第27回「『資本論』を読む会」の報告(その1)
◎残暑、厳しいおり
今年の暑さは記録的でした。大阪では9月になっても、まだ猛暑日が続いています。8月29日の第27回「『資本論』を読む会」の開催日も厳しい残暑のなかで行われました。
“猛暑特需”というものがあるらしく、連日の猛暑様々でアイス製造業など一部の業界は潤っているのだそうです。しかし“猛暑特需”があるなら、“猛暑枯れ”もあるのではないでしょうか。植木の話ではありません。こんな猛暑日の昼日中にのこのこと炎暑のなかを出かけようなどと誰も思わないだろうということです。そのためともいえませんが、おかげで第27回「『資本論』を読む会」は、常連の参加者さえ姿を見せず、いつものことながら寂しい開催になりました。
しかしまあ、愚痴を言っていても始まりません。今回は〈B 全体的な、または展開された価値形態〉の〈三 全体的な、または展開された価値形態の欠陥〉からやりましたが、Bの最後まで終えることができました。さっそく、その報告に移りましょう。
◎どうして「欠陥」なのか?
まず、今回の表題〈三 全体的な、または展開された価値形態の欠陥〉が問題になりました。つまりどうして「欠陥」なのか? というのです。
前回までは〈B 全体的な、または展開された価値形態〉の相対的価値形態と等価形態について、それぞれ考察が行われましたが、今回からは、それらの考察を踏まえて、それらを統一した上で、〈全体的な、または展開された価値形態の欠陥〉が考察の対象になっています。しかしBの全体としての考察が、どうしてその「欠陥」の考察になるのでしょうか。また「欠陥」というのは、何から較べての「欠陥」なのでしょうか?
それは私たちが先に見た、Bの相対的価値形態(その質的および両的考察)と等価形態のそれぞれの考察は、A(単純な価値形態)の考察を踏まえたB(展開された価値形態)に固有の課題を明らかにするものであると指摘しましたが、それは同時にAの不十分な点が如何にしてBにおいて克服されているのかの考察でもあったのです。Aの最後で次のように言われていました。
〈単純な価値形態、すなわち一連の諸変態を経てはじめて価格形態にまで成熟するこの萌芽形態の不十分さは、一見して明らかである〉(全集版83頁)
つまり単純な価値形態の「不十分さ」というのは、〈一連の諸変態を経てはじめて価格形態にまで成熟するこの萌芽形態としての不十分さ〉なのです。つまり価値形態が価格形態(=貨幣形態)にまで発展することによって、価値はその概念にもっとも相応しい形態を獲得し、自立した姿態を得るとともに、諸商品を質的に同じで量的に比較可能なものとして表すことができるようになるのですが、価値形態の各発展段階は、だからそうしたもっとも発展した貨幣形態からみた場合に、いまだその「不十分さ」や「欠陥」があると言うことなのです。だから単純な価値形態の最後にその「不十分さ」が指摘されたように、展開された価値形態の場合も、その最後に、その欠陥が指摘され、次の発展段階への移行の必然性が明らかにされるという展開になっているわけです。
とにかく、具体的に、以下、文節ごとに詳しく見て行くことにしましょう。
〈(イ)第一に、商品の相対的価値表現は未完成である。というのは、その表示の列は完結することがないからである。(ロ)一つの価値等式が他の等式につながってつくる連鎖は、新たな価値表現の材料を与える新たな商品種類が現われることに、相変わらずいくらでも引き伸ばされるものである。(ハ)第二に、この連鎖はばらばらな雑多な価値表現の多彩な寄木細工をなしている。(ニ)最後に、それぞれの商品の相対的価値が、当然そうならざるをえないこととして、この展開された形態で表現されるならば、どの商品の相対的価値形態も、他のどの商品の相対的価値形態とも違った無限の価値表現列である。(ホ)――展開された相対的価値形態の欠陥は、それに対応する等価形態に反映する。(ヘ)ここでは各個の商品種類の現物形態が、無数の他の特殊的等価形態と並んで一つの特殊的等価形態なのだから、およそただそれぞれが互いに排除しあう制限された等価形態があるだけである。(ト)同様に、それぞれの特殊的商品等価物に含まれている特定の具体的な有用な労働種類も、ただ、人間労働の特殊的な、したがって尽きるところのない現象形態でしかない。(チ)人間労働は、その完全な、または全体的な現象形態を、たしかにあの特殊的諸現象形態の総範囲のうちにもってはいる。(リ)しかし、そこでは人間労働は統一的な現象形態をもってはいないのである。〉
〈全体的な、または展開された価値形態の欠陥〉も、やはり相対的価値形態と等価形態にわけてそれぞれが考察されています。まず相対的価値形態の欠陥です。
(イ)(ロ)第一に、商品の相対的価値表現は、未完成です。というのは、その表現の列は完結することがないからです。というのは、新たな商品種類が現われるごとに、価値等式の列は、相変わらずいくらで引き伸ばされて、限りがないからです。
(ハ)第二に、この価値表現の繋がりは、さまざまな表現の寄せ集めのままです。
〈この第二形態は同じ商品の価値のために相対的な諸表現の雑多きわまる寄木細工を与える〉(初版本文、国民文庫版58頁)
(ロ)最後に、それぞれの商品の相対的価値は、この展開された形態で表現されるならば、当然のことながら、どの商品の(展開された)相対的価値形態も、他のどの商品の(展開された)相対的価値形態とも違った無限の価値表現の列になります。つまり諸商品それぞれが違った展開された価値形態で自らの価値を表現するわけですが、それらがすべて違っているわけです。
