした。

グィネス・パルトローの演技もすごく素敵でした。
「ロミオとジュリエット」がメインのお話になっていますが、
最初のほうにはマイナーな作品の「ベローナの2紳士」の
上演も出てきます。男装するという設定は、「ベローナ」も
そうですし、「十二夜」もそうです。どれも上演したものばかり
なので、自分のために作られた映画ではないのかと思って
しまいました。

その頃、シェイクスピアの演劇を一緒にやっていた後輩は、
一人はプロの俳優になりました。劇団四季に入ったのですが、
身体が固いので小劇団に移りました。何年か前にNHKの大河
ドラマにちょい役で出ておりました。
もう一人は詩人になりました。
中原中也賞とか、萩原朔太郎賞とかを受賞しているので、
これは大したものです。小生は、俳優にも詩人にも両方とも
なりたかったのですが、二つを中途半端に合体させたような
広告代理店の広告マンになりました。夢を追求した彼らの
生き方がうらやましく思うときがたまにあります。

もう一人、大学の同級生で、有名編集者になった男がおります。
自分で本も何冊か出しており、写真家としても有名な賞を受賞
しました。先週たまたまNHKの「週間ブックレビュー」を見て
たら、何と彼が書評ゲストの一人として出ているじゃないですか!
びっくりでした。知っている人がテレビに出てたり
するのは、面白いですね。何か、生意気なこと言ってるなとか、
思わず突っ込んでしまいます。

小生は彼のようにいつか本も出したいという野望を持って
いました。別に小説でなくてもいいのですが、本だったら何でも
よいです。で、今本の代りにブログを書いているというわけです。

話はちょっとそれましたが、来週の火曜日の夜の飛行機でこの
南の国から旅立ちます。そして成田経由で水曜日の
朝にホノルル到着。結婚式というビッグプロジェクトが待って
いるのでわくわくどきどきですが、それはまた別のお話し。

生まれて初めてシンガポールでクレージーホースを見たぞ

2005-11-22 02:07:37 | シンガポール
クレージーホースがシンガポールに来るという話をご存知でしょうか?
パリ発祥のヌードショー『クレージーホース』がシンガポールの
クラークキーに12月オープンします。それに先立って、本日、広告業界の
イベント(アジア広告会議=ADASIA2005)で、クレージーホースのショーの
プレビューがありました。

パリでは二三回見た事があるのですが、まさかシンガポールにそんな
セクシーなショーが来るなんで思ってもみませんでした。
シンガポールのことだから多少抑えめになっているんだろうなと思って
いたのですが、何と本日見た限りでは、本場パリとほとんど変わらない
内容でした。

クレージーホースはライティングが非常に奇麗で、身体の生々しさがなく、
とてもグラフィカルな感じ(つまりあまり嫌らしさがない)のですが、
お固いシンガポールで見るそのショーは、その落差ゆえ、すごくエロチック
な感じがしました。

上半身はもろ見えですし、下半身のカバーも最小限です。
こんなのをシンガポールで見られるなんて、と感激です。

最近、シンガポールは少子化防止のため、子作りを奨励している感じが
あるのですが、このクレージーホースもその一環なのかと思うと、
ちょっと戦略的すぎるかなという恐ろしさを感じてしまうのであります。

シンガポールのクラークキーに来月オープンするクレージーホース
ですが、本国のお店よりも規模は大きいようです。

公開に先立って、本物のショーを見られて、得した気分です。
日本から出張とか旅行で来られるみなさん、是非行ってみてください。
ちょっと高いですけど、たぶんツアーで扱うのでしょう。
その上の階には日本料理(もんじゃ焼き)の「なんじゃxxxx」の3号店が
できるそうですので、日本からのツアーの人はばっちりです。
聞くところによると、オールソンの一号店は来月クローズして、
バンコクに引っ越すとのことでした。2号店と3号店があるので
ファンの方は安心です。

生まれて初めてシンガポールのジュロンアイランドに行く

2005-11-16 18:47:25 | シンガポール
ジュロンアイランドというのをご存知でしょうか?
シンガポールの島の左下あたりにある島です。
埋め立てて人工的にできた島なのですが、
セントーサ島の10倍くらいの大きな島です。

