1946年から1948年にかけて抑留された日本人が建てたサナトリウム
先ほど(2017年12月10日17時54分頃から)、NHKの地球ラジオという番組で投稿が紹介されました。
今日の20時から1週間は、パソコンでも聞くことができます。
南部にある国立オシュ大学で日本語を教えているアイグリアさんという先生から、「今度来るときはコミックと絵本を持ってきてください」と言われたこと。日本語を学ぶ学生は、コミックやカメラ車といった日本製のものに関心があり、日本語学科に進んだとのことです。
国立オシュ大学のアイグリア先生。
首都のビシケクから第2の都市オシュへ行く途中にある道路沿いのお店のオ子供たち。
また、東部にあるイシククル湖の南岸には、タムガという小さな村があり、ここに住んでいるおばあちゃんが日本人と働いたことがあるというので
「日本人が話していた言葉を何か覚えていますか」と聞いたところ、
『せーの』と言っていたと言います。「どんな時にいっていたか覚えていますか」と聞いたら、
「みんなで力を合わせて、大きな木を動かすとき」と教えてくれました。
当時日本人と一緒に働いたことがあると話してくれた姉弟。
タムガ村の南部にあるバルスコーン渓谷にある樹木。
取材の時のことは、『望星』という月刊誌(東海教育研究所発行)に、2008年12月号、2009年1月号で発表しています。このブログでも公表しています。
来年(2018年)は、抑留されていた日本人が寄稿して70年となります。6月には国立オシュ大学やタムガ村にあり日本人抑留者が建てたサナトリムを訪問するツアーを計画しています。
参加者を募集中です。問い合わせはシルクロード雑学大学(042-573-7675、メールnagasawa_horyu★yahoo.co.jp ★を@マークに代えてください)で。
日本人は脱走も話し合ったとのことです。南へ逃げて天山山脈を越えれば中国だから、抑留生活から解放されると考えたそうです。
そのルートは、玄奘三蔵が中国から天山山脈を越えて中央アジアを経てインドへ向かったルートと同じです。途中にはエーデルワイスなどの高山植物が足の踏み場もないほどたくさんあります。
天山山脈を越える峠はベデル峠といいます。標高は4248メートルです。チャレンジしたことはありますが、降雪のために引き返しています。
抑留されていた日本人が、60年ぶりにタムガ村を再訪した時の新聞記事。