次は等価形態の欠陥です。
(ホ)展開された相対的価値形態の欠陥は、それに対応する等価形態の欠陥として反映します。
(ヘ)ここでは各個の商品の現物形態が、無数の他の特殊的等価形態と並んで、一つの特殊的等価形態ですから、それらは互いに排除しあう限られた等価形態があるだけです。
(ト)同じように、それぞれの特殊的な等価物に含まれている特定の具体的な有用労働種類も、ただ人間労働の特殊的な、したがって尽きることのない現象形態でしかありません。
(チ)(リ)人間労働は、その完全な、または全体的な現象形態を、特殊的諸現象形態の総範囲のうちに持っていますが、しかし、人間労働は統一的な現象形態をまだ持っていないのです。
この部分はフランス語版では次のようになっています。
〈人間労働は確かに、その完全なあるいは総和の表示形態を、その特殊な形態の総体のうちにもっている。だが、形態と表現との統一が欠けている。〉(36-7頁)
そして山内清氏はこの部分をフランス語版と関連させて次のように説明しています。理解をより深めるために、紹介しておきましょう。
〈仏語版がいうように、第二形態は、その形態的内実と形態的形式とが不一致である。第二形態は、その形態にある限りですべての商品の質的同等性を表現するが、そういう形態的内実を、全体性、総範囲性という形態的形式で示しているにすぎず、本来そうあるべき、単純性、統一性、共同性の形式をもっていないのである。〉(山内清著『資本論商品章詳注』97頁)
◎全体的な価値形態から一般的な価値形態への移行
次のパラグラフとの間に初版付録には〈(五) 全体的な価値形態から一般的な価値形態への移行〉という表題があることが指摘されました(国民文庫版158頁)。つまりここからは、価値形態の次の発展段階への移行が問題になるわけです。
〈(イ)とはいえ、展開された相対的価値形態は、単純な相対的価値表現すなわち第一の形態の諸等式の総計から成っているにすぎない。(ロ)たとえば、
20エレのリンネル=1着の上着
20エレのリンネル=10ポンドの茶
などの総計からである。〉
(イ)(ロ)しかし、展開された相対的価値形態は、単純な相対的価値形態、すなわち第一形態の諸等式の総計からなっているにすぎません。すなわち、
20エレのリンネル=1着の上着
20エレのリンネル=10ポンドの茶
などの総計からです。
〈(イ)しかし、これらの等式は、それぞれ、逆にすればまた次のような同じ意味の等式をも含んでいる。
(ロ)すなわち
1着の上着=20エレのリンネル
10ポンドの茶=20エレのリンネル
などを含んでいる。〉
(イ)(ロ)そして、これらの等式は、それぞれを逆にすれば、次のような同じ意味の等式を含んでいます。すなわち、
1着の上着=20エレのリンネル
10ポンドの茶=20エレのリンネル
という等式をです。
〈(イ)じっさい、ある人が彼のリンネルを他の多くの商品と交換し、したがってまたリンネルの価値を一連の他の商品で表現するならば、必然的に他の多くの商品所持者もまた彼らの商品をリンネルと交換しなければならず、したがってまた彼らのいろいろな商品の価値を同じ第三の商品で、すなわちリンネルで表現しなければならない。――(ロ)そこで、20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=etc. という列を逆にすれば、すなわち事実上すでにこの列に含まれている逆関係を言い表わしてみれば、次のような形態が与えられる。〉
(イ)そして、実際の交換関係を考えてみますと、ある人が彼のリンネルを他の多くの商品と交換して、自分の価値を一連の他の商品で表現するとしますと、それは必然的に他の多くの商品の所持者も彼らの商品を同じ第三の商品であるリンネルと交換しなければなりませんし、だから彼らはいろいろな商品の価値をリンネルで表現しなければならないことになります。
ところでここでマルクスがリンネルを〈同じ第三の商品〉と述べていることに異論を唱えている人がいます(山内清前掲書)。つまり〈リンネルは、第二形態では当事者の一方であるから、「第三の」は疑問〉(前掲99頁)だというのです。しかし上記の一文をよく読むと、マルクスは〈彼らのいろいろな商品の価値を〉と述べています。つまりリンネルと交換して自分たちの商品の価値を表現する〈他の多くの商品所持者〉にとっては、彼らの商品相互の関係から見ると、リンネルは〈同じ(あるいは共通の)第三の商品〉になると述べているのです。ここでは、すでに表式が逆転して、リンネルがすでに一般的等価形態になっているのですから、こうした表現はそれを示唆しているものと考えられ、何ら問題はないと思います。
(ロ)だから、20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=etc. という列を逆にすれば、すなわち実際上は、これらの列に含まれている逆関係を表わしてみますと、次のような形態が与えられるわけです。
そしてその与えられる新しい価値形態こそ、一般的価値形態であり、次の項目では、以下のような等式が示されています。
〈 C 一般的価値形態
1着の上着 =
10ポンドの茶 =
40ポンドのコーヒー =
1クォーターの小麦 = 20エレのリンネル
2オンスの金 =
1/2トンの鉄 =
x量の商品A =
等々の商品 = 〉
(以下は(その2)に続きます。)