石油化学関係の皆さんにとってはおなじみの島ですが、
観光客やバックパッカーはまず行かないというか、
行こうと思っても物理的に行く事が不可能な場所です。

アイランドと聞くと、「二人のアイランド」という歌を
つい思い出してしまうのですが、このアイランドは、そういう
リゾートっぽさがまったくない、純粋に石油関係の工場が
立ち並ぶ島なのです。

シンガポールは石油の中継基地として世界的に有名なのですが、
石油加工製品の工場がシンガポールにいっぱいあり、何とか化成とか、
何とか化学とか、またその様々な関連製品の工場がこのアイランドに
ひしめきあっているのであります。

今朝は、このジュロンアイランドに生まれて初めて行ってきました。

島に入る手前にチェックポイントがあります。
ここでジュロンアイランドに入るためのVパス(ビジターパス)を
発行してもらうのですが、これがすごい混みようでびっくり。
ジュロンアイランド内の会社で10時から打ち合わせということで、
15分くらい前にチェックポイントについたのですが、
入国審査場のような場所が長蛇の列になっていて、結局30分くらい
並ばなければなりませんでした。朝は労働者で非常に混んでいるので、
打ち合わせとかで行くんだったら、絶対に朝の時間は避けたほうが
よいですぞ。

シンガポーリアンの社員と行ったのですが、彼も初めてで、勝手が
よくわからない。Vパスをもらうために書類を書かないといけない
のですね。みんな紙を持っているので、その用紙をあわてて取りに
行ったりして、列に並んでおりました。また、ジュロンアイランドの
訪問先のレターも持っていないといけないのですね。なので、彼は
車に戻って、訪問に関するコレポンが書かれた、メールのプリント
アウトを持ってきました。

長蛇の列に並んでいるときに心配だったのは、身分証明書のこと
でした。後ろの日本人がパスポートを持っていたので、パスポート
がないと入れないかなとどきどきしたのですが、「労働許可証、
ドライバーライセンスなどでも受付可能」と書いてあったので、
安心しました。何もなかったら通過できないところでした。

Vパスをもらうのと引き換えに、身分証明書とかは取り上げられて
しまいます。私はシンガポールの運転免許証を出したのですが、
それを帰りまで預けなければならず、それはちょっと心配でした。

帰りは別の建物でVパスを返して、身分証明書を受け取るのですが、
もうややこしくて困ってしまいます。

中は延々と石油関係の工場が建ち並んでおり、それ以外の設備は
一切なく、非常にシュールな光景でした。打ち合わせをした会社の
女性によれば、夕方は工場に灯りがともってとてもロマンチックな
光景になるということなのですが、それこそすごいサイバーな
世界です。島の中には、レストランや商店や娯楽設備がないので、
そのストイックな感じがシュールです。

一つ残念なのは、そのようなシュールな世界を堪能したくても
用事がないと勝手に行く事ができないということです。
気軽にぐるぐると観光するということができません。

それともっと残念なことは、「アイランド内は写真撮影禁止」
ということです。写真を撮ることができないのはつらいことです。

普通の人たちが行けない場所に行けるのに、その証拠としての
写真を撮影することができない。これはつらいことです。

観光コースとして、シンガポールが世界に誇る石油化学設備を
堪能するツアーとかあっても面白いと思うんですが、
そんなん行きたがるのは自分くらいかなあ?
まあ、あんまり商売としては成立しないかもですね。





生まれて初めてクリスマスのオーチャードをドライブ

2005-11-15 18:28:00 | シンガポール
11月に入ってから、シンガポールの街はすっかりクリスマスです。
南国のクリスマスというのはちょっと変な感じですが、雰囲気は
ディズニーランドの光のパレードのような豪華さです。

なかでもオーチャード通りの飾り付けは見事!
一年くらい前から車の運転を始めたのですが、夜のオーチャード
の飾り付けの下を自分が運転する車で走るのは生まれて初めての
経験でした。

みんなこれを見に来るので、道は大渋滞。
交差点での合流地点では、無理矢理入ってこようとする車が
多く、そういうのに慣れていない私は、あたってしまうんじゃないかと
ひやひやしながらの運転でした。

今年のオーチャード通りの飾り付けのコンセプトは、音楽。
何で音楽なのかはよくわかりませんが、音符やら、楽器やらが
イルミネーションで飾り付けられています。

すごく華やかで、幻想的で、仕事のこともつい忘れてしまいます。